第9話 無言の連絡

 朝のテレビのニュースでは、オリンピックの日本人選手の活躍を報じていた。

 空木がトーストとコーヒーの朝食の用意をしている背中で、テレビのニュースが東京都小金井市の商業施設からの飛び降り自殺を報じ、コロナ禍の中、経済的な理由から、また精神的な孤立感から自死を選んでしまう人々が増加していると報じていた。

 空木は自分の住むこの東京多摩地区でも、身近に苦しんでいる人たちがいるんだと思いながら、背中でニュースを聞きつつ久し振りにトレーニングジムへ行く支度をした。

 ジムでウエイトトレーニングをしていた午前中は、スマホへの着信はなかった。

 蕎麦屋で昼食を済ませ部屋に戻った空木は、仕事用の手帳を開き、ラウンジ『やまおか』で書き留めたイニシャルHTのもう一人を確認した。田代寛たしろひろし、大日医療器材(株)札幌営業所長と書き留めてはいたが、調べる術もなく何のアプローチもしていなかった。

 空木はパソコンに大日医療器材と入力し、検索ボタンを押した。

 大日医療器材の本社は東京で、年商は百五十億弱だった。その規模が医療器材を扱う業界の中で、どの位置付けになるのか空木には今一つピンとこなかったが、東京本社の他に札幌、仙台、新潟に営業所を拠点として持つことから、東日本を中心に営業活動をしている会社のようだった。

 二人のHTのうちの一人、田中医師は町村との繋がりがある可能性が出てきたが、登山の趣味は無さそうだ。この田代という男はどうなのだろう。直接電話で聞いてみる方法も無くはないが、見ず知らずの探偵を名乗る、怪しい男からの問い合わせに答える人間が、果たしているだろうかと考えるとやはり躊躇した。

 パソコンの画面をネットのニュース画面に切り替えてスクロールした時、朝のテレビニュースで耳に入った、飛び降り自殺と思われるニュースが空木の目に入った。

 地元の多摩地区で起こった自殺のニュースを、空木はクリックした。そしてその記事を読んで目を疑った。自殺して死んだのは、会社員の町村康之さん五十二歳と書かれていた。

 自分に連絡をすると言っていた町村が自殺した「そんなバカな、本当にあの町村さんなのか」と空木は呟いた。

 町村は、七ツ石山で偶然出会った空木に思いがけず声を掛けてきて、話したい事があると言った。一体何を話すつもりだったのか。

 空木の抱いていた一抹の不安とは、こんな事だったのだろうか。いや、こんなことになるとは予想もしていなかった。ただなんとはなしの漠然とした不安だったのだが、まさかこんな事が起こるとは。

 町村は自殺をするほど何かに追い込まれていたのだろうか、誰かに追い込まれていたのだろうか。まさか自分が追い込んだのか。

 空木は、町村の死を確かめる為、高校の同級生で国分寺署の刑事の石山田の携帯に電話を入れた。

 「小金井で飛び降り自殺したのは、貫井ぬくい北町が住所の町村康之さんに間違いないのか確かめたくて電話をしたんだ」

 いきなりの空木からの問い合わせに驚いたのか、石山田は答えるまでに一瞬の間が空いた。

「‥‥死亡したのは町村康之に間違いないけど、健ちゃん何故住所まで知っているんだ。知り合いなのか」

「知り合いというか、俺の仕事上で関りがある人なんだ。ほら一月前位に、巌ちゃんにも話した行方不明者の手掛かりを掴むために面会した人なんだけど、‥‥本当に自殺なのか」

