第13話 追跡
八月七日土曜日の朝、国分寺署の捜査本部に詰めていた石山田は、副本部長の浦島の机に配置された電話が鳴ったのを聞き、緊張が走った。
昨日の夕刻、東京駅の遺失物センターから、バットとバットケースの問い合わせが田代という人物からあり、近日中に受け取りに来るという連絡が入ったため、石山田にとっては緊張の時間となっていた。
「宮城県警からだ。田代寛が動いた。午後一時五分に仙台の自宅を出て、地下鉄の駅に入ったとの事だ。打合せ通りに皆準備してくれ。係長、東京駅を頼んだぞ」
浦島の言葉に石山田は頷いて、横の河村を見た。
「よし、行くぞ」
石山田の気合のこもった掛け声に、河村も「はい」と立ち上がった。
二人は河村の運転する捜査車両で東京駅に向かった。
中央自動車道の調布インターに近付いた時、石山田の携帯電話が鳴った。
「係長、今どの
「中央道の調布インター近くですが‥‥」
「今、鉄道警察隊の東京分駐隊から連絡があった。バットを受け取りに来た田代を確保しているそうだ。急いでくれ」
「えっ、田代を確保した。何時に確保ですか」
「午後一時三十五分だそうだ。急いで東京駅の分駐所に向かってくれ」
「了解しました」
電話を切った石山田は、着脱式赤色灯を助手席の窓から車の屋根に載せた。
「田代が東京駅で確保されたそうだ。緊急走行で走ってくれ」
石山田の突然の指示に、河村は「えっ」と声を上げた。
「何故、こんなに早く東京駅に来ることが出来たんですか。仙台駅から東京駅まで新幹線だけで一時間四十分掛かる筈なのに‥‥」
「‥‥‥」河村の疑問は石山田も同じだった。
「どういう事なのか、俺にも分からん。とにかく急ごう」
突然のサイレンに、前を走る車が慌てた様子で道路の端に寄った。
土曜日の中央自動車道も、ビル街の道路も幸いな事に空いていた。首都高速道路丸の内ランプを降りた車は、五分程で東京駅の丸の内口に着いた。
東京駅の分駐所に入った石山田と河村は、田代を探して分駐所内を見廻したが、若い学生風の男が一人座っているだけだった。
鉄道警察隊の隊員が二人に敬礼をした。
「ご苦労様です。国分寺署の捜査本部の方ですか」
石山田は頷いて警察証を見せた。
「石山田です。こっちは河村刑事です。ご協力ありがとうございます。それで確保していただいた田代は何処に‥‥」
石山田の問いに、隊員は座っている若い男に顔を向けた。
「‥‥田代じゃありません」河村が呟いた。
「国分寺署から要請のあったバットとバットケースを受け取りに来た田代です。本人も田代と名乗りましたが‥‥」
隊員は困惑の表情になった。
「田代寛さんではありませんね」
石山田は緊張の表情でバットケースを抱えている若い男に訊いた。
「はい、田代寛は僕の父で、僕は息子の
この若い男が、国分寺に住んでいるという息子なのかと理解した石山田は、河村に顔を向けると、河村も「そうか」と言わんばかりに二度三度と頷いた。
石山田は、この状況を息子にどう説明すべきか考えた。この場で父親が事件の容疑者だと知ったら、息子のショックは大変なものだろう。
「実は、あなたが受け取りに来たバットは、ある事件に関わる参考品だということが判明したために、持ち主が受け取りに来るのを待っていたんですが、これがあなたの物ではなくお父さんの物だとなると、お父さんから事情を聞かなくてはならないのですが、お父さんからは
石山田はうまく説明できたことにホッとした。
「父から連絡が来たのは昨日の夕方ですが、父も友達からの預かり物だと言っていました。受け取ったら暫く預かって置いてくれ、と頼まれました」
田代晋の顔は、一層緊張した面持ちになり、口調には不安感が現れていた。
「そうだったんですか。それでしたらお父さんに誰からの預かり物なのか確認する必要がありますから、連絡を取りたいのですが、今どちらにいらっしゃるのかご存知ですか」
