第14話 真実の果てに

 札幌中央署の取調室で笹井と高島は、田代寛と対面していた。

 「先日あなたはこの置手紙を見たこともないと言われました。覚えていますね」

 山岡美夏の残した置手紙のコピーを、田代の前に置いて笹井は厳しい口調で訊いた。

 「‥‥‥」

「黙っているところを見ると覚えているということで宜しいですね」

「‥‥‥」

「この置手紙からは、二年前の指紋を含めて三人分採取されました。一つは美夏さんの妹の指紋でした。もう一つも女性ですが、残りの一つが男性と思われる指紋で、それがあなたの指紋と一致しました。それでお尋ねしますが、あなたがこれを印刷して置いた時、美夏さんはどこにどうされていましたか」

 笹井の質問に田代は暫く考えていた。

 「‥‥部屋に居たと思います」

「生きていたんですか。亡くなっていたのではありませんか」

「‥‥‥」

「田代さん、あなたは美夏さんを殺害してから、この置手紙を置いたのではありませんか。そして失踪を装うために死体を羊蹄山の麓に運んで埋め、生存を思わせる手紙を仙台から、さらに東京から出し続けた。違いますか」

 「殺してなんかいません。絶対に‥‥‥」

「あなたは美夏さんを妊娠させて、その処理に困って殺害することにしたのではありませんか」

 笹井は田代を追い詰めるかのように訊いた。

 「何の証拠があってそんな事を言うのか分かりませんが、私には全く身に覚えの無い事です」

「あなたは昨夜、ラウンジ『やまおか』に行ったようですが、何のために行ったのか。美夏さんの母子手帳を探しに行ったのではありませんか」

「‥‥‥」

 田代は何故、昨夜『やまおか』へ行ったことが警察に知られているのか考えているかのように、目が宙を泳いだ。

 笹井は、さらに続けた。

「東京駅の遺失物センターのバットを、息子さんに取りに行かせてまでして北海道に来たのは、母子手帳が気になって探すためだったんですよね。東京の警察もあなたの取調べに手薬煉てぐすねを引いて待っているようです。‥‥美夏さんを殺害し、さらに町村さんを殺害した罪は極めて重大だ」

 田代はまた俯いて、机の一点を見つめた。

 「‥‥‥私は美夏さんの死体を運んで埋めるのを手伝っただけです。殺したのは町村さんです」

「死体遺棄は認めるが、殺害はしていないと言いたいのか。町村さんの指紋は出なかったぞ。お前が殺したんじゃないのか」

笹井の言葉遣い、口調が変わった。

「殺してなんかいない。あの日の夕方、町村さんから電話が架かって来て、ママのマンションの部屋に行ったらママはもう死んでいたんだ。それで死体を運ぶのを頼まれて、羊蹄山の麓まで運んで二人で埋めたんだ。私は殺していない、絶対に」

 笹井は厳しい眼つきで田代を睨んだまま、横に座る高島に「高島、課長に緊逮きんたいを報告しろ」と指示した。

 「田代さん、あなたを死体遺棄の犯人として逮捕します」笹井が告げた。


 「課長、田代は死体遺棄を認めた上で、美夏さんは町村が殺害したと供述していますが、どう思いますか」

「‥‥係長はどう思う」笹井の問い掛けに、飯住は問い掛けで返した。

「町村に、美夏を殺害する動機があるとしたら、会社の金を横領していたことの口封じでしょうが、この件は、美夏も共犯ですから脅すとか、自ら公にするとは考え難いです。町村にも脅されていたような節もありません。もう一つ動機があるとしたら、町村が美夏の妊娠相手で美夏が邪魔になった可能性が挙げられますが、これは、町村と唯一この件を話している東京の探偵が、町村ではないと言っています。それと田代は町村から死体の遺棄を頼まれたと言っていますが、犯罪の片棒を簡単に引き受ける人間など普通はいません。何かの弱みを握られていない限り協力などしないと思います。町村の指紋が置手紙から検出されていれば別ですが、私は町村が殺害したとは思えません。田代は誰をかばっているのか分かりませんが、犯人を知っている筈です」

「そうであれば、田代は町村に弱みを握られていたとは考えられないか」

「弱みがあるとしたら、美夏を妊娠させた相手が田代だとその当時に町村が知っていたとしたら、弱みになる可能性がありますが、町村は転落死する直前まで美夏の妊娠は知らなかったようだと、例の探偵が言っています。一つ可能性があるのは、北見で二人の関係に何かがあって、それが田代の弱みになっていた可能性はあります。田代は町村が転落死した日に、町村本人に会っていた可能性があり、国分寺署の捜査本部は、田代を町村殺害の容疑者と考えていますから、捜査の結果次第では、町村に罪を負わせて口封じをしたという結論になるかも知れません」

「北見で何かがあったという話は、目下のところ雲を掴むような話だな」

「北見の方面本部が、例の探偵の空木さんからの情報を基に調査するのは、行方不明の女性が身元不明の白骨化死体なのかどうかについてですから、二人の関係とは全く別の話なので期待も出来ません」