「‥‥「本当に」とはどういう意味なんだ」

「事故とかじゃなくて、本当に自殺なのかっていう意味だよ」

「遺書も残されていた。自殺と判断しているけど、気になる事でもあるのかい」

「気になるというより、信じられないんだ。近々会って話す約束をしていた人なんで、自殺するとは思えなくて巌ちゃんに電話した訳だよ」

「会う約束‥‥‥、それは何時いつの話なんだ」

 空木は、二日前の土曜日に偶然七ツ石山で町村に出会い、休みが明けたら話したい事があるから連絡をすると言われた事を話した。

 石山田は、「ちょっと待ってくれ」と言うと誰かと相談しているようだった。

 「今、課長と相談したんだけど、死んだ町村さんについてもう少し話を聞かせて欲しいので、明日にでも署に来てもらえないだろうか」

「‥‥明日は、仕事で病院への付き添いがあるから行けそうにもないんだ。今日これからなら行けるけどダメかい」

「そうか、それは大事な収入源の仕事だな‥‥」と石山田は言って少し間が空いた。

「じゃあこれから来てくれ、待っているよ」

 電話を終えた空木は、「遺書か‥‥」と呟いた。

 空木は、遺書の内容によっては町村の自殺の原因が、掴めるかも知れないと考え、町村自殺の一報を入れようとした深堀への連絡は、警察へ行った後にすることにした。それにしても自殺と判断した警察が、町村について知りたいと言っているのは何故なのか腑に落ちなかった。


 国分寺署に着いた空木が、石山田に案内されたのは取調室だった。取調室を経験するのは空木にとって初めてで「ここで?」と小声で聞いた。

 「ごめん、ここしか空いていなかったんだ。気にするな」

「気になるよ」と入るのを躊躇った。

「課長、空木さんです」石山田は構わずに課長の浦島に紹介して、空木に浦島と向かい合う椅子に座るよう案内した。

「刑事課長の浦島です。忙しいところ来ていただいてすみません。おまけに会議室も面会室も塞がってしまって、こんなところしか空いていないもので申し訳ありません」

 この人が、札幌中央署から情報を聞いてくれた石山田の上司なのか、と思いながら「空木健介です」と言って名刺を差し出した。浦島も名刺を空木に渡しながら「あなたが石山田係長の同級生の空木さん、探偵事務所の所長さんですか」と返した。

 「自殺と判断している我々が、何故あなたから改めて町村さんに関しての話を聞きたいと思っているのか、不思議に思われているでしょう」

 笑みを浮かべて話していた浦島の眼鏡の奥の目が、鋭く光ったように空木には見えた。

 「実は今日の午前中、札幌中央署から町村康之さんについて問い合わせがありました。あちらでの死体遺棄事件の参考人として聴取をしたいとのことでしたが、亡くなったと伝えたら言葉を失っていました。そんな事があってのあなたからの石山田への電話でした。我々としては、町村さんの自殺という判断は変わっていませんが、町村康之という人物がどういう人間で、どういう状況に置かれていたのか知っておく必要があると考えました。それであなたに来ていただいたという訳です」

 浦島の説明を聞いた空木は、納得した。それと同時に、深堀和哉の話を聞いた札幌中央署は、町村を参考人として聴取しようとしていたことを知るとともに、町村の自殺のタイミングが偶然と言うには余りにも不自然なことのように思われた。

 「健ちゃん、いや空木さん、二日前に奥多摩の山で町村さんに偶然出会ったと言っていましたが、最初に会うことになった経緯いきさつから全て話してくれませんか」

 石山田の真面目な話し方に、空木は笑いそうになるのをこらえた。

 空木は、北海道在住のあるクライアントから、二年前の行方不明者の手掛かりを調べて欲しいという依頼を受け、東菱製薬本社の部長の町村康之に面会した事から始まって、札幌で警察に出向き、行方不明者が白骨化死体で見つかるきっかけになった事までを話した。

 「その時、俺に札幌中央署の対応を知りたいと相談して来た訳で、課長が協力してくれたということだね」

 石山田が納得した風に、横に座っている浦島に目をやると、浦島は頷いた。

 空木はさらに、行方不明者が残した経営していた店に関するノートから、町村がその店を利用して会社の金を横領していた疑いが出てきた事。そしてその行方不明者が失踪直前妊娠していた事が判明すると、妊娠の当事者である疑いも持たれたことから、クライアントの知人と一緒に町村に面会して、小金井公園で話を聞く事になった。その二日後、七ツ石山で偶然に出会い「話したい事があるから連絡する」と思いがけず言葉を掛けられた事までを一気に話した。

