5章 なにがいる ①

 彼女を初めて見たときの衝撃は、忘れられない。それは単純に美人だからとか、そんな理由ではない。同じ顔をしている――何度も忘れてしまおうと思っていた与太話が鮮烈に蘇り、髪の毛一本一本がゆっくり立ち上がるような怖気が走った。


「どーも、せんせ。彩里の姉の友里です」


 家庭教師を務めることになった少女の姉は、恐ろしいほど蠱惑的に微笑んだ。二十歳を迎えたばかりの新鮮な色香を好まぬ男はいないだろうが、彼からすれば既に不気味な存在でしかなく、愛想笑いを浮かべるのに必死だった。

 交通費全支給、食事も用意してもらえる、授業代も相場よりかなり高いが、断ろう。その日は体験授業という名目だったので、後日、都合がつかなくなったことにしようと思った。いくら依頼主が大学OB、世話になっている助教の同窓生とはいえ出身学部も違うし、どう思われようが今後接点もない。それより助教は、家庭教師の相談をされるくらいの距離感にいる友人の娘の顔をまるで知らないのだろうか――この娘の父親は、学部違いとはいえ同じ研究棟を使っていたはずなのに、あの有名な怪談を知らないのだろうか。そもそも、あんな話自体が、自分を脅かすための仕込みだったのだろうか。青年は、もう夜になるというのに挨拶だけして家を出て行った彼女の顔を思い出し続けた。怖気は鳥肌になっていた。

 訊いてもいないのに、依頼主である柊は娘自慢をし出す。大学のミスキャンパスに選ばれたのだそうだ。あの美貌なら納得だ。柊は四十後半と聞いているが、助教に比べるとはるかに細身で、髪も黒々している。娘の話をしていると、さらに十は若く見えた。活き活きしている。溺愛が伝わる。フェイスラインもシャープで、整った容貌であることは否定しようもない。あの美しい娘の父親であるというのは遺伝的に見て妥当に思えたが、似ているかと言われると、青年にはもう素直に頷く余裕がなかった。色褪せた二十数年前の「産婦人科臨床研修」の写真に、当たり前のように映り込んでいた女の顔が浮かぶ。柊の自慢など殆ど頭に入っていなかった。


 これきりにしよう。そう強く決心しながら、リビングで「教え子」を待った。有名な女子高に通っているという柊彩里は、奔放な色香を纏っていた姉に比べるとはるかに地味な少女だった。真面目そうだな、と思うのと同時に、陰気な気配を感じた。それは悪い意味ではなかった。青年も同じ性質だと自負していた。

 彩里は丁寧な物腰の少女だった。初対面だというのに自分に対して最大限の敬意を持ってくれていることは気配で伝わってきたし、I大学医学部を目指す心意気は初見で感じた陰気さを吹き飛ばすものだった。


「無理だとは思っていないので、先生の時間を無駄にはさせません」


 その熱意ある言葉は、高校時代の己と重なるものがあった。三者面談で自分の主張を繰り返す母親の横顔と、困惑する担任の汗の一滴を鮮明に思い出した。

一瞬の感傷が決断を鈍らせる。


 青年は恵まれない家庭に育った。父親は、青年が十歳のときによそへ女を作って家を出て行ったきり養育費も払わず音信不通だ。安月給のサラリーマンが浮気する銭と余暇があったのかと、子供ながらに青年は母の怒りに同調した。自分は自転車すらなく、ゲーム機やタブレットなんて嗜好品は友達の手越しに見つめるばかりだったというのに。周りが遊園地だの海水浴だのキャンプだのと浮かれた計画を話す中、夏休みの間はいつも市立図書館に置き去りにされて、スーパーで半額シールの貼られた総菜パン一つが日々の朝食兼昼食だった。父がいるときからそんな感じだったのだから、父がいなくなったあとなど語るまでもない。

 部活をするにも金がかかる。母親は非正規で毎日昼夜を問わず働いていて、家事は青年の役割となっていたこともあり、中学時代は帰宅部だった。校則では「特別事情のない者は必ずなんらかの部活に所属すること」とあったが、入部しない青年に苦言を呈する教師はおらず、いわゆる「特別事情のあるもの」なのだと察した。四人に一人が離婚するという時代において、三十二人いるクラスメイトの中には自分と同じく片親の生徒なんて他にもいただろうが、部活に入らなかったのは青年だけだった。

 毎日、黙々と予習復習を繰り返し、図書館から借りてきた本を読んで過ごした。成績はいつもよかった。試験で一位以外を取ることはなかった。勉強ばかりしているのだから当然だと周りには揶揄されていた。


 県内一の公立進学校に入学した。塾代がかからなかったことだけは母に自負できる孝行ポイントだ。高校でも、中学と同じ要領で日々を過ごせばトップでいられると思った。だが、周りのレベルの高さに圧倒された。運動部で日々忙しくしている同級生たちは、平気で青年より成績がよかった。決して彼の成績が悪かったわけではない。上位三〇パーセントに食いこんでいれば三年後の国立大進学は手堅いと教師には褒められていたが、そもそも成績が良いか悪いかなど彼の母親には関係なかった。