「その辺りも明日からの田代の供述次第という事か」

 笹井は、飯住との話を終えて席に戻ると、国分寺署の捜査本部に、田代を死体遺棄容疑で逮捕した事、それに伴う拘留期間に入る事、さらに山岡美夏殺害は町村の犯行だと供述している事を伝えた。


 八月九日月曜日、空木たち三人は平岸駅近くの咲のマンションに来ていた。

 清美が昨日、咲に送信した「明日午前中に訪問します」というメールにも咲からの返信は来ていなかった。

 深堀和哉が昨日同様に、エントランスで303号の部屋番号を押して、インターフォンの反応を待った。

 空木は、清美からのメールを見ている筈の咲が、何の反応もして来ない事に疑問を感じていた。咲は昨日「札幌にいない」と清美に返信して来たにも拘わらず、今回は返信して来ない事に何か意味があるのではないかと考えていた。

 深堀和哉は、もう一度303号を押してインターフォンの反応を待ったが、やはり反応は無かった。

 和哉は「どうしますか」と言って、空木を見た。

 「札幌に昨日からいないとしても、今日は店がある以上部屋には戻って来るでしょう。この近くで待ちたいと思いますが、お二人は‥‥」

 和哉は清美にその事を伝えた。清美は頷いた。

 「分かりました。僕たちも大丈夫です。待ちましょう」

 三人は平岸駅方面へ歩き、ファミリーレストランへ入った。

 

 田代寛の二日目の取調べは、笹井と高島によって午前九時から始まった。

 田代の供述はこうだった。二年前の九月初旬の日曜日の夕方四時半頃、町村康之から電話があり、大型の登山ザックを持って山岡美夏のマンションに来て欲しいと言われ、80リッターの大型ザックを持って部屋へ行った。部屋に入ると居間に山岡美夏が倒れていた。町村は殺してしまったから死体を棄てるのを手伝って欲しいと言った。それで死体をザックに入るように膝を折り曲げて詰め込み、車で羊蹄山麓に運んで、埋めた。夜の八時半を過ぎていたと思う。町村が山岡美夏を殺害した理由は、妊娠した事で金を請求された。払わないと家族にも会社にも全て話すと脅されたために、紐で首を絞めて殺したと言っていた、と供述した。

 何故、死体遺棄を犯罪と知りながら協力したのかについては、田代は黙秘をし、札幌に来た理由については『やまおか』に飲みに来ただけと言い張った。


 同じ日、国分寺署の捜査本部から田代寛の任意の聴取を託された石山田と河村たちが、札幌中央署に到着したのは午後一時少し前だった。

 国分寺署と札幌中央署の両捜査本部が協議をし、田代寛を逮捕拘留した札幌中央署から、任意で東京へ来させることは現実的ではないと判断し、石山田たちが札幌に出向いて聴取をするという異例の方法を認めることで捜査協力することになった。

 警視庁から聴取に来たことを告げられても、田代は表情を変えなかった。

 「先週の月曜日に、町村康之さんの転落死に関してお聞きした話の確認と、このバットとバットケースについてお話を訊かせていただきたい」

 石山田は、バットとバットケースを大きく写した写真を、田代の前に置いた。

 「最初に、あなたは七月二十五日日曜日、前日からマイカーで安達太良山あだたらやまの麓の温泉に泊まり、日曜日は山に登ったと言いました。だけ温泉には確かに泊まりましたが、マイカーでの移動ではない上に、山には登っていなかった。そして、その日あなたは山には登らず、新白河駅から上りの新幹線に乗車したのではありませんか。この写真に写っているのは田代さん、あなたですね」

 石山田の質問が終わると同時に河村が、一人の男が改札機を通過する前後を写した何枚かの写真を田代の前に出すと、田代は無言で写真に目を落とした。

 「私は知りません。私は山に登りました」

「この男は左利きのようです。あなたも左利きでしたね」

「‥‥‥」

 石山田は、河村に次の写真を出すように目で合図をした。

 「この黒くて細長いケースのような物を肩に掛けている男は、町村さんが小金井の商業施設で転落死した七月二十五日日曜日の午後二時前後に商業施設の防犯カメラに映っていました。この男は野球帽を被っていますが、新白河駅の改札口に映っていた男と服装が全く同じで、同一人物と断定されました。もう一度訊きます。これはあなたですね」

「‥‥‥何故私がそんなところに‥‥。山に登っていた私が‥‥」田代は俯いた。

 石山田は畳みかけるように続けて訊いた。

 「あなたの息子さんの、すすむさんが受け取りに行ったこのバットとバットケースは、商業施設のカメラに映っている男が肩に掛けている物と同一であることが分かっています。そしてこのバットとバットケースは、あなたが七月二十五日日曜日の午後一時二十分頃、武蔵小金井駅近くのスポーツ用品店で購入した物ですよね」

「‥‥それは友達から預かった物です。それを電車の中に忘れてしまったんです」

「友達の物かどうかは別にして、このバットとバットケースをあなたは持っていた。そしてこれを七月二十五日日曜日の午後二時過ぎの中央線の下り電車に忘れた、いや置いてきたんですね」

