第11話 杜の都

 捜査本部の会議が終わった後、石山田は、戸塚治樹との面会ために立川に向かった。

 今日は同行する刑事はおらず、単独での面会となったが、それには理由があった。浦島の配慮で空木の同席を黙認してくれたのだが、それが為に単独で面会するしかなかったのだった。

 太陽は奥多摩の山々の向こうに沈みかかっていたが、暑さは一向に収まる気配はなかった。

 戸塚の希望で会社の外での面会となり、約束の場所である最近できた話題のホテルの前に石山田が着いた時には、既に空木が一人の男と談笑していた。

 空木は石山田に気付くと、横の男を促してベンチから立ち上がり、合図するかのように片手を挙げた。

 「戸塚さん、国分寺署の石山田刑事です」

空木はその男に石山田を紹介した。

「戸塚です」その男は名刺を石山田に渡して挨拶した。

石山田は、その名刺を大事そうにポケットに入れた。

 「国分寺署の石山田です。今日は忙しいところをお呼び立てしてすみませんが、お聞きしたい事がありますので宜しくお願いします」

石山田は警察証を戸塚に見せた。

「警察からの電話には驚きましたが、その後空木さんから連絡が来たのにも驚きました。そうは言っても、刑事さんと探偵さんの二人から話を聞かれるというのは気持ちの良いものではありませんね」

「戸塚さん、そう言わずに少しの時間ですから協力してください。それにしてもここで話すのは、暑いですし、通行する人の邪魔にもなりますから、ホテルのラウンジで話しませんか」

 空木は二人にそう言うとホテルの入口に歩いた。


 「昨日、電話でもお話しした、亡くなった町村康之さんのことでお聞きしたいのですが、戸塚さんは札幌からのお知り合いとお聞きしました。最後に町村さんとお会いになったのは何時いつ頃ですか」

 石山田はアイスコーヒーを口に運び、手帳を開いた。

 「最後に会った‥‥。部長は自殺だったと聞きましたが‥‥」

 自殺をした人間と最後に会ったのが何時いつなのか、という質問に一体何の意味があるのか、戸塚にはその意味が理解できず、戸惑いの言葉と表情を浮かべた。

 「自殺という判断を変えてはいませんが、いくつか疑問な点があって、それを確認する必要が出てきたんです」

「‥‥分かりました。町村部長に最後に会ったのは、五月に開かれた全国所長会議の時ですが、顔を会わせただけで一言も話はしていません。‥‥刑事さん、もしかしたら部長は誰かに突き落とされたんですか。その疑いが部長を恨んでいた私にあるということですか」

 戸塚の表情は、さっきまでの戸惑いから、驚きと困惑の表情に変わった。

 「疑っている訳ではありません。ただ確認をさせていただきたいだけなんです。七月二十五日日曜日の午後二時頃、戸塚さんはどちらに居らっしゃいましたか」

「四連休の最終日ですね。札幌の自宅から戻って来る日でしたが、その時間ならまだ家に居ました」

「戸塚さんは単身赴任なんですね。ご家族と一緒だったという事ですか。念のため飛行機の時間を教えていただけますか」

 戸塚はスマホを取り出した。

 「AD航空の新千歳空港17:05発です」

 答えた戸塚の表情は、幾分ホッとした表情になっていた。それを手帳に書き留めた石山田に、空木が質問して良いか確認した。

 「戸塚さん、さっき「部長を恨んでいた」と言われましたけど、恨むようなことがあったんですか」

「さっきは少し勢いで言ってしまいましたが、今は恨んではいません。当時は札幌というか、北海道を離れたくなくて、支店長の嫌がらせだと思って、暫くは恨んでいましたよ。でも今は、東京に転勤して来て良かったと思っています。家内や家族の有難さも改めて感じる機会にもなりましたからね」

「嫌がらせですか‥‥。良かったら何故そう思ったのか話してくれませんか。それが特別な意味がある訳ではないんですが、私の仕事の延長線で、町村さんがどんな方だったのか知りたいだけなんです」

「仕事?空木さんの探偵の仕事ですか」

 戸塚は、自分の話より空木の探偵としての仕事の中身に興味を持ったようだった。

 「はい、二年前に亡くなった女性の男性関係を調べるという仕事を依頼されたんです。その女性はススキノの飲み屋さんのママだったんですけど、町村さんはその店に良く行っていたそうなので、町村さんとママの関係を調べたかったのですが、亡くなってしまって‥‥。それで札幌支店時代の町村さんの女性関係を聞ける人がいれば、と思っていたところへ、戸塚さんの名前が出てきたので私にとっては好都合だったという訳です」

 空木の説明を聞いた戸塚は、増々興味を増したようで身を乗り出した。

 「もしかしたら、ススキノの店は『やまおか』のことですか」

「その通り、良くご存知ですね」

「ママが亡くなったことは知りませんでした。私はあの店に二度行っただけですが、ママがすごく綺麗だったことは良く覚えています」

「行ったのは二回だけですか」

「ええ、一度は町村支店長に連れられて行きました。私が所長に昇格したお祝だったと思います。二度目は一人で行きました」

「一人で行ったんですか」

「あの店の料金がどうなっているのか確かめたくて行ったんです。支店長と一緒の時は、支店長が会社のカードで支払ってくれたらしいんですが、経理の社員が「高い店に連れて行ってもらって良かったな」と言うんで、いくらだったのか聞いたら、一人一万五千円だったんですよ。そうは思えない店だったので、いつか一人で行って確かめてみようと思って行った訳です」

