第12話 道東の夏

 水曜日の朝、石山田は捜査本部で浦島の同意と許可を得た後、札幌中央署の笹井に電話を入れた。

 仙台での聞き取りの際に入手した田代の指紋を送信するという連絡と共に、町村の転落事件への協力を依頼した。

 「田代氏の指紋は、金曜日の面会の時に入手するつもりですが、予め照合できれば、こちらとしても有り難い事です。そちらの事件では田代氏はやはり臭いですか」

「ええ、臭いとは睨んでいるんですが、こちらの照合元の指紋とは照合不能だったので、任意の取調べも出来ない状況です」

「そうですか。それで我々はどんな協力をしたら良いんですか」

 笹井の問いに石山田は、町村は転落死直前に何者かにバットで殴打されていたという、捜査本部としての推測を話し、凶器のバットの捜索に全力を挙げていることを説明した上で、田代にその事を暗に伝えて欲しいと依頼した。

 「笹井さんに協力してもらって、田代が動くのか動かないのか。私は必ず動くと踏んでいるんです。笹井さんに話していただければ、宮城県警の協力も得て、田代の張り込みを始める事になります。そちらの本部としても、田代の指紋照合次第では任意の聴取に入りたいところだと思いますが、暫くの間だけ田代を泳がせる事に協力していただけませんか。そちらの課長には、うちの浦島課長から電話を入れてもらうようにします」

「田代氏の指紋は、我々としてもこちらで入手した指紋で照合しなければなりませんので、ある程度の時間が必要ですから気にしないで結構ですよ。石山田さんのお話しは良く分かりましたから、課長と相談した上で協力したいと思います」

 電話を終えた石山田は、田代が必ず動くと思いながらも、無視して動かないという可能性も頭によぎった。それでも、バットとバットケースは、遺失物としてどこかの駅に必ず保管されていると確信していた。

 

 捜査員たちは、武蔵小金井駅から乗車した黒いバットケースを肩に掛けた男の降車駅を探るとともに、該当するバットとバットケースが、JRの駅に遺失物として届けられていないかを探るためそれぞれ動き始めた。

 石山田と河村は、田代の足取り捜査のため、東北新幹線の新白河駅に向かった。それは、田代のアリバイである安達太良山あだたらやま登山を崩す為の大事な捜査であり、二人には絶対に田代を見つけるという強い想いがあった。

 「河村、今日は西国分寺駅から武蔵野線で行こう」

「大宮から新幹線ですね」

「バットケースを持ったあの男が、東京駅ルートなのか武蔵野線から大宮駅ルートなのかは分からないが、武蔵野線ルートから帰ったような気がするんだ」

 二人が新白河駅に着いたのは昼前だった。

 予め、捜査として防犯カメラの確認を連絡しておいた事もあり、二人は直ぐに確認作業に取り掛かった。

 七月二十五日日曜日、新白河駅10:50発の、なすの272号の乗客はさほど多いとは思えなかったが、二人は一時間前の十時前から発車時間までに、改札口のカメラに映った乗客を、小金井の商業施設のカメラに映った男の拡大写真を横に置いて、黙って見続けた。

 「係長、この白っぽい半袖のポロシャツとズボンを穿いた男、この写真の男と服装が一緒じゃないですか」

 河村は画面を停めて指差した。

 「‥‥よく似ている。改札機に入るところからもう一度見せてくれ」

 河村は、パソコンのキーを押して画面を戻した。

 「ここだ、止めてくれ。見てみろ河村、この男チケットを改札機に通すのに左手で入れているだろう。体の前で左手をクロスさせて入れるのは右利きだとしたら不自然だ。この男、左利きだと思わないか」

「確かに、手ぶらなのに右手で入れずに左手を使っているのは右利きの人間としては不自然です。この男、間違いなく田代ですよ」

 河村の声は、自然に力が入った。

 「田代であって欲しいが、この男は、小金井のカメラに映っていた男と同じというだけで、田代だという決定的な証拠にはならない。バットが見つかれば一気にいけるんだ」

 石山田も冷静に言葉を選んだつもりでも、声には力が入り、弾んでいた。

 石山田は課長の浦島に電話で状況を報告し、その日のカメラの画像を記録した媒体を預かって、駅事務所を出て河村と共に上りホームへ向かった。

 