「‥‥‥」

「今ここで、あなたと話しているところを写した動画を、スポーツ用品店で待機している捜査員に送信します。その店主は宮城訛りの男性がこれを買ったと証言しています。その店主にあなたの声と顔を見て貰えば、買ったのがあなたなのか違うのか直ぐに分かります」

「‥‥‥」

 石山田は、河村に送信を指示した。そして、東京で待つ捜査員からの返答を待つ間、空木から聞いていた北見での田代と町村の繋がりを訊いた。

 「田代さん、あなたは町村さんとの付き合いは、札幌の『やまおか』というお店で知り合ってからだと私たちには言っていましたが、本当は北見のある病院での付き合いからだそうですね」

「‥‥‥」田代は黙って石山田を睨むように見た。それは黙秘ではなく、何かを考えているようだった。

「あなたは私たちに幾つもの嘘をいているようですが、嘘で辻褄を合わせようとしても無駄です。真実にはそれ以上もそれ以下も無いんです。ただ一つなんです」

 石山田の言葉の終わりに合わせるかのように、河村のスマホが東京の捜査員からの着信を知らせた。

 「購入したのは田代寛に間違いないと証言しました」

 電話を終えた河村が田代に目をやりながら、大声で石山田に伝えた。

 「田代さん、もう嘘は止めにしましょう。あなたは買ったバットで町村さんを殴った。左利きのあなたは町村さんの左背部から脇腹の辺りを強打して、気絶するかひるんだところを投げ落とした。そうですね」

 石山田の問い詰めに田代は力なく頷くと、視線を宙に泳がせた。

 石山田と河村は、田代寛の緊急逮捕の手続きと、捜査本部の浦島への報告を終えると、再度田代の取調べに戻った。

 田代の供述はこうだった。七月二十二日木曜日の夕方、町村から突然電話があった。それは山岡美夏の事を調べているという探偵が来て、町村の金の横領と美夏を妊娠させたのは町村ではないかと疑って訪ねて来た。知らないと答えたが、妊娠させたのは田代、お前だろう、疑われるのは迷惑だから、探偵には全て話す。警察に話す訳ではないからいいだろう、と言って来た。黙っていても良いが、と言って、暗に金を要求された。町村を殺すしかないと思い、自殺に見せかけて殺害することを計画した。土地勘がある武蔵小金井駅付近が、町村の自宅にも近くて実行し易いと考え、七月二十五日日曜日の午後二時に商業施設で会って話したいという連絡をした。町村は疑った様子もなく了解した。アリバイ作りのために一泊での登山を考え、安達太良山の麓の岳温泉を選び予約した。町村への電話は全て公衆電話で連絡し、電話番号の履歴が残らないようにした。宿までの移動にはマイカーではなくレンタカーを利用した。犯行当日は、宿を朝九時過ぎにチェックアウトして、東北自動車道を使って新白河駅に向かった。午前十一時前の新幹線に乗り、武蔵小金井駅には午後一時十分頃着いた。以前から知っていたスポーツ用品店でバットとバットケース、そして野球帽を買い、待ち合わせの駅の南口の商業施設に向かった。駐車場の7階を待ち合わせの場所にしたが、町村は約束の二時の五分前に入って来た。町村が車から降りて後ろを向いたところをバットで殴り、倒れたところを肩に担いでフェンス越しに落とした。落とした後、用意しておいた遺書を助手席に置いた。遺書は自分が書いた物だが、書いた「罪」は本当の事で、山岡美夏を殺したのは町村だと供述した。


 取調べを終えた石山田は、河村と共に飯住と笹井に緊急逮捕に至った事の礼を言い、今後の田代の拘留取り扱いについて協議した。

 「ご協力のお陰で緊急逮捕出来ました。これで我々の事件は解決に向かいそうですが、そちらの遺棄事件は殺人が加わって、少し時間が掛かるのではありませんか」

石山田は二人を見て訊いた。

 「田代が死体遺棄に関わった事は間違いないと思っていますが、町村が山岡美夏を殺害した犯人だと言う田代の供述を信用して良いのか疑問に思っています」

 笹井は石山田に答えると、飯住に顔を向けた。飯住は「そうだ」と頷いた。

 「確かに田代の供述には、何か引っ掛かるところがあって、私も供述を百パーセント信用出来ないと思っています」

「石山田さんの取調べでもそんな印象があるんですね」

「町村さん殺害の動機が、今一つ信用出来ない、しっくり来ないんですが、それはそちらの事件が解決した後、東京でじっくり田代から訊くことにします」

 笹井は石山田の話に頷いた。

 「我々も、さっきもお話しした通り、町村が山岡美夏さんを殺害したと言う田代の供述に疑問を持っているんですが、石山田さんはどう思いますか。町村の犯行だと思いますか」笹井が訊いた。

 「私が口を出す事ではありませんが、殺害後二年経って死体が発見されて、探偵が調査に来た途端に田代に殺害された訳ですね。山岡美夏さん殺しの犯人が本当に町村さんなら、逆に田代の口を塞ごうとする筈で、二年間そんな素振りが無かったという事は、犯人とは考え難いように思います。探偵の調査訪問がきっかけになって、田代が動き始めた事から考えても、田代が嘘を言っているように思えます」