「息子には就職してもらいたいと思っています。公務員になってほしい」


 一年生のときから親を交えた進路相談がある。母は開口一番に言った。電光石火のような一撃だった。青年も担任も言葉を失った。


「それから、アルバイトの許可をいただきたいのですが」

「しかしお母さん、本校は基本的にアルバイト禁止です」

「うちは生活が厳しいんです。高校なんて本当は近場でよかったのに、中学の担任が是非にと勧めるからこちらを受験しましたが電車代も馬鹿になりません」

「ですが息子さんは将来有望です。本人も進路希望表にはほら、大学進学とあります。地元のS大学なら確実に合格するでしょう」

「大学へやる余裕はうちにはありません。四年間も養う間に私が過労死します」


 冗談ではないところが性質が悪い。西日の差す教室は途端に冷め、担任が青年をちらと見た。助けを乞うているようだった。


「どうせ大学へ行ったところで大した人間にはなれません。大卒だから生活が豊かになる時代じゃないですよね。私もこの子の父親も一応大学は出ましたがそれだけです。出ただけです。自分の奨学金すら返しきれていないのに子供に借りろと? それこそ医者にでもなれるというのなら別ですが」


 その一言で、青年は膝の上に大人しく置いていた手をぐっと握り込んだ。

 自分はあなたたちとは違う。自分たちがうまくいかなかったから子供も当然のようにうまくいくわけがないという、その傲慢な否定が許せなかった。母の苦労は知っているし、父の放蕩は今だって憎いが、それはあなたたちの問題ではないか。青年は自分の出自を知っている。新入社員だった母と指導していた父は間もなく恋仲となり、母は自分を妊娠して結婚して退職した。入社一年未満で専業主婦だ、そりゃあ金がなくて奨学金の返済に苦しむわけだ。何者にもなろうとしなかったのは母であり、父だ。


「なら僕は医学部を目指します。大学へ行きたい。もし三年生になった時点で医学部合格の見込みがないようなら母の望む通り就職します」


 県内トップの進学校とはいえ、国立の医学部に現役で合格できる人間は例年多くて十名前後、その道は困難を極める。それでも無理だとは思わなかった。やってみれば、とせせら笑った母を横目に、青年はひたすら勉強に打ち込んだ。結果、彼は地元の国立大学からさらに難易度の高い東京の大学に進学している。母を見返したいという一心は、いつの間にか、閉塞的な田舎と親元を離れたいという逃避願望へ変わっていた。だが、医学部に入学してからが人生のスタートである。ネガティブな思想から入学したものの、臨床医ではなく研究医として未来の、そして世界の医療のために貢献したいという理想を持って勉学に打ち込んでいた。


 柊彩里は臨床医を夢見ていた――特に、小児科に憧れを持っているらしい。自分とは目指す方向が違うが、未来で人を助ける理想を追いかける者同士、応援したいと思うのは当然の反応だった。だから、たとえ彼女の姉が「例の女」にそっくりであっても、ただの偶然だと飲み込んで家庭教師を引き受けた。

 その結果、こんな無残な終わりを迎えるとは思いもしなかった。

 荒れ果てた部屋に、やつれた男の影がよく映える。だらしない部屋着に無精ひげ、打ち捨てられたいくつもの空き缶が醸す寂寞は定型文のようだが、心に迫る痛みが確かにあった。実年齢を感じさせないスマートな出で立ちが彼の特徴だったのに、と、青年は息を詰めた。

 柊彩里が逮捕されて、あっと言う間に二十日が過ぎた。恐らく無罪放免とはならないだろう。未成年ということを考慮しても、計画性と殺意は連動しているとみなされ、実刑判決が下されるはずだ。


「柊さん。電話も繋がらないので心配しました。鍵もかけないなんて不用心ですよ」


 それをいいことに入り込んだ青年を責めることもなく、柊はよれたシャツで口を拭った。どうやらだいぶアルコールを摂取しているようだ。赤らんだ鼻先と目元が気だるげに横を向く。


「妻は鍵も持たずに出て行った。閉めていたら帰ってきたとき困るだろうと」

「奥さんを気遣う心があるなら、どうしてあんなことしたんですか」


 柊が、いつから空いていたのかも分からぬビールの缶に口をつける。水滴を纏うことのないアルミ缶の表面はすべすべしていて、まずそうに見えた。


「娘の――友里の紹介だと言って、わざわざ私の薬局へ薬を貰いに来たんだ。彼女とは色々あったが、傷つき、苦しんでいる彼女を放っておけなかった。最初はただ薬の効きや副作用の相談を受けて、そのうち、定期的に通ってくれるようになった彼女と親しくなっていった。父親代わりのつもりだった、彼女は親がどうしようもないから」