 捜査本部に戻った石山田と河村は、浦島と共に改めて新白河駅の防犯カメラの画像の確認をした。改めて往路のみならず帰路の推測時間帯である午後四時過ぎから五時半頃の画像も確認すると、四時半過ぎの改札を出て行く画像に、野球帽を被っているいないの違いはあるものの、午前中に映った白っぽい半袖のポロシャツ姿の男と酷似した男が映っていた。この男も左手で改札機にチケットを入れていた。

 「係長の言う通り、この画像のこの男が田代だという状況証拠はあっても物的証拠が無いのは確かだ。バットとバットケースが田代の物だとなれば、この男が田代であり、田代の犯行が濃厚だと言えるんだが」

「そのバットは見つかったんですか」

「今確認の為に東京駅に捜査員が向かっている」

「東京駅ですか」

「係長の推測通り、中央線の高尾駅に遺失物として保管されていたそうだが、一週間経って東京駅の遺失物センターに移されたそうで、捜査員を鑑識と一緒に向かわせた」

「鑑識も一緒なんですか」

「今のところ誰の物とも分からない物を、押収するわけにはいかないだろう。その場で鑑識に指紋が取れるか調べて貰うために行ってもらった」

「田代の動きを見る為にも、置いておく必要がありますからね」河村が独り言のように言った。

「降車駅は分かりましたか」石山田が訊いた。

「例の黒く細長いバッグを担いだ男は見つからないが、野球帽を被って似た服装の男は、西国分寺駅の武蔵野線の乗換口のカメラに映っていた」

「他は?」

「東京駅も、大宮駅も乗降客が多すぎてあのバッグを担いでいない限り分からない状態らしい。係長たちが持って来たあの新白河駅の画像が貴重だ」

 石山田は頷いた。

 田代と思われるあの男は、武蔵小金井駅から下りの中央線で西国分寺駅まで行き、武蔵野線に乗り換えたが、バットとバットケースは中央線の下り電車の荷物棚か長椅子の下に置き忘れたかのように捨てたのだろう。そして大宮駅から新幹線で新白河駅に向かい、車で仙台の自宅まで帰ったと石山田は推測した。

 「Nシステムの調べは進んでいるんでしょうか」

「今調べているところだが‥‥」

「該当車両無しですか」

浦島は返事をしなかった。

「絶対に東北自動車道を使っている筈なんですが‥‥」

「それはいずれわかる事だ」

 浦島のその言葉は、田代を逮捕すれば全てが分かると言っているように、石山田には聞こえた。


 翌日の国分寺署の捜査本部は、宮城県警とJR東京駅、そして鉄道警察隊への連絡と打合せに慌ただしかった。

 バットケースからもバットからも複数の指紋が検出されたが、何人もの人間が触っていたことから田代の指紋と特定することは出来なかった。

 浦島は、田代に任意出頭を求めて、聴取に入ることも考えたが、結局は石山田と河村の提案である、田代の動きを見るということで捜査を進める方法を選んだ。それは、田代は札幌中央署の聞き取りを終えればバットの回収に必ず動く、何故なら田代はバットに指紋が残っていたらまずいと考えるに違いないからだ。バットを受け取りに来た田代を確保し、任意同行を求め、聴取によって逮捕に結びつけるという筋書きが石山田と河村の案だった。


 八月六日金曜日、新千歳空港を飛び立った笹井と高島は、午前十時二十分過ぎに仙台空港に着き、仙台空港アクセス線で仙台駅に向かった。

 十一時半近くに仙台駅に着いた二人は、仙台名物の牛タンで昼食を食べて、田代との面会時間を待った。

 「係長、指紋の照合の件は田代に話すんですか」高島が笹井に訊いた。

 それは、国分寺署の捜査本部から送信されて来た、田代の名刺から採取されたという指紋と、山岡美夏が残したとされる置手紙から採取された指紋の一部が、一致したことを言っていた。

