5章 なにがいる ②

 本格的な精神鑑定が始まれば、二、三カ月は徹底的な監視と管理下に置かれ、外部の誰とも連絡を取ることができない。だから、拘留期間終了間際に「起訴が決まった」と告げられたとき、彩里はどこかほっとしていた。この一カ月近くに亘る拘留期間中に彼女へ会いに来たのは「父親の代理人兼自分の弁護士」だと言う例の部活の後輩だけだ。病院に閉じこめられたところで誰と交流するのだと自嘲しても尚、「誰とも会えない」という強迫観念にも似た孤独感が彩里を悩ませていたのだった。


 事件から一カ月も経過するというのに、体感する時間は停滞したままだ。あらゆる事象が昨日のことのように思えた。おかげでぽっかり空いた穴が塞ぐこともない。

 入れ替わり立ち代わり、老若男女数多くの刑事から聴取を受けた。同じ質問を何度もされた。ニュアンスや順番に差異を設けられながらも、中身は変わらない。拘留されて数日の間は、彩里はひたすら自分の罪を否定し続けた。津村真優は妊娠などしていないと言い張り、自分が殺そうとしたのは彼女の腹にいる化け物なのだと、言っている傍から矛盾している言動を己で糺すこともできないままだった。精神疾患を疑われてもおかしくない有り様だったと、振り返ると眼の裏側がひどく痛んだ。


 彩里が正気を取り戻していく過程は、彼女自身より対峙していた刑事や、こっそり観察していた精神科医の方が鮮明だったことだろう。


 まず、津村真優は本当に妊娠していた。この事実を受け容れることが最も時間がかかった。彼女の言葉が正しいとすると、その腹の子の父親は彩里の父であり、不義の子は事実として彩里の異母兄弟だ。真優が呪われている、忌むべき存在を産ませてはならない、という不断の決意の元に凶行へ走ったというのに、最初から無意味なことで、いたずらに彼女たち母児を危険に晒した蛮行を認める――しかも父親の不倫、それも娘の親友――かつてトラブルを抱えていがみ合った仲――思考にノイズが走る。

 津村真優から許諾を得て、証拠として提出された白黒のエコー写真は説明されても人間の形には到底見えない。ロールシャッハ検査の一種にしか思えなかった。そのあと、生々しい父親とのやり取りの履歴や、母子手帳、妊婦健診の結果まで見せられて、その暴力的なまでの事実に、ついに彩里は根を上げた。


「もう十分分かりました」


 根幹となる事実認識の相違が正されると、今度は事件についての聴取が本格的に始まった。理由の誤認はあれども、計画的に津村真優を襲った事実は変わらない。

 母児二名への殺意に関しては、弁護士が「胎児のみに焦点を当てよう」と言っていたが、同じ体であって二つの命に変わりないのにと彩里は気落ちするばかりだった。出生していない胎児への殺意は「殺人未遂」ではなく「不同意堕胎罪」というものに変わるらしい。殺人未遂の方が量刑は重いようだ。産まれなければ人ではないというのがこの世の解釈ならば、産ませないためにナイフを握った自分が、その法律によって量刑の程度に差をつけてもらうというのは実に皮肉だと思った。この時点で、彩里にも弁護士にも無罪放免を願う気はさらさらなかった。


「計画に関して、誰かにやり方を教わった?」


 そう尋ねてきたのは官野だった。不思議と顔見知りの刑事というだけで、彼の言葉は他の誰のものよりすんなり咀嚼できた。


「恵真さんに――教えてもらったというか、こういうやり方しかないって言われて。でも実際に色々準備をして、真優ちゃんを呼び出して、薬を盛ったのも私だけで……恵真さんは」


 最後の最後で自分を裏切って通報した彼女が今どうしているのか、誰も教えてくれない。なんらかの罪には問われるだろうが、自白や出頭は減刑の対象になるのだったか。裏切られた失意と憎悪の気持ちは今や薄れ、彼女を庇う口ぶりは自然なものだった。彩里が躊躇うように言葉を切ったのを静かに受け入れ、官野はパイプ椅子をぎしりと鳴らす。


「その人とはどんな関係?」

「一年ほど前から私の家庭教師です。父の紹介で……I大学の医学部四年生です」

「他は?」

「長野県出身で、母子家庭で、頼れる親戚もなく生活に苦労したと聞いています。それでもストレートで医学部に合格して、尊敬していました。いつも優しかったし、成績が落ちかけたときも励ましてくれて、私にとってはもう一人の……」

