第10話 影
東京オリンピックが開幕して一週間が経過した水曜日、東京は朝から本降りの雨となった。
石山田は、刑事課長の浦島とともに刑事課一係の刑事たちと、小会議室で今後の捜査方針を打ち合わせた。
浦島から、石山田ら刑事たちに、自殺死とした町村康之氏の背部に近い左脇腹に、鉄パイプのような硬いもので殴打されたような痕が残されていた事。そして遺書が自筆ではなく、ワープロで作成された物であることから、町村氏以外の何者かが、当日の商業施設の駐車場の転落現場に居た可能性が否定出来ない事。加えて町村氏は、二年前に札幌で発生した死体遺棄事件の参考人として、聴取を受ける寸前だったことから、このタイミングでの自殺死には札幌中央署の捜査本部も興味を持っている。以上の事から、自殺か他殺か断定出来ない中では捜査本部は置けないが、一係だけでの捜査を始めることとした、と伝えられた。
そして、残されていた遺書の改めての指紋の採取、スマホの通話履歴の確認、家族からの聞き取りが指示され、さらに、商業施設の駐車場を含めた防犯カメラの確認、店員への聞き込みによる不審者の洗い出しが指示された。
「課長、鉄パイプのような硬い物というと金属バットも含まれるんですか」
若い河村刑事が質問した。
「そうだ。金属バットに限らず野球のバット、ハンマー、鉄棒のような硬い物で、太さが5センチ程度の硬い物をイメージしてくれ」
「転落した付近にはそれらしき物は無かったと思います」
「町村さんの車の中にもそれらしき物は無かった」石山田だ。
「鉄パイプみたいな物を持ち歩いていたら目立ちますよ。車であの駐車場まで来たと考えられますが、車を全て調べる事になりますね」
「いや、全て調べる必要は無いだろう。町村さんが転落した時刻午後二時十分の前後一時間の時間帯で、家族連れや夫婦二人だけの車を除いて調べたらどうだ」
「‥‥それで車は絞れても、鉄パイプのような物を車内に入れていたかどうかを調べるのは、捨てたり隠したりしている筈ですから不可能じゃないですか」
河村刑事は石山田に顔を向けた。
「‥‥凶器については後回しにして、町村さんと面識、接点が有るのか無いのかだけでいいんじゃないか」
「それで良い。人手も少ない中だ、まずは地取りで何らかの影が見つかるかどうかから始めよう」
浦島課長の言葉で、石山田たちは席を立った。
同じ水曜日、札幌は気温三十度を超える真夏日の晴天だった。
雨の東京から札幌中央署に戻った笹井は、出張報告書とともに課長の飯住に、国分寺署の町村自殺に対する見解と方針を説明し、提供された町村康之の指紋のコピーを渡した。そして、報告書には書けない空木の推理と、その空木が気になるというイニシャル「HT」の存在、更にはその人物からの聴取をしてみたらどうか、と言う空木の提案を伝えた。
夕刻の五時三十分から「羊蹄山麓死体遺棄事件捜査本部」の戒名が貼られた会議室で、捜査会議が開かれた。
副本部長の飯住が、捜査本部設置後一週間で入手した情報を纏め報告した。
被害者の山岡美夏のマンションの住人への聞き込みからは、二年も前のことでもあり何の情報も得られなかったが、中央産婦人科医院からは、山岡美夏が二年前の八月二十日に受診し、妊娠二カ月と診断され、妊娠届出書も医院から発行されていた事が確認できた。さらに、中央区役所では山岡美夏に、母子健康手帳が発行されていたことも確認できた事が報告された。
「課長、母子手帳を貰いにいったという事は、出産するつもりだったと考えて良いんでしょうか」
「そう考えて良いだろうな」
「しかし、部屋の捜索からは母子手帳は見当たりませんでした。母子手帳があれば相手の男が分かったかも知れませんね」
「父親欄に名前が書いてあればな。とは言えその母子手帳そのものが無いんだからどうにもならない」
「‥‥しかし、妊婦は普段から母子手帳を持ち歩くんでしょうか。普通は家に置いているように思いますが‥‥」