 「本来ならそれで任意同行なんだが、あっちの捜査本部からの協力要請に応じる事になっているからには、それは今日言わない方が良いかも知れない。課長も同じことを言っていた。今日の所は、田代がどんな証言をするのか、矛盾が無いのか探ることと、うち独自に田代の指紋を取る事だ」

 笹井は眼鏡をかけ直した。

 「そうですか。この置手紙を見てどんな反応をするのか、ということですね」

高島は置手紙のコピーをバッグから取り出して言った。


 二人は面会の約束の午後一時少し前に、広瀬通りが晩翠通りに突き当たる西公園の向かい側にある、大日医療器材仙台営業所に着いた。

 応接室で田代と初めて顔を会わせた笹井と高島は、名刺を渡した。田代もシャツの胸ポケットから二枚の名刺を取り出し二人に渡した。

 二人はその名刺を大事そうにバッグの中に収めた。

 落ち着き払った風の田代と、向い合せに座った笹井が、手帳を手に口を開いた。

 「先日のお電話でお話しした、山岡美夏さんの白骨化した死体が見つかったことに関連してお聞きしたいのですが、田代さんがラウンジ『やまおか』のママの山岡美夏さんの失踪を知ったのは、何時いつ頃だったのか教えていただけますか」

何時いつ知ったのか、ですか?」

「この質問は、『やまおか』の客、全ての人に訊いています。美夏さんをどの程度知っていたのか、親しかったのかの目安になるのではないかと考えてお聞きしているんですが、いかがですか」

笹井は眼鏡のフレームを触りながら訊いた。

「私は比較的親しかった方だと思いますが、ママの失踪を聞いたのは、姿を見なくなって半年後位だったと思います。当初は体調を崩して暫く休むと聞いていましたが、まさか失踪して死体で見つかるとは驚きました」

田代は眉間に皺を寄せて俯いた。

「失踪の事はどなたからお聞きになったんですか」

「さあ、誰から聞いたのか、かなり以前の事なのでよく覚えていませんが‥‥」田代は首を捻った。

「差し出がましいようですが、田代さんは町村さんと親しかったとお聞きしましたが、もしかしたら町村さんからお聞きになったのではありませんか」

「‥‥そうだったかも知れません。町村さんは私よりも随分ママと親しかった筈ですから、町村さんから聞いたと思います」

 田代の返答を聞いた笹井は、手帳にメモを取りながら上目遣いで田代を見た。

 「我々も、町村さんが山岡美夏さんと最も親しかったのではないか、という店の従業員からの証言で、町村さんに話を伺いたいと思っていたんですが、お亡くなりになってしまって話が訊けなくなりました」

「私もまさか町村さんが、自殺するとは思ってもみませんでした」

「実は、町村さんに訊きたかった事は、美夏さんが失踪時に妊娠していた事についてなのですが、田代さんは妊娠の事はご存知でしたか」笹井は、田代の顔をじっと見て訊いた。

「妊娠していたんですか‥‥。全く知りませんでした。それは本当ですか」

「母子手帳も発行されていましたから事実です。田代さんは相手の男性に心当たりはありませんか」

「私には心当たりはありませんが、母子手帳も‥‥‥、可能性が高いのは亡くなった町村さんのような気はしますが、町村さんはそれで死んだ‥‥」

「町村さんから妊娠の事も、失踪の件も、それと死体で見つかった事に関しても、話が訊けるのではないかと思っていたんですが、残念ながら訊けなくなってしまいました。ところで田代さんは、美夏さんのマンションの部屋には入られたことはありますか」

 笹井の眼鏡の奥の目は、田代の顔から目を離すことなく、鋭く見続けた。

 「何度か行ったことはあります。店が閉まった後、タクシーで帰る途中に送って行ったことが何度かありましたから。部屋でお茶をご馳走になったこともありました」

 笹井は横に座っている高島に、美夏の残した置手紙のコピーを出すように目配せした。

 高島はバッグから置手紙のコピーを取り出して田代の前に置いた。

 「美夏さんは、これを置いて失踪したように思われたのですが、実はこの時、既に亡くなっていたかも知れないんです。田代さんはこの手紙を以前に部屋で見かけたことはありませんでしたか」