 「小金井公園では二度と会わないと言っていた本人から、その二日後に話したい事があると言うのは妙だけど、その時の町村さんの様子はどんな感じだったのかな」

 石山田の問いに空木は首をかしげた。

 「‥‥普段の町村さんを知っている訳じゃないから何とも言えないけど、小金井公園で話した時より落ち着いていたと思う」

「自殺するような雰囲気は無かったということか」

 自殺をする雰囲気とはどんな感じなのか、石山田の質問に空木は背もたれに背中をつけて溜息を洩らした。恐らく思い悩み続けてうつ状態から希死きし願望が生じるのだろうが、そんな状態の人間が趣味の山登りに来るのだろうか。空木には疑問に思えたが「分からない」と答えた。

 「巌ちゃん、町村さんは遺書を残していたそうだけど、遺書にはどんな事が書かれていたのか教えてもらう訳にはいかないかな」

 石山田は、どうしますか、という様に浦島の顔を見た。浦島が頷くのを確認して手帳を開いた。

 「「罪を償います」とだけ書かれていた。何の事か分からなかったが、健ちゃんの話を聞いて「罪」の意味がっすらと見えてきた気がするけど‥‥」

 遺書の内容を聞いた空木は、また首を傾げた。罪を償って自殺をしようとする人間が、その前日に「話したい事がある」とは、一体何を話したかったのか、「罪」の懺悔をしたかったのだろうか。だとしたらその罪の中身を遺書に書き、詫びる思いも書きそうなものだが‥‥。それにしても自死によって償おうとする罪とは、一体何だろう。会社の金を横領していた罪なのか、美夏を妊娠させたことなのか。そう言っては何だが、その両方とも死を以って償わなければならないこととは思えない。死を以って償う過ちとして考えられるのは、唯一美夏の死に関わった事への償いを意味していると思うが‥‥。

 「遺書は自筆で書かれていたんですか」空木は浦島の目を見た。

「いいえ、プリンターで印刷されたものでした」

 浦島はそう言うと眼鏡をかけ直して溜息を吐いた。

 「死体遺棄事件を追っている札幌中央署も、解決の糸口となるかも知れなかった人物を失ったことになる訳ですが‥‥」

 浦島の言葉を聞いた空木は、もしもこんな形で美夏の死体遺棄事件の幕が引かれてしまったら、妹の清美は納得できるのだろうか。姉の美夏が、何故死ななければならなかったのかが分からないままで、仕方が無いと諦めがつくのだろうか。

 取調室での話を終えた空木を、石山田は玄関まで見送った。

 「健ちゃんこれから平寿司かい」

「今日は月曜で平寿司は休みだし、宅飲みするよ」

「もしかしたら、また話を聞かせてもらうかも知れないけど、その時はまた連絡するから頼むよ」

 石山田の「また」という言葉が、空木の耳に残った。


 事務所兼自宅に帰った空木は、冷蔵庫から缶ビールと貝柱の水煮の缶詰を取り出した。一口飲んだところで、空木は深堀和哉への連絡を思い出した。

 町村が死んだことを連絡すべきなのか、町村が残した遺書の内容を深堀に伝えるのか、躊躇ためらったが、いずれ深堀には連絡しなければならないと思い直し、メールを打った。

 「町村康之さんが七月二十五日日曜日に亡くなりました。遺書を残しての飛び降り自殺とのことでした。遺書には、「罪を償います」と書かれていたそうです。清美さんには深堀さんからお伝えください」と送信した。

 その夜の九時過ぎ、深堀和哉から空木のスマホに連絡が入った。

 「メールを見ました。驚いたというよりショックです。町村さんから空木さんへの連絡が、まさかこんな事になるとは思ってもみませんでした」

「清美さんにはもう伝えられたんですか」

「いえまだです。空木さんに話をお聞きしてから伝えようと思っているんですが、その遺書に書かれていた罪というのはどういうこと何でしょう。それが分からないと清美さんには伝えられないと思っています」

「それが私にも分からないんです。死んで償う罪ということから考えれば、それ相当の罪を想像しますが‥‥」

「やっぱりそうですか。お姉さんを殺して死体を山に埋めたのは町村で、その罪を償うための自殺ということでしょうか‥‥」

「警察がどう判断するのか分かりませんが、美夏さんの死体遺棄の犯人が、町村さんだと断定すれば、清美さんに連絡が来る筈です」

「そうですね、分かりました。清美さんには空木さんからのメールを転送するだけにします。後は、空木さんの言う通り警察からの連絡を待つように伝えます」

 電話を切った空木には、釈然としない思いが一層膨らんだ。町村が犯人だとしても、一人で全てやった事なのだろうか、共犯者はいなかったのだろうか。そして町村が自分に話したかった事とは何だったのか。