「なるほど、口封じという切り口で見ればそうなりますね。明日からの取調べではそこを徹底的に突っ込んで行くことにします」

 そう言って笹井が眼鏡を掛け直した時、笹井のスマホにメールが入ったようだった。

 「空木さんから連絡が欲しいと言うメールが入りましたよ」

 画面を見ながら笹井は石山田に言うと、スマホを操作して耳に当てた。

 そして席を外してから暫くして戻ると、「石山田さんが札幌に来ていると伝えたら驚いていましたよ」と一声掛けて、飯住に顔を向け「空木さんから相談です」と話した。

 「永川咲のマンションに昨日から会いに行っているそうですが、咲が部屋に戻らず、店にも出ていないという事で、部屋を開けて入るのに協力して欲しいと言っているんですが、どうしますか‥‥」

「たった一日戻らないだけで、留守部屋に入る事は出来ないぞ。行方不明と言うなら別だが」

 飯住が言うのももっともだと思いながら笹井は頷いた。

 「ただ課長、空木さんが言うには、田代は土曜日の夜、永川咲の部屋に行ったのではないか、と言うんです」

「部屋に行った、何故分かる?」

「美夏さんの母子手帳の、存在の確認に行ったのではないかと。美夏さんの残したノートの暗号が解けて、妊娠の相手が田代寛だと解かったと言っているんです」

「暗号?相手が田代?永川咲が母子手帳を持っている‥‥‥」

「確実に持っているかどうかは、部屋に入らないと分からないと言っていますが、私は捜索する価値はあると思います」

「んん‥‥‥」飯住は腕組みをした。

「今から令状を取って、今日中に終われるか」

「大丈夫です」笹井は腕時計を見た。この季節の札幌の日の入りは六時五十分頃の筈で、陽のあるうちに部屋には入る事が出来ると踏んだ。


 平岸の永川咲のマンションに、笹井たち札幌中央署の捜査員と鑑識課員が到着したのは、午後六時半を回ったところで、間もなく藻岩山もいわやまの向こうに陽が沈もうとしている頃だった。

 マンション管理会社の社員が部屋を開けると、白い手袋をした笹井を先頭に、捜査員と鑑識課員が続いた。暫くすると、玄関ドアの外で待機していた空木たちに、中に入るよう捜査員が促した。

 南向きの2DKの部屋は、女性の部屋らしく白を基調にした家具で揃えられ、キッチンも綺麗に片付けられていた。テレビとテーブルが置かれてリビングに使っている部屋には、小さな仏壇も置かれていた。

 テーブルの上には白い封筒が置かれていた。封筒には、山岡清美様と書かれていた。

 「封筒の中身はこれです。失礼とは思いましたが、先に拝見させていただきました。永川咲を緊急手配しました」

 笹井は清美に、花柄の透かしの入った横書きの便箋数枚に書かれた手紙と、A4サイズの紙を渡した。

 「空木さん、清美さんに手紙と一緒に渡したコピーは、美夏さんの母子手帳のコピーのようです。永川咲は空木さんの推測通り、母子手帳の存在を知っていたようです」

 笹井が空木に説明しているその横で、清美は咲からの手紙を読み続け、和哉はその手紙を清美の後ろから覗き込んでいた。

 読み終えた清美は、その手紙を静かに空木に手渡した。

 その手紙は「清美さんへ」で始まっていた。


 清美さんへ

 この手紙を清美さんが読む時には、私はもう二度とあなたには会えない所にいると思います。そしてあなたに会う資格もありません。

 私は二年前とても大きな罪を犯してしまいました。あなたのお姉さんを殺してしまったのです。

お詫びをして許される事ではありませんが、今の私に出来る事は、たった一人の身内であるあなたにお詫びをして、何故お姉さんを殺すという大罪を犯してしまったのか、その愚かな理由を明らかにしておくことしか出来ないと思っています。

 私の父、四倉哲男は私が中学一年の頃、母の千加子と離婚し、あなた方のお母さんの美乃さんと再婚しました。そして当時住んでいた函館から、私と母の二人を棄てて出て行きました。母は、私を育て生きて行くために水商売の仕事に着きましたが、飲みなれないアルコールで体を壊し、そしてうつ病に罹り、今から十年前に自殺して亡くなりました。

 私は、父も恨みましたが、それ以上に父を奪ったあなた方のお母さんを恨みました。あなた方のお母さんについては、死んだ母から旧姓名を山岡美乃と言い、父と帯広に住んでいると聞いていました。

 私は母が亡くなってから、函館で働いていたクラブを辞めて札幌に移り、新しく開店するラウンジやまおかのホステス募集を知り、勤める事になりました。そしてそこで私は、美夏ママが山岡美乃の娘であることを知りましたが、お姉さんは私が永川咲の名前を使っていたせいか、私が四倉の娘であることを知ることはありませんでした。私はあまりの偶然に驚きましたが、恨みをお姉さんで晴らそうとは思ってはいませんでした。