「これは置手紙ですよね。それを何故私が見る事が出来るんですか。仰っている意味が分かりませんが」

「気に障ったらすみません。もしも美夏さんが失踪を以前から考えていたとしたら、これを事前に用意していて、それを田代さんが部屋に行かれた際に見かけたかも知れないと思って聞いてみただけです。見覚えのないのは当然ですから気にしないでください」

笹井はそう言うとコピーを高島に渡した。

「町村さんにもこの話を訊きたかったのですが、今となってはどうにもなりません。死んでしまったのが残念でなりませんが、東京の警察は自殺だったのか調べているようです。バットを捜しているような話を耳にしました」

「バットを‥‥。自殺ではないと‥‥」田代は落ち着いた口調で呟くように言った。

「細かい事は我々には分かりませんが、バットで殴られたような痕があったらしいですよ」

笹井はそう言うと、高島を促してソファから立ち上がった。遅れて田代も立った。

「母子手帳が見つかっていれば、こうして田代さんにお時間を取ってもらう必要も無かったのですが、今日は忙しいところありがとうございました」

 笹井が軽く頭を下げると、会わせて高島も小さく頭を下げた。

 営業所を出た笹井は、バッグからスマホを取り出した。

 「石山田さん、今、田代からの聞き取りが終わりました。依頼された通りにバットの件は田代に伝えました。頑張って下さい」

 笹井は留守電に簡単に用件だけを話すと電話を切って、周りを見廻した。張り込みらしき車両は見当たらなかった。

「係長、田代の名刺の指紋が一致したら、田代の嘘が証明出来ますね」

「それで任意出頭はかけられるが、本命の死体遺棄の証拠が無い」

「そこですね‥‥‥」

 田代の嘘はそれだけではないと笹井は思っていた。

 美夏の失踪を町村は田代から聞いたのではないか、という空木の推理も、妊娠の相手が田代だという空木の推測も正しいと笹井は感じていた。任意での聴取で自供させられれば良いが、現状では失踪に関わっただけだ、と言い逃れをされれば死体遺棄からは逃げられてしまう。もう一つ何か証拠が欲しいと笹井は思っていた。


 道東の名峰斜里岳しゃりだけを越えて降りた女満別めまんべつ空港も、東京に負けず暑かったが、吹く風は東京とは違い爽やかさを感じさせた。

 午後一時過ぎに女満別空港に着いた空木は、迎えに来てくれた、退職した万永まんえい製薬の後輩、上木うえきの車で北見の北網ほくもう記念病院に向かっていた。

 北網記念病院は道東地区の基幹病院であり、四百床のベッドを有する医療法人の大病院だった。

 外科部長室をノックした上木は、田中医師の在室を確認して空木を室内に案内した。

 万永製薬のMRだった時期、何百人という医師に面会してきた空木も、初めての医師に会う時は緊張したものだった。それに加えて、謝罪の面会となると一層緊張感は増し、会社不祥事の度に謝り慣れていた筈の空木も、緊張で顔が強張っているのが分かった。

 「東京で調査の仕事をしています、空木と申します。今回は先生に不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。全て私の依頼した事が原因ですので上木を悪く思わないでください」

空木は近年した事が無い位、深々と頭を下げた。下げた頭の先で、田中医師の笑い声が聞こえた。

「まさか本当に東京から来るとは思いませんでしたよ。頭を上げて下さい」

 笑い声に幾分ホッとした空木は、顔を上げて田中医師の顔を見た。改めて見る田中医師は、長身で細身だったが、スポーツで鍛えているのか筋肉質の体に見えた。頭髪は薄かったが、肌つやは良く四十代に見えた。

 空木は改めて名刺を田中医師に渡した。田中医師も名刺を空木に渡し、椅子に座るよう勧めた。名刺では田中医師は副院長の役職も兼務していたが、副院長室には入らず外科部長室を居室にしているとの事だった。

 「あの時は、気分を悪くしたのは事実ですが、上木君にも貴方にも怒っている訳ではありませんから気にしないでください。それどころか、東京からわざわざ来ていただいて逆に恐縮ですよ」