「分かりません。今日は何処かに出かけなければならない用事があって、それで僕に取りに行って欲しいと連絡が来たんです」
「連絡を取っていただけますか」
「‥‥何処に行かれて、いつ戻るのか分かりませんか」
石山田の問いに、晋は「母に聞いてみます」と言ってまたスマホを手に取った。今度は繋がった。
「北海道の知り合いのところに行って、明日中には帰ると言って出かけたそうです。知り合いが誰なのかは言わなかったそうです」
「そうですか、ありがとうございます。後は我々で連絡させていただきますので、お父さんの携帯電話の番号を教えていただけますか」
それを聞いた河村は怪訝な顔をした。
既に田代寛の携帯電話の番号は承知している石山田だったが、息子への配慮で敢えて知らない事にして聞いた。
「このバットケースと中のバットは、参考品なので我々が預かります。田代さんは、これでお帰りいただいて結構です」
石山田の言葉に、田代晋は父に何が起こっているのか全く理解できないまま、この場から離れる安堵感と、警察とのやり取りの緊張感から解放されることにホッとした表情を浮かべ、一礼をして分駐所から出て行った。
石山田は、捜査本部の浦島に状況報告の電話を入れた後、鉄道警察隊の隊員に礼を言い、河村とともに丸の内北口に停めた捜査車両に向かった。
「係長、田代は逃げたんでしょうか」
「いや、俺たちが待ち構えている事を知っていたら、息子を受け取りに来させないだろう。そのまま放って置く筈だ。バットより大事な用件が北海道にあるという事だろう」
「任意同行で取り調べという訳にはいきませんでしたね。仙台に戻ったところを任意同行かけるしかしかないですね」
「仙台に戻って来ればだが、息子から連絡がいったら今度こそ逃げるかも知れないな」
バットの受け取りを息子に託して、別の用件で北海道に行ったという田代は、何のために行ったのか。石山田は、突然の北海道行だとしたら、昨日の札幌中央署の笹井の、田代からの聞き取りの内容に要因があったのではないかと推測した。もしそうであれば、それは札幌の死体遺棄事件に関係した事ではないだろうか。石山田はスマホを手に取り笹井に連絡する事にした。
「課長、田代寛が今日、北海道に来ているそうです」
石山田からの携帯への電話を切った笹井が、課長の飯住に伝えた。
「国分寺署からか?」
「捜査協力の要請があった例の件で、東京駅の遺失物センターにバットを取りに来たのは大学生の息子だったそうで、田代本人は北海道に行くと言って家を出たそうですが、連絡はつかないそうです」
「‥‥‥バットより大事な用件が北海道にあるという事か。それで国分寺署は何と言っているんだ」
「田代が仙台に戻るのを待って、任意出頭か同行を求めるつもりだそうですが、北海道へ行ったのは、死体遺棄事件に関わる何かがあって急遽行ったのではないか、と推測して連絡してくれたという訳です」
「急遽か‥‥。昨日の聞き取りの時に、何か思い当たる事は無かったか?」
飯住は笹井に目をやった後、二人の話を聞いていた高島に顔を向けた。
「‥‥もしかしたらですが、田代は美夏さんの母子手帳の存在は知らなかったかも知れません。あの時、演技かも知れませんが、初めて知ったという印象でした。係長はどう思いましたか」
高島は笹井に顔を向け訊いた。
「‥‥確かに、そう言われればそうだったかも知れない」
「美夏の母子手帳を探しに急遽北海道へ来たという事か。母子手帳の存在を知らずに、手帳に父親の名前を書く箇所がある事を知ったら慌てるな」
「分かりませんが、田代にとってはバットより大事な事は、美夏さんを妊娠させたのが自分だという証拠になる母子手帳の存在なのかも知れません。その事を知っている誰かに会うために北海道へ来た、という事ではないでしょうか」
笹井は、眼鏡を外して天井を見上げた。
「‥‥誰に?」