「それでどうでした」

「一人で飲んで七千円でした。キャッシュで払いました」

 それを聞いた空木は、心の中で「やっぱり」と呟き、石山田に向けてドヤ顔をして見せた。

 「それを町村さんに話した事で嫌がらせを受けたという事ですか」

「それもあるのかも知れませんが、思い当たるのは、女性関係の話をしてからだと思うんです」

「女性関係の話?『やまおか』のママですか」

「そんな話から始まったんですが、私が北見の焼肉屋で、支店長が女性と一緒に居るところを偶然見たという話をした時からです。その話は会社にもどこにも話さないでくれと言われまして、何故か無視され始めたのはそれからです。何が気に食わなかったのか分かりませんが、私には嫌がらせとしか思えませんでした。その後、東京への異動の話が出ましたから、完璧な嫌がらせだと思いましたよ」

 戸塚の話を聞いた空木は、札幌の後輩が調べてくれた町村の評判に関する報告に、北見に通っている店があるらしいという噂がある、という報告を思い出していた。

 「その女性は『やまおか』のママではなかったんですか」

「違いましたね。私の印象では、水商売の女性の雰囲気でしたが、年齢が『やまおか』のママより上だと思いました」

「そうですか。戸塚さんから見たら、町村さんと『やまおか』のママとの関係はどう見えました?」

「親しいとは思いましたが、どちらかと言うと町村支店長はママから敬遠されているように私には見えましたから、深い関係というような事は無いと思いますけど‥‥」

「なるほど。ところで北見で町村さんを見かけたのはいつ頃だったんですか」

「私が東京へ転勤する前の夏の初めだったと思います。山友達三人で斜里岳しゃりだけに登りに行った帰りの土曜日で、札幌に帰る前に北見の焼肉を食べて帰ろうと、ある焼肉屋に入って見かけたんです」

「そう言えば、戸塚さんも山をやるんでしたね。町村さんとも山に行かれた事があるんですか」

「いえありません。山が趣味だとは聞いていましたが、一緒に登ったことは無いです。社外に山友達がいたようでしたね」

 それがイニシャル「HT」の男のことだと空木は直感した。

 「その町村さんの山友達という人は、大日医療器材という会社に勤めている方ではありませんか」

空木と戸塚のやり取りを聞いていた石山田が、言葉を入れた。

 戸塚は、首を捻って「そこまでは分かりません」と答え、アイスコーヒーを口に運んだ


 戸塚からの話を聞き終えた二人は、ホテルの出口で戸塚と別れ、晩飯に近くの蕎麦屋に入った。店内は比較的空いていて、二人はビールと親子丼を注文した。

 「巌ちゃん、大日医療器材を良く覚えていたね。田代寛という人物の勤める会社だ」

「俺も刑事だからね。健ちゃんは事情を分かっているから話すけど、健ちゃんが小金井公園で町村さんと会った後、町村さんは田代寛に電話をしている事がスマホの履歴から分かったんだ」

「通話履歴に田代寛の名前が残っていたという事か」

「田代としか残っていなかったんだけど、その番号に直接電話をして本人に確認した。田代寛は大日医療器材の仙台営業所に勤めていたよ」

「札幌から仙台に転勤していたのか。つまり町村さんと親しい「HT」というのは田代寛という人物だったということか。その事はもう笹井さんには連絡したのかい」

 空木は、仙台という地名を聞き、およそ二年前失踪した山岡美夏の消息を知らせるかのように装った、四通の手紙の最初の一通の消印局が仙台だったことが頭に浮かんだ。

 「笹井さんも田代寛が仙台の営業所に勤務していることは承知していて、直接本人にも連絡しているそうだ。この前、健ちゃんから聞いた情報から分かったそうだ」

「‥‥巌ちゃん聞き取りに行くんだろ」

「来週の月曜日の朝に仙台まで行ってくる。笹井さんは先に北見へ行くとかで、まだ予定していないそうだ」

 二人は、運ばれて来た瓶ビールをお互いに注ぎ一気に飲んだ。

 「町村さんは、田代という人物と何を話したのかな。俺と二度と会わない、と言って別れた後だけに気になるな」

 空木は二杯目のビールも一気に空けた。

 「田代の話によれば、夏山の相談だったという事だよ」

「そうか、山友達と言うだけにもっともらしい話だな」

「尤もらしいか‥‥」

「俺の勝手な想像だけど、その電話は亡くなった山岡美夏さんの妊娠に関係した話だったんじゃないかと思っているんだ」

 空木は、小金井公園で町村に質問した場面を思い出していた。

 山岡美夏の失踪を知った時期について、会社の金の横領について、そして山岡美夏の妊娠の件を質問し、町村は全てを否定した。空木は最後に、親しい友人の「HT」とは誰のことなのかと聞いた時、町村は一瞬の躊躇の後、知らないと答えたが、その時脳裏には「HT」の男が浮かんだ。そしてその「HT」が山岡美夏を妊娠させた相手ではないかと想像したのではないか。田代に電話をしたのは、それを確認する為で、結果は町村が想像した通り、「HT」こと田代寛が妊娠させた相手だったのではないか。

 町村はそれを知って腹立たしかったのかも知れない。どうするか考える為に七ツ石山に登ったのかも知れない。そこで偶然にも自分に出会ったこともきっかけになったのかも知れない。そして山岡美夏の妊娠の相手を捜している探偵に、話す決心が着いた。