 空木の話を聞いた国分寺署の浦島と石山田は、刑事課室に戻ると、町村康之の検死結果報告書を読んだ。

 死因は、転落にる全身打撲のショック死とされ、脳挫傷、肝臓破裂も認められたとあり、死体の写真も添付されていた。

 「これは何でしょう‥‥」

 石山田が留意点と書かれた部分を指差した。

 それは死体の左脇腹から背中にかかる辺りに、径5センチ程の赤黒く変色した部分の写真とともに、第七肋骨を骨折しているが、落下時の打撲、骨折とは考えにくく、落下前に何らかの打撃を受けた結果の打撲、骨折と考えられる。という説明書きがされていた。

 検死に携わった鑑定医は、石山田からの問い合わせに、鈍器のようなもので殴打された痕の可能性が高く、それは鉄パイプのような硬いもので、ある程度の太さを持ったものではないか、という見解を話した。

 「課長、これはあくまでも私の推測ですが、町村さんは、何者かに殴られて倒れたところを、あそこから落とされたと考えられないでしょうか」

「肋骨が折れる程強く殴られたら、動けないどころか気絶するかもしれない。そしてワープロで印刷された遺書は、その何者かが自殺に見せかける為にあらかじめ用意しておいた物ということか」

「どうしますか、課長‥‥」

「単純な自殺と判断したが、札幌中央署からも詳しく事情を聞いてみる必要がありそうだ。それと町村の家族にも話を聞いてみることにしよう」

「現状では、捜査本部を立ち上げることも出来ませんから、私の係だけで内偵という形で動くしかありませんね」

「そうしてくれ。署長には私から話しておく」と浦島が席を立とうとした時、浦島の机の電話が鳴った。

 浦島の話しぶりから、石山田は浦島の友人からの電話のように思えた。受話器を置いた浦島は、椅子から立って石山田に言った。

 「札幌中央署の捜査第一課長からの電話だ。町村の自殺の件で話を聞きたいと言って来た。それと町村の両手の指紋が欲しいそうだ。明日の午後、笹井という係長がうちに来ることになった。うちにとっても都合は良い。署長に話してくる」浦島はそう言うと腕時計に目をやり、急ぎ足で署長室に向かった。


 札幌中央署から笹井が国分寺署に着いたのは、翌日の午後二時少し前だった。

 笹井は、署長に挨拶した後、会議室で浦島と石山田の二人と机を挟んで向かい合った。

 石山田から町村康之の自殺についての状況説明と、検死結果の所見について説明を聞いた。

 七月二十五日日曜日午後一時四十分頃、町村は自宅を車で出た。家族には、武蔵小金井駅近くの商業施設に買い物に行くと言って出かけた。発見者は商業施設駐車場の入口係員で、午後二時十分頃、駐車場西側の施設敷地内でドスンというにぶい音がした。様子を見に行くと男が倒れているところを発見、通報。男が町村康之と判明したのは、施設が閉店した後、七階駐車場に残された車の車内に残された免許証からだった。車内には免許証の他に財布、スマホがセカンドバッグ内にあった他、助手席にはワープロで書かれた遺書が置かれていた。

 検死結果の報告書は、町村の指紋、鑑定医の所見、留意点と共に笹井に見せられ、町村の指紋のコピーは別に渡された。

 「ご承知だと思いますが、死体遺棄の参考人として話を聞こうとした矢先の自殺ですので、我々捜査本部としてはこの遺書を見てどう判断すべきなのか難しい案件です。この町村という人物が、死体遺棄に関わったのかそうでないのか分からない状況で、遺書に書かれた「罪」という文言だけで事件に関わった犯人と断定する訳にはいきません。それにしても結果的に、事件のカギを握る人物が死んでしまったのは非常に残念です。ただ、この指紋がもしかしたら事件に関わった証拠になるかも知れません」

