白い手

増田朋美

白い手

その日も暑い日であった。でも、暑さのピークは通り過ぎ、なんだか日が短くなってきたなと感じられる日々だった。そうなると季節は夏から秋へ向かっていくのである。秋といえばみのりの秋。又は、紅葉の秋、あるいは台風の秋などいろんなものが集大成される季節であった。そんな中で、製鉄所では、いつもと変わらない日々が続いていくのだった。ちなみに製鉄所と言っても、鉄を作る場所ではなく、居場所のない女性たちが、勉強や仕事をするための場所を貸し出している施設であった。ただ女性たちの抱えている事情が複雑すぎることもあって、時々、トラブルが勃発してしまうのであるが。

その日、ある施設から紹介された、女性が一人、新たに製鉄所を利用することになった。名前は、奥村麗華というなんだかすごくかっこいい名前の女性だけど、とてもその名前とは釣り合わなさそうな、容姿をしている女性であった。つまりどういうことかというと、恐ろしく太っていて、顔は潰れたまんじゅうのように脂肪がついており、それに黒縁のメガネをかけて、いつもうつむき加減でいる女性である。服装は、もう自分が美しい容姿では無いことははっきり理解しているらしく、ただのTシャツに、大柄な人向きのトレーニング用のズボンを履いて、とてもおしゃれとは言いがたかった。髪は長くて、腰まで伸ばしていて、それを一つに髪留めのゴムで結んでいた。

麗華さんは、ジョチさんと一緒に、製鉄所の食堂に現れた。そこには、利用者が二人で勉強を教え合っているのが見えた。

「えーと、今日から、一緒にここを利用していただくことになりました。奥村麗華さんです。皆さん色々仲良くしてやってください。よろしくお願いします。」

ジョチさんが彼女を紹介すると、利用者たちは、奥村さんの方を見て、

「よろしくお願いします。」

と、丁寧に頭を下げた。

「じゃあ、奥村さんも、ここで作業をしてくださいね、利用時間は、10時から、17時までです。ルールは、ここを終の棲家にしないこと。それを守っていただければ、勉強をしてくださってもいいし、なにか他のことをしてくれてもいいです。この食堂で皆さんと一緒になにかしてもいいし、一人で個室で体を休めてくれるのでも構いません。それではよろしくお願いしますね。」

と、ジョチさんはそう言って、彼女をとりあえず、食堂の椅子に座らせると、

「あとは好きなようにしてくれて結構ですよ。」

と言って、応接室に戻ってしまった。それと同時に、利用者の一人が、

「はじめまして、あたし、韮崎八重子っていいます。どうして、こちらに来たの?」

と、麗華さんに聞いた。

「ええと、心を病んでしまって、仕事ができなくなったから。」

麗華さんは静かに答える。

「そうなんだね。それなら、病名ってのは何なの?あ、あたしは、鶴園。鶴園加代。」

もう一人の利用者が、麗華さんに聞いた。二人は、中年のおばさんで、麗華さんから見ると母親くらいの年代になりそうな年だった。彼女たちは、長らく、療養生活を強いられていたが、今は、症状も落ち着いてきて、韮崎さんのほうは、図書館で行われている古文書解読講座に参加させてもらい、鶴園さんの方は通信制の高校に通っている。二人は、その勉強をするために製鉄所に来ているのであるが、ふたりとも精神疾患の症状が落ち着きてきたのは、50歳を過ぎて以降だと語っていた。

「あたしは、統合失調症。」

麗華さんは静かに答えた。

「そうなんだ。それは大変だったね。ずいぶんつらい思いもしたでしょう。ここの人たちは、あなたのことをばかにすることも無いし、変な目で見ることも無いから大丈夫よ。」

と、韮崎さんが言った。それと同時に、四畳半から、水穂さんがピアノを弾いているのが聞こえてきた。それは、大変むずかしい曲で、なんだか聞いている方も、疲れてしまう感じの曲だった。麗華さんが音のする方を見た。

「音楽お好きなの?あれを弾いてるのは、磯野水穂さん。ここで間借りしてるんだって。時々、ここでレッスンすることもあるけどね。あたしたちには、普通に利用していいことになっているからね。」

と、鶴園さんがいうと、

「そうなんですね。ピアノは、高校生までやってましたけど、本当に大変だった。いつもピアノを弾くことで、いつも家族が喧嘩してた。でも私が、そこから逃げる手段でもあった。それだから聞いているとより複雑よ。」

