4 矛盾


 兄は夕食に満足したようで、機嫌良さそうに石油ストーブに火を点けろと言う。私は兄に窓を開けるよう頼み、燐寸の先に橙の火を灯す。石油ストーブの燃焼筒から突き出ているつまみを使って網状のドームごと燃焼筒を持ち上げる。開いた下部から燐寸の火を差し入れて芯に火を点けると、ボッ、ボッ、という音が何度か聞こえてから静かになった。そして下からせり上がってくる熱い金赤きんあかが、冷たい網に拡大していく。

「灯油が燃えるのって、冬の匂いって感じ」

「そうだな」

「冬が終わったら帰らないといけないんだよ、私は」

「俺が父さんたちを説得しようか?」

 カップ酒一本で私に投げつけられた話は、ただの夢物語だ。

「もし説得できたとしたら、どうなるの? 私はこれまで社会に出て活躍できるようなことを教わってきてないのよ。炊事、掃除、洗濯、裁縫、近所付き合いのこつとか、そういうことは学んできたけど」

「まだ若いんだ、何とでもなる。でも……、そうだな、同じ短大でも違う学科だったらよかったのかもしれない。そんなことばかり教わっ……」

「そんなこと? 馬鹿にしないで。十分意味があるのよ、私が身に付けてきたことは」

「……馬鹿になんて、していない」

 きっと兄の言葉は本心から来ている。本当に、悪気はないのだ。だからこそ腹立たしい。

「本当は高校卒業したらすぐに働きに出ないといけなかったのを、狭い世間しか知らないのは嫌だと思って家政科に入ったの。二年間だけでも何か実になるかなって。兄さんだって賛成してくれたじゃない」

「ああ、その時は賛成したさ。だから、今は女も……」

「兄さん、言うこととやることが矛盾してるじゃない。女も社会に出るべきって、それなら家事は誰がするの? 私がやって当然って思ってるでしょう? でも女も活躍するなら、疲れて家に帰る女の世話を誰がするの? このまま兄さんと暮らすのはいいけど、もうコートを衣紋掛けに掛けたり、食事の支度や後片付けをしたり、洗濯したりなんてできなくなるのよ」

 いつになく気を高ぶらせている私を見て、兄は目を丸くしたまま黙っている。一気にまくし立てたせいで疲れを感じ、私は声のトーンを下げて言葉を続けた。

「……でも、私は兄さんにコートを渡されるのも一人で家事をするのも、柔軟剤ソフターを買ってもらえないのも、寒さを感じてもストーブは点けないでおこうと言われるのも嫌じゃない。役に立っているって思えるし、お金の管理は兄さんに任せているんだもの。これっておかしいこと? 今までずっとそうしてきたのに、時代の流れというものに合わせないといけないの?」

 話しているうちに、だんだん鼻の奥がきゅっと痛くなってくる。泣きたくはなかったが、すぐに目から涙がこぼれてしまった。

「……悪かったよ」

「ううん……、私も……ごめん」

「やかんが沸いたら、湯を作ってやるから」

「う、ん」

 兄はなぜか湯を作るのが好きなようで、寒い時期は私のためにアルマイトの洗面器に湯を作ってくれる。ストーブのやかんの湯と水を混ぜるのが楽しいのだろうか。

 「ちょうどいいぞ」と言われ、私は荒れ始めた手を洗面器に入れた。まくったブラウスの袖から出ている手首まで湯に浸からせ、その優しい温度を堪能する。

「気持ちいい」

「温まったらよく拭くんだぞ」

 兄の言うとおり、温まったあとはタオルで手をよく拭いておく。それからハンドクリームを持ってきた兄にほかほかの手を預ける。子供の頃から、手荒れがひどくなると毎晩兄がハンドクリームを塗ってくれるのだ。だから私は、寒さは嫌いでもこの季節を嫌いになれない。温かく大きな手が私の手を包み、白いハンドクリームが肌に良いとされる成分の匂いをさせながらぬるぬると広がっていく感触を楽しむ。

「これで手荒れ知らずね」

「自分でも気を付けていないとだめだぞ」

「うん」

 丁寧に塗られたハンドクリームはもう匂いも白色も残しておらず、私の肌を保護し始めた。

 それ以降、兄は酒を飲む日や遅い帰宅の日が多くなったが、寝る前に私の手にハンドクリームを塗ることだけは忘れなかった。

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