5 寂寥
「今日は
「ああ、そうか。それも楽しみだ」
朝、家を出る時に声をかけると、兄はそう答えた。
「またお酒飲みたくなるんじゃない?」
「飲みたくなったら買いに行くよ」
「うん。じゃあ行ってきます」
「気を付けて行けよ」
私は兄に笑顔を返し、玄関を閉めた。
◇
短大での授業を終えて帰宅する。まだ兄は帰っていない。兄が喫茶店の店長の野上さんに借りた金槌で銀杏の殻を割り、次々と金茶の実を出していく。事前に借りておくなんてよほど楽しみにしていたのねと思うと、口元が笑みを作る。私は全ての殻を割り、取り出した中身をざるに入れた。
「兄さん、まだかな……」
外が真っ暗になっても、兄は帰ってこない。柱時計はもう七時を指している。心配になり、立ち上がってコートを着る。兄がアルバイトしている喫茶店へと急ぐためだ。心当たりがあって私が行ける場所はそこしかない。近所でよかったと思いながら寒さを我慢し、金槌を手に、私は夜の道を歩いた。
「……こんばんは」
「あれ? いらっしゃい、知美ちゃん。今日は晃一くんいない日だけど、何か用事?」
「あの、これ」
むき出しで持っていた金槌を渡すと、野上さんは驚いて私の顔を見た。
「これを返すためにわざわざ? いいのに、次に来る日で……って言っても、晃一くんが来る日、かなり減ってるんだけど」
野上さんの言葉に、どきりと心臓が跳ねる。アルバイトの日が減っているなんて、私は聞いていない。
「そう……ですか。知らなかった。今日は兄さん、まだ帰ってきてないんです……」
「……そうか。あのさ、最近晃一くんがつるんでる連中なんだけど、その……、あまりいい噂聞かないやつらで」
「えっ……? どういうことですか?」
「いわゆる中核派の人間で、過激なことを考える可能性も……」
「過激な……」
「晃一くんはもともと真面目で温厚な性格だからね……、もし付け込まれて影響されているとしたら、大学のセクトに
『セクト』というのは良くない印象を持つということは、私にもわかる。世の中をより良く変えたいという意志の
野上さんの心配そうな視線を受け、私は崩れそうな膝を
「知美ちゃん、大丈夫かい? 落ち着くまでここにいたら?」
軽く頭を振って「失礼します」と告げ、私は喫茶店を出た。「気を付けて帰るんだよ」という野上さんの声は届いていたが、反応することはできなかった。
◇
玄関を入り、垂れ下がる紐を引っ張って天井の明かりを点けると、コートを脱ぐのも忘れて座布団にへたり込む。「過激なこと」という言葉が耳から離れない。実家にいた頃に見たニュースでは、多くの若者が警察の機動隊に向かって火炎瓶を投げていた。
「……寒い」
コートを着たままなのに寒さを感じ、ストーブを点けることにした。普段なら兄がいて「寒いから点ける?」「そうだな」などと会話をするのだが、今日はそれもできない。
ストーブの前で燐寸棒の頭を箱の側面に滑らせるが、何度擦りつけても着火しない。
「どうして」
力を入れて擦ると、棒の真ん中あたりが折れてしまった。もう一本、もう一本と新しい燐寸を出しては擦り、擦っては折り、六本目でやっと火を点けることができた。触ったら火傷するはずの高温を持つ火が、私の目には冷たい光として灯る。
「銀杏……兄さん帰ったら、食べるよね」
無性に、高温の油が恋しい。近付くと顔が熱くなる、
冷たいままの油に銀杏を入れ、燐寸を擦る。今度は一度で火を点けることができ、ほっとする。菜箸で時々大きく混ぜながら加熱を続けていると、だんだん薄皮が剥がれてくる。
「味付けは塩だけで」
返答なんかないとわかってはいても、口に出してしまう。口に出すたびに、兄の存在が恋しくなるのもわかっている。それでも私は、言ってしまう。
「……早く、帰って、きて」
一人で食べる銀杏の実は、子供の頃より苦く感じた。
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