5章 なにがいる ③

(刑務官により検閲済み) 


 ■ ■ ■ ■


 恐らく口頭では面会時間内に全てを伝えきることはできないだろうから手紙として残します。

 これは、僕が入学して間もない頃、I大医学部助教授Y先生から聞いた話です。

 

 戦後の日本において、AID、いわゆる非配偶者間人工授精の先駆けとなっていた東京の某大学に、甲信地方からとある夫婦が治療と相談を求めてやって来た。夫は南方戦役に赴いた際に熱病を患い、生死をさまよった末の帰還兵であった。夫婦は再会後しばらく経つものの子ができないでいた。熱病罹患による生殖不全とされていたが、妻は夫との間に子を望んでおり、また、夫やその家族も直系の跡継ぎを期待していた。

 夫婦はAIDによる人工授精を決断する。なかなか結果が出ない中、念願の妊娠を果たした女性は大いに喜んだ。女性は神社の絵馬に毎日願懸けをするほど熱心だったので、その喜びは計り知れなかった。

 だが、AIDは当時一般的とは言えない不妊治療である。本人たちが強く希望しても、周囲の抵抗感の拭えぬ医療行為だったかもしれない。

 妻はAIDの果ての妊娠により、夫の両親や親族から心無い言葉を浴びせられた。

推測でしかないが、熱病による夫の無精子病を親族は受け容れられておらず、子ができなのは妻のせいだと内心では考え、離縁させようとしていたのではないだろうか。

妊娠した子が遺伝子上は「他の男の子供」という事実を受け容れていたはずの夫まで、攻撃的な身内の空気に呑まれてよそよそしくなる。

 妻は出産後間もなく離婚し、子の親権も当時としてはまだ珍しく母方が取得した。妻子は家から出ていくが、生活苦から子供は養子に出され、それから間もなく母親は失踪した。家には大量の血痕が残されており、警察が捜査したが行方は知れない。

一方、男は親の勧めで後妻を娶るが、我が子の望めぬ体であることは伏せたままだった。遠縁の子を養子にしてくれと頼まれたと嘘をついて、男児を引き取った。

 だが後妻が妊娠したと言う。夫は後妻の浮気を疑い、後妻を避けるようになる。

 妊娠を喜んでいた後妻だったが、夫が戦地で熱病を患って子を望めぬ体になり、それが原因で前妻と別れたことを近所の噂話で聞いてしまう。後妻は次第に気を病んでいき、家族に隠れて酒や煙草に手を出し続け、そのせいか子供は早産の末、間もなく死んだ。その頃、邸宅には何者かの手によって黒く塗りつぶされた不気味な絵馬がいくつも吊るされ、家中の者たちを苛んでいだ。

 夫婦仲はすっかり冷えていたが、数カ月後、後妻に再び妊娠の兆候が現れる。

 そんなわけがないと突き放す夫、得体のしれない何かが腹にいると怯える後妻。

後妻は発狂し、水路で変死しているのが見つかった。腹には何もいなかった。

 後を追うように、夫は原因不明の腹部膨満と体調不良に耐え切れず服毒自殺を図る。

 年老いた両親も死に、夫の姉妹たちも妊娠中毒や産後の肥立ちの悪さから床に臥せり、帰らぬ人となっていく。

 不幸が続く中、養子の少年は医者になることを志し、東京の大学へ入学。そこで出会った恩師に影響を受けて、産婦人科医となった。

 彼が医者として独り立ちし始めたとき、女性の研修医と出会う。


 彼女の名は倉敷恵真くらしきえま。当時まだ珍しい女性医師の卵であり、才気ある美しい女性だったという。彼は、彼女が自分と同じ地域の出身で、早くに養子に出された境遇であることを知ると親近感を覚える。

 だが、恵真が病院に来てから、「妊娠したかもしれない」と訴えて受診してくる女性が増えた。奇妙な出来事だった。彼女たちは往々にして、誰も妊娠などしていなかった。その訴えは、彼の少年時代、妄想に駆られて自殺した義両親をいやでも思い出させた。「あなたは妊娠などしていない」と説得する医者や看護師たちの傍ら、恵真だけが「無事に生まれるといいですね」などと声をかけていることも、彼には不可解極まりない行為だった。