「恐らく誰かが持ち去ったんだろう。父親であることを知られたくない人間が持ち去った。それが一体誰なのか知っていたかも知れない参考人は、東京で遺書を残して死んでしまった。笹井係長、その死んでしまった参考人について皆に報告してくれ」
笹井が椅子から立ち上がり手帳を開いた。そして、深堀和哉と山岡清美からの情報を基に会おうとした、町村康之が「罪を償う」という遺書を残して自殺した事を話した上で、その自殺に関しての国分寺署の見解と今後の方針を報告した。さらに笹井は、『やまおか』の客の中で町村康之と親しいと思われている、イニシャル「HT」の二人から聴取して見る必要があることを、空木の名前を出さずに自分の仮説として説明した。そして最後に、山岡美夏の置手紙の指紋と町村康之の指紋は一致しなかったことが付け加えられた。
「その町村という男が残した遺書の、「罪」が何を指すのか定かではない上に、指紋も一致しなかった現状では、その町村という男を犯人と決めつける事も出来ない訳ですね。しかし、我々にとってその町村という男は、大事な参考人だった訳で、聴取出来なくなったのは痛いですね」
そう言ったのは、細身で長身の高島という刑事で椅子から立ち上がってさらに続けた。
「その自殺が国分寺署の見立て通り、もし見せかけだとしたら、罪を全て負わせての口封じのための殺人で、その
「現状ではそうとは決めつけられないが、町村氏の転落に関わったとしたら、その関り次第では重要参考人という事にはなると思う」
笹井は高島刑事に答えた。
座っていた飯住が、椅子から立った。
「東京で起こった事は、管轄の国分寺署に任せるしかない。我々は、山岡美夏の死体を遺棄した犯人の捜査に集中する。被害者の妊娠に関わった人間が事件の重要人物で、その男を捜す事に全力を挙げてくれ。それじゃあ次に『やまおか』の客への聞き込みについて報告してくれ」
今度は、長身の高島刑事が立ち上がって手帳を開いた。
「月曜から今日までの三日間で、手分けして五十人以上の客に当たりましたが、目ぼしい情報は得られませんでした。私の当たった客も含めて全員が、山岡美夏が失踪したことは知りませんでした。ママが代わったと思っていたとか、今のママ、つまり永川咲がずっとやっていたと思っているようでした。まだ名刺の数の三分の一程度しか当たっていませんから、もうしばらく当たる必要がありますが、期待する情報が聞けるかどうか‥‥。それで笹井係長が言われたイニシャル「HT」の二人への聞き込みを優先したいと思いますが、ただ、係長の言われた田中秀己と田代寛という人物の名前ですが、『やまおか』の名刺ホルダーの中にはありませんでした」
「無かった‥‥」笹井が思わず呟いた。
「その二人が『やまおか』の客なのかどうかを確認しておく必要があると思います」高島は飯住に向けて言った。
腕組みをした笹井が、高島の顔を見て頷いた。
報告を聞いていた飯住が、高島に代わって立った。
「客への聞き込みは続けるとして、店には改めてその二人の確認と、山岡美夏の妊娠について詳しく聞き込んでみてくれ。二人への聞き込みは笹井係長が直接やった方が良いだろうから頼む。それと町村氏の札幌時代の職場での状況と、ラウンジ『やまおか』を知っている人間の有無を調べてみてくれ」
飯住の指示を受けて、捜査本部に集まっていた捜査員たちは、それぞれの捜査に散った。
笹井は空木から書き留めたイニシャル「HT」の二人、田中秀己と田代寛の連絡先を高島刑事に伝えた後、高島が無かったと言った『やまおか』の客の名刺ホルダーのコピーを自ら確認した。確かに二人の名刺は無かった。
時刻は午後七時を回ったところだった。
笹井は高島に「今から『やまおか』に行こう」と言って席を立った。
二人が『やまおか』のドアを開けたのは、夜七時半頃だった。時間が早い所為なのか、繁華街に出る人間が少ないのか店内に客の姿は無かった。従業員はチーママの永川咲と早出のホステスが二人いた。三人はカウンター席に座って談笑していたようだった。
永川咲は「いらっしゃいませ‥‥」と席から立ったが、見覚えがあったのか笹井を見て「‥‥刑事さんでしたね」と招いた。