 空木がこの推理を石山田に話すと、親子丼を食べ始めていた石山田は箸を停めた。

 「妊娠の相手が田代だとしても、それが町村殺しにどう繋がる。動機は何だ、脅迫されたのか」

「‥‥山岡美夏の殺人の口封じだとは考えられないかい。罪を全て町村さんに被せての口封じということは考えられないか」

「‥‥あり得るな。でも健ちゃん、あの小金井の商業施設の駐車場に呼び出す人間は、ある程度の土地勘が無いと出来ない事だと思うけど、田代は仙台だぞ」

「‥‥大日医療器材の本社は東京だし、勤務経験があれば知っているかも知れないよ」

「‥‥聞き取りで確認する」

 石山田は、親子丼を食べ始めた。空木もビールを飲み終えて、親子丼に箸をつけた。

 「町村さんのスマホの履歴はそれだけだったのかい」

「いや、転落死した前日と当日の午前中に、発信者番号非通知っていう奴から一件ずつ入っていた」

「それも田代かも知れないな」

「だとすれば決定的だけど、公衆電話からかも知れないし、特定するのは難しいようだ。まずは参考人として当日のアリバイから確認だ」

 石山田は食べ終わり、水を口にした。そして一枚の写真をカバンから取り出して空木に見せた。

 「この写真の男が、あの日の町村さんが転落した時間の前後に、あの施設の防犯カメラに写っていたんだけど、これが田代寛だったらドンピシャなんだが‥‥」

 空木はその写真を手に取って、じっと目を凝らした。

 「‥‥これはバットケースだね。野球帽にバットケースならマッチはしているが‥‥。このケースの中にバットが入っていれば、町村さんを殴って落とせるという事か。ところでこの写真俺に見せて良いのか」

「健ちゃん野球部だっただろう。何か参考になる事が聞けないかと思って見せている訳だよ」

 空木は写真を石山田に返すと、また親子丼を食べ始めた。静かに食べている間、空木は何か考えているようだった。

 「巌ちゃん、町村さんは確か、背中に近い左の脇腹を殴られていたんだよね」

「そうだ」

「バットで思ったんだけど、殴った人間はもしかしたら左利きじゃないだろうか。町村さんが殴られた箇所を想像すると、右利きつまり右打ちなら前から殴らないとその箇所には痕は付かないと思うんだ。人間、前から殴られそうになったら何らかの防御姿勢を取るんじゃないか。でも後ろからならそういう訳にはいかない。突然殴られたとしたら後ろからだろう。後ろからあの個所を殴るとしたら左打ちだと思う。100%左利きとは言えないけど、左打ちには間違いないと思う」

「確かにそうだな。考え付かなかったよ、参考になった。ありがとう」


 石山田と別れ、事務所兼自宅に戻った空木が、パソコンのメールを開くと、万永まんえい製薬(株)上木うえきという名前でメールが着信していた。

 「お久し振りです。北見を担当している上木です。同期の山留やまどめからの依頼の田中先生の件ですが、直接私から送信することになりました」という前文から始まったメールは、田中秀己医師のラウンジ『やまおか』に行く頻度と、町村康之との関りについて書かれていた。

 『やまおか』には、月に一回大学の外科医局の会議の後、行っている。東菱製薬の町村という支店長には、一度だけ病院で挨拶されたようで、名刺が残っていた。私が先生に訊いた二つの事は、札幌の警察からも同じように訊かれたが、万永製薬が訊いてくるというのはどういうことなのか聞かれたため、退職して今は探偵をしている先輩からの頼み事で、内容は良く分からないと答えたところ、一度連れて来いと言われたが、東京に居るので難しいと答えておいた、と書かれていた。さらに追伸として、田中先生からは、自分よりも放射線部の部長の方が『やまおか』には行っている、と聞かされたと書かれていた。

 空木は、御礼と先生を怒らせてしまったことを詫びるメールを送信した。上木が田中医師にどんな訊き方をしたのか、どの程度親しい関係なのか分からないが、空木が調査を依頼したことで後輩の上木に迷惑が掛かっていることは間違いない事で、空木は安易に依頼したことを悔やんだ。


 翌週の月曜日、石山田と河村刑事は、約束の時間の九時に合わせて仙台駅から大日医療器材仙台営業所に向かった。

 東北三大祭りの一つに数えられる仙台七夕まつりの時期だったが、飾りは自粛の為か数は少なく、賑やかさは無かった。

 営業所は、広瀬通りが晩翠通りに突き当たる、西公園の交差点付近のビルにあった。一階が倉庫、二階が事務所として使われていて、石山田と河村はその事務所の応接室で田代寛と向かい合った。

 田代寛は、陽に焼けた顔に笑みを浮かべながら話し掛けた。

 「東京からわざわざご苦労様です。町村さんの自殺の事で私に聞きたいという事ですが、どんな事でしょう。先日、電話でお話ししましたが‥‥」

 石山田は軽く頷いて、手帳を開いた。

 「実は町村さんは、遺書を残していたのですが、それには「罪を償う」と書かれていました。その罪とは一体何の事なのか調べています。ご遺族には全く思い当たる事は無いという中で、北海道の時からのお付き合いで、亡くなる直前にも電話で話されている田代さんなら何か思い当たる事があるのではないかと思ったんですが、いかがですか」

