第19話 物語は誰がために描かれる


さゆりとロドリゴとは今は手紙で時々やり取りしているにすぎない。

あれから、雑誌の集まりで少し顔を合わせたが、互いに忙しく、未だにしっかりと彼と話す機会は設けられていない。

それどころか、集まりで顔を合わせても一言二言しか交わさないのだ。


もしかしたらそれはロドリゴがさゆりを、連載仲間であるとともに好敵手ライバルとして認めつつあるからなのかもしれなかった。

久しぶりにあったロドリゴが、あの灰色の瞳をどこか爛々として光らせていたのをさゆりは見逃さなかった。

しかも、その瞳はギラリとさゆりを捕らえたかと思うと、さゆりが見つめ返す頃にはふっとどこかへ視線を逸らすのだ。

さゆりはそのロドリゴの様子が、以前と違いすぎていて違和感を覚えていた。


彼はあの時とはどこか変わってしまっていたようだ。

彼はもうさゆりの「優しいおじさま」ではなくなってしまったように感じる。

重くかぶっていた「優しさ」という仮面を脱ぎ去って、今は自由奔放に振る舞っているようだ。

その変化は物語の作風にも表れていた。

以前あった歌うような文は、いまは誰かの傷も抉り出すことを厭わないような鋭い視点を持つものに変わっていた。

彼に何かあったのであろうか。

周りもそのことに感づいているが、決定的な原因はわからないようだった。

その証拠に中身のない噂話ばかりがさゆりに届いている。


それでも彼が抜け出しきれなかった停滞期スランプを脱したことには間違いなかった。

鋭い爪を持ったような彼は、万年筆を手に、やはり「化け物」のようにひたすらに物語を書いているらしい。

しかも、彼の驚くべき点はその作風が変わったとしても、彼を応援する人々が必ずいるということだった。

たしかに従来の読者の一部は離れていったかもしれないが、彼はその倍の新しい読者を獲得しているように見えた。

彼のその傍若無人な作風は、今や文芸界に新しい風を吹かせている。


彼の新しい作風の人気の理由を、さゆりは分析したことがある。

おそらく彼は「化け物」の本領を発揮して、自由にその欲望を物語にぶつけているのだ。

そんな「化け物」に多くの人は共感し、爽快な気持ちになり、応援しているようだ。

その様子からさゆりはきっと読者は、ロドリゴの中の「化け物」に気持ちを重ね合わせているのだと予想した。

そういう点では、もしかしたら小説家だけでなく人間は皆「化け物」を心の中に棲まわせているのかもしれない。

自分では発散できない「化け物」の気持ちを、ロドリゴに物語を通して代弁してもらっているのだ。

そうやって、自分の鬱憤も発散させている。

だから、読んでいて気分が爽快になるのだ。


そしてロドリゴはそれをおそらく計算して書いている。

彼の言葉選びの感覚は恐ろしいほど正確だ。

だから、彼の物語は作風は破天荒でも、いつも誰かの気持ちにピッタリと合って離そうとしない。

登場人物の気持ちを、まるで自分のことのように感じ共感するように促している。

そしてここぞというときに、涙を流せとまるで語り掛けるように、感動させるのだ。


さゆりは、そんな彼の物語を読むといつも切なさを覚える。

まるでだれかに愛されたいと願うように、その物語は完璧さを貫いているように見えるからだ。

「名作」であると、徹底的に、誰しもに、認めてもらいたい。

いや、認めて見せる。

そういっているかのような鬼気迫る迫力を感じるのだ。

そしてその物語に、人は違和感なく自然と魅了され、虜となっている。


(…そんなおそろしい物語を書く「化け物」を相手に、私は彼を超えることができるのであろうか)


そう、さゆりは不安に思わないわけではない。

だが、それでもさゆりの魂は燃えている。

いつか、絶対彼よりも素晴らしい物語を書いてやる。

たとえ、それがヤマネコ貴族よろしく彼を「喰う」内容であったとしても。

そうやって企むとき、彼女の心はいつも「化け物」らしく「グフフ」と笑っている。


女流作家、早乙女さゆりは世間から認知されたばかりだ。

彼女は今、伸びしろしかない。


こうしてこの時代、「糸紡ぐ毬」は伝説的な盛り上がりを見せていた。

人間愛の溢れる瞬間を多く盛り込んで、愛をこめた幸福な結末ハッピーエンドへ向かう作風のさゆり。

人間の本心を抉り出すかのような叫びのような思いを描き、その限界を見出そうとするロドリゴ。

彼らは多くの物語を語った。その「根っこ」となる部分は、おそらく対照的なものなのだろう。

だが、彼らの物語はいつも誰かに寄り添っている。

誰かのために、書かれている。

誰かのために、言葉を贈っている。

そして、その物語はいつも誰かに愛されたいと願っている。

そんな物語は、読者を頭ごなしに拒否しない。

ただ静かに、本棚で誰かに読まれるのを待っているのだ。


だから、人は想像力で飛びたいとき、いつも物語を頼るのだ。

現実はどうしても、どうにもならないこともある。

だが、想像力の翼はいつでも人間の背中に生やすことができる。

そしていつかその翼が自由になった時、彼らはどこまでもどこまでも飛ぶことができるのだ。

それまで人間は、諦めることを知らない。


面白いことに、ロドリゴもさゆりもまだ気づいていないだろう。

もしくは本当は気づいているのに、忘れているふりをしているのかもしれない。

自分たちが「化け物」であると同時に、煌めきを与えることができる「魔法使い」でもあることを。

たとえそれがどんなかたちのものであっても、彼らが蒔いた物語の種たちは、いつか誰かの背中に生える想像力の翼に成りえるのだ。

彼らがそのことに気づくのは、きっと時間の問題だ。

その翼はきっと彼らのもとへ愛と感謝を伝えに行くだろうから。

「あの時あなたの物語に救われた」と、彼らがしてきた人生ストーリーをきっと携えて。

そのときの小説家たちもきっと気づくだろう。読者もまた人生を生み出す一人の芸術家なのだ、と。



――物語はいつでも誰かへ。そして、またきっと君のもとへ。

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小説家に化け物棲むと人の言ふ 水野とおる @mizuno_thoru

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