「突然で申し訳ありません。急いで確認したい事があってお邪魔しました。田中秀己というお医者さんと田代寛という会社員は、店の客かどうか確認したいんです。名刺の中にはその名前は無かったんですが、いかがですか」
笹井は手帳を開き質問した。
「ええ、お二人ともうちのお客さんですけど、田代さんはもうしばらくお見えになっていないような気がします。田中先生は月に一度ぐらいは来られます。お二人がどうかしたんですか」
「お二人に何かあった訳ではありませんが、お二人に聞きたい事がありまして‥‥。これは、あなたに真っ先に聞くべき事なのでお聞きしますが、白骨化死体で発見されたママの美夏さんは、妊娠していました。我々はその相手を捜しているんです。あなたは美夏さんが妊娠していた事をご存知でしたか」
「えっ、美夏ママが妊娠。本当ですか、知りませんでした。妹の清美さんは知っていたんでしょうか、私には何も言ってくれませんでした。相手は一体‥‥」
永川咲は口に手を当てたままだった。少し離れて座っていた二人のホステスも咲の様子を見つめていた。
咲は相手の男に心当たりはないか、という笹井の質問に暫く考えていた。
「‥‥ママを目当てに来るお客さんは多かったんです。でもママの浮いた話は一度も聞いたことはありませんでした‥‥。ユミちゃんはどう?」
咲は二人のホステスの一人に声を掛けた。
笹井と高島がそのホステスに目をやると、咲が「ユミちゃんはこのお店に長くいるんです」と言葉を足した。
「美夏ママがお客さんとそんな仲になるなんて、私にも信じられないです」
ユミというホステスはそう言うとカウンターの中へ入って行った。
「ところで刑事さん、名刺が無かったのに田中先生と田代さんの名前をどうして知ったんですか」
暫く考えていたようだった咲は、思い出したかのように笹井を見て聞いた。
「空木という東京の探偵です。ここにも来ているそうですからあなたも会っていると思いますよ」
「‥‥ああ、清美さんと一緒に来られた方ですか。そう言えば、あの時二人に名刺を見せて返してもらった時に、ホルダーに戻し忘れたんだわ」
カウンターの中に入っていたユミが、冷たい飲み物を持って三人の前に置いた。
「もう二年も前の事なのではっきり覚えている訳ではないんですが、美夏ママが必ず付くお客さんがいたように思います」と咲は飲み物を一口飲んだ。
「町村さんでしょ」咲の話にユミが応えた。
「そうそう、町村さんだわ。町村さんにはママは必ず付いていたわね」
「町村さんというのは、東京に転勤された東菱製薬の町村康之さんのことですか」
笹井は即座に質問した。
「そうです。刑事さんは町村さんをご存知なんですか」
咲は少し驚いたように笹井を見た。
「‥‥町村さんは先日の日曜日に亡くなりました」
「えっ‥‥‥」
咲もユミも顔を見合わせ、言葉を失った。
翌日、笹井は田代寛の勤務先の大日医療器材に、高島は北見の
「係長、田中医師は『やまおか』のママの行方が分からくなったのを知ったのは、一年半位前だそうで、それ以上のことは知らないと言っています。町村康之のことも、名前に記憶は無いが東菱製薬の支店長なら挨拶程度はしているかも知れない、と言っていますが、どうしますか、直に話を訊きに北見まで行ってみますか」
高島の問いに笹井は答えずに、
「‥‥田代寛は、今は札幌には居ないそうだ。一年程前に仙台営業所の所長で転勤していた。仙台の営業所にも電話してみるが、出向くかどうかは、北見も合わせて課長と相談だ。いずれにしても両方とも遠いな‥‥。取り敢えず今日は、今から東菱製薬の札幌支店へ、町村の周辺の情報を聞きに行こう」
二人は札幌中央署を出て、大通を西へ歩いた。
例年なら大通公園には、いくつものビール会社がそれぞれにビアガーデンを開き、休日は勿論のこと平日でも人々が集い、北海道の短い夏を満喫し、楽しむ声が溢れているのだが、今年もそれは無く夏の陽ざしだけが例年通り暑く降り注いでいた。
東菱製薬の札幌支店は、大通り西11丁目にあるビルの7階に入っていた。
予め連絡を受けていた総務課長が笹井と高島を応接室に案内した。