 ところが、二年前の九月の初め、ママから相談があるから休みの日に部屋に来て欲しいと言われて、部屋を訪ねた九月八日の日曜日でした。午後四時にマンションに行くと、ママは私に「赤ちゃんができたから来年から暫くお店を頼みたい」と、母子手帳を見せながら言いました。私が驚いて相手を聞くと、ママは田代寛と答えました。その瞬間、私は頭が真っ白になり、憎しみと怒りが込み上げてきたのです。田代は私の担当の客で、肉体関係もあったからです。その時私は、田代を恨まずに田代を奪ったお姉さんに強い恨みを抱き、父を奪ったあなた方のお母さんと重ねたのです。私はキッチンにあったビニールの紐で、お姉さんの首を後ろから絞めていました。

 我に返った時には、お姉さんは倒れて死んでいました。

 動転した私は、田代に電話をかけ相談しました。田代は警察には通報しないで、ママが失踪した事にしようと言いました。そうすればやまおかの店も自然な形で私の手に入ると言いました。自分の店を持つ事がこの道に入ってからの夢だったことを知っていての田代の話でしたが、私はその話に乗ってしまいました。田代の本当の目的が私の体と、生涯お金を脅し取ろうと考えての話だった事は後で分かりました。そして、置手紙を用意してお姉さんを田代の車で羊蹄山の麓まで運んで埋めました。その時、清美さんが指摘したお店の鍵とセキュリティーカードをお姉さんのハンドバッグから抜き取りました。母子手帳も持ち帰ったので田代は母子手帳の存在を知りませんでした。お姉さんが失踪して生きているかのようにする手紙は、田代が考え、田代が仙台と東京から出し、店の従業員や清美さんに伝えるのが私の役目でした。田代はいざとなったら町村さんを犯人にしようと言っていました。私も町村さんに疑惑が向けられるように仕向けてしまいました。田代は町村さんに北見で何か弱みを握られていたのかも知れませんが、まさか殺すとまでは思いませんでした。

 清美さんと初めて会った時、耳の不自由な妹への美夏ママの想いと、両親の居ない二人姉妹で生き抜いて来た事を強く感じて、改めて自分のした事の罪の重さと、後悔が込み上げてきました。

 ママの死体が発見された時、いつかこういう時が来ることは覚悟していました。清美さんが、私が四倉咲であることに気付いてくれた時、決心が着くと同時にホッとしました。

 清美さん、私の独りよがりな思い込みからあなたの大事なお姉さんの命を奪ってしまいました。本当にごめんなさい。

                         四倉咲


  読み終えた空木は言葉が出なかった。もしやと思っていた咲が犯人だった事以上に、偶然と因縁の重なりが悲劇を生んだ事に驚愕きょうがくした。そしてその咲の過ちを利用していた田代がひどく憎く思えた。その田代が北見で一体何をしたのか、暴くことが出来ないだろうかという思いも膨らんだ。

 手紙を清美に返した空木は、和哉を見た。

 「こんな因縁があったとは思ってもみませんでした。清美さんはショックでしょう」

「清美さんは、驚いてはいますが、しっかりしています。咲さんに会いたいと言っています」

 和哉が清美を見ると、清美は小さな仏壇を指して「咲さんのお母さんか」と和哉に手話で訊いた。

 「空木さん、この小さな仏壇は咲さんのお母さんでしょうか」

「恐らく咲さんのお母さんの位牌を収めたものでしょう」

 空木の言葉を和哉が伝えると、清美は小さな仏壇に手を合わせた。

 「空木さん、清美さんから聞いていたんですが、咲さんは美夏さんの口座にお店の収益を振り込んでくれていたそうです。どういうつもりだったんでしょう。カモフラージュだったのか、それとも免罪符のつもりだったのでしょうか‥‥」

手を合わせる清美を見つめながら、和哉が小声で言った。

「咲さんがどんな思いでそうしていたのか分かりませんが、罪から逃避したい思いと贖罪の思いが交錯していたのではないでしょうか。私は贖罪の思いの方が強かったと思いたいですが‥‥」

 咲は、周囲に町村の金銭横領を疑わせ、町村と美夏との関係を深いものと思わせることで、容疑の目を自分と田代から外そうとしたが、聾者である清美を知って、その罪の深さに苦しみ葛藤していたのではないだろうか、と空木は想像した。

 三人の様子に目をやっていた笹井が空木に訊いた。

 「空木さん、永川咲、いや四倉咲の行き先に心当たりはありませんか。手紙からすると自首するとも逃げるとも読めますし、自殺することも考えられなくも無いと思うので、心当たりがあれば教えていただけませんか」

 笹井の問いに空木が和哉を見ると、和哉が手話で「咲さんはどこにいると思う?」と清美に聞いた。

 「帯広かもしれない」清美は手話で表現した。

「離婚した父親が居る帯広ではないかと‥‥」空木は清美の手話を笹井に伝えた。

「四倉咲の離婚した父親ですか」笹井は確認するかのように繰り返すと、スマホを手にして捜査本部に連絡した。

 「ところで空木さん、この母子手帳のコピーらしきものに書かれた父親欄の数字はなんでしょう。例のノートの暗号のようですが‥‥‥」

 笹井はA4サイズの紙を空木に見せた。そこには、母親欄には山岡美夏と書かれ、その下の父親欄には、「4339*5669*533」と意味不明な数字と記号の組み合わせが書かれていた。

