第18話 そのハッピーエンドは根っことなって
その日はまだ肌寒い夕風が、桜の枝を優しく揺らしていた。
柔らかい日光に照らされて花は開花したのに、風だけはやたらと冷たい。
チラチラリと桜の花びらは舞っていた。時刻は黄昏時。
夕日に照らされて、花びらの白さに眩しさすら覚える光景だった。
さゆりはこの時間に散歩をしたのは、これが初めてだった。
東の空は静かに仄暗くなり始めている。
なぜこんな時間にこの隣の殿方は桜を見よう、なんて誘ってきたのか本当に不思議で仕方なかった。
「君は物語を書くんだってね」
そう彼から優しく言われたことに、さゆりは驚きを隠せなかった。
彼とはまだ知り合って日が浅い。
私のことを全く知らない殿方だとばかり思っていたのに、なぜ私が一番大切にしてる秘密を知っているのだろうか。
この男性の名は、
いわゆる名家の出ではないが、最近めっぽう力をつけてきた実業家の嫡男である。
どうやら巷では有名らしい。
それなのにさゆりは全くこの男のことを知らなかった。
唯一縁談が持ち掛けられたとき、母が微妙な顔をしていたことから、家柄はあまり褒められたものではないということだけなんとなく感じていた。
それでも母が最終的にこの縁談を呑み込んだのは、この田原家が家業の助けになるかもしれなかったからだ。
さゆりの父は海外に事業を広めようと、以前から海外に精通しているこの田原家に目をつけていたらしい。
偶然にもむこうから縁談を持ち掛けられると、父はここぞとばかりに家のつながりを作っておきたいと、母を説得したのだった。
「仕事のためなら」といって、苦渋の選択を呑む母の様子をさゆりは盗み聞きしていた。
そして、それからバタバタと縁談は進んでいった。
形だけの見合い、結納、結婚式とどんどんと行われ、今や新婚生活という最終形態にまで入ってしまっていた。
夫婦になったにも関わらず、さゆりは肩書以外彼のことは未だ知らない。
彼の性格も、気持ちも、つかみどころがないように思える。
唯一手掛かりになる彼の表情は、今のこの角度からでは影になってわからなかった。
そんな中、彼だけがさゆりの秘密を知っていた。
さゆりは不安がよぎった。
「ええ。それがどうしたというの?お父様からお聞きになったのかしら」
そうさゆりが尋ねると彼は意味ありげににやりと笑った。
はっきりとは見えなかったが、その影に包まれた顔から、さゆりは敏感に察することができた。
彼は質問に答えず、「あ!あそこの桜がきれいだね」といってうやむやにしてしまった。
さゆりは少し怒りながら、もう彼には尋ねまいと心に決めた。
そうやってしばらく沈黙して歩いていると、また彼が突然話し始めた。
「君の父上も、ロドリゴ先生も、優しい人だろう。
ロドリゴ先生が載せている新雑誌『
俺は『糸紡ぐ毬』の創刊の集いであの人たちと知り合ったんだ。
俺は彼らを本当に尊敬している。
そして、あの二人は一様に君の物語を気に入っていたよ。
今度、俺にも読ませてもらえないか」
男は軽快に先ほどの話を続けた。
さゆりはその時、初めてロドリゴが約束を果たしていたことに気づいた。
それまでずっと約束は反故されたのだと、さゆりは勝手に決めつけていたのだ。
彼女は卒業後すぐに、両親に縁談を組まされ、この男のもとに行くことになったからだ。
だが、違ったのだ。
そう思った時、ロドリゴの手紙の言葉が、さゆりの頭の中でこだました。
『たとえすぐには望んだものが手に入らないかもしれないが、必ず君が幸せな形でその望みは実現するはずだ』
そうか、とさゆりは合点がいった。
(きっと先生はお父さまに、時間を稼ぐように交渉したのではないのだ。
代わりに私の執筆を許してくれるような相手を結婚相手として選ぶよう、お父さまに伝えた。
だから雄一さんは私の物語のことを知っていて、お父さまも私の執筆に理解を示しているのだ)
そんなことはさゆりは今まで全く気付かなかった。
そのため、さゆりは約束を破られた悲しみと悔しさでここ数日新婚生活どころではなかったのである。
おかげで、ずいぶんとそっけない態度をとってしまっていた。
しかし、それでも今この男はさゆりに柔らかな視線を投げかけている。
さゆりは心が揺れ動くのを感じた。
そのうるんだ瞳を見つめて、雄一は喜びが零れ落ちらんばかりの笑顔になった。
そして、雄一は美しく咲く桜の枝を一本、さゆりに差し出した。
いつの間に拾っていたのか、さゆりは先ほどまで全く気付かなかった。
どおりで先ほどからきょろきょろと何かを探していた様子だったのだ。
それをさゆりが小さく礼を言って受け取ると、雄一は静かにさゆりに話した。
「照れくさいことを言うようだが、俺は君の傘になろうと思っているのだ。
君に降りかかるすべての困難や苦しみを、俺は傘として引き受けるつもりだ。
その代わり君は俺のもとで、自由に物語を書いてほしい。俺には物語が必要なんだ。
俺はいつもではないが、商売も責任も息苦しくて仕方がない時がある。
それでも俺はこの立場から逃げようとは思わない。
これは俺の仕事であり、長男としての責任があるからだ。
だがそんな袋小路ばかりでは、俺は呼吸が持たない。
そんな時、息ができるのは物語の中だけなんだ。
俺は我慢と解放を繰り返しながら、やっとこさこの人生を泳ぐことができている」
そう彼は歩きながら話した。
今度は角度が変わり、夕日に照らされてはっきりと彼の顔が見えた。
夕日の暖かみのある強い光は彼を照らしていたが、その分影は色濃く見えた。
彼の周りも華やかでまばゆく見えるが、彼はその分の重責を担っているのだろう。
