4章 なかにいる ③

 彩里は大袈裟な身振りで彼女を迎え入れ、地下室を見せた。天井に設置されたプロジェクターが白塗りの壁に映像を映し、一家を楽しませるという仕事を最後にしたのはいつだろうか。照明の横に無愛想に張りついた機械の下には、ビニールハウスとも呼べぬ代物の簡易テントが張られている。


「よく一人でここまでできたね。さすが彩里ちゃんだ。私の期待に応えてくれる」


 恵真が手放しで褒めてくる。彩里ははにかんだ。

 文字通り彼女は手ぶらで、彩里は思わず「今日は何もないんだね」と言ってしまった。ただの恵真として現れるとき、彼女は必ず差し入れを持って来ていた。その心遣いにいつも救われていた。自分を見てくれていると感じたから。友里がいなくなった隙間を、この人だけが埋めてくれる気がした。


「あ、いや、ほしいとかそういうのじゃなくて」と、彩里は慌てる。恵真は涼しげな顔つきのまま、「もう必要ないから」と彩里を見ずに言った。かと思えば、惑わすような眼差しを向けてきて「好きな人には自分と同じになってほしいものだからね」と囁く。彩里は愛想笑いを浮かべたまま固まった。恵真の名を呼ぶ声が掠れる。


「お姉ちゃんと似たようなこと言うんだね」


 好きだと言われたことの高揚感より、奇妙な憧憬が皮膚の下を這う。空虚でありながら底知れぬ笑顔を浮かべていた姉と、目の前の人物の面影が重なる。錯覚に過ぎないと言い聞かせても、もう恵真の顔は友里にしか見えない。


「普遍的な欲求だよ。生物として誕生したものの本質は増殖と生存、同胞を求めるのは当たり前。そう考えると、呪いが連鎖するのも道理かもしれないね」

「道理って、それじゃまるで、呪い自体が生き物みたいな言い方だ」


 せせら笑ったつもりだったが、声音に覇気はなかった。恵真の方がよほど邪悪な笑みを称えている。「だって生まれようとするのなら生き物でしょう」と聞こえた。彼女の唇が動いたか、彩里は認識できなかった。幻聴かもしれない。いまだ忘れることのない姉の声がびたりと耳殻を覆っている。


「人の怨念によって生み出された呪いがお腹に宿る」――する、と恵真の生気のない手が彩里の下腹部を撫でた。「呪いの存在を認識できるのは呪われた人間だけ。それってつまり、究極の母性の体現じゃない? 性別も常識も超えた命のやり取り」


 恵真の手を振り払うことができない。腹を撫でられると体温が下がる気がする。


「呪いをかけた人間と、呪いを腹に宿した人間、どちらがこの呪いの親だと思う?」


 擦られ続ける下腹部は内臓を揺らすようで、強烈な吐き気を彩里にもたらした。答えたつもりはなかったのに、「彩里ちゃんはそう思うんだね」と恵真が笑う。


「あらゆる面で思想と意図が合致する親子もいれば、反発し合う親子もいる。彩里ちゃんなら分かるよね。この呪いの塊もそうかもしれない。たとえ母体を呪うためだけに生み出されたとしても、願われて生み出され、人の体に宿ったからには生まれたい、増えたい。だけど多くの『母』が、子の意思に反して死を選ぶ。ちゃんと生まれるためには何が必要なんだろうね?」


 環境だ。彩里は唇を僅かに動かす。

 自分が排除されないことが第一の優先。第二に「母」が死なないことが肝要となる。だが、「母たち」は死んだ。膨れていく腹とその中身を拒絶して死んだ。しかし、産む気のある「母」に宿ったのなら、もしくは「死ねない」状態になったのなら。呪いを孕んだ胎は、その役目を全うしてくれるのではないか。自分の体に見えない糸が無数に巻きつけられているのを想像し、彩里は震えた。


「人間から、人間じゃないものが産まれるわけない」


 気丈に言ってみても、「どうして?」と恵真が酷薄に笑うと虚勢は一瞬で瓦解した。脳裏には、想像するしかない藤崎サヤカの最期がよぎり、確かに鼓膜を震わせた何かの泣き声が蘇る。血だらけとなった藤崎邸で、何かが生まれた。