 空木はスマホを手にして文字入力画面を確認した。笹井の言った例のノートの暗号と同じ解き方であれば「HEW*JNW*JE」というアルファベットになる。手帳に書いたそのアルファベットの連なりは、全く意味が分からないものだった。

 空木は父親が田代であるなら、その数字は田代寛を表している筈だと考え、ひらがなの文字入力画面で考え解いてみた。まず4は「た行」の「た」、33は「さ行」を二度押した「し」、そして9は「ら行」で*は乗算を表し、五度押すという意味だと推測した「ろ」、これで「たしろ」が解けた。そして66は「ひ」、9*5は「ろ」、33は「し」となって「たしろひろし」が現れた。


 鑑識課の指紋採取作業が終わり、笹井たち捜査員と空木たち三人が咲のマンションを出たのは、午後八時を過ぎていた。

 空木は、清美と和哉にエントランスを出たところで別れを告げた。

 「和哉さん、清美さんに今日で私の役目は終わりました。これでお別れです、と伝えて下さい」

 和哉は清美に伝えた。すると清美は手話で何かを和哉に伝えると、空木に向かって手話で「ありがとうございます」と表しながら、深々と頭を下げた。

 「空木さん、僕たちは明日帯広に住んでいるお母さんのところに二人で行くことにしました。空木さんのお陰で、清美さんも気持ちの区切りが付けられそうだ、と言っています。本当にありがとうございました」和哉も深々と頭を下げた。

「清美さんの心の安らぎに繋がったのなら、私は凄く嬉しいです。これからはお姉さんの想いに応えるためにも、和哉さんと二人で力を合わせてお姉さんの分まで幸せになってください」と、空木は清美の筆談用のノートを借り、書いて清美に渡した。ノートを見た清美は、堰が切れたかのように大粒の涙をこぼし、和哉の胸に顔を埋めて声にならない声を上げて泣いた。


 二人と別れた空木は、田代の取調べに札幌に来ている石山田と、薄野すすきのの南6条西2丁目にある『すし万』で待ち合わせた。

 「札幌の寿司屋で巌ちゃんと飲めるとは思わなかった。札幌へは一人で来たのかい」

「河村と一緒だけど、あいつは調書の確認と出張報告書を書くんでホテルに帰ったよ」

 二人はビールグラスを手に乾杯した。

 「町村さんの事件も、田代の犯行だったと笹井さんから聞いたけど、動機は分かったのか」

「それなんだ。田代は、美夏さんを妊娠させた件で町村から強請ゆすられて殺したと言っているんだけど、俺には信用できないんだ。確かにスキャンダルを暴露されるのも困るし、それをきっかけにして美夏さん殺しの疑いを持たれるのも不味いとは思うが、何かスッキリしないんだ」

 石山田はお通しの酢の物を摘まみ、ビールグラスを空けた。

 空木は、ついさっき終わった四倉咲のマンションの捜索の話をした。

 「田代は、咲を脅していたという事か。性悪としか言いようがないやつだな。その田代が何かで町村が邪魔になって殺した。その原因が北見にあると、健ちゃんは踏んでいるということか」

「‥‥咲は加害者だけど、被害者でもある。田代が許せない」

 二人は、奮発して注文した大振りなシャコと蝦夷アワビに舌鼓を打ち、焼酎の水割りを飲んだ。


 八月十日火曜日、石山田と河村が早朝の便で東京へ帰った午前中、札幌中央署では昨夜の四倉咲のマンションの捜索を受けて、改めて田代寛の取調べが笹井たちによって行われた。

 勾留三日目となった陽に焼けた田代の顔色は、くすんだ土色に変わってきているように笹井には見えた。

 咲のマンションから田代の指紋が採取されたこと、咲の指紋が美夏の置手紙とされる物から検出された物と一致したことを突き付けられると、田代は咲が部屋に残した清美宛ての手紙の内容を認めた。町村を美夏殺しの犯人だと虚偽の供述をしたのは、咲の手紙の通り町村に罪を被せて、咲を脅し続けていたことを隠したかったからだと供述した。

 田代は、五年前に購入した仙台市八乙女の六十坪の土地に建つ家のローンと、東京の大学へ通い生活する息子のため、そして自分の遊び金欲しさに脅し取る事を思いついたと供述し、町村殺害も金を強請られて金を出すぐらいなら殺そうと思った、と供述した。


 田代の取調べが一息ついた昼近くに、北見方面本部の捜査課から連絡が入った。それは六月初旬に斜里岳の麓で発見された白骨化死体の身元が判明したという連絡だった。

その身元はスナック『火炎』の店主である藤野富子、行方不明当時45歳の女性で、遠軽えんがる生田原いくたはらの実家に残されていた藤野富子のへその緒からのDNA鑑定で一致したと報告された。