麗華さんはちょっと語勢をあらげて言った。

「まあ、今は麗華さんのことではなくて、水穂さんのことを話しているんだから、そこは気にしなくても大丈夫よ。」

韮崎さんがいうと、

「そんな言い方はやめて。大人はそういうことを言ってすぐはぐらかすけど、私はそう言われてどれだけ傷ついてきたと思ってるのかしら。そういうこと平気で言うんだったら、私は、お話もしたくないわ。」

麗華さんは、そうきつく言い放った。

「ああ、若い人は、そうなっちゃうのよね。まだ、自分の苦しみというか、そういうところから離脱できないんだわ。それを悩むというか、苦しんでいたってどうにもならないことを知らないとね。悩みを手放すことが、回復への一歩よ。若いんだから、そのうちそれもつかめるわ。」

鶴園さんは年寄りらしく言った。

「そうなんですね、結局年寄りはそういうことを言って、私達に答えを教える気なんてサラサラ無いんでしょう。ただ、自分が格好つけたいだけで、そうやって若いから何でも出来るとか、自分で答えを見つけなさいとか、カッコつけたセリフを言うだけでしょう。あたし、わかってるんですよ。学校の先生もそうだった。自分で答えを見つけろとか、そういうこと言ってたけど、それなのに、試験に通る答えをただ暗記させるだけ。私が考えた答えなんてこれっぽっちも褒めてくれない。親だって同じことよ。自分の生き方は自分で決めろって言うけど、いざ私が意思を示したら、世間体が悪いとか、そんなのはお金がかかるからやめろとか、そういうことを言う。本当に、大人の人が言っていることって、嘘ばっかりよ!私は真剣に答えを探してるのよ!それなのに、結局は都合のいいように私達を動かすためだけに、カッコいいセリフを言ってるだけでしょ。ほんとに腹が立つ!」

麗華さんの口調は、だんだん怒りが湧いてきたことがはっきりわかる、荒々しい物になっていった。それではもしかしたら、自分たちも殴られるのかと韮崎さんと鶴園さんは身構えたが、麗華さんは、自分の手で自分の顔を思いっきり殴った。誰も、よせやめろということはできなかった。せいぜいできるとしたら、上の人や医療関係者に通報するしか無いのだった。だけど、ピアノ演奏が止まった。誰かが近づいてくる音がした。それと同時に、真っ白い顔をした、げっそり痩せた人物がやってきて、自分の顔を殴ろうとしている麗華さんの手を止めた。

「もう、それだけ殴れば十分です。ちゃんと、あなたが苦しんできたことは通じます。だから、自分を殴るのはやめてください。」

水穂さんは、白い手で、麗華さんの右手をそっとおろした。そして、両手でそっとげっそりと痩せた白い手で、彼女を手を取った。

「どうして、自分を殴ろうと思ったのですか?」

水穂さんは言った。

「だって、あたしは、そういうことしか与えられなかったのですもの。もっと、いい学校に行ってれば、もっと地位が高くて、経済的にも恵まれていれば、こんな辛い思いをすることもなかった。成績が悪いってことはね、身分が低いのと同じよ。成績がいい人は、運動ができる人は、みんなから慕われて、悩んでいることだって相談に乗ってもらえるの。だけど、私はそうじゃなかった。成績が悪かったからね。成績が悪いから、先生方だって私の悩みも聞いてくれなかった。そんなことより勉強が先、変なことを考えているより、試験でいい成績を取るほうが先っていつも言われた。だけど、私は、どうしてもできなかった。試験でいい点数になる答えをどうしてもかけなかった。だから、小学校までは楽しかったのに、中学校に行ったら、本当に辛い場所になってしまって、高校も、成績が悪いから、ろくなところに行けなくて。本当に、真剣に勉強したい、中学校でできなかった分をやり直せるかなと思ったのに、怒鳴り散らして黒板を向かせる先生と、携帯でメールを打ってる生徒ばかりで、生き地獄だった。でも、それは私が成績が悪くて、そうなる運命だったということも知ってるから、自分を傷つけて、自分で解決するしか、無いじゃない!」

そういう彼女は、たとえ体は大きく太っていても、心はその時間から止まったままであるということを示していた。大変に傷ついてしまっているのは確かなんだろうが、それをぶつけても、誰も答えてくれる人などいないのが、今の世の中だ。

「わかりました。お話してくれて、ありがとうございます。利用者さんの中にはなかなかこちらの言う事を信用してくださらない方も多くて、なかなか手を出せない人もいるんですけど、そうして話してくれてありがたかったです。」