 石山田は、昨日立川の蕎麦屋で、空木が言った「罪を背負わせての口封じ」をしたのが田代だとしたら、「罪」という言葉にどんな反応をするのか見たかった。

 「罪ですか‥‥」

 田代は眉間に皺を寄せて首を捻って考え込んだ。

 「私には全く見当がつきませんが‥‥」

「札幌の『やまおか』というお店に関係した事で思い当たる事もありませんか」

 『やまおか』の名前を聞いた田代は「えっ」と小さく声を出した。

 「刑事さんが『やまおか』をご存知だとは思いませんでした。町村さんとはあの店で知り合って何度かご一緒しましたが、思い当たる事は特にありません」

「そうですか。分かりました。ところで田代さんは仙台も単身赴任ですか」

「いえ、自宅は市内の泉区の八乙女やおとめという所でして、家族と一緒に住んでいます」

「東京に住んだことは?」

「一度もありません」

「ご家族も?」

「息子が東京の大学に通っていて、三年生です」

 二人は手帳にペンを走らせた。

 「息子さんは東京のどこにお住まいですか」

 河村が、石山田に代わって質問した。

 「通っている大学のある国分寺市だと聞いていますが、それが町村さんの自殺とどんな関係があるんですか」

 田代の口調は、不満と同時に怒気が込められていた。

 「立ち入った事までお聞きして申し訳ありません。我々刑事の悪い癖でして、勘弁してください」

 石山田が河村に代わって頭を下げて詫びた。

 「最後にもう一つ伺いたい事があります。町村さんが亡くなった七月二十五日日曜日の午後二時過ぎですが、田代さんはその時間はどちらにいらっしゃいましたか」

 石山田の質問に田代の顔が強張った。

 「町村さんは自殺ではなかったんですか」

「転落死は間違いない事実ですが、その直前に誰かと会っていたようなんです。我々としては、その方から事情を聞くことが重要だと考えています。従って、話を聞かせていただく全ての方に同じ事を聞いています。ご理解ください」

「誰かと会っていた‥‥‥私はその時間というか、その日は安達太良山あだたらやまに登っていました」

「安達太良山ですか?」

「福島県の山です。前日に麓のだけ温泉に泊まって、その日は朝から安達太良に登りました」

「どなたかと一緒でしたか」

「いえ」

「その山に登っていた事を証明出来る物はありませんか」

「そう言われても‥‥単独でマイカーで行きましたので‥‥。宿に確認していただければ分かる筈です」

 田代はスマホを取り出して、宿泊した宿の名前を二人に告げた。

 石山田は田代のスマホを見て、このスマホに非表示で発信した証拠が残っているかも知れないと思った。

 「田代さん、誠に突然で申し訳ないのですが、そのスマホの通話履歴を確認させていただけないでしょうか。最後に町村さんと通話した履歴を確認したいんです」

「‥‥‥」田代は一瞬の間を置いて、渋々通話履歴の画面を開いて石山田と河村に見せた。

「失礼」と言って石山田はスマホを手に取って見た。画面には、非通知で発信したという履歴は残っていなかった。

 「お手数をお掛けしました。ありがとうございました」

石山田はスマホを田代に返すと、名刺を取り出し、

「町村さんの事で何か思い当たる事があったら連絡して下さい」と名刺を渡し、「宜しかったら、田代さんの名刺もいただけますか」と言った。

 田代は用意していたのか、シャツの胸のポケットから名刺を取り出し、二人の前のテーブルに一枚ずつ置いた。

 その時、ドアがノックされ女子社員が、田代に電話が入った事を告げた。

 田代は「失礼します」と言って応接室を出ると、五分程して戻って来た。

 「田代さん、申し訳ありませんが、ご自宅の住所と電話番号をこの名刺の裏に書いていただけませんか」

 田代が不快な顔をするだろうと石山田は想像したが、田代は何かを考えているのか、何も言わずに言われたままに書いて石山田に渡した。

 「田代さんは左利きなんですね」

「ええ、そうです。そろそろ会議が始まるんですが、もう宜しいでしょうか」

 二人はソファから立ち上がり、田代に礼を言って営業所を出た。

 時刻は九時半を回ったところだった。


 河村が停めたタクシーに乗ると、石山田は運転手に「青葉城」と指示した。

 「係長帰らないんですか」

「時間も早いし、折角仙台まで来たんだから青葉城ぐらいは行こう。付き合え」

 タクシーは広瀬川を渡り、坂道を上って五分程で青葉山公園の駐車場に着いた。

 二人は仙台城、別名青葉城の本丸跡に建つ、伊達正宗公の騎馬像の前に立って、人口百万人の東北随一の大都市仙台市街を眼下に眺めた。

 「♬広瀬川流れる岸辺‥‥♬」

「河村、お前その歌知っているのか」

「曲名は知りませんが、親父がよく歌っていたんでここだけ知っているんです。仙台の歌なんでしょう」

「青葉城恋唄っていう曲だ。覚えておけよ。ところで、電話で呼び出されて戻ってきた後の田代の様子だが、おかしかったな」

「そうですね。心ここにあらずという感じでしたね」

「それであの田代という男を河村はどう思う」

「どう思うと言うと‥‥」

「町村さんをバットで殴って、駐車場から突き落とした犯人の可能性だよ」

「今日の話だけではそれはどうですかね。アリバイもありそうですよ。田代の名刺の指紋が遺書の指紋に一致でもすれば話は別ですが、遺書の指紋がかなり不鮮明の様ですからね」

 河村は、石山田が先週面会した戸塚治樹の名刺の指紋と、遺書の指紋の照合が出来なかったことを言っていた。

 「俺は、今日の話を聞いて疑いが深くなったよ。大学生の息子が国分寺に住んでいるということは、あの辺りの土地勘もある可能性がある。‥‥それに左利きだ」

 石山田は、空木が言った「殴った人間は左利きの可能性がある」という言葉が、左手で字を書く田代を見た瞬間に蘇った。

 「左利きですか‥‥」

 怪訝な顔をする河村に、石山田は、町村の背中に近い左脇腹についた殴打の痕について、左利きの人間が殴ったのではないかという空木の推理を説明して聞かせた。

 「なるほど、そういうことですか。係長、田代が泊ったという温泉宿で裏を取りましょう」

 石山田は腕時計を見た。

 「まだ時間も早い。今から行こう」

 二人は青葉山公園に停めていたタクシーで仙台駅に向かった。

 仙台駅から新幹線で福島駅に向かい、東北本線に乗り換えて二本松駅で下車した。そこから岳温泉まではタクシーで二十分程だった。

 田代は宿泊したと言った宿に、七月二十三日金曜日に電話で予約、二十四日土曜日の午後五時過ぎにチェックイン、翌七月二十五日日曜日の午前九時過ぎにチェックアウトしていた。宿から安達太良山の登山口の駐車場までは、車で二十分とかからないと宿の主人は言った。