 恵真の手が自分の腹部から離れていく。全身に汗をかいているのを、彩里は初めて実感した。やけに肌が冷たく感じるのは、汗のしみ込んだ衣服のせいだ。


「呪いが実在するなら、呪われた人間から生まれた命もあるだろうね。津村真優のように、どんな子であっても渇望する人間や、誰にも相談せず死ぬ勇気も持たないまま生んでしまった人間が必ずいる。そうやって呪いは増殖する……いや、してきた。お姉さんも含め、死んでいった人間たちは呪いの母になるには見込み違いだったようだね。人から呪われるようなことを平気でしていたのに、自死を選ぶ理性はあった。でも、これから彩里ちゃんが会う子は、呪いからしたら理想の母だね」


 汗ばんだ衣服のべたつきに似た、心地の悪い沈黙が広がる。「お客さんだよ」と、恵真が微笑まなければ時間が止まったままだっただろう。そんなぼんやりしたままで彼女に相対して話ができるのか、不安が走った膝が一瞬、揺れた。しかし、そんな情けない関節を矯正するように、恵真の囁きが脳髄を痺れさせる。


「大丈夫、私が傍にいるからね。彩里ちゃんは彩里ちゃんにしかできないことをするんだよ。お姉さんの遺した呪いをこの世からなくすために、広めないために」


 背中を押されて、玄関へ向かった。

 土曜日、人手不足解消のために父は一日、経営している薬局にいる。母も洋裁教室の講義が詰まっている。少なくとも夕方六時までは彩里一人――つまりそれまでに片をつけねばならない。

 玄関を開けると、サマーニット姿の津村真優が、帽子とマスクで顔を隠しながら立っていた。今日も彼女は「おくるみ」は抱いていない。ただ、背負ったリュックは大きく、その中に大事な人形をしまっているのだろうとは思った。常に赤子人形を抱かずとも平静でいられるほど立ち直った、あるいは、別の依存先を見出したか。彩里の視線は、自然と彼女の腹部に向けられた。ニットの皺が膨らみを誤魔化している。


「真優ちゃん、来てくれてありがとう。この前は本当にごめんなさい、私、どうかしていた。友達があんな風に体調悪くなって、気が動転していたんだと思う」


 玄関の向こうの熱が、室内の冷房とぶつかって潮目を起こしている気がした。黒い流れは内側へ、白い流れは外側へ。鳥の鳴き声すら途絶えた一瞬、あるはずのない生臭い潮の臭いを感じた。


「……あの友達は、あれからどうなったの」


 玄関の境界をなかなか踏み越えないまま、真優が尋ねてくる。その問答の時間すら惜しく感じたが、彩里は顔には出さないで質問にだけ答えた。


「ちゃんと病院で処置してもらったみたい。だから大丈夫。ありがとう」


 真っ赤な嘘だが、真優がマスク越しに顔の緊張を和らげたのが雰囲気から分かった。


「暑いから、入って」


 すかさず促す。真優の平坦な足底が、ためらいがちに玄関を蹴った。ばたんと玄関ドアが音を立てる。玄関のサイドボードの上に飾られた家族写真が微かに揺れて、真優の視線がそこに吸い寄せられていく。


「可愛いでしょ、その写真、ぽんずを飼い始めた日の写真」


 真優がその写真を見ていようがいまいが関係なかった。彩里の一言で彼女の視線は誘導され、思考は固定される。彩里が十歳の時だ。友里に請われて購入したぽんずは、白くて小さな愛らしい毛玉だった。


「……ごめん、うちの親のせいで……」

「ううん、いいの、気にしないで、真優ちゃんのせいじゃないから。中に入って、お茶でも飲んでよ」

「いや、お構いなく……。友里の遺品だけ見たら帰るよ」

「そう言わず、少しだけ。ね、いいでしょ」


 甘えるように真優の腕を引っ張った。姉の面影を重ねるには貧相な見た目だろうが、仕草、声音、口調、雰囲気、それを似せることは彩里には難しいことではなかった。真優は「ううん」と、困惑したような声を出したが、結局、彩里についてリビングに入った。そわそわしていてやけに落ち着かない態度で、彩里とは違った意味で体が浮いて見えた。