水穂さんは、静かに言った。

「そういうことなら、あなたは知っていらっしゃるんですか。あたしがこれからどうすればいいか。この辛い気持ちをどうすればいいか!」

麗華さんは怒鳴るような言い方で水穂さんに言った。水穂さんは怒鳴られても表情一つ変えなかった。

「ええ。それなら、とにかくその気持をなにかで表現してください。そして、時間が経って薄れてくるのを待ってください。絵でも文章でもなんでもいい。その代わり暴力として表現するのはいけないことです。」

「そんなこと、したって無駄じゃないですか。親にだって、いくら話しても聞いてはくれませんでした。誰も、私の方を見て何てくれませんでした。それでも、続けろと言うのですか!」

水穂さんの答えに麗華さんは更に怒鳴った。

「もし、相手がそういう反応しかできないんだったら諦めればいい。そして、他の人に話してください。親御さんだけが全てでは無いです。もしかしたら、あなたの表現のお陰で救われる人もいるかもしれません。今は、ホームページ作るとか、SNSなどもあります。嘘偽りなく書くことが出来る場所も用意されているのです。そういう媒体を使って、あなたがされてきたことや、苦しんできたことを、表現していけばいい。そうするとね、あなたも、つらい思いは次第に薄れてきて、なにか新しいことをしようっていう気持ちになるはずです。ここにいるこの二人だってそうだったんですよ。あなただけが、つらい思いをしているわけではないんだって、いろんな媒体にふれることで知ってください。そうすれば、きっとあなた自身も落ち着いてくることでしょう。」

「本当にそうだったの?」

水穂さんが、そう言うと麗華さんは、確認するように言った。

「ええ、そうでしたよ。彼女たちもそうだったんです。いろんなこと言ってたの、僕たちはちゃんと知ってます。もし、親御さんや、学校の先生がおかしなことを言うのであれば、そういうことを知らないんだって、早く諦めてしまってください。そして、ちゃんと答えを教えてくれる人を探してください。」

「あたしはねえ。若いときは、本当に辛くてどうしようもなかったんだけどねえ。だけど、ある本を読んでさ。その著者の方のサイン会に行って、そのサインを貰ったときに、あああたし、立ち直らなくちゃなあって思ったのよ。そりゃね。そんな大したことしてないかもしれないけれどね。だけど、あたしに取ってはあの本読んだのは奇跡的な出会いだったなあ。そういう奇跡的なことって、意外に小さいことかもしれないけどさ、でも、あるんだよね。だから、二度と無いとか、もうだめだって思っちゃいけないんだって、そのときはっきり知った。」

水穂さんがそう言って、鶴園さんに目配せすると、鶴園さんはにこやかに答えた。続いて韮崎さんも、

「あたしは、母が勧めてくれたサークルに参加してね。始めの頃は、たいしたことないだろうって思ってたんだけど、行ったときに隣に座った男性が、すごくあたしのこと気に入ってくれて、一緒に話をするようになったのよ。それが今の旦那。まあ、ふたりとも障害者だから、そんなに経済的には恵まれてないかもしれないけどさ。あたしは、今の旦那に巡り会えて十分幸せよ。だからね麗華ちゃん。そうやって、すぐ怒って暴力に走るのなら、水穂さんの言う通り、なにか変わるときが来るまで、待ってるのも一つの手なのかもよ。」

と、にこやかに笑っていった。

「そうなんですね。あたしは、学生が終わったらもう二度と助言してくれる人はいないって言われて、それで、もう何も言っては行けないのかなと思ってずっと辛い思いをしてきたけど。」

「そんなのは、ただ教師が、生徒を黙らせるためのただのでまかせに過ぎないわ。そんなことに騙されて、縛られ続けるようじゃだめよ。」

「きっと、さっきみたいに過去に戻ってしまうのは、麗華ちゃんのせいじゃないわ。病気がそう言わせているだけなのよ。だから、そうなったときは、自分が本当に苦しいんだって、自分を殴るのではなく癒やしてやれる手段を見つけるといいね。」

麗華さんの発言を二人の人物は否定した。それと同時に、正午を伝える富士市の放送がなった。

「よし!もう説教はそこまでにして、みんな揃ってるからご飯にしよう。今日はカレーだよ!」

台所にいた杉ちゃんがでかい声でそう言うと、みんな嬉しそうな顔をした。やはり誰でも食べたいという気持ちは同じなのだろう。杉ちゃんが車椅子のトレーに、カレーを入れたお皿を乗せて持ってくると、鶴園さんも、韮崎さんも、わあ嬉しいと言って、カレーを受け取った。