「それも分かりません。分かりませんが、田代の名刺から取った指紋が、置手紙の指紋と一致した以上、田代を捜して我々の事件の方で任意で引っ張りましょう」
「それなら帰りの空港で張るのが良いんじゃないですか」高島だ。
「それなら札幌から函館、函館から仙台へ新幹線というルートもある。札幌駅にも張って見よう」
飯住は笹井に、捜査員を振り分けての張り込みを指示した。
八月八日日曜日、東京オリンピックの閉幕日は、札幌では早朝に男子マラソンが行われた。
午前九時過ぎまで爆睡した空木は、両足の太腿と
昨夜遅くに土手の部屋に泊まった空木が、コンビニで買っておいたサンドイッチとコーヒーの朝食を食べていた時、スマホが電話の着信を知らせた。画面には、石山田巌と表示されていた。
「まだ北見に居るのか」
「いや、昨日の夜札幌に入って後輩の部屋に泊めてもらって、今まだそこに居る」
「札幌か。夏の北海道を満喫中の健ちゃんに、知らせておくだけ知らせておくよ」
石山田はそう言うと、田代の息子が東京駅の遺失物センターにバットの受け取りに来たこと。田代は北海道に行ったことを伝えた。
「バットを警察に押収されたと知ったら、田代は北海道から戻るんだろうか。そうかと言って、いつまでも北海道にいる訳にもいかないだろうけど」
「息子には、バットは預かり物だと言っているみたいだから、
「俺は田代の顔も知らないし、目星と言ってもススキノの『やまおか』位しか思いつかないから無理だ。ところで、その田代と死んだ町村さんの関係なんだけど、北見の北網記念病院というところから始まったような気がするんだ。あくまでも俺の推測だけど、北見で何かがあって、それが『やまおか』のママの失踪と死体遺棄に、その後の町村さんの死にも繋がっているように思う」
「空木探偵の推理ということか。根拠も無しに言っている訳でもないとしたら、北見で何か掴んだみたいだな。笹井さんにその推理の根っこを話して見たらどうだい。俺も、田代が町村さんを殺害する動機の一つとして頭に入れて置くよ」
空木は電話を終えると、飲み残したコーヒーを飲み、考えた。
田代は何故北海道に来たのか、石山田の言う通りバットより大事な用件が出来たということなのだろう。バットは町村殺害の重要な証拠品になるが、田代は警察の手がそこまで迫っているとは思っていなかったようだ。それが分かっていれば、バットは放置していた筈で、息子に受け取りに行かせたりはしないだろう。バットと同様に、いやその時点ではバット以上に田代にとって重要な事の為に北海道へ来たと考えるのが妥当な推測だ。ならば、それが一体何なのか、空木には想像出来なかった。
笹井の携帯に電話をした空木は、留守番電話に「札幌に来ています」とだけ入れて、笹井からの連絡を待った。
空木が山岡清美と待ち合わせた中島公園近くのホテルに向かって歩いている時、笹井からの電話を知らせるスマホが鳴った。
「やっと手が空きました。札幌に来ているんですか、お会いしたいところですが、今日明日はちょっと難しそうです」
「それは残念ですが、気にしないでください。お電話したのは笹井さんに調べていただきたい事が出来て、お電話したんですが、それどころではないですね。今日の朝、石山田からの連絡で田代が北海道に来ていると聞きました」
「空木さんもお聞きになりましたか。その事で暫くは手が離せそうもありません」
「田代は何のために北海道に来たのか、笹井さんは目星がついているんですか」
「目星と言えるかどうか分かりませんが、捜査本部の読みとしては、山岡美夏の母子手帳の事で来たんじゃないかと考えているんですが‥‥。何処にいるのかも分からないので、仙台へ帰るところを張る事にしました。‥‥あっと、余計な事を話しました。今の話は聞かなかったことにしてください。ところで、私に調べて欲しい事というのはどんな事ですか。聞くだけ聞きましょう」