「先生にそう言っていただけると嬉しいです。安心しました」

空木は心底そう思っていた。北見まで来て良かったと。

「空木さん、言った通りでしょう。先生は怒っていませんからわざわざ来なくても良いって」上木が野太い声で口を挿んだ。

 上木の体格もがっちりした体躯で、田中医師と同様長身で、座っている空木が顔を向けると首が痛くなるほどだった。

 「空木さん、折角来ていただいたんですから少し話を聞かせてください。私は探偵という職業の方と話をするのは初めてなので、是非聞きたいのですが、私がススキノの『やまおか』の客だったことをどうやって調べたのですか。警察が調べて私の所に来るのは分かりますが、東京の探偵の貴方がどうして?」

「‥‥少し話が長くなりますが」と断って、空木は札幌のあるクライアントからの依頼であることから話し始めた。

 『やまおか』のママの行方を探す事から始まり、白骨化した死体で発見されたことで事件になった。依頼された仕事の行きがかり上、何故ママが死体で発見される事になったのか調べたいという思いから、『やまおか』の客の中でママと親しかった客に当たろうと考えて、店の従業員や身内の方の協力を得て、あるイニシャルの客に行き着いた。そのイニシャルは「HT」で複数いたが、その一人が先生だったと説明した。

 「それで私のところに警察も来たということですか。しかし東京の探偵の貴方がそこまで調べるとは流石さすがですね。でも残念ながら私からはこれと言った話は聞けなかったという事ですね。しかし『やまおか』に通っている客と言うなら、私より放射線科の部長の直見先生の方がよく行っているかも知れないですよ。これは上木君にも話しましたけどね」

「はい、その事は上木からも伝えられていました。放射線科の先生がお一人で札幌まで行って飲んでいるんですか」

「一人では行かないと思いますよ。業者と一緒だと思います。札幌で飲むとなったらホテル泊まりですから、業者が手配しているんじゃないですか。私は月一回の事ですし当然自分で支払いますが、直見先生は週一位で行っていた時もあったようですからね。うちの病院は医療法人の病院とは言え公的な補助金も入っている病院ですから、業者との癒着は禁止されているんです。直見先生には困ったものです」

 田中医師は苦笑いをしたが、それは直見という医師に対する侮蔑ぶべつの気持ちを表しているかのように空木には見えた。

 「業者というと製薬会社ですか?」

 空木は、今どき製薬会社が医師を接待する事は禁止事項になっている筈で、そんな事はあり得ないだろうという思いで訊いた。

 「製薬会社が今どき接待は出来ないでしょう。業者というのは医療器械会社ですよ」

「器械会社ですか‥‥」

 器械と聞いた空木の脳裏には、大日医療器材という社名が浮かんだ。

 「その器械会社というのは、大日医療器材ではないですか」

「確かそんな名前の会社だったと思いますよ。私も一度だけ『やまおか』でその会社の所長という人から挨拶を受けましたから覚えています。その会社と直見先生との関係は、うちの病院に1.5テスラのMRI(超電導磁石式全身用MR装置)を導入する時に癒着があったと噂になったんです。ライバル会社からだと思いますが、告発文が病院に送られて来たそうです。まあ、十億近い買い物だけに会社にとっては何が何でも取りたいのでしょうが、本当だとしたら大問題です。もう二年以上も前の話とは言え問題です」

田中医師の目は、怒りを込めた鋭く厳しい目になった。

「地元の調査会社には依頼出来ない。そうだ空木さん、どうですか、この件を調べてみてくれませんか」

 空木には、田中医師の口調が冗談とも本気とも受け取れた。空木は後ろに立っている上木に顔を向けると、上木も首を捻った。

 「先生、本気ですか」上木が訊いた。

「本気だよ。俺が金を出す」

「‥‥先生、東京に居る私にはかなり難しいですし、荷が重い案件です。引き受ける事は出来ませんが、調べてみたいと思わせる案件です。もし、何か分かったら先生に連絡するという事でいかがですか」

