私は被害者のはずなのに……
無雲律人
私は被害者のはずなのに……
あれはある年の初夏、新緑が美しい頃、小雨が降りしきる蒸し暑い日の午前中の事だった。
その日、私は夫であるおいたんと夫婦の居室でゴロゴロとして、束の間の休みを堪能していた。無防備に寝そべってテレビを観ていたその時、スマートフォンに着信があった。
番号を見てみると、相手はM警察だった。
私はその年の春、川で釣りをしていた最中に、ノーリードで遊んでいた犬に襲われて大怪我を負っていた。その時の件についてだろう、と思い電話に出た。
「もしもし。M警察ですが、
要件を聞くと、飼い主を立件したいから詳しい話を聞かせてくれ、という事で、その日に来られるかどうかの確認だった。
その日は雨で、M警察署に行くにはバスを乗り継ぐかタクシーしかなかったが、面倒な事はさっさと済ませようと、バスで行く事にして午後からおいたんとM警察署に向かった。
M警察署の生活安全課に声を掛けるようにと言われていたので、その通りにした。生活安全課の隣には捜査一課があり、二時間ドラマ好きの私の心は興奮で浮足立った。
しばらく待つと、担当の刑事がやって来た。案内されるがままに後をついて歩く。
薄暗い署内をしばらく歩き、小部屋に通された。
その部屋は、壁が防音壁になっていて、机は足元まで間仕切りがあり相手の足が蹴れないようになっている仕様になっていた。室内にはその机と椅子が数客あるだけで、あまりにも素っ気ない作りだった。
まさかとは思うが……。
いや、確かに部屋の前に書いてあった。
この部屋は、いわゆる『取調室』だ。
私は被害者のはずだ。取り調べられる事なんてあっただろうか。私は釣りの最中にトイレに行こうとして自転車に乗っていた際に犬に襲われたが、もしやそれだけで何か罪に問われるような事をしたのだろうか。
背中に冷や汗が垂れる。
刑事は淡々と話を進めていく。
何をしていて、どういう状況で、どの方向から犬が来て、どう襲われたのか。その時飼い主はどうしたのか。状況を事細かに聴取されて行く。
「所で、私は何か悪い事をしましたか?」
そう聞きたくてたまらなかった。何故私とおいたんは取調室なんかに納められているのだ。ここは罪を犯した人が取り調べを受ける部屋であって、被害者が納められる場所ではないはずだ。
事情聴取は長引き、三十分、一時間と経っても終わる様子が無い。
(喉が渇いたな……)
休みなく話をしていた私の喉はカラカラだった。普通、被害者に話を聞く時はお茶の一杯も出て来るのものではないのか。しかし、お茶は出て来ないし、自分たちでペットボトル飲料を用意して来る事もしていなかった。
話を続ける口腔内はパサパサになり、水分が足りていないのにトイレにも行きたくなって来た。
いつまでこの聴取は続くのだろうか……。
不安と興奮が入り乱れる心理状態で、ついに私はこの言葉を発した。
「何故、私たちは取調室なんかで話をしているのでしょうか?」
疲労は、正常な判断能力を奪う。そんな事を聞いて良いのかどうかの判断すら出来なくなっているほどに、私は疲労困憊していた。
「あ、それは……」
刑事が言葉を編むのを待つ。
「今日ちょっとお客さんで混んでいて、他の部屋が空いていなかったんですよね。驚いちゃいますよね。本当にすみません」
え……?
そんな理由……?
ただ、『他の部屋が空いていなかったから』という理由で、私たちはこの狭く陰鬱な雰囲気の取調室に押し込められていたのか。
張りつめていた緊張がほぐれ、脱力する。
それからは、もうこの取調室での体験をエッセイにしたためたくて、ひたすら早く帰りたいと願った。容疑者にならなければ入れないはずの取調室に偶然入る事が出来たのは、物書きとしては『おいしい経験』と言えよう。
結局聴取は二時間に及んだ。お茶は最後まで出て来なかった。
聴取が終わるとおいたんは「トイレ!」と叫んで走りだそうとしたが、「すいません。出口にも鍵がかかっていて。言って下されば途中でご案内しましたのに」と刑事はひたすら丁寧に私たちに応対してくれた。
「疲れた……ね……」
帰りのバスで、私とおいたんはぐったりとして過ごしていた。
「パフェでも食べて帰ろうか。それと一服もしたいしね……」
この日に食べたチョコバナナサンデーが格別に美味しかった事は言うまでも無い。
私は思うのだ。今回は被害者の立場で取調室に入ったが、加害者や、いわゆる容疑者としてこの部屋に入る事だけは絶対に避けたいな、と。
だから、今日も善良な一市民として生活する事を心がける。
あの狭く陰鬱な部屋には、もう二度と入りたくないものである。
────了
私は被害者のはずなのに…… 無雲律人 @moonlit_fables
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