②-5
僕は、墜ちてもいいと思ったんだ。彼女と一緒ならいい、って。でも彼女はそれを拒んだ。
そして僕は、気づいてしまった。いや、思い出してしまった。
ここは空だ。
追いついたって手なんか伸ばせない。届かないし触れあえない。墜ちるときは、独りだ。それが空を飛ぶってことだ。どこまでも孤独に、独りきりでいなきゃならない。
『バンシー』無線が彼女の、柔らかい声を吐く。まるで笑っているような抑揚だ。『願いを叶える、妖精』
機体をバンクさせて、彼女を見下ろす。
コックピットに彼女が見えた。敬礼している。笑ったように見えたのは、僕の気のせいだったのかもしれない。
僕は舵を引いて、舞い上がる。
彼女の行く先が見えないようにバンシーを水平姿勢に戻して、海を切り捨てた。
『ああ、美しいね』
彼女の最期の、幻聴だ。彼女は僕の機動を誉めてくれたわけじゃない。彼女の称賛は、空の美しさに向けられている。
そんなことは、わかっている。わかっているのに、感情を噛み殺せなくて奥歯がきん、と傷んだ。
「……ニケ」
『それは』
僕の祈りに、マブリの憎悪が応えた。
『わたしの名よ』
呪うような低音だ。地獄で唸る番犬みたいだ。空には相応しくない。
首を巡らせたけれど、視界が曇ってよく見えなかった。キャノピが割れてコックピットの気圧が変わったのかと思ったけれど、ヒビ一つ見当たらない。
僕はゴーグルの中に指を突っ込んで内側を拭う。やっぱり曇ってよく見えない。面倒くさくなって、ゴーグルをヘルメットの上に押しやる。
少しだけ視界がクリアになった。
正面の、かなり遠いところに赤いマークⅠのお尻が見えた。
瞬間的に体温が跳ねあがった。言葉にならない苛立ちのままスロットルを叩きこむ。シートに身体が圧しつけられる。右手の親指はもう引き金に掛かっている。ガンサイトの中のマークⅠが、ぐんと大きくなった。
あと三秒で射程に入る。
――子供によくないでしょ。
唐突に、TAB-9を焼く炎に頬を染めて笑うマブリの顔が、平和を知らないマブリが語る平和の作り方が、戦死者を増やすために子供がほしいのだと語る仄暗い声音が、未来を見つめる虚ろな眼差しが、甦った。
瞬間、バンシーが大きく震えた。僕の殺意に怯えたように激しく振動し、夢から醒めたように大人しくなる。ふっと息をついたエンジンが、回転を放棄した。
燃料切れだ。機首が重力につかまった。バンシーはつんのめるように降下する。
反射的に操縦桿を両手で抱え込んで、ラダーペダルを両足で踏み込む。姿勢を安定させながら、機首下げ姿勢で滑らかに舵を切る。
着陸できるような場所は、見当たらない。陸からかなり遠い場所まで来てしまっていた。
海だけが広がっている。空みたいに青い。ところどころにオイルの雲と光を反射する天国の破片がある。
バンシーの高度は、天国に向けてぐんぐん下がっていく。いや、マブリの呪いが渦巻く地獄に向かって、なのかもしれない。
ひどく疲れた気分でシートベルトを外した。シートの上に脚を引き上げて、キャノピのロックを外す。初めてのことだし、分厚い手袋越しだったから数秒だけ苦戦する。その短い時間で、もう天国だか地獄だかの入口まで高度が下がっていた。
キャノピを開けると、ごう、と風が耳を聾した。と思ったときにはシートから足が離れている。抗う隙もない。
視界を、バンシーのフードが掠めた。ひどく淋しそうだ。ずっと連れ添って来た、死を告げる妖精。その胸にキスを贈れば、三つの願いを叶えてくれる優しい妖精。
ごめんね、と詫びる。君一人を墜落させて、ごめん。でも僕はもう、誰の願いも背負いたくはない。
だから、さよなら、だ。
自分勝手な言い訳をして、パラシュートの紐を引く。
首を強かに引かれた。僕の体は宙に引き留められて、取り残される。バンシーだけが、ニケを追って空を滑っていく。
彼女たちの最期を見たくなくて、僕はパラシュートキャノピを仰ぐ。今にも泣き出しそうな曇天色だ。乱れた気流が僕を揺さぶる。舌を噛んだ。口に広がる苦味になぜか、涙が出た。
君の背中 藍内 友紀 @s_skula
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