 笹井は検死結果の報告書と遺書のコピーを石山田に戻すと、渡された指紋のコピーをバッグの中にしまった。

 「笹井さんたちの捜査本部が、亡くなった町村さんから話を聞くことにした理由は、何だったのですか。差支さしつかえが無かったら聞かせていただけませんか」石山田が訊いた。

「ある人からの情報提供なんです」と言ってから、深堀和哉と山岡清美から伝えられた、町村に関する話をした。

「その情報の真偽を確認しながら、死体遺棄に繋がる新たな情報が手に入らないかと思って会うことにしたんです。何しろ二年近く前の事件で手掛かりが無い中での情報でしたから、捜査進展の第一歩になればと思う気持ちがあったんですが‥‥」

「その情報を提供した人間というのは、東京の探偵ではありませんか」

 石山田の問いに、笹井は不思議そうな顔をした。

 「‥‥そうではないのですが、情報の元は東京の探偵だと聞いています。石山田さんはその探偵をご存知なんですか」

 石山田は隣の浦島に、話を続けて良いかと聞くかのように顔を向け、目を合わせてから話を続けた。

 「実は私たちも、その探偵から町村さんについての話を聞かせてもらっています。その時、今笹井さんが話された事を聞きました」

 笹井は眼鏡のズレを直すようにフレームをずり上げた。

 「‥‥しかし何故、話を聞くことになったのですか」

 石山田はまた浦島に顔を向けた。浦島は頷き、笹井同様に眼鏡をズレを直した。

 「その探偵は空木というんですが、町村さんが亡くなる前日に奥多摩の山で偶然出会ったそうなんです。その時町村さんから「話したい事があるから休み明けに連絡する」と言われたという事で、我々のところに亡くなったのが本当に町村さんなのか、確認の電話があったんです。ちょうどその日の午前中には、札幌の捜査本部からも町村さんに関する電話もあったことから、我々としても町村さんに関する話を聞いておこうという事にした訳なんです」

「町村さんが、その探偵に話したい事があると言っていたんですか‥‥」

 笹井は深堀から聞いた「町村さんは全て否定した」という話を思い出していた。全てを否定した人間が、改めて会って話したいこととは一体何だったのか考えた。

 「‥‥町村さんは一体何を話したかったんですかね」

「空木もそれが知りたかったんでしょうが、残された遺書はこの通りで全く分かりません。ただ、空木の話を聞いて、町村さんは前日までは自殺する意志は無かったのではないかと考えています」

「罪を悔やんで発作的に飛び降りたという事ですか」

「‥‥‥」

「もしかしたら誰かに‥‥」

「現時点では全く分かりませんが、内々に調べてみたいと思っています」石山田が応じた。

「それで今後、札幌中央署のご協力をお願いすることがあるかも知れませんので、飯住課長に宜しくお伝えください」浦島が石山田の言葉を継いだ。

「課長には国分寺署の方針を話しておきます。ところで、その空木という探偵には以前私も札幌で会っているんですが、改めて話を聞くことは出来ませんか?」

 笹井は、石山田たちの話を聞くうちに、空木が山岡美夏の失踪から死体遺棄されるまでをどう推理しているのか聞いてみたいと考えていた。

 「今日の今すぐは無理ですが、夜なら会えるかも知れません。笹井さんは、今日の予定は?」

「今日のうちに札幌へ戻るつもりでしたが、会えるのなら明日の午前中に帰署すれば大丈夫です」

「課長、今晩笹井さんを食事にお連れしたいと思いますが、宜しいですか」

「そうしてあげてくれ」と浦島が答えると、石山田は「了解しました」と言って浦島に敬礼した。


 どんよりとした一日も日暮れを迎えた。東京郊外に位置する多摩地区は緑が多く、ビル街の暑さ程ではないとは言え、笹井にとっては札幌の日暮れ時の涼しさに比べて、この蒸し暑さは辛かった。

