3 落胆


 電気炊飯器には、研いだ米と水を入れてある。次はガスコンロに火を点けないといけない。燐寸マッチを水平スライド式の箱から一本出し、赤い頭の部分を箱の側面のざらざらした部分に素早くこすると、白みがかった橙の火が点く時に一瞬だけ化学的な何かの匂いが鼻に届く。

 天つゆを作ってから、ちくわを縦半分に切る。火の点いたガスコンロの天ぷら鍋の油が熱くなるまでに、金属製のボウル内で小麦粉と水、卵、青のりを混ぜ合わせた中に切ったちくわを入れておく。天ぷらは手際が勝負だ。

「もう揚げるわよ」

「わかった」

 大学で配られていたという冊子を見ている兄に声を掛け、天ぷら鍋の油に濡らした菜箸さいばしを入れると、小さな泡が勢いよく立つ。兄が好きなのは分厚い衣だ。菜箸で持ち上げるちくわから衣がもったりと滑って落ちる様を確認し、油の中へ滑らせる。じゅっという軽い音を聞き、もう一つ、もう一つと入れ続けると、どんどん気泡が上がる。

 揚がったちくわ天は、大きな皿に敷いた古新聞の上に次々と上げていく。無機質な文字の上で、青のりの緑がきれいに目に映る。

「短大の勉強はどうだ? 理数なら見てやるぞ」

「なぁに、突然。珍しい」

「いや……、卒業したら勉強は役に立つんじゃないのか?」

「そりゃ家政科だから役に立つとは思うけど……。そんなこと今まで気にしなかったじゃない、びっくりさせないで」

 明るく言うと、兄は黙った。私は気にせず新聞紙から別の皿へちくわ天を移していく。

 兄のカップ酒も用意し、「いただきます」と手を合わせてから箸を取る。まだ熱いちくわ天を天つゆを付けずに噛むと、ほんのり甘みを持つ塩気が広がる。ぷりっとしたちくわの食感が楽しく、青のりの風味もよく合っていてとても美味しい。

「美味い。知美は料理上手だ」

「褒めたって何も出ないわよ」

 向かい側に座る兄も同じように天つゆを付けないで食べている。そんな姿にひとしきり笑ってから、天つゆを付けたちくわ天を口に入れる。分厚い衣にしみた鰹出汁かつおだしの香りが鼻まで上がり、噛むほどに溶けていく衣の小麦粉の香りに合わさると、安価なちくわが豪華な食材に思えてくる。

「酒もたまに飲むと美味く感じるよ。……ああ、そうだ、近いうちにあいつらと飲みに行くことになると思う」

 顔を赤くした兄は上機嫌で、饒舌じょうぜつになっている。しかし兄の言う「あいつら」が、私にはわからない。

「大学の人たち?」

「ああ。大学もこころざしも、皆同じなんだ。気の良い奴らでな。飲みに行く日は買い物にも行けないから、金を渡しておこう」

「うん」

 それから兄は、いかにその仲間が良い人たちかということを語った。私はこころざしについて具体的に理解できなかったけれど。

「それで、女も男と同じ……」

「そろそろ片付け……、女? 女の人もいるの?」

 なかなか止まらない兄の話を遮ろうとした時に出てきた「女」という言葉に、違和感を覚える。兄から女性の話など聞いたことがなかったから。

「ああ。女も社会に出て活躍できるように、世の中を変えようってな」

「女の人が……話に聞いたことはあったけど、本当にいるのね、そういう人」

「他のグループだが。おまえも大きな企業に就職すればいい。発言力が増すぞ」

 座布団を立って食器を手にする私に、兄はあぐらをかいて座ったまま話す。片付けられる食器同士が触れ合う音や、床に落ちた箸の音など聞こえていないかのように。

「……だめだよ、私は。お父さんもお母さんも、卒業したら戻ってきなさいって言うもの。増屋の家に話を通したって葉書も来たんだから」

 「女も活躍する」という言葉に、私は引っかかりを感じた。これまで女は活躍していなかったのだろうか。ひっそりと大人しくそこにいただけだとでもいうのだろうか。

「そうか」

 兄が上気した頬のまま落胆らくたんの表情を見せたのも、気にさわる。私はそれきり黙ったまま、後片付けを終わらせた。

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