 さらに北見方面本部捜査課からの依頼として、今回の情報提供に協力してくれた人物から、今回の情報を知るに至った経緯を聞きたいということだった。


 そして、その日の午後、今度は釧路方面本部帯広警察署から四倉咲の緊急逮捕の一報が札幌中央署の捜査本部に入った。

 その一報によれば、咲は帯広駅近くの交番に出頭し、自ら事情を説明し、自首してきたとのことだった。

 「笹井係長の推測通り帯広に行っていたんだな」飯住が呟くように言うと、「自殺してなくて良かったです」と笹井は返した。


 空木は新千歳空港で飛行機の出発時間を待つ間に、笹井から北見の身元不明死体が藤野富子というスナック『火炎』の店主だったという連絡と、北見方面本部捜査課から連絡が入るという電話を受けた。

 定刻より十五分ほど遅れて羽田空港に着いた飛行機から降りて、スマホの機内モードを解除した途端にスマホが震えたのに空木は驚いた。また笹井だった。

 今度は、帯広で四倉咲が自首してきたという連絡だった。笹井は空木に事件解決への協力に礼を言ってくれたが、空木の気持ちは何故か晴れ晴れとはしなかった。それは東京の三十五度を超える猛暑のせいではなかったが、北海道から東京に戻って来た空木にとってこのだるような暑さは、気持ちを一層重くさせていた。

 空木が国分寺の自宅兼事務所に戻って暫くすると、またスマホが鳴った。発信者番号非通知だったが、空木は北見の警察からだろうとスマホを耳に当てた。

 予想通り、北海道警察北見方面本部捜査課からの電話は、スナック『火炎』の店主が白骨化死体であろうと推測した理由を空木に訊いた。

 空木はまず北見に行った理由を、転落死した町村康之の北見での行動の調査のために行ったと説明した。その上で、スナック『火炎』のママと町村が深い関係にあったことが分かった事、その町村が北網記念病院の医療機器納入に絡んで田代寛という男との関係が始まった事、その医療機器納入では病院の直見という医師との癒着も噂になっていた事、そして『火炎』のママが突然失踪した時期が、白骨化死体の死亡推定時期の範囲内にあった事。さらに医療機器納入の際スナック『火炎』も何らかの形で利用されていた可能性があったことから、白骨化死体がスナック『火炎』のママであれば事件の可能性もあるのではないかと疑い、調査を期待して情報提供したが、結果として、それが町村の行動の解明に繋がると考えたと説明した。

 さらに空木は、今日時点の捜査で田代が、町村殺害の犯人である事と、札幌の死体遺棄事件に関わったことが判明していることも伝えた。


 帯広警察署から札幌中央署に移された四倉咲は、取り調べでも、部屋に残した清美宛ての手紙の内容と同じ事を供述した。

 田代が町村を美夏殺害の犯人に仕立てようとした理由も、北見で何かの弱みを握られていたように感じたとしか言わなかったが、その事については、田代と一緒に良く店に来ていた北網記念病院の直見という先生が知っているのではないか、咲もその先生から北見での関係上、田代は町村に頭が上がらない、というような話を聞いてそれを感じたと供述した。


 田代は北見方面本部捜査課の事情聴取も受ける事になった。

 山岡美夏の死体遺棄事件、町村康之殺害に次いで藤野富子の白骨化死体についての聴取だと知らされた田代は、連日の拘留聴取にさらに顔色は悪くなったように見えた。そして力なく肩を落とし、北見での出来事全てを話した。

 今から三年前、北網記念病院のMRIの納入のための活動を始めた田代は、院内の機器選定委員会の委員長である放射線科部長兼副院長の直見義政医師に近付くため、スナック『火炎』で知り合った東菱製薬の町村にその仲介を依頼した。東菱製薬は造影剤の納入で放射線科にはパイプを持っていたからだった。

 そして翌年六月の機種決定までに、MRI製造会社であるC社の販売会社の大日医療器材へのリベートシステムを流用して、直見医師に五百万円、町村に百万円を渡し、そして田代自身は四百万円を横領着服した。金の受け渡しの場所にはスナック『火炎』を使った。『火炎』で何が起こったのか自分には分からないが、田代が町村に呼び出されて店に行った時には、ママの藤野富子は既に死んでいた。死体は、田代と町村で二時間以上かけて斜里岳の麓に運び埋めた。北見に戻った時には、夜が明けていた。町村の話では、直見が酔って富子に乱暴しようとしたが、富子にののしられた上に、賄賂をもらったことを言いふらすと言われたことで、怒って富子の首を絞めたら死んだ。町村は止めたが自分も突き飛ばされたと言っていたが、真実はどうなのか分からない。