「今日は、お母さんは、仕事?」

「うん、両親とも仕事でいないよ。だからそんなにビクビクしないでも大丈夫」


 そう言いながら、グラスに赤い液体を注ぐ。元気が出るビタミンカラーに少量の悪意を混ぜたようなマゼンダのお茶は、酸味を五感に訴えかけてくる。差し出された赤いお茶に、帽子とマスクを取った真優が気遣わしげに言った。


「えと、これ、ジュース?」

「ううん、ローズヒップティーだよ。お姉ちゃんがはまっていて、うちにティーバッグがたくさんあってね。飲んでみると意外に癖になって、今は私が飲んでるの」


 隠し持っていたハルシオンは、父のコレクションから拝借した蒸留酒と一緒に、濃く抽出したローズヒップティーに混ぜた。サイレースが含有されているため、ハルシオンをアルコールに溶かすと液体が蒼海色に変化する。それを誤魔化すためにローズヒップティーに混ぜた。濃い青と濃い赤がぶつかって紫色になったらどうしようかと思ったが、赤が勝った。匂いも味も色も強いので自然と飲んでくれる保証はないが、「妊娠中に飲むといい」とでも言って勧めれば、今の真優なら口にすると踏んでいた。実際、彼女はその液体を口にした。マスクの下は薄ら化粧で彩られ、潤んだリップが赤い水を啜るのを彩里は凝視した。目論み通り事が運ぶことを祈るばかりだ。

彩里の視線に気づいた真優は、苦笑いを浮かべた。


「すごい味だね、これ……健康に良さそうな気はするけど」

「ローズヒップティーは美容にもいいんだよ。メラニンの生成を抑えるから美肌効果があるし、ホルモンバランスを整えるビタミンも豊富に含まれているから」


 そうなんだ、と真優が相槌を打った。グラスの半分ほど嚥下されているが、お茶で希釈されていることも考えれば一杯は確実に摂取させておきたい。何か茶菓子でも、と思って腰を浮かせる。そうだ、ぜんざい――


 冷蔵庫の奥に、ビニール袋に閉じ込められた形でしまわれていたぜんざいの容器は、赤茶色に変色している。ぜんざいって、こんな色だったっけ。カップを外して小皿に移し替えると、鉄臭いような刺激臭がして手が止まった。どろりとスプーンから落ちるぜんざいだったものをしばらく見つめる。これを人に出していいわけがないと言い聞かせないとならない自分に慄いた。


「彩里ちゃん、あの、本当にいいから。用件だけ済ませて、私は帰るから」


 急かすような言葉に振り返る。真優はマスクをつけ、あからさまに交流を断とうとしていた。「じゃあそれだけ飲んで行って」と抑揚なくお願いすると、姉の親友は言葉に詰まりながらもマスクをずらし、もう半分の液体も飲み干した。

 地下にシアタールームがあって、そこに友里の私物を一時保管しているという話をすると、真優はあからさまに顔を顰めた。


「知らなかった? 地下のシアタールーム」

「……いや、うん、まあ、そんなに遊びに来たことないし。なんでそんなとこに」

「警察がお姉ちゃんの部屋を調査って名目で荒らすから、紛失防止に」

「まだ警察が来てるの?」

「死んでいても罪は残るからね」


 適当な作り話だ。真優は押し黙った。一見すれば物置にしか見えない階段下のドアを捻る。ひゅおお、と空気の流れが音を立てた。地下へと伸びる階段はフットランプに照らされて影を作り、手招きしてくる。真優は驚くこともなく、静かに彩里の後ろをついてきた。手すりに掴まりながらゆっくりと降りてくる真優を背負ったまま、彩里は「そう言えば」と、なんてことのないとばかりに口にする。