 主人は田代には特別変わったところは無かったと言い、小振りのザックを背負っていたことぐらいしか記憶にはないと話した。

 「黒い細長いケースは持っていませんでしたか」

「いいえ、持っていなかったと思います」

「係長、バットケースを持ってきていたとしても、車の中に置いておくでしょう」

「それもそうだな。駅へ行こう」

 石山田は宿の主人に礼を言い、待たせていたタクシーに歩いた。

 「係長、田代は随分急に泊まる事にしたようですね」

「確かに急だが、山登りを急に決めたとしたらあり得る話だ」

「係長、九時半に宿を出たとしても、武蔵小金井に午後一時過ぎに着くことが出来ますよ」

 少し前から、スマホの画面を操作していた河村が、画面を石山田に見せながら言った。

 「調べてくれていたのか。アリバイは成立しないということにはなるが、武蔵小金井に行ったという証明にはならないからな‥‥」

「でも、山に登っていたと言う田代の話が嘘ということになります。なんとかいう山に登っていたと言ったのは本人ですからね。嘘が明らかになれば田代を重要参考人として聴取出来ますよ」

「‥‥よし、二本松の駅の防犯カメラを調べるぞ」

 石山田は、腕時計を見てタクシーの運転手に二本松の駅を指示した。

 駅に着いた石山田は警察証を駅員に提示し、事情を説明した上で防犯カメラの確認の協力を求めた。暫くして許可が出ると、二人は七月二十五日日曜日の午前九時三十分から十時十分までの間に、改札口に据えられたカメラに映った乗客を確認した。

 「この時間帯にここから乗れば、下りなら福島駅10:43発のやまびこ134号に、上りなら郡山駅10:37発のなすの272号に乗れます。それで武蔵小金井駅に午後一時過ぎに着くことが出来ます。このカメラに映ってさえいれば‥‥‥」

 二人は黙って目を皿のようにしてビデオを見た。

 「全ての人がマスクしているんで顔が分からん」

「係長、細長いバッグを持っている人もいませんけど、見事に女性と子供しかいませんね」

「車で小金井まで行ったのか‥‥」

「その可能性はありますが、駐車場のカメラには宮城ナンバー、仙台ナンバーの車は勿論、男性一人で運転している車は無かったですからね」

「‥‥河村、お前なら福島と郡山のどっちの駅を選ぶ」

「車で駅まで行くとしたら、東京に近い郡山駅を選びますが、調べるなら両方の駅を調べる方が良いでしょう。乗車しなければならない新幹線は分かっていますから、必ず見つかる筈です」

 二人は駅員に礼を言って下りのホームに向かった。

 福島駅の新幹線改札口の防犯カメラ、更には移動して郡山駅の防犯カメラの確認を二人が終えたのは、夜の八時を回っていた。両駅共に、田代らしき男は確認出来なかった。二人は念のため両駅の防犯カメラの記録媒体を持ち帰る事にした。


 石山田たちが、郡山駅から東京に向かっている頃、空木のスマホに山岡清美からメールが届いた。

 久し振りの清美からのメールに、空木は札幌の警察から連絡が入ったのかも知れないと想像したが、そうではなかった。

 そのメールに書かれていた事は、ラウンジ『やまおか』についての事でこう書かれていた。

 姉が亡くなった事が分かってから考えていた事だったが、今日店の経営を正式に永川咲に事業譲渡する契約をした。店の入っているビルの管理会社とも、契約者の名義変更手続きを済ませたとあった。その際に、気になる事があったので空木にメールをした。それは、永川咲の戸籍上の名前、つまり本名は四倉よつくら咲だったことと、管理会社との契約手続きの時、店の鍵とセキュリティーカードの数が、当初の契約の時の数から減ることなく揃っていたことが不思議だと書かれていた。そして最後に、空木が札幌に来てくれれば色々相談出来て嬉しい、と締めくくられていた。

 空木には、清美が何に気になるのか良く分からなかった。夜の店で本名ではない名前、源氏名げんじなで働く女性はたくさんいるし、鍵の数が契約通り揃っていることは当然で、何が気になったのか、意味が分からなかった。

 空木はその夜、久し振りに焼酎の瓶を手に、歩いて二十分程のところにある両親の住む実家に行った。


 翌日の朝、石山田が署に出て間もなく、札幌中央署の笹井から電話が入った。

 「昨日の田代寛氏の聴取で、こちらの事件に繋がりそうな話があればお聞きしたいと思って、厚かましくお電話させていただきました」

 田代との面会、聞き取りの前に、少しでも情報を持っておこうとしている笹井の真面目さが石山田にも伝わった。

 「笹井さんの期待に反して申し訳ないのですが、そちらの事件については触れないようにしていたこともあって、お伝えするような話はありませんでした」

「そうですか‥‥。それで、そちらの事件への関りはどんな感触ですか」

「これから浦島課長に報告して相談するつもりなんですが、私は個人的には、重要参考人というより、容疑者に近いと考えています」

「容疑者ですか‥‥」

「田代は以前からかなり頻繁に町村さんと連絡していたと思います。二人の間に何があったのか分かりませんが、ある男の推理によれば、『やまおか』のママの妊娠の相手は田代ではないか、その事が町村さんの転落死に何らかの関りがあるのではないかと考えているようです。私もその男の推理はあり得ると思います。田代の当日のアリバイも確たるものではありませんし、私はそこから切り崩して行こうと考えているんです。まだまだこれからですが」