空木は話が少し長くなると断って、死んだ町村が北見のスナック『火炎』のママと関係があった事、そのママが行方不明である事。そして町村と田代が北網記念病院の医療機器納入に絡んでの繋がりがありそうな事を話し、ママが行方不明になった時期と医療機器納入の時期が一致している事。それらの事がどう関係するのか分からないが、今年の六月に斜里岳の麓で見つかった白骨化死体の女性が、そのスナック『火炎』のママではないかどうか、調べて欲しい。自分の推測だが、美夏の死体遺棄事件も町村が死んだのも、原点は北見にあるのではないかと思う、と伝えた。
「興味深い話です。ただ札幌方面本部の管轄外なので何とも返事が出来ないのですが、北見方面本部には重要情報として捜査するように連絡します。捜査本部からの要請事項として、本部長の署長から要請してもらうようにします」
空木は、仕事中に電話をした事を詫びて電話を切ると、待ち合わせのホテルにゆっくり歩きながら、笹井の言っていたことを考えた。
笹井たちの推測通り、田代は母子手帳の事で来たとしたら、母子手帳の存在を知っている別の人物がいるという事になる。田代は母子手帳の存在を知らなかったから慌てた。慌てて北海道に来たのはその存在を確認しようとしているのではないか。
山岡清美は、深堀和哉と一緒にホテルのロビーで空木を待っていた。
空木は数少ないながら覚えてきた手話を使って「こんにちは」と二人に挨拶した。清美はにっこり笑って両手を広げ、手話で「久し振りです」と返した。
「空木さんがまた札幌に来てくれるとは思ってもいませんでした。ありがとうございます。清美さんは今日お会いできるのを楽しみにして、仕事を午後から休んだんですよ」深堀和哉も嬉しそうに返した。
三人は、ホテルのテラスレストランに入り、テラスの見えるテーブル席に座った。
「警察からは、何の連絡もありません。町村さんの遺書に書かれていた「罪」というのはお姉さんの死亡に関わる事ではなかったんですね」
和哉が静かな口調で聞いた。
「分かりません。ただ、あの遺書は、町村さんが残した物ではなくて、誰かが町村さんが転落死した後に残した物のようです」
「‥‥それはつまり、自殺ではなかったという事ですか」
和哉は暫く考えていた。清美に伝えるべきなのか伝えずにおくべきか考えているようだったが、ペンを取った。筆談用のノートに「町村さんは自殺ではなかった」と書いて清美に見せた。清美はそのノートを見つめた。
「お姉さんの妊娠の相手も町村さんではなかった、という事ですか」和哉だ。
「私の推測ですが、相手は町村さんではなかったと思います」
「空木さんは誰だと」
「町村さんと親しい、イニシャル「HT」の人物だと思います。お二人は、美夏さんの残した三冊のノートの最後の方に書かれていた、意味不明なアルファベットと数字を覚えていますか」
空木はそう言うと、自分の手帳を取り出して、「MY*448」と書いた。そして、スマホを取り出して文字入力画面を見せ、448がアルファベットの「HT」を表している事を説明した。さらに、MYは山岡美夏を表し、*(アスタリスク)は性関係があった事を表現し、誰の子を妊娠したのかを書き記したものであると説明した。暗号のようにした意味は、恐らく美夏さんの決心、つまり父親が誰なのかは生涯誰にも明かさないという決心の証のつもりだったのではないか、という空木の推理も付け加えた。
空木の話を、和哉は清美に話の都度、都度伝えた。
「その「HT」は誰ですか」清美がノートに書いた。
空木はペンを取ってそのノートに「田代寛」と書いた。
清美は和哉に顔を向けて、手話で何かを伝えた。和哉は「えっ」と小声を発して空木を見た。
「空木さん、清美さんは昨日の夜『やまおか』で田代という名前の人が来たのを見たと言っています」
「田代を見た‥‥でも清美さんも私同様、田代寛の顔は知らない筈ですが」