「引き受けていただけないのは残念ですが、仕方ありませんね。空木さんからの連絡を待つことにしましょう」

「すみません。ありがとうございます」

 まさかの田中医師からの依頼は、空木には荷が重く、断る事が出来たことに安堵したが、厄介な事から逃げたような嫌な気持ちも残った。

 「今日はこれで東京にお帰りになるんですか」

 田中医師の顔は、当初の柔和な顔に戻っていた。

 「折角北見に来たので、夜は焼肉を食べて、明日は斜里岳に登ろうと思っています」

「空木さんは山登りをするんですか。そう言えば、六月だったか斜里岳の麓で女性の白骨化した死体が発見されて、熊にやられたんじゃないかって言っていた事がありましたから、熊には気を付けて下さいよ」

 空木は田中医師の話を聞いて、山岡清美と一緒に札幌中央署で見た身元不明のファイルを思い出し、あれは熊が原因の事故だったのかと背筋が寒くなった。自分は北海道で何度も山に入っているが一度も熊に出会うことは無かった。運が良かったのだと改めて思った。

 空木は、田中医師にお礼と別れの挨拶をして、上木とともに退室した。

 「田中先生も直見先生も副院長で、次期院長候補なんです。田中先生は直見先生を嫌っていて、院長にだけはなってもらっては困ると思っているみたいなんです。だから空木さんにあんな話をしたんだと思います。院内の政争のような感じですから、関わらない方が良いですよ」

 上木は歩きながらそんな話をして、空木が依頼を断ったことは正解だと言わんばかりだった。

 「なるほど、そういう事情があったのか。上木は製薬会社のMRとして、”触らぬ神に祟りなし”で行くことだな。俺は関係ないけどな」

 空木の言葉に上木は頷いて病院の玄関に向かった。


 「空木さん、実はこの近くの喫茶店で東菱製薬のMRと待ち合わせているんです。空木さんの役に立つ話が聞けると思って声を掛けたんですが、良いですか」

「待っているんだったら今更、良いも悪いもないだろう。しかし、東菱のMRか‥‥」

「空木さんは、以前に東菱製薬の支店長だった何とか言う人の事も調べていると聞いたので、私の友達で東菱製薬のMRの南條という男を呼んでいるんです」

「そうだったのか‥‥」

 空木は上木の気配りに感謝しながらも、山岡美夏の妊娠の相手ではない上に、死んでしまった町村の情報を集める事に、以前ほど前向きな気持ちにはなっていなかった。ただ、町村の偽の遺書に書かれた「罪」という文言と、この北見という道東地方の中心都市が関わっているような気がしていたのも確かだった。

 病院からほど近いところにある喫茶店は、涼を求める客もいて、広い店内もボックス席は一つしか空いていなかった。

 既に座っていた男がこちらを見て立ち上がった。

 「東菱製薬の南條と申します」

その南條という男は、挨拶し名刺を空木に渡した。空木も名刺を渡し挨拶した。

「南條は、私より若いんですが、北網記念病院の担当MRでは一番長くて、もう七年も担当しているんです。前任の支店長の事も良く知っているみたいですよ」

上木はそう言って南條を紹介した。

 「探偵さんと話すのは初めてなんですが、空木さんはMRだったそうですね。MRから探偵に転職とは驚きました。それにしても、自殺してしまった町村支店長の事を調べているんですか」

「えっ、その前任の支店長は死んだんですか」

 上木は町村の自殺の事は、今初めて知ったようだった。

空木は、南條の質問の返答にどう答えたら良いか、咄嗟に考えなければならなかった。

「‥‥ご家族が町村さんの自殺の原因が、北海道の単身赴任に原因があるんじゃないかと言われて、私が調べていたんですが、御社の戸塚さんの話から北見で何かあったのではと考えていました」