「相手のことは、お姉ちゃんも知っていたの?」


 脈絡のない言葉だったが、真優が息を呑んだのが分かった。


「お姉ちゃんのことだから、絶対に聞き出したと思うけど」

「……友里が何も言っていないなら、私だって言わないよ」

「そう、まあ別にいいけど。最後の段差、大きいから気をつけてね」


 地下室は間接照明しかつかない。薄暗さの中にてらてら光るビニールテントは、波打ち際に溜まる夜光虫じみている。「え、待って待って、何それ」真優の足取りが止まる。彩里はその一瞬の戸惑いを見逃さず、閃光じみた即断の元に手を伸ばした。

 真優の腕を力任せに引っ張った。抵抗されるが、階段の段差が幸いしてか彼女はバランスを崩す。その隙に彼女と前後を入れ替えて、腕を離した反動で彼女を突き飛ばした。お腹を庇う動作をした真優は、背負ったままだったリュックをクッションにする形で尻もちをつく。薄暗い室内に鬼の形相がぬらりと浮かんだ。


「ふざけんな! いきなり何を――」


 だが、その威勢もすぐさま恐怖で弾け飛ぶ。部屋着のポケットに忍ばせていた折りたたみナイフが、真優の顎先に食いこむ。荒い息がマスク越しに伝わってきた。マスクのゴム紐を刃先に引っかけると、ぷつんと音がして彼女の口元が露わになった。薄っぺらい不織布一枚を剥がされただけで、現代人の防御力は著しく落ちる気がする。そこにチタンの無機質な光が差せば、人から正常な判断を奪うのは容易い。


「待って、うそ、な、なんで、私が」

「私の言うこと聞いて。真優ちゃんがさっき飲んだ飲み物には睡眠薬とアルコールが混ぜてあったから、そのうち意識が飛ぶ。動かす手間があるから、自分でこのビニールテントの中に入って」

「なんでっ……ううう、酷い、こんな……嘘だったんだ! 友里の遺品なんて」


 キンキン響く真優の絶叫が耳に痛い。ナイフを首筋に沿わせると、その冷気に彼女が身を竦めた。鳥肌も産毛も全身に立っていることだろう。「早く動いて」と感情を込めずに再度指示をする。リュックをおろさせると、彼女の動揺はさらに増した。


「人形なんか今さらどうでもいいでしょう」


 と、ナイフの柄で彼女の腹部を突く。泣きじゃくりながら、真優は夜光虫に呑まれるようにビニールテントの中に入るべく、膝を曲げた。狭いテント内部に嗚咽が乱反射して、次第に彼女の泣き声が「んぎゃあんぎゃあ」と聞こえるようになると、彩里の前頭葉に亀裂が走った。


「うるさい!」


 怒鳴られた真優はますますしゃくりあげる。二十一歳にもなってみっともないと彩里は詰る。わんわん泣けば誰か助けてくれると思うな、面倒を見てもらえると思うな。赤子じゃあるまいし。山なりに釣り上がる彩里の肩に、体温のない手が触れた。


「落ち着いて彩里ちゃん。冷静に、まずは説得をするんでしょ」


 恵真の囁きに、彩里の血走った目が僅かに理性を取り戻す。真優の涙が充満している温い空気を深く吸うと、塩辛さに咽る気がした。


「真優ちゃんのお腹にいるのは呪いの子供なの。この世に産まれてはいけない」

「もうやめてよ……、わたしにどうしろっていうの」

「殺すの。その呪いの塊を殺すために禊を受けて。穢れてるんだよ真優ちゃんは。そんな邪悪を産んだら穢れが広まるし、お姉ちゃんの罪をこれ以上重ねさせたくない」


 真優が嗚咽を失った。自身の腹を庇うように背中を丸める。床に敷いたビニールがぎちぎち奇妙な音を立てた。真優が爪を立てているのだ。


「邪悪って……なに、何が邪悪なの。産んだらどうなるの」


 唸るような声が足下から這い上がってくる。

まだ彼女の心が折れていないことに、彩里は片眉をぴくりと動かした。


「呪いのせいでみんな死んでるんだよ。このまま産んでも真優ちゃんも危ない、藤崎さんみたいにその腹の中の何かに殺されるかも」

「藤崎……? 誰、それ、知らないよそんなの。他人が死んだくらいで我が子を殺すなんてするわけないでしょ、自分で殺すくらいなら子供に殺されたっていいよ、もう自分の子供が死んだところなんて見たくない」