空木の疑問を和哉が清美に伝えた。
清美は手話とメモで「唇の動きで分かった」と二人に伝えた。田代と言うその男は、昨夜八時過ぎに店に入って来た。店の女性が、「たしろさんひさしぶりです」と言った口の動きを見て、その人を見ると五十歳前後の男性だった。清美が店を出る時にはまだ店に居た、と伝えた。
空木は「ちょっと待っていてください」と席を立ち、スマホを持ってレストランを出た。空木は笹井にその事を連絡した。
「すみませんでした。警察も田代の行方を捜しているところなので、今の話を伝えておきました。ところで清美さんは、昨夜は何故『やまおか』に行ったんですか」
空木は『やまおか』の名前は残ってはいるものの、譲渡した店とはもう関係の無い清美が、何故店に行ったのか疑問に思えて訊いた。
「以前、空木さんにメールで伝えた事の確認に行きました」と、清美はノートに書いた。そしてさらに続けて書いた。
「私たちの母は、再婚して今は四倉美乃という名前です」
ノートを見た空木は「四倉‥‥」と呟き、清美から送られたメールにあった、四倉という名前を思い出していた。
それは確か、『やまおか』のチーママ、今はオーナーになった永川咲の本名が
「永川咲さんは、四倉咲、母の再婚相手の子供でした」と書かれたノートに、空木は黙って目を落とした。
黙って見ている空木に、和哉が僕から説明しますと言った。
「清美さんは、再婚して今は帯広に住んでいるお母さんに手紙を書いて確認したんです。十八年前にお母さんは再婚して、函館から出て行きました。札幌に移った清美さん姉妹と、別れて暮らし始めたのをきっかけに籍が離れました。でも
和哉は時折、清美の方に顔を向けながら、話し終えると口の渇きを癒すかのようにアイスコーヒーを口に運んだ。
空木は、山岡と四倉の因縁めいた話を聞き、驚くとともに偶然という恐ろしさも感じていた。
「それで咲さんには何を聞きに行ったんですか」空木は訊かずにはいられなかった。
「以前から私たちの母と、咲さんのお父さんが再婚していたことを知っていたのか聞きに行きました」清美は筆談のノートに書いた。
「咲さんは知っていた?」空木もノートに書いた。
清美は空木を見て頷いた。
「咲さんは、何故それを黙っていたんですか」
「お互いに嫌な事を思い出すと、関係が悪くなると思って言わなかったそうです」清美は丁寧な字で書いて空木にノートを見せた。
「‥‥‥‥」
永川咲は、ママである美夏の気持ちを考えて敢えて口にしなかった、という事だろうが、咲自身は毎日仕事で顔を会わす度にどんな思いでいたのだろうと空木は想像した。「お互いに嫌な事」と言うところから想像すると、嫌な思いをずっと隠して我慢していたのではないだろうか。
「咲さんには、もう一つ確認しに行きました」清美は、そのもう一つをノートに書いた。それは『やまおか』の店の譲渡と契約変更に伴う、店の鍵とセキュリティーカードの件だった。
先日の清美からのメールでは、契約書に書かれていた鍵とセキュリティーカードの数が、欠けることなく揃っていたと書かれていたが、その当たり前の事の何が気になるのか、空木には不思議だと思った事を思い出した。
「姉は、鍵もセキュリティーカードも、いつもハンドバッグに入れて持っていました。姉のカードの裏にはシールが貼ってありました。そのカードも含めて数が揃っているのは何故なのか、訊きました」
清美の書いたノートを見て、空木は清美が何故気になっていたのか、その意味が霧が晴れるかのように理解できた。
「そのシールは間違いなくお姉さんが貼ったシールなのですか」
「私たちの生まれ故郷、江差町の町の花、ハマナスの紅い花のシールです」とノートに書いた清美の文字が乱れたように見えた。
「それで、咲さんはどう答えましたか」
「姉が店に置いて行ったのではないか、店の事務所の引き出しに入っていた、と言いました」