 石山田と笹井が、平寿司と書かれた暖簾をくぐって店に入ると、奥の小上がりから「お疲れさま」と言って、手を上げる男がいた。空木だった。

 「健ちゃん早かったな。病院の付き添いの仕事は無事終わったのかい」

 石山田は空木に言葉を掛けると、笹井を小上がりに案内した。

 「笹井さん、例の探偵の空木健介です。この男は、私とは高校の同級生なんです」

「そうだったんですね。道理で空木さんの名前を呼び捨てで呼んでいたりしたんですね。空木さん久し振りです、笹井です。札幌でお会いして以来です」

 笹井は軽く頭を下げて、小上がりに上がった。

 「その節はお世話になりました。改めて空木です。宜しくお願いします」

 空木は清美と共に、札幌中央署で会った時に笹井が見せた自分への怪訝な目と態度とは、全く違う笹井のやさし気な言葉に少し戸惑った。

 三人は、運ばれて来たビールをそれぞれのグラスに注ぎ、小さく「乾杯」と声を上げ、喉を鳴らした。

 「石山田から聞きましたが、笹井さんが私に聞きたい事があるというのはどんな事でしょう」

 空木は酔う前に話を済ませたいという思いから、石山田から連絡を受けた際に聞いていた笹井の用件について、早々に切り出した。

 ビールが空になった空木のグラスに、注ごうとして持ったビール瓶を笹井はテーブルに置き直した。

 「あくまでも参考までに、ということなのですが、現時点では我々より空木さんの方が、情報を持っているようなので、山岡美夏さんの失踪から死体遺棄までを、空木さんはどう見ているのか聞かせていただきたいんです」笹井は手帳を用意した。

「私のような探偵の推理が、何かの参考になるのでしたら喜んでお話ししますが、その前に私からも一つ聞いておきたい事があるんです」

「何でしょう」

「山岡美夏さんの死体遺棄事件の捜査本部を札幌中央署に置いたのは何故ですか。白骨化死体が発見された現場は、俱知安くっちゃん警察署管内の羊蹄山の麓ですよね」

「‥‥‥」

「笹井さん、空木が札幌中央署に捜査本部が置かれた事を知っているのは、うちの課長を通じて知った情報を私から伝えたからなんです。空木も成り行きが心配だったようで、悪く思わないで下さい」

 石山田は笹井の一瞬の躊躇ためらいが、空木が言った「捜査本部」情報にあると、咄嗟に気配を感じて言葉を継いだのだった。

 笹井は「なるほど」と頷いた。

 空木は「あ、そうか」と、石山田に向かって両手を合わせ「ごめん」と小声で言った。

 「空木さんの疑問は流石さすがと言うか、尤もだと思います。まず、死体が遺棄されたと判断したのは、空木さんもご存知のように、遺体は靴も履かずに羊蹄山の麓に埋められていたためですが、それだけなら空木さんの言う通り、本部は俱知安署に置くことになります。ただ我々は美夏さんの部屋の捜索から、遺体が札幌のマンションの部屋から運ばれた可能性が高いと判断しました。その判断を道警本部とも相談した結果として、札幌中央署に捜査本部を置くことになりました」

「‥‥何故、自宅の部屋から運ばれたと推測したんですか」

「それは妹さんが、部屋の靴箱に残された被害者の靴を見て、ジーンズで外出する時に履いていたサンダルもスニーカーも残っていると言われたんです。両方とも残っていることだけで、部屋から運び出されたとは断定できませんし、他の場所から運ばれた可能性もありますが、我々としては自宅マンションの部屋から素足で運ばれた可能性が高いと考えました。それともう一つ、被害者が残していったという置手紙から、被害者と思われる指紋と妹さんの指紋以外に別の指紋が採取されました。その指紋は、鑑識としては指の太さから男性の可能性が高いとしています。いずれにしても、被害者の死因は不明ですが、失踪した前後に札幌方面本部管内での被害者の年齢相当の女性の救急搬送はされていないことからも、事件性も視野に入れて捜査が必要と判断した訳です」

 笹井は一通り話をすると、ビールグラスを口に運ぶと一気に飲み干し「フー」と息をついた。

 「良く分かりました。しかし笹井さん、二年も前の置手紙から指紋が取れるんですか?」

「ええ、プラスチックとかガラス、金属なんかで出る事はないんですが、紙は出るんです。保存状態によっては十年前の紙からも取れますよ。今回の置手紙も、妹さんしか触れていない状態で、保存されていましたからきれいに取れたようです」