「もう一人の?」

「……姉みたいな……あれ……でも……男女が二人きりになるのは駄目だからって」


 脳内で風船が割れる音がした。恵真のことを思い出していたはずなのに、その無感情な微笑みはいつの間にか姉の能面に変わっていた。

 もはやこの回想が恵真なのか姉なのか分からなくなると、大人しくしていられずに、「あ」と体が持ち上がる。がたんとテーブルが揺れた。


「落ち着いて。姉ということは女性? きみの家庭教師は女性だった、もしくは女性のような見た目をしていた?」


 官野の眼差しは針のように彩里を刺した。違う、違います。首を振るうちに興奮してきて、聴取は一端中止になった。精神科医との面談という名目で行われたケアの後、彩里は朱色に腫れた目元と鼻先を隠しながら嗚咽し、この数カ月をゆっくりと、染み渡らせるように髪を掻いた。

 恵真という人間は、記録上、どこにも存在しなかった。

 現に警察が突入したとき、実家のシアタールームにいた人間は彩里を含めて三人だけ。通報者、被害者、被疑者。通報者は男性で、彼の証言によれば他には誰もいなかった。「そんなわけない」と言いながらも、彩里は頭の隅では諦観していた。


「何度も家に来てくれて」――だが、解析されたインターホンの記録に彩里が語るような風貌の女性が映ったことはなかった。不思議なことにチャイムの音と、彩里が応答する場面だけが残っていた。


「いつも差し入れを持ってきてくれたんです」


 彼女が差し入れしてくれた食料品は口にしてしまったので形跡がない。だが冷蔵庫の奥のぜんざいは確かに恵真からもらったという記憶があって、官野に伝えた。後日、押収された「プラ容器」の中身は、科学分析の結果「不特定多数の人間の体液が凝固・腐敗したもの」とされた。遺伝子検査で特定できた「体液」の持ち主の一人は柊友里と断定されたが、あとは不明だ。容器からは、彩里の指紋しか検出できなかった。今まで、自分が口にしたものを思い出して彩里は吐いた。刑事たちの目の前で醜態をさらし続けた。自分の目には至って普通のケーキやフルーツにしか見えなかったし、食べたときだって妙だとは思わなかった。「差し入れ」自体が幻想だったのか、それとも、冷蔵庫に眠っていた「汚物」を汚物と思わず食っていたのか――。前者であればと願いつつ、彩里の食道は胃酸で荒れ、まともに食べられなくなった。


「I大学の防カメを解析しました。結論から言うと、あなたが一人で正門を潜り、旧研究棟と呼ばれる校舎へ入って行く姿が記録されていました。あなたが入室し、エマという人物と計画を練ったという部屋、地下の教室だけど、どこも鍵がかかっていて学生課の許可がないと入れないようになっているそうです。当然、あなたには入れないし、その日に地下の教室の利用を申請した人間はいない。あなたの証言にある『エマ』の痕跡は、私たちには見つけられなかった」


 官野と交代した女の刑事が、努めて温和な、それでいて憐憫に満ちたどことなく不快な眼差しを向けてきた。彩里は項垂れることしかできなかった。


「全て、私の意思でやりました。姉の自殺のことで津村真優と言い合いになり、彼女への報復をするために家へ呼び出しました。父親と不倫していることをほのめかされ、かっとなって刺しました。赤ちゃん共々、死んでしまえばいいと思いました」


 その自白は、反省と謝罪の涙より簡単に舌先を伝った。

 エマという存在は、実姉を失ったショックと学校でのいじめによるストレスで柊彩里が一時的に生み出した妄想。本人も妄想であることを認め、自身の責任で犯行に及んだと自白している。そういうことだと医者には診断されたし、そういうことにした方がいいということは、今の彩里にも分かっていた。

 起訴を目前に控えたある日、面会に来たのは男だった。父親ではないことにほっとした。顔を見たらどんな暴言を吐くか分からない。刑務官に無駄に叱咤されるだけだ。


「……痩せたね」


 開口一番に眉を下げた男に、彩里は緊張が溶けていくのを感じた。


「……来てくれてありがとう、椎名先生」


 清潔感のある黒い短髪に、奥二重の双眸が朗らかな青年像を引き立てる。この青年、椎名こそが、彩里の家庭教師だった。シアタールームで彩里の凶行を止めた張本人だ。彼と過ごした時間、交わした言葉の全てが「エマ」の幻影と入れ替わっているものではないが、エマのことを「先生」だと誤認していたときはこの青年の顔をまるで思い出さなかった。そのことに罪悪感を抱いて、彩里は椎名から目を逸らす。

 恐らく警察から一連の事情は聞いているのだろう。目を逸らした彩里に、椎名はしばし沈黙した。「エマ」という妄想存在を家庭教師と混同誤認していたなんて不気味に思っているに違いない。彩里は自嘲を浮かべる気力もなく、「ごめんなさい」と自分でも不透明な謝罪を口にした。