 空木は、我ながらうまく答えたものだと内心自賛した。

 「戸塚さんというと、今、東京で所長をしている戸塚さんですか」

 空木が頷くと、南條は話を続けた。

 「実は、私も当時戸塚さんから、町村支店長には北見に女がいるらしいという話を聞いて、興味本位で調べてみたんです」

 当時、町村からは口止めされていた筈の戸塚が、南條に話していた。町村はそれを知って、戸塚に対して冷遇し始めたのではないかと空木は推測した。

 「調べたんですか‥‥。それで何か分かったんですか」

 空木は「罪」という文字が突然大きくなってきたような気がした。

 「プライベートで通っていた店は分かったんですが、そこまででした。その店が突然閉店してしまって調べようがなくなってしまいました」

「閉店ですか」

「ええ、そこのママが、東京か何処かに突然行ってしまったらしいんです。多分そのママが、支店長の女というか、付き合っていたというか、そういう関係だったと思いますが、はっきりした事は分かりませんでした」

「それはいつ頃の話ですか」

「二年前の六月の末だったと思いますよ」

「その店の名前はおぼえていますか」

「店に入った事はありませんが、憶えています『火炎』です。スナック『火炎』、情熱的な名前だったので良く憶えています」

 空木はバッグから手帳を取り出しメモした。

 空木の耳の奥で、ドアの鍵が開くような「カチッ」という音がした。田中医師の話と、南條の話が、空木の頭の中で重なった。

 「ところで南條さん、話は変わるのですが、放射線科の直見先生と言う先生は、どんな先生なのか差し支えない範囲で教えていただけませんか。東菱製薬は私の知る限りでは、造影剤を数種類販売している筈ですから、放射線科とはお付き合いが深いのではないですか」

「空木さん、流石さすが元MRですね。そうなんです。直見先生は業者に金銭や物を要求することが多くて、僕は断るのが大変です。今は医療器械の会社が相手をしていると思いますよ」

「大日医療器材ですか」

「よくご存知ですね。噂ですけど、二年前のMRIの納入の時には大日医療器材から相当の接待を直見先生は受けていて、現金も渡ったんではないかと噂されていました。その時に、うちの町村支店長もそれに関わったと噂になりました」

「町村さんが関わった‥‥」

「スナック『火炎』に支店長と直見先生が入って行くのを見たとか、飲んでいるところを見たという話が取引卸の中で出てきまして、大日医療器材と一緒に直見先生を接待しているんじゃないかと噂されたんです。それで僕も、担当MRとして無視できない話なので、内緒で会社の経理に調べて貰ったんですが、『火炎』の名前での経費精算は一件も無かったので、『火炎』に一緒に行ったにしても全てプライベート精算にして規則違反が表に出ないようにしていたと思います。接待の証拠は無いので噂止まりという事です。そう言えば、不思議な事に『火炎』が閉店してからは、直見先生からうちの会社への接待要求は全くなくなりましたね。町村支店長が転勤してからもずっとないですね」

 町村のラウンジ『やまおか』での水増し精算の目的は、この北見のスナック火炎での費用捻出だったことが、今の南條の話で空木には霧が晴れたかのようにはっきりと見えた。『火炎』のママへのみつぎのための費用にも、直見医師への規則逃れの接待費用にも使われたのが、『やまおか』の水増し精算で得た金だったのだろうと空木は推理した。ただ、空木には南條の話によって見えたものがあるのと同時に、別の疑問が生まれた。それは町村と田代の関係が『やまおか』から始まったのではなく、ここ北見の北網記念病院から始まったのではないかという事だった。二人の間には、おおやけには出来ない秘密がここ北見で共有され、それが『やまおか』に繋がり、町村の死にも繋がったのではないかという推理が浮かび上がった。