 彼は恵真の生い立ちや学生時代が気になり、密かに調べた。しかし、不思議と彼女の学生時代や過去にまつわる話が出てこない。

 だがそのことが細君の耳に入り、彼はつるし上げに遭う。興信所を使って倉敷恵真について調べたという妻は激怒するが、彼女と興信所が提出してきた人物調査結果は、彼が知る倉敷恵真のものとはまるで異なっていた。

 まず見た目が違う。経歴も違う。

 彼が知る倉敷恵真と同じ出生地、養子に出された過去、医学部へ進学した才女であることは確かだったが、興信所の調べでは、彼女は僻地医療に貢献したいということで、現在北海道にいるという。当然、東京の大学病院の医者である男と面識もない。

 では今病院にいるクラシキエマとは何者なのか。

 確認を取ろうにも、彼女の姿は忽然と消えたという。

 ただ、倉敷恵真は、彼の養父と前妻との間に生まれた子供であった。

 クラシキエマという謎の女性の出現以来、十数年おきに同じ顔をした女がさも当たり前のようにI大病院の研修医として紛れ込み、誰もそれを不思議に思わない。違和感に気づいたときには消えている。写真や文章記録には確かに残っているのに、足取りはまるで追えない。

 そうして、彼女が現れると原因不明の「妊娠妄想」の症状を起こす患者が立て続けに病院へやってくるという。患者の腹は、丸く膨れている。原因は不明だ。そして多くが自殺し、あるいは音信不通となり消息が途絶えるのだそうだ。


 ――最初にクラシキエマと接触したこの医者が、作田教授です。

 作田教授は、放逐された義父の前妻が家そのものを呪って死に、その呪いが具現化した存在がクラシキエマだと考えていたようです。作田教授の手記のスキャンデータが添付されたメールが、死後、同僚や教え子の元に届いたという怪談も聞きましたが、それも事実です。僕も実際に読みました。その手記には作田教授が義父の前妻を弔い直したことや、あらゆる寺社仏閣、宗教を頼ったことが記されていました。

 しかし、こういった先生のご尽力は実らないまま、この怪異がいまだにあり続けているということは否定できません。

 作田教授は本業の傍ら、同様の怪異譚がよその病院や地域でないかも調べていたようです。それによれば、不退土記(ふたいどき、と読むのだと思います)という甲信地方の説話集に、類話らしきものがあったそうです。

 作田先生の手記には、この説話集の一説が手書きで残されていました。写真を添付します。


「十月十日の間、自分の血液を染み込ませ続けた木片を体に入れることで肉塊を孕む呪詛を実践した醜女がいた。この女は若い時分は大層美しく、亭主を早くに亡くしてもどこかの男と通じているのか子をよく産んだ。しかしこの女の子供は生まれてもすぐ死んでしまい、そのことを悲しみもしないものだからみなは女が子を間引いているのだと不気味がっていた。

 まさか罰でも下ったのであろうか。女はある日を境に体が膨れ上がる病に侵され、見るも無残な姿になった。人々は女を恐れて交流を断つ。食うにも困る女の様子ではもう長くはもつまいと誰もが思い、女から病をもらわぬようにと家の戸を打ちつけてしまった。

 しかし女はいつまでも死なない。家からは常に女の恨み節が聞こえ、それはやがて赤子の声に変わった。人々が戸を破ると女は死に絶え、その傍らにはおぞましい血肉の塊が蠢いていた。

 女が産んだのは人間とは思えぬ肉の塊であったが口を持ち、意思を持ち、言葉を話し、母である醜女を食って消えてしまった。その十数年後、美しい娘が集落にやってきた。娘と番になろうとした男は腹が膨らんで死に、娘を嘲った女は不幸になり、醜女のいた村から人が消えた」


 ■ ■ ■ ■


 起訴の宣告は思っていたよりあっさりとしていた。

 椎名から受け取った手紙の中身について問われることもなく、淡々と日々が過ぎた。体調は日に日に悪くなっていくが、検査で分かることは微熱程度なもので、食欲不振や気だるさはどうにでも誤魔化せた。吐き気だけは抑えられないが、服用している精神安定剤の副作用のせいだと言い張った。