「それじゃあ、いただきます!」

みんな思い思いに挨拶をしてカレーを口にした。やはり杉ちゃんのカレーは美味しいねと彼女たちは言っていた。鶴園さんが麗華ちゃん美味しいと声を掛けると、麗華さんは、もちろんです!と言ってうなづいた。

しかし、麗華さんの隣で、うめき声がした。同時に、激しく咳き込む声も聞こえてきた。麗華さんが隣を見てみると、咳き込んでいるのは水穂産であった。

「もう!吐き出すのなら、どっかよそでやってきてくれ。」

杉ちゃんにそう言われて、水穂さんは、よろよろと椅子から立ち上がった。そして、縁側の方へいき、内容物を咳き込んで吐いた。

「やっぱり食べれないか。」

と、鶴園さんが呟いた。

「これだけ美味しいカレーなのにねえ。水穂さんには不味く感じるのかな?」

韮崎さんがいうと、

「まあ、本人の話によると、新平民である以上、食べる気がしないんだって。」

杉ちゃんがあっさりと言ってしまった。韮崎さんたちはああそうかと言う感じだったが、麗華さんは、納得いかなくて思わず聞いてしまった。

「なにか、食べれない理由でもあるんですか?もしかして、芸能人みたいに、重度の拒食症に陥ったとか?」

「まあ、そういうふうに診断してくれる人もいないからね。」

杉ちゃんはそういう。

「医療関係者に、これまで何度断られてきただろうね。銘仙のきもの着てるやつはだめって。まあ、言ってみればそういうことだよ。昔はそういうやつのことを新平民って言ったけど、そういうことだから、病院にも行けないし、医者も来てくれないしさ。まあねえ、変わらないこともない世の中って言うけど、どうしてこういう人種差別は変わらないんだろうね。」

「そうそう。あたしたちも、水穂さんは可愛そうだなあって思うけど、それは無理な話でね。なんか不思議よねえ。」

「結局さ、人って、誰々よりはマシとか、そういう馬鹿にする対象が無いといきてけないって思うのかな?」

鶴園さんと、韮崎さんは、そう言って納得し合っている様子だったが、麗華さんは納得できない様子だった。急いで椅子から立ち上がり、縁側へ飛び出すと、水穂さんが、縁側に座り込んで、咳き込んでいるのが見えた。咳き込むたびに赤い内容物が、縁側の床を汚していた。

「大丈夫ですか?」

麗華さんは水穂さんに声を掛ける。

「ごめんなさい。」

水穂さんはそういうのだった。その言葉に、先程杉ちゃんたちと話した言葉の意味が全部含まれているような気がした。そういうことだから、私が暴れるのを止めることができたのだ、と気がついた麗華さんは、感謝の気持ももちろん湧いてくるのだが、どこか、違うような、そんな気持ちも湧いてきてしまう気がした。銘仙の着物を着る人というのは、そういうふうに見えてしまうのだ。そうするようにと、周りの大人達や偉い人たちがそう言って来たから。

麗華さんはそっと水穂さんの背中を擦った。咳き込んでいる水穂さんは、それを払いのけることはできなかった。

「水穂さん疲れてるんだったら、部屋へ戻って休みましょう。」

麗華さんはそっと言ってあげた。

「すみません。」

そういう水穂さんを麗華さんは背中に背負った。吐いたものの始末は後でするからと言って、麗華さんは、水穂さんの部屋へ向かって歩き出したのであった。背中に乗っている水穂さんは、げっそりと痩せてしまっているから、ものすごく軽いのかなと思ったが、ずっしりと重いような気がした。部屋のふすまを開けて、水穂さんを布団に寝かせてやって、そっと、掛ふとんをかけてやった。

「本当にご迷惑をおかけしました。ちゃんと、お詫びはしますから。今日は許してください。ごめんなさい。」

水穂さんがそう言うと、麗華さんは、たった一言、

「そんなことありません。」

と小さな声で言って、静かに部屋から出ていった。もう、水穂さんが抱えている問題を解決する力は自分には無いと言うことはわかっていたが、それでも、あの白い手が私を止めてくれたことは、一生忘れまいと麗華さんは心に誓ったのであった。

外はまだ暑かった。でも、少し、庭の松の木の影が長くなって、季節が変わろうとしているのだなということは、理解できた。もしかしたら、変わるということを感じ取ることが出来るのは一部の人しかできないのかもしれない。

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白い手 増田朋美 @masubuchi4996

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