書いたノートを空木の前に置いた清美は、反応を待つかのようにじっと空木の顔を見た。
「‥‥‥」空木は言葉を発することなく考えていた。
「空木さんは、どう思います」和哉が清美に代わって訊いた。
「‥‥考えたくない事ですが、咲さんはお姉さんの失踪に関わっていたかも知れませんね」
「失踪に関わるということは、死体遺棄にも関わったという事ですか」
「‥‥私には分かりません」
空木は氷も解けて、
「清美さんのお姉さんへの想いが、事件を解決する方向へ導いているような気がします。聾者の清美さんが、ススキノの夜のお店に訪ねて行くのはすごく勇気のいる事だと思います。清美さんのお姉さんを思う強い想いがそうさせたんですね」
和哉が話しているその横で、清美がノートに何かを書いていた。
「姉は私を受取人にして、生命保険に入っていたようです。その事を先日知って、姉が私の事を心配し、思ってくれていた気持ちに泣きました。今は、私の出来る事を精一杯やることしか、姉の気持ちに報いる方法はありません」
涙を流しながらノートを見せる清美に、空木は掛ける言葉もなく、ただ、ノートをじっと見ていた。
「清美さん深堀さん、今日一緒に咲さんに会いに行きませんか」
空木の言葉を、和哉が清美に伝えると、清美は「日曜は、お店は休み」と和哉に手話で伝えた。
「そうですか、今日は会えませんか。仕方ないですね」
空木の様子を見た清美が、筆談のノートの数ページ前を開いて、ある行を指差した。そこには「豊平区平岸2条8丁目アニバース303」と書かれていた。
「これは?」空木が清美から和哉に顔を向けると、和哉は清美に手話で訊いた。清美は頷いてノートに書いた。
「契約変更の時の書類で分かった咲さんの住所をノートに控えておきました。行きますか」と。
空木は和哉と顔を見合わせた。そして、清美の姉美夏への強い思慕と、深い悲しみに改めて触れた思いで清美に目をやった。
ホテルを出る直前に、清美が咲のスマホに「今日、今から会いたい」とメールを送信したが、返事は無かった。
三人は、市営地下鉄南北線の中島公園駅から二つ目の平岸駅に向かった。マンションは駅から五分程の所にあり、オートロック式の五階建てだった。
和哉がエントランスの303号の部屋番号を押して、インターフォンの反応を待ったが、反応は無かった。空木はメールボックスに目を移し、303の数字のボックスを覗いた。チラシ広告が何枚か入っていた。清美がまた、咲にメールを送ったようだったが、返信は無かった。
時刻は午後二時半を回って暑さのピークを迎えていた。
空木たち三人が、ホテルから咲のマンションに向かっていた時刻、札幌中央署の高島刑事は、札幌駅構内の5番、6番線ホームへ上がるエスカレーター下で、田代寛と思われる男に声を掛けた。
「田代寛さんですね。仙台の会社で話を聞かせていただいた刑事の高島です」高島は警察証を見せた。
立ち止まった田代は驚いた様子で、警察証を見せる高島を見た。そして周囲の目を気にするかのように見廻した。
「ああ‥‥そうですが、私に何か‥‥」
「山岡美夏さんの死体遺棄事件の件でお話しを訊かせていただきたいので、中央署までご同行願いたいのです」
高島はゆっくりと、そしてハッキリと言った。それは任意の同行依頼であっても、絶対に拒否は許さないという威圧感を感じさせた。
「今から仙台に帰るところで、飛行機も予約してあるのですが‥‥」
「あくまでも任意ですから、どうしてもとは言えませんが、あなたの指紋が、山岡美夏さんの置手紙に残された指紋と一致した以上、強制に切り替えも出来ると考えています。今日仙台に帰られたとしても、また直ぐに来ていただくことになりますよ。それに東京の警察もあなたの帰りを待っているらしいですね。その事は田代さんもご承知でしょう」
高島は一段と厳しい表情で田代を睨みつけた。