 ――父の自殺を聞いたのは、椎名と面会した翌日だった。川に飛び込んで、そのまま亡くなったそうだ。

 母からは相変わらずコンタクトがない。父が死んだ以上、あの弁護士が自分の弁護を引き受け続ける理由もないので、降りられるのも時間の問題だろうと思っている。国選でもなんでもいい。裁判では間違いなく有罪だし、減刑も控訴も懇願する気はない。何もかも早く終わればいいと思うばかりだ。独房にいるときはずっと、服の裾を引っ張っては爪を立てて遊んでいる。

 二度目の面会にやって来た椎名は、憔悴して見えた。父が死んだことを悲しんでくれているようだった。あんな男のことを慕ってくれてありがとうと、彩里は涙がにじみかける。


 真優ちゃんも、お腹の子もそのまま放置して自分だけ死ぬなんて。


 そう言いかけてやめた。椎名には酷な罵声だと思った。父のことにはあえて触れず、「手紙のことだけど」と、彩里は話しかけた。椎名は暗い顔で頷く。


「そういう話をお姉ちゃんから聞いたことはないよ。でも、先生が言いたいことは分かる。お姉ちゃんは人間じゃなかったのかもしれない。昔から、人間として大事な何かが欠けている存在だった。だけど、お姉ちゃんは確かに人間として生きていた。お姉ちゃんが呪いの塊そのもの――クラシキエマという化け物と同じ存在だったのなら、あんな死に方はきっとしない。人を一方的に呪いの渦に巻き込んで、ひっそりと消えていけばいい。ずっと傍で見ていたから分かる、お姉ちゃんは苦しんで、絶望しながら死んだ。人間として死んだの」


 彩里は目を伏せた。瞼の内側に広がる薄暗い闇は、記憶にない母胎をなぜか彷彿とさせた。時折身を翻し、丸く微睡む影が一つある。その愛しい影を覆う肉塊が見えた。へその緒が巻き取られ、影は誰にも気づかれず、自覚もないまま心臓が止まる。その小さな影の亡骸と肉塊が一つになる。産まれたがっている肉塊が、人の形を取る。彩里の姉が、密やかに、たしかに、母の腹の中で息づいていく。

 私は空っぽ――そう酷薄に微笑んでいた姉の言葉が、別の意味を伴って彩里の体を冷やしていく。蝶よ花よと育てられた美しい人形。その肉体すら、本当は存在しなかったのだとしたら、それはまさに空っぽな命だ。母の腹には最初から一人しかいなかった、だけど入り込んではいけない何かが宿って、人の皮を被って産まれてきた。彩里には確信めいた推測があった。言葉を濁したままの椎名もそう思っているはずだ。

だとしても、友里の死にざまを考えると、彼女が化け物そのものであったとは信じたくなかった。もし化け物と自覚して生きていたら――その悪意に晒されていたのは、姉の御眼鏡に適った「特別」だけではなく、姉とすれ違った全ての人間が人知を超えた災禍に呑まれていただろう。

 倫理観に乏しく、犯罪に加担し、実父と親友の不倫を許容するどころか無理やり「家族」の枠組みに入れようとした異常者の本性を知って尚、思い出すのは、死の間際の落ちぶれた姿でも、無惨に血を滴らせ頭蓋を陥没させた死体でもなく、飄々としていてそれでいて愛くるしく、無邪気に「彩里」と呼びかけてくる友里の姿だった。


「私はお姉ちゃんが呪いの仕掛け人で、全部、真優ちゃんを苦しませるためにやったんだと思っていた。そう思うように誘導されていたのかもしれない」


 誰に、とは言わずとも椎名は分かった様子だった。暗い目が彩里を映す。


「だけど、お姉ちゃんは人を呪ったり妬んだりしない。そういう人間らしい心はあの人にはなかった。怖いくらい純粋に、お姉ちゃんは自分と同じ存在を求めて、悪意を悪意とも思わずに人を壊す。呪いなんて関係ない。だから、お姉ちゃんがクラシキエマに似ていたというのもただの偶然だし、私が目にしていたエマという存在はただの妄想、呪いじみた不可解な不審死は続いたけれど、不健全な大学生たちの自業自得」