しかし、さゆりは彼の本当の感情は読めないでいた。
彼はいつも飄飄として見える。
そして、彼は今真っすぐ、さゆりをみつめていた。
「だが、君は俺とは違う。
俺は君を初めて見たとき、一目ぼれしたんだ。
こんな美しく気品あふれる君には笑顔が一番似合う。
君には、笑っていてほしいと素直に思ったよ。
だから、君の父上から結婚の話が出たとき、俺は快諾したんだ。
君を幸せにできるのは俺だけだとさえ思った。
君にはただ幸せになってほしい。
君にとって結婚は、一見不自由な檻に入るように見えるだろう。
だが、俺は君を束縛しない。
俺は君が心地良く過ごせるよう、君のすべてを受け入れたいと思っている。
君は自由に執筆なり読書なりしてくれていい。それが君への愛のかたちのつもりだ。
そして、きっと君の笑顔や作った物語は閉鎖的な俺の心を慰める、数少ない手段になりうるだろう。
俺はこの結婚で君との関係を互いに喜ぶ素敵なものにするつもりさ」
そういうと彼はそれまで真剣だった顔を崩し、にかっと笑った。そして明るい口調で続けた。
「まあ、今のところ君は俺のことを気に食わないみたいだがな。
そのうち、慣れてくる。まだ結婚して日が浅いから仕方ない。
俺はどうやら少し変わっているみたいでよく誤解されるんだ。
だが長い時間をかけて、俺の良さをわかってもらうつもりでいるから、それまでのんびりと君の気持ちを待とうと思う」
そう彼は言うと、やはり冗談めいた笑みを浮かべた。
さゆりはそれを見て、沈黙し踵を返した。そして、そのまま歩き始める。
雄一はそれを見て焦って、引き留めた。
「どうしたんだい?何か君の気に障ることを言っただろうか」
さゆりははずかしさのあまり、顔が赤くほてっていた。
こんな愛の言葉を貰うとは思っていなかったのだ。
だが、今のさゆりには彼の優しさに見合うものを何も持っていなかった。
なるべく彼に顔が見えないように、角度に注意した。
さゆりはそのままの姿勢で言った。彼との会話はなんだか自然と不機嫌な口調になってしまう。
「早く帰りましょう。そういうことは、私の物語を読んでから言ってください。
きちんと私の心の中を覗いてから、それがあなたにふさわしいかどうか判断なさってくれませんか。
私はあなたの妻でいていいのかわかりません。
あなたは私に優しすぎる。
だから、せめてあなたのことを教えてください。
実業家の息子ではなく、政略結婚の相手ではなく、妻として『あなた』を知りたい。
そのために、私の物語を読んで欲しいのです。
私の世界を見たあなたの感想が聞きたいです。
そして、今度はあなたが好きな本や、芸術や、大切にしているものを教えてください。
そうすれば、私があなたの世界を知ることができます。
私はあなたの
私は人としてあなたと心通わす夫婦になりたいのです」
さゆりは一息ですべてを言い切った。
雄一は呆気にとられながらも、安心したように胸を撫で下ろした。
そして、なにやらにやにやが止まらないようだった。
さゆりはちらりと横目でその様子を見ると、ぎくりとたじろいだ。
雄一が独りで満面の笑みを浮かべている様子が、とても奇妙に見えたからである。
そして、彼はなにを思ったか突然全力で駆け始めた。
「そういうことなら、早く帰ろう!」
そういってワハハと笑い、足早に男はさゆりを追い抜いてしまった。
それを見てさゆりがあわてて小走りで追いかけていく。
近所歩き用の下駄では歩きにくくて、ちょこちょこと歩いてしまう。
男はそれに気づき、また全力で戻ってきて、今度はさゆりの歩調を合わせて歩いた。
若い二人が夕日に照らされた桜吹雪の中、自分たちの家に向かって帰っていく。
それは仲睦まじい夫婦の始まりにまさしくふさわしい光景であった。
それから、5年経ってもさゆりはこの思い出を鮮やかに思い出すことができる。
さゆりは今、雄一とその子どもとともに暮らしている。
そして、それはとてもかけがえのない生活となっている。
雄一は優秀な跡継ぎであったようで、その暮らしぶりは実家ほど豪勢とはいえないものの、豊かなものであった。
それはさゆりにとって十分満足するもので、さらに言うならば監視されていない分、実家よりも数倍過ごしやすかったのである。
振り返れば「由緒正しい」家にこんなに苦しめられていたのだと、さゆりはしみじみ過去の自分に同情せざる得なかった。
雄一は約束通りさゆりの執筆活動を応援してくれていた。それもあってか、5年前は「物語」が一番大切だったさゆりは、今や「家族」が一番大切なものになっている。
彼女にとって家族は心の奥深くにある宝物であり、彼女の大切な心の「根っこ」となっている。
その「根っこ」がない限りは、彼女は今や執筆をしようとは思わない。
だがその「根っこ」は彼女そのものである物語を心から欲してくれる。
だからこそ、さゆりは執筆するのだ。
物語は彼女にとって家族という「根っこ」がもたらしてくれた美しい実りであった。
そして、その物語は今は家から飛び出し、最近有名雑誌としての立場を確固たるものにした「糸紡ぐ毬」に連載されていた。
さゆりは自分と誰かのために、自分が輝ける場があることを本当にうれしく思った。
すべてが喜びに満ちて、幸せな時間がさゆりを包んでいた。
そして、さゆりはこれがあの時ロドリゴが仕組んだ「
(…まったく本当に頭が上がらない)
さゆりはこれを思うと今だに彼を超えることができそうにないと、心のどこかで悔しく思うのである。
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