「亡くなった町村部長の事で、お聞きになりたいというのはどんな事でしょう」
名刺を笹井と高島に渡した北原という総務課長は、二人の様子を探るかのように切り出した。
笹井は、東京で空木から聞いた金銭横領の話は、胸の奥にしまっておくことにした。
「町村さんの札幌支店長当時の事を聞きたくてお邪魔したんですが、町村さんはススキノのラウンジ『やまおか』というお店に良く行っていたようなんですが、その辺りの事をご存知の方がいらっしゃらないかと思って来たんですが、北原さんは分かりますか」
笹井は北原の名刺に目を落としながら尋ねた。
「私は町村部長とは入れ替わりにこの支店に来たので、その辺の事は全く分かりません。町村部長の支店長時代を知っている人間がいますので呼んで来ます。しばらくお待ちください」
北原は応接室を出て数分後、フチなしの眼鏡をかけた恰幅の良い男を連れて戻って来た。
「
八巻には札幌支店業務推進部長という肩書がついていた。
「八巻さんは、町村さんがラウンジ『やまおか』に良く行っていたことはご存知でしたか」
改めて座り直した笹井は、テーブルに八巻の名刺を置き、眼鏡のズレを直した。
「その店には、私は当時の町村支店長とは一度行ったきりでしたが、支店長は卸の幹部の接待には良く使っていたようです。その店は、町村支店長以外は使っていませんでしたし、支店長が転勤した後は、会社としても全く使っていないと思います。その店が町村部長が亡くなったことと関係しているのですか」
「いえ、そういう訳ではありません。あの店の亡くなったオーナーママの事で、町村さんにお話を伺いたかったのですが‥‥。それで、もしかしたら町村さんから、あの店の事を何か聞いている方が会社の中にいらっしゃらないかと思ってお邪魔した訳です」
「それでしたら、残念ながらそんな話を聞ける人間は一人もいないと思います。あの店を知っている社員はもう誰もいませんしね」
「「もう」、ということは知っている社員さんが以前はいた、ということですか」
高島が八巻の「もう」という
「ええ、私が知る限りでは一人だけいましたが、その社員も店を知っているというだけで、当時の支店長から店の事を聞いているとは思えません。町村支店長はその『やまおか』には社員は滅多に連れて行ったりしませんでしたし、社員も支店長の行きつけの店には行きにくかったと思いますよ。当時、町村支店長には北見にも一軒お気に入りの店があったようですが、そこは私も含めて誰も知らないくらいでしたからね。町村さんはそういうお店を行きつけにするのが好きだったんだと思います」
「その方は今どこに居らっしゃるんですか」
「東京支店の多摩営業所の所長をしている筈です。確か二年半前に異動で東京へ転勤して、まだ東京に居ると思いますから」
「宜しかったらその方のお名前を教えていただけませんか」
高島は聞き取りの流れとして、一応名前を聞くことにして手帳を開いた。
「戸塚所長のフルネームは‥‥」と、八巻は総務課長の北原に目をやった。
北原は「ちょっと待って下さい」と言って、応接室をでると、直ぐに戻って来た。
「治樹です。
笹井も手帳に書き留めた。
手帳に書き留めていた高島が「係長、戸塚治樹、「HT」ですよ」と小声で囁いた。
「その戸塚さんは、山登りはしませんか」
笹井は、偶然とは言えイニシャル「HT」の戸塚治樹の名前を聞いて、空木の言っていた町村と同じ山登りの趣味を持つ「HT」という話が頭に浮かび、
「さあ、分かりませんが、彼は道産子ですから山も登るかもしれませんが、どうでしょうね」
八巻が腕時計に目をやるのが笹井の目に入った。
捜査本部に戻った笹井から報告を受けた飯住は、一人増えて三人になった「HT」への対応について笹井と協議し、北見と仙台の「HT」は笹井と高島で対応することとした。そして今日新たに加わった東京の「HT」こと戸塚治樹については、国分寺署に情報提供するとともに、転落死した町村康之の会社関係者として聴取を依頼することにした。