「指紋が一致した‥‥。一体何の事を言っているのか全く意味が分かりませんが‥‥」
「それを明らかにするために同行していただく必要があるのです」
「‥‥‥直ぐに終わるんでしょうか」
「それはあなた次第です」
高島は捜査員とともに、田代を連れて捜査車両で札幌中央署に戻った。
捜査本部から田代確保の連絡を受けて、笹井は新千歳空港から札幌中央署に戻った。戻る車内から、国分寺署の石山田と、札幌にいると連絡があった空木に、それぞれ電話と、メールで田代確保を知らせた。
咲のマンションの前で、咲からの返信をまつ間に、空木のスマホには笹井から「田代を札幌駅で確保した」というメールが入った。
笹井には、昨夜田代が『やまおか』に行ったことは伝えてある。『やまおか』に何を目的に行ったのか明らかになれば、咲との関りも見えてくる。わざわざ仙台から飲みに来ただけとは言わせないだろうと、空木は笹井たちの聴取に期待した。
清美がスマホを和哉に見せているのを見て、空木は、咲から返信のメールが来たのだと思った。
「空木さん、咲さんは札幌にいないので今日は会えない、と連絡してきました。明日お店に行きますか」
和哉は清美のスマホを見て、陽に焼けた顔を空木に向けた。
「‥‥‥出来たら明日の午前中に、ここで会いたいと思いますが、清美さんはいかがですか」
和哉は、その事を手話で清美に伝えた。清美も手話で返した。
「清美さんは、明日と
清美は、スマホを手に取って咲宛に「明日午前中にお部屋に伺います」とメールを送信した。
「無理を言ってすみません」そう言って空木が、横にした右
「空木さん、清美さんの言う通りです。本当にここまで協力していただいて言葉がありません」和哉も深々と頭を下げた。
咲からの返信は無かったが、三人は明日の午前十時に平岸駅で待ち合わせる事を約束して帰路についた。
咲は本当に山岡美夏の失踪に関わっていたのか、空木は土手の部屋に帰る途中の、中島公園のベンチに座って改めて考えてみた。
事実として分かっている事は、四倉咲が本名である事。離婚した父が山岡姉妹の母と再婚していた事。そしてラウンジ『やまおか』のオーナーになり、美夏の所持していたセキュリティーカードが咲の手元にある事だ。
情況としては、咲は美夏と町村の間に何かがあると感じていた。町村と田代が親しい事を知っていた。田代が仙台に転勤していたことを知っていた。その辺りだが、田代の仙台転勤の事は我々には話さなかった。
これらのことから、咲が失踪に関わったと言えるのだろうか。
空木は今日、清美から咲との話を聞いた瞬間、咲に疑いを持った。それは、事実と情況だけで疑った訳ではなく、そこに仮説が加わったからだった。その仮説とは、咲が美夏の妊娠もその相手も知っていたとしたら、田代と町村の関係が北見から繋がっている事を知っていたら、そして自らが『やまおか』のオーナーになる事を望んでいたら、という仮説だ。だとしたら、田代の弱みを利用して美夏を殺害させ、失踪に見せかけて自然な形で『やまおか』を受け継いでオーナーになろうと考えたのではないか。
咲は現場にいたのだろうか。ふとそう考えた時、空木は以前東京国分寺の平寿司で、笹井から聞いた美夏の置手紙に残された指紋の一つが、美夏の物かも知れない女性の指紋だったと言っていた話を思い出した。その指紋が、もし咲の指紋だったら咲は現場にいた可能性が高い。つまり田代と共犯の可能性だ。
田代は咲に会に来たのではないか。何の為に会に来たのか、東京のバットの受け取りを息子に頼んでまでして、急いで咲に会いに来る理由とは何か。田代は咲が母子手帳を持っていると思ったのではないだろうか、それを確かめる為に来たのではないか、と空木の推理は膨らんだ。
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