 その後、店には閉店の張り紙をして、直見医師とは何事もなかったかのように付き合っていた。田代が転勤してからは直見からは何の連絡も無かったが、今年の六月中旬になって突然一千万円で町村を殺して欲しいと連絡が来た。理由を聞くと、あいつがいるとお前も私も破滅する、としか言わなかったが、今から思えば、その時期は藤野富子の白骨化死体が発見された時期で、町村から何かの連絡があったのかも知れない。しかし、その場では田代は殺し屋になるつもりはないと、全く取り合わなかった。しかし一か月後の七月二十二日に町村からの電話で脅された瞬間、殺すことを決心したと、供述した。直見医師にも町村を殺すことを連絡し、町村が死んだら一千万円振り込んで欲しいというと、五百万円に値切られた。田代は、町村は自分が殺してしまったが、藤野富子も死体を運んだだけだと何回も繰り返した。

 田代寛は藤野富子死体遺棄容疑で三回目の緊急逮捕となった。


 八月のお盆も過ぎた頃、「スカイツリーよろず相談探偵事務所」のパソコンに二通のメールが届いた。

 一通は万永まんえい製薬の後輩で北見の北網ほくもう記念病院を担当しているMRの上木からだった。

 そのメールには、北網記念病院の放射線科部長兼副院長の直見医師が殺人容疑で逮捕され、病院を退職した事。加えて二年前のMRI納入に絡んでの収賄の疑いでも警察の捜査が始まった事が書かれていた。

 病院は大混乱だが、病院の膿を出す機会だと思っている、という田中秀己医師の思いも書かれ、ついては、田中医師から空木に謝礼を払いたいので口座を教えて欲しいと締めくくられていた。

 さらに、上木の追伸には、これで北網記念病院の次期院長は田中先生で決まりです、と書かれていた。

 そしてもう一通は、上木のメールの三日後に届いた山岡清美からのメールだった。


空木健介様

姉の件では、大変お世話になりありがとうございました。

一昨日、姉の納骨に和哉さんと帯広の母の三人で、江差町の山岡家の墓に行って来ました。

生前は母を恨んでいた姉ですが、墓前で涙を流して詫びる母を見て、きっと許してくれていると思います。

私は空木さんの言われた通り、和哉さんと一緒にこれからの人生を精一杯生きて、姉の分まで生きる喜びを感じたいと思っています。聾者で生まれたことを歯がゆく、時には悔しく思った時もありましたが、和哉さんと出会い、空木さんの力添えのお陰で、聾者の自分に一番大事な事が何なのか分かり、そして大事な人を知る事が出来ました。

以前にもお話ししましたが、姉が私を受取人にして保険に入ってくれていました。和哉さんと相談して、その一部をこれまでの調査費用と御礼として、空木さんにお支払いすることにしました。姉もきっと空木さんに感謝していることと思います。空木さんのことですから受け取る訳にはいかないと思っていることでしょうが、もう既にスカイツリー万相談探偵事務所の口座に振り込ませていただきました。それでも困ったと思っているのでしたら、そのお金で今年の十一月の私たちの結婚式に参加してください。空木さんはご存知だと思いますが、北海道の結婚式は会費制です。是非参加してください。

和哉さんと二人でお会いする日を楽しみにしています。

ありがとうございました。

八月吉日

山岡清美


 空木は清美からのメールを読んだその夜、数日前に札幌から移送した田代の聴取が終わり、事件がほぼ解決したという石山田と平寿司で飲んだ。

 店員の坂井良子の笑顔に迎えられ、空木の心は和んだ。

 二人は「お疲れ」と小さく声を上げ、ビールの入ったグラスを合わせた。

 「田代寛の銀行口座に直見義政から五百万円振り込まれていたよ」

「‥‥直見?五百万?」

「北見の病院の医者だよ。田代はその直見と言う医者から町村の殺害を依頼されたと供述したけど、それを裏付ける金ということになる。全ての元凶は北見から始まっていたという健ちゃんの推理は当たっていたな。直見と言う医者は北見でも殺人容疑で逮捕されているそうだけど、こっちも殺人教唆で聴取することになる」

「毒のある欲が全ての元凶だよ。俺たち人間の欲っていう奴は、一旦欲して手に入れると止まる事を知らないみたいだ。世の中にとって役に立つ欲なら何の問題もないけど、自分の事しか考えていない欲は厄介だと思う。他人を傷つけたり、挙句の果てには命を奪ったりする」

「俺たち警察はその欲から出た悪を取り締まるのが役目だけど、仕事はなくなりそうにもないな」

 二人は鉄火巻きと烏賊刺しを食べ、ビールを空けた。


 空木は、一連の事件の中で、山岡美夏と四倉咲の数奇な運命と偶然がもたらした事件には、人間の欲や感情では説明できない何かが存在しているように思えてならなかった。

 世の中には、人間の毒欲から生じた悪行に傷つけられても、人間の力ではあらがえない出来事に遭っても、運命に翻弄されても、それでも一生懸命生きて行こうとする人間がいる。空木はそういう人間になりたい、「く生きる」人間になりたいと思う。そしてそういう人たちを少しでも助け、支えられる人間になりたいと思いながら、残暑の残る夜の坂道を上った。上った国分寺崖線の上で吹く風は生温く、心地よい風とは言えなかったが、空木はいつかこの風が心地良く思える日が来ると言い聞かせた。

                           

                                  了

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