6 金朱
「晃一くんはまだ帰らない?」
「はい」
行方知れずになってから一週間後、兄は一度だけ家に帰ってきた。「どこにいたの」という私の問いには答えず、兄は言った。「おまえも来い。俺は日本に戦争を持ち込まれたくない。今は女も戦うべきだ」と。でも、首を横に振る私を見てがっかりした表情になり、出ていってしまった。
兄はそれ以来家に帰らず、喫茶店にも来ていない。両親にこのことを伝えれば、戻ってこいと言われてしまう。私は生活費のために、兄の代わりも兼ねて喫茶店でアルバイトを始めた。
「一体何をやってるんだか。髪を伸ばし始めた頃から様子が変だとは思っていたんだけど……」
野上さんの言葉に申し訳なさを感じ、下を向いてしまう。
「いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴り、大学生と思われる男が三人、話しながら入ってくる。
「そういえばコウイチ、喫茶店でやってたんだっけ」
「さぁ?」
三人はテーブル席に腰を下ろし、話に興じる。野上さんは倉庫に行っているため、私が注文を取った。
「なあ、あれどうする?
「あいつのか。荷物も邪魔だよな」
「電話線切ったの、他のセクトの女だったんだろ? そんなのやられて当然だってのに、たかが女で……」
「制裁を
注文されたブレンドコーヒー三つを持っていく。聞こえてくる大声の、
彼らはそれからも様々な夢を披露していた。その手のノートには、兄の大学の校章があった。
私は特に感情を動かすことなく、仕事を終えて帰路に就いた。鞄の中に空のビール瓶を一本隠して。
怒りも悲しみも湧いてこなかった。穏やかな心の水面に、石が一つ投げ込まれただけだ。ビール瓶を洗って乾かすには一晩を費やした。
翌朝になり、東側の窓から差し込む光にビール瓶をかざしてみる。濃い茶色が光をぬらりとした質感に変え、笑いが漏れる。ぬるぬると動く、ビール瓶の光。
押入れから出した古布を
左手に鞄、右手にビール瓶を持ち、私は玄関を出た。徒歩で二十分。警察官には出会わなかった。大学正門の警備員詰め所には誰もいない。少し歩いた先の南校舎の二階の窓に、誰かが動いているのに不自然にカーテンを閉め切っている部屋があることに気付く。
私は校舎に一番近いイチョウを見つけ、鞄を根本に置いて登っていった。手に持つビール瓶と燐寸箱に少々手間取りながらも、葉の落ちた木の
「ここなら……」
カーテンが閉まっている部屋に、兄はいるのだろうか。しかし、私はこの火炎瓶をあの窓に投げ込んで兄を助けたいわけではない。平和な日本、良い世の中と言い訳をしながら、先人に便乗して
乾いた指先で燐寸を取り出し、ビール瓶を見つめる。サラダ油を染み込ませてある白い古布。燐寸を箱の側面に擦り、火を点ける。快晴の空の下、燐寸の火は最初だけ化学的な匂いをさせながら勢いよく燃え、木軸に移ると
火があと数センチで古布に燃え移るという時、灯油の匂いの中に、ふと
「……なん、でっ……!」
太い木の枝に座った格好で、私は嗚咽を漏らす。心の水面下で渦巻いていた激しい感情が、銀杏の匂いで水面上に現れてしまった。カサカサに乾燥した手は、震えるだけで動こうとしない。
狂気を投げつける
◇
兄は、私が火炎瓶を持って大学に行った日にはもう死んでいた。その二週間前に同じセクトの人たちに集団リンチされ、山中に埋められたそうだ。見つかった遺体が身に付けていた衣類などの確認は私が
私は春を迎える前に実家に戻されたため、短大を卒業することはできなかった。増屋へ働きに出る話は白紙に戻った。私が
そうして私は家事手伝いとして、ただ無表情に生きている。
瞬間湯沸かし器のスイッチを押すと見える点火窓で、燐寸の火を。
手を洗うたびに恋しくなる、兄の作っていた湯を。
私はこれからも冬が来るたびに思い出すのだろうか。あの温かい手の感触とともに。
糾正の燐寸 祐里 @yukie_miumiu
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