「なるほど、それで町村康之の指紋が欲しいと言われたんですね」

石山田が思い出したように言葉を挟んだ。そして一瞬の間をおいて「あの遺書も‥‥」と独り言を言った。

「町村康之の指紋と置手紙の指紋が一致すれば、被害者の失踪と遺棄に関わったことが濃厚になるんですが‥‥。宜しかったら空木さんの話を聞かせていただけますか」

 笹井は眼鏡を掛け直して空木に訊いた。

 「私は、山岡美夏さんは二年前の九月、失踪したのではなく何者かに殺害され、羊蹄山の麓に遺棄、埋められたと思います。失踪直後の手紙を含めた四通の手紙は、生きているかのように見せかけ続けて発見を遅らせ、あわよくば死体遺棄の時効となる三年間発見されないように、仮に発見されても身元が分からないようにするためだったと思います。四通の手紙の消印が仙台から東京にしているのも、あたかも生存しているかのように思わせるためだったのではないでしょうか」

「確かに死体遺棄の時効の三年を狙っていたのかも知れませんが、我々にとっては二年という年月も、捜査の上では高い障壁になっています。それで殺害の動機の見当はついているんですか」

「‥‥動機は二つ考えています。一つは金銭絡み、もう一つは妊娠に絡んだ男女の問題なのではないかと思っています。金銭については、亡くなった町村さんが『やまおか』への支払いを利用して、東菱製薬つまり自分の会社の金を横領していたのは間違いないと思います。町村さんは、二年程で二百万円近くを水増し請求の形で着服していた筈です。美夏さんの残したノートに書かれていたYMというイニシャルの後の数字は、水増しして町村さんに渡さなければならない金額を書いていたものだと思います」

「‥‥それは何のために書き残したんでしょう」

「美夏さんは、YMは金に汚いと何度もノートに書いているところを見ると、累計でいくらになるのか記録しようと考えたのか、それとも何時いつかそれを使って町村さんを脅そうとしたのか分かりませんが、不正に加担してしまった美夏さんは後悔していたかも知れません。いずれにしろ町村さんにとっては、不正を知っているのは美夏さんだけですから、美夏さんがいなくなれば不正は絶対にバレないという意味では、殺害の動機になると思います。もう一つは美夏さんの妊娠です。その相手が誰なのか、独身者か妻帯者か、妊娠したことを知っていたのかどうか、その相手が置かれている状況によっては、美夏さんの妊娠は歓迎できない、予期せぬ出来事だったかも知れません」

「その相手は誰だと思いますか。町村さんですか」

「誰なのかは分かりませんが、私は町村さんではないと思います。面会した時の様子からは、美夏さんとは肉体関係に無かったと思いました。その相手が誰なのか分かれば‥‥」

「我々もその相手が失踪の鍵を握っていると見て、捜査を進めていく方針です」

 空木は、笹井が注いでくれたビールを飲んだ後、バッグから手帳を取り出した。

 「笹井さんも美夏さんの残したノートを読まれたと思いますが、美夏さんが病院に行くと書いた日の最後に書かれていた意味不明な「MYアスタリスク448」という文字というか、記号が気になったんですが、笹井さんはどう思いますか」

「書かれていたと思いますが、あのノートにはイニシャルのようなものがたくさん書かれていて、何の事なのかさっぱり分かりませんでした。妊娠した事と関係あると思いますか」

「‥‥そんな気がするんです。それと、町村さんが私に話したい事があると言ったのは、美夏さんの妊娠についてではなかったかと思うんです」

「何故ですか」

「私と深堀さんの二人で町村さんと公園で話した時、町村さんは私の質問に全て否定されました。美夏さんの失踪を当初から知っていたのではないか、会社の金を水増し請求によって横領していたのではないか、それと美夏さんの妊娠の相手ではないか、の三つなんですが、その三つの中で、真実を話しても町村さん自身に害を及ぼさないのは、美夏さんの妊娠の相手についての話だけです。他の二つは否定し続けるしかない筈です。それを私に話そうとしたのではないかと思います」