 そういうことにした方がいいのだと、言外に含ませる。椎名は唇を咬んだ。悔しそうな顔をしているのが少しだけおかしくて、彩里は口角を上げた。彼のそんな顔を見るのは初めてだった。本気で怪異を信じ、そのせいで事件が起きて、彩里は被害者だと思ってくれている。そう感じると、今までの孤独感も吹き飛ぶようだ。

 まさか、怪異の実在を証明すれば――あるいは、彩里がそういう証言をし直すことで精神鑑定に持ち込めれば、と弁護士でもないのに考えているのだろうか。くく、と押し殺し損ねた笑い声が零れた。椎名が乾いた声を出す。


「通常では考えられないことがいくつも起きているんだよ。きみも、被害者だ」


 言われても、彩里の血潮はまるで騒がなかった。見聞きし、経験してきた尋常でない人間たちの有様が脳裏に浮かんでは消えた。


「それでも、やったことは消えてなくならない。私がしたことも、お姉ちゃんがしてきたことも。同じように、生まれてしまった呪いも、なかったことにはできないと思う。だからせめて、私は私のけじめをつけないと」

「……僕は、きみなら絶対に夢を叶えられると思っている。どれだけ時間がかかっても。だから、絶対に――……、僕の時間は無駄にならなかったって、思わせてほしい」


 椎名は俯いた。顔を見られたくないようだった。鼻を啜る音がする。「だから絶対に」と切られた真の言葉の先は、その湿っぽい音が教えてくれる気がした。同時に、彼と初めて会ったとき、学校でも親の前でも見せないような雄弁を振るった自分の幻影が砕けたのを内側で感じた。もう、約束はできなかった。嘘はつきたくなかった。

 まともな人間ではなかった姉にできたことを、まともな人間である自分がやらないわけにはいかない。

 腹を擦ると、その嫌悪感に吐き気が沸いた。椎名を見送るまでは気丈でいたい。その一心で不快感に耐えた。太るはずのない環境下で膨らんできた腹は、指先を跳ね返す弾力に満ちている。


 こうなって、初めて、死んでいった人間たちの心に触れられた気がした。


 これは、産んではならない。そう思わせる何かと、彼らはずっと戦っていたのだ。


 そのためにみんな死んできた。産まないために。


 産んだらどうなるのか、と、真優の震えた声が甦る。穢れは広がり、呪いが繰り返されるのだ。人間の営みを阻害するように、あるいは、生命を嘲笑うように。呪いを産み増やすだけの胎となる。そんな直感があった。もし神がいるのであれば、この天啓めいた恐怖と忌避感こそが唯一の慈悲であり救いなのかもしれない。人間として許された尊厳を守り抜くためにすべきことを教えてくれている。

 椎名を見送り、自分も席を立った時、アクリル板が反射した。その一瞬の煌めきの後、去っていく椎名の真横に人影が見えた。彩里は、動揺は一つも見せなかった。もう何度も見ている幻影だ。自分が無事に同胞を生んでくれるか見守るつもりらしいが、思惑通りにはさせない。そのために罪を全て認め、精神鑑定を避けたのだ。完全な監視下では死ぬことすらできない。


 お姉ちゃん、と心の中で呟きながら面会室を後にする。


 ――ならせめて、人の迷惑にならないようにちゃんと死んでいってよ。


 かつて友里に向けた刺々しい言葉が内側に響いた。姉は、彩里の願いを叶えてくれた。空っぽだった彼女が飛び降りた意味が、今なら分かる。あの姉にも、罪の意識と恐怖はあったのだ。これを産んだらどうなるのかという、根源的な恐れがあったのだ。姉の自死こそが、彼女の人間性を証明したのはなんとも皮肉に思えた。

 自分を幻惑してくるクラシキエマの影は、もう、記憶の中の姉と重なることはなかった。独房で一人、彩里は静かに服の裾に爪を立てる。細長く割いて、紐を作るために。その横で、黒い髪がさらさら揺れている。


「ただ、生んでほしいだけなのに」


 何も映さない真っ黒な目が、残念そうに細められた。           

                                    終



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呪胎告死 有紀穂高 @yukihotaka

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