「真優ちゃんは呪われてるんだよ!?」

「呪いって、そんなの生まれたときからずっとそうだよ!」


 真優が叫んだ。切迫した響きだったのに、どこか舌足らずな絶叫は妙に耳に残った。薬が効き始めているのかもしれない。ナイフを前にしているせいもあるだろうが動きも鈍重だ。だが、その怒りに燃えた視線だけは彩里を見上げていた。


「小さい頃に親が離婚して、母親は男にだらしなくてとっかえひっかえ。母親の彼氏に媚びてご飯食べさせてもらって、好きでもないのに懐くふりをする屈辱を感じたことあんたにはないでしょう!? 弟ができたとき、母親はすごく喜んでた、これで再婚できるって。再婚相手の男、小学生だった私の風呂場を覗く変態野郎だったけど我慢した。だけどそれが母親に知られて、最初に言われた一言分かる? 『お前が色気づくから』だよ。何もしてないのに、ただ生きているだけなのに! 弟の発達に問題があるって分かった途端に男と母親は喧嘩するようになった、誰のせいだお前のせいだ離婚だなんだ。挙句に母親まで私に弟の世話を言いつけて家に帰ってこなくなった。着る服にも困る、食べるものにも困る、癇癪起こしたら手のつけようない弟を宥めるうちに夜が明ける――知らない男にレイプされて妊娠して産んだ子供まですぐ死んで、呪いなんてものがあるなら最初から私を殺してよ! 友里が私を殺してよ!」


 放たれた言葉の重みが、彩里の心をどすんと揺らす。だが、潰れるわけにはいかない。背後に感じる恵真の気配が、彩里の精神的支柱となっていた。


「呪いなんて都合のいい言い方しないではっきり言いなよ、望まず妊娠した馬鹿な人間たちが勝手に子供を敵視しただけじゃん。病院に行くことも中絶する勇気もなく先延ばしにして、どうしようもできなくなって死んだ、それだけのことじゃん。子供に罪はない、死んだやつらがどうかしてる。私はそんなやつらとは違う、この子は望まれて産まれてくるの――私が望んで愛していくの」


 意識が朦朧としてきているのを自覚しているのか、口早に真優は言った。


「産む気なんだね」


 その台詞を言ったのは己が先か恵真が先か、或いは、死んだ姉の幻聴か。何重にも聞こえた奇妙な声音に、彩里は嘆息した。やはりこうなったか、と内側で呟く。


「仕方ないから、切らせてもらうね、真優ちゃん」


 とろんとしてきた真優の相貌が、意識喪失に近い睡魔に襲われながらも驚愕に歪んだ。鼻先がくっつきそうなほど彼女に顔を寄せる。姉ですら、この鼻梁の高い美しい人形の肌を直接傷つけたことはないだろうと思うと、奇妙なほどの高揚感が沸いた。どこかで嗅いだことのある甘ったるさの中に苦みを感じる臭いが、その距離感の近さを余計に感じさせ、彩里を酩酊に導く。


 自分はどんな顔をしているのだろうか。真優の瞳を覗きこんでも分からない。


 ただ、彼女は取り乱している。必死で行為を辞めるよう懇願してくる。彩里の本気は伝わっているはずだ。やめて、と狂ったように繰り返す真優はもう、手もろくに動かせない。


「大丈夫だよ、一応痛み止めの処置はするし、眠っている間に全部終わらせるから」

「もう、ゆるして、わたしが、わたしがわるかったから、こんなひどいことしないで」

「ううん、仕方ないよ、真優ちゃんのせいじゃない。全部お姉ちゃんのせいだよ」

「このこは、このこは、さいりちゃんの、きょうだいにもなるんだよ」


 その一言で、鼻先に触れていた顔を引き離した。


「は……?」


 目玉が膨張していく。このまま破裂してしまうかもしれない。


「ごめんなさい、おこってるんだよね、ほんとはゆうりからきいたんだよね、ふたりのおとうさんとふりんしてたわたしのこと、ゆるせないのわかる、でもこのこはわるくないの、おねがい、おねがいだからゆるしてください、ゆうりはゆるしてくれたの、ゆうりが、うんでいいよって、かぞくになろうって」