「しかし空木さん、何故その話だけ真実を話す気になったと思うんです」

「それは、全てを否定したままでは、疑われ続けて追及され続ける。自分の身に覚えのない事だけは話しておく方が、身を守れると考えたんではないでしょうか」

「でも健ちゃん、そうだとしたら町村さんは、公園で話しても良さそうだし、山で出会った時に話しても良かったんじゃないのか」

 二人の話を聞いていた石山田が、空のグラスを手持無沙汰に持ちながら聞いた。

 「‥‥そこなんだよ。町村さんは美夏さんの妊娠については全くの初耳で、公園でそれを聞いた時には咄嗟には思い浮かばなかったが、冷静になると思い浮かんだんだ。そして山で偶然俺と出会った。でもそこでも話さなかった。‥‥考えられることは、町村さんはあの翌日、つまり自殺する日に誰かと会って、その事を確認してから俺に話そうとしたんじゃないか、だから休み明けに連絡すると言ったんだ」

「確認する‥‥」

「町村さんが美夏さんの妊娠相手だと思い浮かんだ人間かも知れない」

 三人は改めてビールをグラスに満たし、それぞれの前に置かれた鉄火巻きを口に運び、刺身に箸を伸ばした。

 焼酎の水割りセットを用意した店員の坂井良子は、普段とは違う空木の様子に「雨が降って来ましたよ」とだけ言葉を掛けて小上がりのテーブルから離れた。

 「石山田さん、町村さんの死体の左脇腹には、何かで殴打されたような痕が残っていましたね」

「直接の死因ではありませんが、鉄パイプかハンマーのような何か太さのある硬い物での打撃痕がありました」

 焼酎の水割りを作っていた空木が手を停めた。

 「巌ちゃん、ということは、町村さんは自殺ではないということなのか」

「そうとは断定出来ないが、その打撃痕が何時いつつけられたものなのかは重要だ。それで課長と相談して捜査を始めることにした」

「空木さんの推理通りだとしたら、町村さんは会っていた男がいる。その男が町村さんの死にも、我々の死体遺棄にも関係している可能性が高いということになりますね」

「そういう意味では我々の捜査は、笹井さんたちの捜査に影響することになるんですが、我々は、捜査本部が置けないので人出が少なくて、時間が掛かると思います。笹井さんたちの捜査の見通しはいかがですか」

「何しろ二年前の事件ですから、物的証拠も少ないですし、地取りも鑑取りも期待は薄いというのが正直なところです。こうなると町村さんから話が聞けなくなったことは痛いです。取り敢えず『やまおか』の客を地道に当たるしかありません」

 三人分の水割りを作り終えた空木は、二人の前に水割りを置いた。

 「健ちゃん、何か良い考えはないのかい」

 空木は焼酎の水割りを飲み、烏賊刺しを口に運んだ。

 「‥‥俺の希望的推測なんだけど、美夏さんの残したノートの中で、死んだ町村さんと『やまおか』の客の中で親しいと書かれていた「HT」というイニシャルの客に当たってみたらどうだろう。ママの美夏さんと深い関係になっていた男を、町村さんが知っていたとしたら、その「HT」という人物から何か聞けるかも知れない」

「イニシャルHTですか‥‥」

「ええ、『やまおか』の客の名刺ホルダーでは二人いました。勿論名刺以外の客もいるかも知れませんが‥‥」

 空木はそう言うと、また手帳を開いた。

 「田中秀己たなかひできという医師と、田代寛たしろひろしという会社員です」

「空木さん、署に戻れば名刺のコピーで確認出来るのですが、その手帳を拝見させていただけますか」

 空木が「どうぞ」と手帳を笹井に見せると、笹井は二人の名前を手帳に書き留めた。

「北見の病院の医師と、医療器材会社の社員ですか。二人とも確かに「HT」ですね。ありがとうございます」

 笹井は読み上げながら、手帳を空木に返した。

 「二人とも町村さんと同じ医療関係者、何か出てくるといいな。健ちゃん、北見に行って来たらどうだ」

 石山田は、二杯目の水割りを飲み始めていた。

 「北見の焼肉か。食べたいところだけど先立つものも無いし、行けないな」

親父おやじさんのスネがあるだろう」

「馬鹿なこと言うなよ。四十四にもなって親父に焼肉食いたいから「金」くれ、は無いだろう」

「ハハハ、それもそうだ」

 笹井も、石山田の笑い声につられるように笑った。

 「笹井さんも巌ちゃんも、これからが大変だけど頑張って下さい」

 空木がグラスをかかげると、笹井も石山田もグラスを掲げた。

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