 「南條さん、今日はお話を聞かせていただいてありがとうございました。大変参考になるお話を聞くことが出来ました」

 空木は南條に礼を言って店を出た。


 その日の夜、ホテルに迎えに来た上木とともに、焼肉屋の香風園に入った。そこには万永製薬在職時の後輩、土手と山留が札幌から来て待っていた。

 テーブルに組み込まれたコンロに火が入り、四人は大きなビールジョッキで「乾杯」と声を合わせた。

 北見市の焼肉屋は、北海道内の人口五万人以上の都市で、人口当たりの店の数が最も多い町ということで、焼肉の町と言われている。

 四人は美味いを連発しながら食べ、そして飲み進め、締めの食事を注文した。

 空木は、少し酔いが回ったところで、三人にある記号を見せてみる事にした。「MY*448」と手帳に書いて三人に見せた。

 「何ですか、これ」土手がまず訊いた。

「MYはイニシャルだと思うが、その後を読み解きたいんだ。分かるか」

「*(アスタリスク)は掛け算、乗じるという意味ですよね。後ろの数字の448は一体何でしょう。MYの448倍ですか?」山留が赤ら顔で言った。

 四人の前に、クッパと冷麺が運ばれて来た。

 「その数字は448じゃなくて、4(よん)、4(よん)、8(はち)じゃないですか。ちょっと前ですが、携帯の電話番号を数字じゃなくて、ひらがなで書いて暗号のように書いていた若い人たちがいたように記憶していますが、そんな感じかも知れないですね」

 上木がクッパを食べながら話すと、土手がスマホの文字入力画面を三人に見せるように前に出した。

 「それは、「あ行」が1、「か行」が2、「さ行」が3、で「わ」が0、というように表したと思う。例えば、1234なら「あ、か、さ、た」と書くんだと思う」

「だとすると、4は「た」、8は「や」、448は「た」「た」「や」になる。意味不明だな」

 空木はスマホの画面を見て、首を捻って冷麺に箸をつけた。

 答えの出ないまま香風園を出た四人は、それぞれの帰路についた。


 翌日の土曜日早朝、土手と山留が札幌から乗って来たレンタカーで、空木の泊まるホテルに迎えに来た。

 北見から斜里岳への登山口となる清里町の清岳荘まで、二時間余りで登山口の駐車場に着いた。

 登山口から暫く樹林帯の中を歩き、三十分程で沢に出る。ここまでの樹林帯の何処かで、女性の白骨化した死体が見つかったのだろうと考えながら空木は歩いた。

 登山道は沢沿いを何度か渡渉するが、この沢には八か所の滝がかかり、滑滝なめたきの横を沢登りのように登って行く。真夏のこのコースは実に気持ちが良い。ハンノキやダケカンバの樹々の間を抜け、ガレ場を登り、最後の急坂を登れば、日本百名山に数えられる標高1547メートルの斜里岳頂上に到着する。登山口からおよそ四時間の行程の頂上からは、羅臼岳を東に望み、その南の海にはっすらと国後くなしり島が見える。空木にとって二度目の斜里岳は、素晴らしい時間となった。

 登山口に三人が下山して来たのは、午後三時を回っていた。ここから札幌までの帰路は、車で六時間半はかかる。登山の後の長時間の移動は辛かったが、運転を交代しながらその日の夜、三人は札幌に到着し、空木は土手登志夫の部屋に今回も世話になった。

 空木は晴れ晴れした気持ちだった。札幌に到着するまでに「MY*448」を解いていた。

 空木は、MYがイニシャルだとしたら「448」もアルファベットの読み替えではないかと推測した。そしてスマホの文字入力画面を何気なく見た瞬間、数字の下に書かれたアルファベットが目に入った。「2」の下にABCが、「4」の下にGHIの文字が並び、「8」の下にはTUVが並んでいた。アルファベットを表示するには「4」のキーを「4、4」と二回押せば「H」、「8」のキーを一回だけ押せば「T」が表示される。「448」は「HT」だった。イニシャル「HT」だと解いた。答えは「MY*HT」だと解いた。

 そしてその意味は、美夏の残したあのノートのあのページ。病院へ行くと書かれたあのページに意味があるのではないかと考えた。美夏が産婦人科で妊娠を確認したその日のページに書かれた「MY*HT」の意味は、MYは山岡美夏本人であり、HTは田代寛、*の意味は、掛け算つまり性交渉を意味しているのではないか。つまり、お腹の子の父親は田代寛だと。

 しかし、美夏は何故はっきりと田代の子を妊娠したと書かなかったのか。もしかしたら美夏はこの時からシングルマザーとして生きて行くことを決めていたのではないか。誰の子とは決して口にはしないと心に決めたが、ノートにはしるしておこうとしたのではないか、と空木は想像した。

 空木は、明日会う約束をしている山岡清美と深堀和哉に自分の推理と想像を伝えるつもりで眠りについた。

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