札幌中央署から戸塚治樹の情報とともに聴取の依頼を受けた国分寺署刑事課一係は、その日町村康之の家族からの改めての聞き取りをするとともに、遺書と町村個人のスマホを参考品として持ち帰った。
地取り捜査の刑事たちは、商業施設の店員たちへの聞き込みを行うとともに、店内と駐車場の防犯カメラの記録媒体を持ち帰った。
そして石山田が聞き取りをした町村の妻の話では、町村はオリンピック開幕日の先週の木曜日、空木という男性からの電話の後に出かけたが、帰宅後ブツブツと独り言を言ったり、考え込んだりしていつになく機嫌が悪かった。そしてその後、誰かに電話をしてからは、落ち着いた様子で普通に家族一緒にオリンピックの開会式を最後まで見ていた。
土曜日の七ツ石山への山行は、前日に決めたらしく、車を一日使うからと妻に話し、変わった素振りは全く感じられなかった。
遺書に書かれた「罪を償う」の意味が、未だに自分たち家族には全く分からない。一家の大黒柱を失ったショックに加えて、この言葉が家族を一層
この石山田からの報告を聞いた浦島は、眼鏡のレンズを拭いてかけ直した。
「スマホの履歴を調べる必要があるな」
「調べました。先週の木曜日の通話履歴は一人しかいませんでした」
「誰なのか分かるのか」
「ええ、スマホに登録されていたようで、田代という人物です」
「田代?」
「フルネームまでは分からないので断言は出来ませんが‥‥」
石山田はそう言うと、手帳を開いて、平寿司で空木が笹井に話していたイニシャルHTの二人のうちの一人、「
「町村氏が電話をした田代という人物が田代寛かどうかは別にしても、田代という人物と町村氏がどういう関係なのか調べてみる必要はある。その履歴の人物がどこの誰なのか確認しておいてくれ。スマホからはそれ以外には情報は?」
「情報と言えるかどうか分かりませんが、転落死する前日と、当日の午前中に、発信者番号非通知での着信が記録されていました」
「通話しているのか」
「ええ、両方とも短時間ですが話しています」
「非通知か‥‥」浦島が呟いた。
受話器を置いた石山田が、椅子に座ったまま顔だけ浦島に向けた。
「課長、田代という人物はやっぱり田代寛でした」
「本人と連絡が取れたのか」
「ええ、大日医療器材という会社の仙台営業所に勤務しているそうで、町村さんの死亡はテレビのニュースで知ったそうです」
「木曜日の電話については?」
「それも聞きました。北海道にいた時からの山の友人で、夏山の相談の電話が架かって来て話したと言っていました」
「北海道の時からの繋がりか‥‥」浦島は眼鏡をかけ直した。
「札幌中央署に情報を入れておきますか」
浦島は、石山田の言葉を聞いて思い出したように「あ、そうだった」と小さく声を上げた。
「札幌中央署から町村氏に関係する男の情報が入ったんだ」
浦島は机の上のノートを開いた。
「東菱製薬の多摩営業所の所長をしている男で、戸塚治樹という人物だそうだ。この人物もイニシャル「HT」だとか言っていて何の事か分からなかったが、さっきの係長の話で凡そ分かった。それでこの人物から『やまおか』のママの妊娠について聴取して欲しいと言って来ている。うちとしても、この人物と町村氏との関係を知りたいところだから聴取に行ってくれないか」
石山田は、「分かりました」と、浦島から伝えられた戸塚治樹の勤務先の電話番号を手帳に書き留めた。
この日の捜査ミーティングが終わると同時に、石山田の携帯が鳴った。スマホの画面には空木健介と表示されていた。
「仕事中だったのか、申し訳ない」
「今、一段落したところだから大丈夫だよ。飲みの誘いか」
「いやそうじゃなくて、実は今日、札幌の笹井さんから連絡があってね、町村さんの周辺にもう一人の「HT」がいた、と言って来たんだ」
「健ちゃんにも笹井さんは連絡したんだ。義理堅いと言うか、律儀なんだな。うちにもその話は連絡してきてくれたんだ」
「笹井さんもそれは言っていたよ。それでその戸塚治樹という人物なんだけど、俺の知っている人なんだ」
「友達なのか」