 石山田は、話している言葉に力がこもってきたことを自身で感じた。

 「田代氏と町村さんが連絡を取り合っていた可能性が高いというのは、我々にとっても重要な点です。もし、田代氏が『やまおか』のママの妊娠の相手だとしたら、それは我々が捜している男です。重要参考人どころか死体遺棄の容疑者ですよ。ところで、ある男の推理と言われましたけど、それはひょっとしたら空木さんのことですか」

「当たりです。今夜も会うことになっています」

「やはりそうですか。宜しくお伝えください。札幌に来ることがあったら一杯やりましょう、とお伝えください」

「伝えます。ところで、笹井さんは田代からの聞き取りにはいつ行くんですか」

「それが昨日の午前中に電話したんですが、出張続きとかで金曜日まで延ばされました」

 石山田は昨日、田代からの聞き取りの時に掛かって来た電話は笹井からの電話だったのではないかと想像した。あの時、戻って来た田代は、「心ここにあらず」だったように見えた。

 「そうですか、お互い頑張りましょう」

 石山田のその励ましは、笹井に向けて言っているばかりではなく、石山田自身に気合を入れていた。石山田は力を込めて静かに電話を置いた。


 河村刑事とともに課長の浦島に報告を終えた石山田は、田代が小金井に土地勘がありそうなこと、そして左利きであることも含めて、田代が町村の転落死に関わっているという推理を浦島に伝えた。その推理はこうだった。

 札幌の『やまおか』のママ、山岡美夏の死体遺棄に絡んで、空木たちの追及を受け始めた町村は、山岡美夏を妊娠させたのは田代だと推測し本人に確認の電話をした。身の潔白を証明する為か、町村はその事を空木に話そうとしたが、田代はそれをめさせようとした。田代にとってその事を公にされると都合の悪い事があった。それは、家族に対してなのか、或いは山岡美夏の死体遺棄に関連しての事なのかは分からないが、とにかく公にされたくなかった。しかしながら、町村は田代の説得を聞かなかった。説得を聞かない町村を殺害することを決心した田代は、登山をアリバイに使うこと、町村を自殺に見せかける事を思いついた。転落殺害の日、田代は前日から宿泊していた宿を午前九時過ぎに出ると山には向かわず、車と新幹線を使って、町村を呼び出した武蔵小金井駅近くの商業施設に向かった。

 そこで用意したバットを使って町村の後ろから左脇辺りを殴打し、抵抗できない状態になった町村を駐車場の7階から突き落とした。そして、これも事前に用意した遺書を町村の車の中に置いた、というものだった。

 「係長の推理は、あたらずといえども遠からず、だと私も思う。ただ、現時点では何一つ証拠は無い。田代が山に登らずに新幹線を使って現場に来たという証拠も無いし、殴ったと言うバットも見つかっていない。遺書に残された指紋と田代の名刺の指紋が一致すれば良いが、遺書の指紋が不鮮明なだけに期待できないときてる。まず、登山していたというアリバイを崩して、田代の嘘を明らかにすることだ。そして次に凶器のバットを見つける」

 浦島は石山田に目をやり、次に河村の顔を見た。

 「駅の防犯カメラを何度も見て思ったんですが、あの黒くて長いバットケースを持って歩いたら目立ちますよ。行き帰りとも持っていたんでしょうか‥‥」

 河村が腕組みをして眉間に皺を寄せた。

 「それも一理ある。行きは持っていたとしても、帰りには何処かに捨てた可能性もある。少なくても家まで持って帰らないだろう。となると、見つけるのは難しいかも知れないな」

「課長、田代に土地勘があるとしたら、現地調達したとは考えられませんか」石山田だ。

「武蔵小金井の駅の近くにスポーツ用品店があるのか?」

「いえ、分かりません。分かりませんが、新幹線で移動してきたとしたら、当日の午後一時十分頃に武蔵小金井に着きます。近くにあれば出来るかと‥‥」

「ちょっと待って下さい‥‥」

 二人のやり取りを聞いていた河村は、スマホを開いて何かを見ていた。

 「ありましたよ。駅から歩いて五分程の小金井街道沿いにスポーツ用品店がありますよ。ただ、この店にバットとバットケースが置いてあるかですが‥‥」

「係長、直ぐに当たってくれ」

 石山田と河村は席に戻り、バッグを肩に掛け刑事課を出た。


 夕方からの捜査会議で、捜査員たちからそれぞれの捜査について報告された。

 東菱製薬本社の町村の所属する部署での聞き取りからは、自殺に繋がる話も、町村が人から恨まれる話も聞くことは無かった。

 札幌中央署からの情報で面会した、札幌支店長当時の部下だった戸塚治樹に関しても、石山田から聞き取りの結果、戸塚が一時的に町村を恨んだ時期もあったようだが、事件当日は実家のある札幌からの飛行機に搭乗して東京への帰途だったことが報告された。

 続けて石山田からは、田代寛について報告された。町村のスマホの通話履歴から浮かんだ人物である事、北海道にいた時からの友人であることが報告された後、当日のアリバイが証明出来ない事も含め、状況的には現状では重要参考人だと報告された。