「娘さんと同じ年の、しかも精神的に弱っていた少女に手を出したあなたもどうしようもない大人だ。僕は、柊さんに本当に感謝していました。好条件で雇ってもらっただけじゃない、一緒に食事をし、悩みに答えてくれて、力強く励ましてくれた。あなたは僕にとっても父親のような存在だった。だからこそ許せない。医療従事者の立場を利用して、あなたは……」


 その先は言葉にならなかった。彼が随分前に「やめた」という煙草を吸い始めたのは一年ほど前だ。金の無駄になるので青年も煙草は嗜まなかったが、柊に勧められると断るのも気が引けて、付き合い程度に彼の煙草を一本もらっていた。父親のように思っていたのは事実だ、だからこそ、彼から差し出された一本の紙煙草に価値を見出していた。だが、それすら「ニオイ」を誤魔化すための狂言だったと思うと失意に似た怒りが滲んだ。自分を利用して煙草を吸う――ニオイを消すために、津村真優との不貞でついた彼女の匂いを悟らせないために。


「津村真優さんは、お腹の子共々、治療に問題ないそうですね。こんなことになった以上、柊さんは責任を取らないといけない」

「知っていたらとっくに中絶させてる!」


 ガラステーブルを力任せに叩いた柊の暴挙で、ひびが入ったのが見えた。アルミ缶が吹き飛び、倒れ、黄色の液体が床に滴る。柊が赤い目を細めて吐き捨てた。


「きみは初老へ説教をしにわざわざ来たのか。路銀の無駄だよ」

「お聞きしたいことがあって来ました。娘さんのことです。柊友里さんのことです」

「今さら何を訊きたいんだい」

「クラシキエマに似ていると思ったことはありませんか」


 その名を口に出した瞬間、柊の顔が強張った。一瞬にして干乾びたように感じた。


「I大医療系学部の間ではかなり有名な怪談……いや、タブーですよね。学籍に存在しないはずの女子学生が当たり前のように臨床研修を受け、誰もその違和感に気づかないまま研修が終わると姿が消える。それも一度や二度じゃない、十数年おきに全く同じ顔の女が研修グループの集合写真に写っているが、誰もその女のことをよく覚えていない。ただ名前だけが伝わっている。その女の名はクラシキエマ。薬学部とはいえ柊さんも聞いたことくらいはあるはずです、旧研究棟地下一階E号室の曰く――部屋で亡くなられていた作田さくた教授が残した手記のことも。僕は友里さんを初めて見たとき、率直に恐怖を抱きました。娘さんが、クラシキエマとされる人物によく似ていたからです」


 青年は柊に反論の隙を与えなかった。


「前に彩里さんから聞いたことがあります。友里さんはI大学病院で産まれたそうですね。奥様は長引く重度のつわりで、柊さんたっての希望だったとか。ですが、重症妊娠悪阻が出産まで続くというのは稀なことです。一時の治療のために入院していたならまだしも、友里さんはI大病院で誕生している。当時、既に産科の年内閉鎖が決まっていて、分娩は原則、I大病院で妊婦健診を受けてきた患者と紹介状のあるハイリスク妊婦に限られていた。いくら柊さんがI大のOBだとしても、母児に危険因子がなければ入院をねじ込むことはできないでしょう。奥様の妊娠中になんらかの異変があり、困難な事象が発生していたのではないですか? だからあなた方は、家の近くの産院ではなく設備も人手も充実していたI大学病院を頼った」


 柊の愚行はいまだ公になっていないが、彼の娘が立て続けに犯罪者の烙印を押されたことは事実として大学関係者に知られている。彼に自分を紹介した助教授ですら友人の皮を脱ぎ捨てるように「子供の育て方が悪いのはあいつら夫婦の人間性のせいだ」と、酒の席で口汚く罵った。若かりし柊が、婚約者を捨てて現在の妻に乗り換えたことも、その決定打となった妻の妊娠と流産についても、青年は助教授から聞いて愕然とした。理知的で、朗らかで、たしかに長女を溺愛しすぎの帰来はあったが、次女に愛情を持っていなかったわけではなく、金も時間も子供のために有意義に使う理想的な男性に見えたのに。よその女と蒸発し、挙句たった独りで県営住宅の廊下で死んでいた父親と同じ――そして彼の妻となった女も、相手がいると知りながら言葉巧みに近づいて肉体で略奪を証明した卑しい存在だ。


 そんな男女は世の中にごまんといるだろう。

 そんな男女を呪い、忌み、妬む人間も、ごまんといるのだ。


「あなたが話さなくても僕は真実を暴きます。それが彩里さんへの贖罪だと思っています。彼女がどうしてこんなことに巻き込まれたのか、あの子は知るべきだ。これから先を生きていくために」


 教え子の異変に気づきながら――いや、初めて柊友里を目にしたときの恐怖をこの身に隠すことで逃れようとしたときから、青年の罪悪感は積まれ続けていた。頭が変だと思われてもいいから言うべきだったのだ。「彼女は本当に人間なのですか」と。


「柊友里は何者ですか」

「……友里は……」


 柊のぼそぼそした声は、かさぶたを掻き潰すところ見るような不快感に塗れていた。


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