 土下座のつもりだったのか、いよいよ姿勢を保てなくなったのか、平べったい背中を彩里に見せるように、真優の体が床に伏していく。


「不倫? 何それ、お父さんと? いつから? なんで? どうして? いつから? なんで? どうして? 嘘。嘘つき。不倫? 何それ。なんで? どうして? いつから? きもい、きもい。きもすぎる。気持ち悪い。最低、最低、最低、死ね!」


 叫んだつもりでも声など出ていなかった。

 ぶすりという感覚が掌から肩にかけて一瞬で伝わり、呻き声が遅れて聞こえる。

 人を刺したことより、我が父の不貞の想像によるおぞましさと嫌悪感が強く体に残り続け、彩里の肌は粟立ったまま小鹿よりお粗末にぶるぶると膝が震えていた。

 そう言えば、彼女の体から漂う臭いは、父親が擦りつけてくる煙草の残滓によく似ていた。


「あーあ、彩里ちゃん、これじゃあ失敗だね」


 恵真の嘲笑が耳元で聞こえた。その瞬間、彩里の体は後ろから押さえつけられる。手首がねじられ、握力が奪われるとナイフが落ちた。

 潮の香が飛び散っているビニールテントから引きずり出された。壁に向かって放り投げられる。その様は、生まれ落ちる赤子のようだった。生命の営みに従って、安寧と平和に満たされていた母の子宮から産道に至り、自力呼吸を迫られるのに一人では生きていけぬ未知と混乱の外界へ――


 んぎゃあ、と、どこかでまた、赤子の声がする。


 落としたナイフを必死で探すが、見つからない。役立たずの眼からは真珠のような涙がいくつも零れ落ち、視界をぼかす。


「救急車お願いします、現場は東京都S市××。警察にもすぐ連絡してください、女性が背中を刺されて倒れています。JCS意識レベル30、自発呼吸あり。出血は目視では多くないですが恐らく妊娠中かと思われます、至急搬送先確保願います」


 通報の声がする。背の高い人影がビニールテントの向こうで蠢いた。彩里の全身から力が抜ける。裏切られた。どうして。言われた通りにやったのに。

 逃げることもできず、彩里は茫然とへたり込んでいた。

 もうだめだ。呪いは広がる、みんな死ぬのだ。

 ビニールテントからは、絶え間なく覚醒のための激励の声が聞こえてくる。


「もう大丈夫ですよ、僕の声が聞こえますか。もうすぐ救急車が来ます、病院で治療を受ければお腹の子も大丈夫です。あと少し頑張りましょう」


 それは聞き捨てならない。光の差さない地下室で大きくなった瞳孔は死人のようだが、崩れ落ちていた膝がすっと伸びる。ビニールテントの中では、真優の傷口を圧迫している人影がいて、介抱するその様にとてつもない敵意を抱いた。


「彩里ちゃん、なんでこんなことをしたんだ。彼女に何か飲ませたのか」

「恵真さんがそうしろって言ったのに! なんで助けようとしてるの!?」

「……エマ……?」


 掴みかかろうとした手は、簡単にいなされてしまう。骨張った大きな手が、彩里の手首を掴んで離さない。柔らかかった恵真の掌とはかけ離れた感触は地獄から這い出てきた骸骨を彷彿とさせて、余計に彩里を動揺させる。だってこの場には恵真さんと私しかいないはずで――いや、そもそもこの声は――先生? ――先生って恵真さんで――待て、先生は先生で、恵真さんは恵真さんで――

 血で汚れた手で、彩里は己の顔を掻きむしった。無性に体が痒かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る