 次に商業施設、駐車場、駅の防犯カメラでの捜査について報告された。商業施設のカメラに映っていた、黒く細長いバッグを肩に掛けた、ベースボールキャップの男は、武蔵小金井駅の改札口のカメラにも写っていた。その時間は日曜日の午後二時十八分と報告されたが、降車駅は特定出来ておらず、特定するためには全ての駅のカメラを確認しなければならず、しばらく時間がかかることも報告された。

 報告を聞いていた石山田が手を上げ、立った。

 「降車駅については、新幹線への乗換駅に重点を置いて調べて欲しい。東京駅の東北新幹線改札口、武蔵野線での移動を考えれば、西国分寺駅と武蔵浦和駅、それと大宮駅の新幹線改札口を調べて欲しい」

石山田は、田代の仙台への帰路を頭に描いていた。

 そして石山田は立ち上がったまま、今日の聞き込みで掴んだスポーツ用品店での情報を報告した。

 「七月二十五日日曜日の午後一時半頃、金属バット、バットケースそして野球帽を買った男がいました。マスクをしていて顔は覚えていないとのことでしたが、店主の印象に残っていたのは、話し方、イントネーションだそうで、自分と同じ宮城県の訛りを感じたとのことでした」

「その店でバットとケースを買った男が、商業施設の駐車場に行ったということか‥‥。その男は宮城訛りがあったということは、仙台に住んで居る田代寛の可能性が高いという事か」

 浦島は、確かめるかのように石山田に訊いた。

 「田代の生まれが宮城なのか確認出来ていませんが、聞き取りの時の印象は、標準語とは言えませんでした。ただ、本人は当日安達太良山に登っていたと言っていますから、現段階では購入者が田代だとは断定出来ません」

 石山田は浦島に答えたが、買ったのは間違いなく田代寛だと、胸の内では断定していた。

 最後に鑑識から、遺書から採取された指紋と、田代寛の名刺から採取した指紋は、やはり遺書の指紋が不鮮明のため判定できないと報告された。

 全ての報告が終わり、浦島が立ち上がった。そして、バットの購入者を特定すること。バットとバットケースの所在の捜索。田代寛の当日の足取りを徹底的に調べるよう指示が出されて捜査会議は終わった。


 その夜、石山田は河村と共に平寿司の暖簾をくぐった。

 空木は既にカウンター席に座って、ビールから焼酎の水割りに替えて飲み始めたところだった。

 石山田は空木の隣に座ると、河村を紹介した。

 「俺の係にいる河村だ。今日は健ちゃんと飲むと言ったら、一緒に飲みたいと言って付いて来たんだ」

「それは嬉しいね。俺と一緒に飲みたいという人間はそんなにいないからね。空木です、宜しく」空木はそう言って座ったまま頭を下げた。

「河村です。空木さんのお話しは係長からよく聞いています。国分寺東高校の同級生で、脱サラで探偵事務所を開いて大活躍しているとお聞きして、機会があればお会いしたいと思っていたんで、今日は付いて来てしまいました。宜しくお願いします」

 河村は世辞を交えた挨拶をすると、石山田の隣に座った。

 横並びに座った三人は、改めて乾杯のグラスを合わせると、鉄火巻きと烏賊刺しを注文した。

 「巌ちゃん、俺、北見へ行って来ることにしたよ」

 空木は正面を向いたまま、石山田の顔を見ずに話し始めた。

「例の店のママを妊娠させた相手の調査ということかい」

「それもあるけど、俺がある事を調べて欲しいと頼んだばっかりに、先生を怒らせてしまって後輩に迷惑を掛けているんだ。詫びに行って、ついでに焼肉食べて、山にも登って来ようってことだよ」

「金はあるのか」

「ある時払いで親父に借りた。情けないが仕方が無い」

 空木は自嘲気味な笑みを浮かべ、水割りを口に運んだ。

「何故そんなに頑張るんだ?」

「‥‥‥」

 石山田の問いは尤もだと空木は思った。何故頑張るのか、空木自身もその問いに明確に答えることは出来そうも無かった。

 山岡清美という聾者ろうしゃの期待に応えようとする思いと、人の役に立ちたいという空木の想いが重なり、精一杯の仕事をしなければならないと思っているのか、ただ単に自己満足を求めてのことなのか、はっきりした答えは出てこない。ただ、空木は「く生きる」という言葉が好きで、その意味は、目の前にある現実に全力で向き合う、ということだと空木は思っている。そして、多分その思いが北見に行かせるのだと。

 「ところで、田代はどうだった」

「大学生の息子が国分寺に住んでいて、土地勘はありそうだ。それと、左利きだった」

「‥‥‥当日のアリバイは?」

安達太良山あだたらやまに登っていたそうだ」

「誰かと一緒だったのか」

 空木の問いに河村が石山田の隣から顔を覗かせた。

 「いえ、単独だそうです。前日からマイカーで、麓のだけ温泉の宿に泊まって、七月二十五日日曜日は朝九時過ぎに宿を出て、その山に登ったそうですが、それを証明する物も、証明してくれる人もいないと言うところです」

「安達太良山には、俺も仙台支店にいる頃二度ほど登ったことがあるよ。1700メートルの頂上まで、歩きなら二時間半、ロープウェイを使えば一時間程度で着く。往復歩けば四時間半、ロープウェイで往復なら二時間弱だろうけど、登ったとしたらその日の午後二時までに武蔵小金井駅に来て、町村さんを転落させるのは不可能だな」

「そうなんだ。登っていれば不可能なんだ。逆に登っていなければ間に合う。小金井のスポーツ用品店でバットもバットケースも買う時間があるんだ」

「小金井でバットを買っているのか」

「田代と言う証拠は無いが、宮城訛りの男がその日の午後一時半頃バットとバットケースそれと野球帽を買って行った。車で移動して来たとは考えられない。新幹線で来た筈なんだ」