「謝らないといけないのは僕の方だ。きみの異変に気づきながら、ただの家庭教師としてしか接してあげられなかった。こんな言い訳を並べて情けないんだけど、お母さんの目が怖くて……最初から、男の僕がきみの家庭教師をやることに納得していなかったようだったし、悩みを聞くにも僕に話すにはセンシティブすぎることだと思っていた。だけど、こんな風にきみと話すことになるのなら、オカルト信奉者だと馬鹿にされてもいいから話しておけばよかった。――お姉さんのこと、クラシキエマのこと」


 刑務官が筆記をやめないまま、咳払いの代わりと言わんばかりに机の脚をわずかに蹴った。会話は全て記録されるがいいのか、と物音で尋ねてきているようだ。彩里はどう反応していいか困り、唇を食んだ。いつの間に「エマ」に苗字らしきものができたのだろうか、どこかで自分が口走ったのだろうか。どんどん不安になっていく。


「柊友里は双子として生まれてくるはずだった」


 唐突な切り出しに思えた。彩里は椎名に上目を向ける。


「母が、父と結婚する前に流産したらしいというのは姉から聞いたことがあります。でも、姉が双子なんて」

「それまでの健診では多胎妊娠と疑う者はいなかった。だけど、妊娠十六周頃に腹部の張りと出血が見られ、お母さんは大学病院で治療を受けることになった。入院中に胎児の心拍が停止した。死産処置の間際、心拍が再確認された。エコーの動画でも心拍停止は確認されていたし、蘇生は考えづらい。医者が出した結論は、実は双胎妊娠で、影がぴたりと重なっていたせいでもう一人が確認できなかった、というものだった。そして、双子の片方が亡くなるというのも双胎妊娠では間々あること。バニシングツインという言葉を聞いたことはないかな、双子の片方がなんらかの要因で死亡すると胎内で吸収され、消失したように見える現象だ。お母さんの体の中でそれが起きた。母児共に経過観察のために入院を続け、その後お姉さんは五体満足で誕生した」


 ――ということになった。


 椎名の含みを持たせる言い方に、彩里はあらかた察しがついてしまった。腑に落ちないことがあったはずだが、自分が「エマ」を妄想として受け入れたのと同じだ。怪異を現実にある事象に置換することで、誰もが口を噤んだのだ。余計な混乱も、戸惑いも、恐れもない。


「死亡胎児の吸収、消失というのは、そんなにすぐ起きるものなんですか?」


 その問いかけに、椎名は無言だった。色のない面会室はひたすら冷たく、一瞬の沈黙すら永久の拷問に感じた。もはや自分から声を出すのも憚られる心持ちだったが、続きをしようと言わんばかりに椎名が大判の写真をアクリル越しに貼りつけてきた。

白衣を着た若者たちと、丸い眼鏡に坊主頭が印象的な、医者と言うよりと和尚といった風体の男性が笑顔で映っている。色合いと画質に鮮度がない。


「これは一九七〇年代に撮影されI大学病院の産科臨床研修の写真だ。この真ん中に映っているのは作田先生といって、I大病院産婦人科で長らくご活躍された教授で」

「え……待って、それより、これ、この人……」


 作田という医者から左へ視線が動き、時計回りに目玉が一人一人の顔を追いかけていた。ちょうど、一時の方向で視線が縫い止められる。指先がその人物の顔に触れる。アクリル越しでも、たしかに触っていた。


「お姉ちゃん……?」


 髪も黒いし、どこか時代を感じさせる髪型であるし、白く飛んだ肌は若干老けを感じさせたが、人目を惹きつける顔の造形は友里を彷彿とさせた。

 椎名はもう一枚、別の写真をアクリルに張りつけた。両手を張りつける様は間抜けに見えるはずなのに、いやな緊迫感ばかりが室内に満ちていた。


「これは一九九〇年代、やはりI大病院産婦人科臨床研修での写真だ。作田教授は臨床の場を離れ教鞭を執っていたが、この少し前に大学研究棟の地下にある私室でお亡くなりになられているのが発見された。もう分かるよね、この写真の違和感」


 言葉は出ないのに、手だけが動く。どれだけ口周りを触っても、舌は全く仕事をしない。やはり一時の位置に、その女の薄笑いが映っていた。白衣を着て、当たり前のように他の研修生たちと並ぶ様は恐ろしいほど絵画的だ。姉とよく似た相貌でありながら全く雰囲気の違う女は、二枚の写真が並ぶことでその異質さがより際立った。


「僕にこの写真を見せてくれた助教授は、この女を『クラシキエマ』と呼んでいた。I大医学部に代々伝わる怪談だ、学生を脅かすただの作り話だと思っていた。でも写真を見て、僕はこれが嘘だと思えなくなった。そして、柊友里を見て確信した。クラシキエマという怪異存在は、この世に確かにいる。きみが接触していたのは、人の胎に宿った何かを生ませようとする化け物だ」


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