「いや、友達じゃあないんだけど、札幌でMRをしていた時、同じ病院を担当していた知り合いなんだ。向こうは出世して所長に昇格したから、MR仲間でいた期間は長くはないけどね」
「なるほど、そういう事か。それで?」
「それで、町村さんの事で聞き取りに行くんだったら、俺も一緒に行かせてくれないかと思って電話したんだ。笹井さんからの依頼で聞き取りに行くんだろ」
「いくら健ちゃんの頼みでも、突然そう言われても‥‥」
石山田の困惑した言い方に、空木は石山田の弱り顔を想像した。
「戸塚さんの顔も、事情も知っている俺が一緒にいた方が、巌ちゃんにとっても都合は良いと思うけどな。浦島課長に頼んでくれよ。俺は山岡美夏を妊娠させたのは、町村さんじゃないと思っている。俺の仕事として、戸塚さんにも会って聞いてみたいんだ。ダメなら一人で会いに行くよ」
「‥‥分かった、課長に相談はしてみるけど、期待はするなよ」
石山田は電話を切ると「やれやれ」と呟いた。
翌日の金曜日、前日の聞き込みでは有力な情報を得られなかった国分寺署の刑事たちは、朝から商業施設の店内と駐車場の防犯カメラの分析を続けた。
正午前、町村康之の遺書からの指紋採取に関して、鑑識課から報告があった。それによれば、町村の指紋は採取されず、採取されたのは町村の家族の指紋に加えて、判然とはしないものの町村とは別人と思われる指紋が採取されたとのことだった。
鑑識課からの報告を受けた浦島と石山田は、遺書から町村の指紋が採取されなかっただけでなく、別人の可能性のある指紋が採取されたことで、遺書は町村が作成して車に置いたものではなく、別人が作成し、町村が転落した後、車内に置き残したものである可能性が高いと判断した。
このことから町村の転落は、自殺に見せかけた殺人である可能性が高くなったと考え、警視庁刑事部と協議した上で、国分寺署内に署長を本部長とする捜査本部を置くことになった。
午後から会議室の入口には、「小金井商業施設転落死捜査本部」という戒名が貼られ、国分寺署刑事課に近隣警察署からの応援も加わり、二十人余の捜査員による捜査となった。
午後三時過ぎになり、防犯カメラの分析を続けていた捜査員から、店内カメラに写り込んでいた男の写真数枚が捜査本部に上がって来た。
その写真には、白っぽいズボンに半袖のポロシャツ姿で、ベースボールキャップにマスクをした男が歩いているところが写っており、その男は黒っぽい細長いバッグを肩に掛けていた。その男は、施設の出入り口と7階のエレベーター昇降口のホールの二か所の防犯カメラに、七月二十五日日曜日の午後一時四十三分から午後二時十五分の間に計四回に亘って写り込んでいたが、その顔は全く判らなかった。
「係長、この男をどう思う」
浦島は、石山田に意見を聞いた風だったが、それはある同意を求めているかのように石山田には聞こえた。
「‥‥
「この黒っぽい細長のバッグは何だと思う」
「‥‥恐らくですが、野球のバットケースではないかと思います」
「‥‥バットケースだとしたら、この中にバットが入っている訳か」
「町村さんを殴打した硬い物は、バットかも知れませんね」
「係長、はっきりとした影が見えたな」
浦島は「よし」と言って席を立った。
夕方から始まった国分寺署の捜査本部の会議で、捜査員全員に防犯カメラに写り込んだ、バットケースらしきバッグを持った男の写真が渡された。
副本部長の浦島からは、殺人と断定は出来ないものの、その可能性が高いこと、しかし殺人だとしても怨恨なのか、何なのか現状では動機は全く分からない事が話された。そしてまず、事件当日の午後一時三十分から午後二時三十分頃の間に、駐車場から入出場した全ての車の所有者を洗い出し、7階駐車場で写真の男らしき人物を見なかったか聞き込みをするよう指示が出された。さらに、武蔵小金井駅付近の防犯カメラの分析と、町村康之の職場関係者からの聞き取りで事件の動機に繋がる情報が無いか、鑑取り捜査の指示も出された。
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