 石山田は、ビールを立て続けに一杯、二杯と喉に流すと、鉄火巻きを一気に平らげた。

 「それで係長と二人で、二本松、福島、郡山の駅の防犯カメラで田代らしき男がいないか調べたんですが、見つけられませんでした」

 河村もビールを飲み干し、グラスに手酌で注いだ。

 「‥‥新白河の駅は調べてないのかい」

「新白河?」

「那須塩原駅まで調べてみたら、とは言わないけど、田代が仕事上東北を管轄しているんだったら、新白河の駅も使っている可能性があるし、あの駅は俺も行ったことがあるけど、高架下の駐車場も広いし、時間さえ間に合えば使い易い駅だと思うよ。それと高速道路を使っていれば、Nシステムでルートが掴めるんじゃないのか」

「田代の車のナンバーは署を出てくる前に、宮城県警に調査を依頼したところだから、Nシステムで調べられるまでもう少し時間が掛かるが、新白河駅の防犯カメラなら明日にでも行ける。河村、明日行こう」

 石山田の声掛けに、河村は全く反応せず、スマホの操作に集中していた。石山田が、焼酎の水割りを手に「おい河村」とまた声を掛けた。

 「新白河駅発10:50で間に合います。岳温泉から新白河駅まで車で高速を使えば、一時間二十分で行けますよ。明日行ってみましょう」河村の声に力が入った。

 「田代の指紋の照合は出来た?」

「田代の名刺から指紋は取れた。取れたんだけど、遺書の指紋が家族の指紋と重なっていて不鮮明で、照合できない状態なんだ。指紋は期待できない」

「そうか、仕方ないね。ところでその田代の指紋だけど、札幌の笹井さんに送ってあげたらどうだろう。俺の推理が当たっていれば、山岡美夏さんが残したという置手紙から採取された指紋と一致する可能性があるよ」

「笹井さんも今週金曜日に田代に会いに行く予定らしいから、その前に照合できれば、聴取する内容も目的も変わってくるだろうな。明日手配するよ」

 石山田が、河村に顔を向けると河村は承知した、というように頷いた。

 「もし、一致したら田代は死体遺棄と転落死の両方の容疑者ということになるのか」石山田が確認するかのように空木に聞いた。

「そういう事になる。もしそうだとしたら、田代は死体遺棄の口封じに町村さんを転落死させた可能性があるね。死体を二人で遺棄したのかも知れない」

「‥‥仲間割れか」

「その可能性もある」

 町村にとっても、田代にとっても山岡美夏は邪魔な存在だった。二人で共謀して美夏を殺害して、失踪したように見せかけ発見を遅らせる事を考えた。四通の手紙の最初の一通は、田代が仙台から投函し、残りの三通は東京から町村が投函し、さも美夏が生きているように見せかけた。羊蹄山の麓に死体を運び、埋めるのは一人では大変だが二人なら何とかなる。そして何があったか分からないが、仲間割れをした田代は、罪を町村に背負わせて自殺に見せかけて殺害した。何が二人に起こったのか、二年間仲間割れはしなかったのに、町村が空木たちに会った後、田代に電話をしてから何かがあった、仲間割れする何かが。

 空木が飲みながら黙って考え込んでいると、烏賊刺しを摘まみながらひたすらビールだけを飲み続けていた河村が訊いた。

 「空木さんに伺いたいのですが、犯行に使ったバットは犯行後どうしたと思いますか。持ち帰ったと思いますか」

 河村の質問に空木は我に返った。

 「‥‥私なら、持ち帰らないですね。往路同様、帰路でもバットケースは目立ちます。捨ててしまいたいところですが、電車で移動となるとそう簡単に捨てることも出来ないでしょう。人目がありますからね。私が考えるとしたら、置き忘れにする事ですかね。仮にバットが入るロッカーがあったとしても長期間の放置は出来ないですが、車内か駅の構内、若しくはトイレへの置き忘れならありそうな事ですし、たとえ探し物の問い合わせが来なくても、担当者が不思議に思うのはほんの一時でしょう。それに、もし証拠としてのバットを回収しなければまずいとなったら、置いた日時も場所も分かっている訳ですから回収も出来るということです」

「なるほど‥‥係長、JRの遺失物を当たりましょう」

 石山田は頷いた。

 「念のため、バットの入るロッカーが乗換駅にあるのかも調べさせよう」

「犯人が取りに来る前に見つかると良いんですが‥‥」

「いや、受け取りに来ていたら、住所氏名が残っている筈だ。もしそれが偽名だとしても筆跡も含めて重要な証拠になる」

「巌ちゃん、もしバットが見つかったら犯人が取りに来るのを待ったら良いんじゃないか」

 二人の話を聞いていた空木が、ボソッと呟くように言って、新しく作った焼酎の水割りを口に入れた。

 「うーん、それも良いけど、いつまで待てば犯人が取りに来るのか分からないぞ」

「係長、田代に我々がバットを捜していることを気付かせたらどうでしょう。動くんじゃないですか、犯人だったらですが」

「‥‥笹井さんに協力してもらおうか」石山田は呟いた。

 時計に目をやった石山田が、ちらし寿司を注文すると、河村はおまかせ握りを注文した。

 「もう帰るのか」

 二人の注文を聞いて空木は寂しそうに訊いた。

 「ああ、明日も忙しくなるからね」

 石山田の返事に、空木は「俺も明日は病院の付き添いだ」と言って嶋寿司特製のパスタを注文した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る