第8話 容疑者

 笹井たちが、山岡美夏の部屋の捜索から持ち帰った置手紙からは、笹井たちの期待通り山岡清美以外の指紋も複数採取された。しかし、それが死んだ美夏の指紋なのか、別人のものなのかは、死体が白骨化しているため判別は出来なかった。ただ鑑識の報告書には、指紋の指の太さから一つは男性の可能性が高いとされた。

 札幌中央署の刑事部捜査第一課課長の飯住いいずみは、笹井らからの報告と指紋の鑑定結果を受け、現時点では他殺か事故死かの断定は出来ないものの、事故や病死なら当該年齢の女性の救急搬送の記録が残っている筈だがそれが無い事、さらには羊蹄山麓で発見された死体付近からは靴も発見されていないことから、事件性が高いと判断し、俱知安警察署及び北海道警察本部と協議した上で、札幌中央署内に死体遺棄事件として捜査本部を設置することとした。しかし、死体遺棄から二年近く経過しているため、緊急性は低いと判断し、捜査員の人数は署長を本部長とするものの、副本部長の飯住の他笹井を含めて十名程度の捜査員規模となった。

 捜査本部は、山岡美夏の顔写真を妹の清美から入手し、二年前の失踪の手掛かりを求めてマンションの住人、周辺の聞き込みという遅まきながらの地取りと、ラウンジ『やまおか』の従業員そして客への聞き込みである鑑取かんどりを行う事とした。

 また、倶知安署は美夏が失踪した二年前の九月中旬から十月の初旬までに、比羅夫ひらふ登山口から羊蹄山に登ったと思われる登山者に、登山届を基に聞き込みを行い、異変を感じるような事はなかったか聞き取る事とした。


 捜査本部の方針が飯住から出されたこの頃に、警視庁国分寺署の刑事課課長である浦島という男から電話があった。浦島は飯住の警部昇任試験合格後の警察学校での研修同期の男だった。

 部下の石山田から相談を受けた浦島は、札幌中央署と聞いた時、警部研修同期の飯住を思い出し、その偶然に驚いた。どの程度話してくれるか疑問だったが、久し振りに旧友と話す事を楽しみに電話をしてみる事にしたのだった。

 その結果、札幌中央署に捜査本部が設置されたことを知る事が出来、それが石山田を介して空木に伝えられることとなったのだった。


 笹井は、清美から預かった美夏の残した三冊のノートを読んでいく中で、イニシャルと思われるアルファベットや記号のようなものの中で、数多く書かれているYMとそのうしろに書かれている数字が何を意味したものなのか大いに興味を持った。

 そしてラウンジ『やまおか』の従業員や客に聞き込みをする前に知る事が出来ればと、ダメ元と思いながら清美にYMが誰で、そして数字が何を意味しているのかメールで尋ねてみたのだった。

 結果、笹井の予想に反して、清美からYMというアルファベットが町村康之という人物と思われる事、そしてその人物の現住所まで知る事が出来た。しかし、清美にも数字の意味は分からなかった。

 笹井は、清美が聾者ろうしゃというハンディを持ちながら、この町村と言う人物の住所まで、どのように調べたのか不思議に思えたが、恐らくラウンジ『やまおか』の従業員から知ったのだろうと勝手に想像した。


 捜査本部が設置されたその日のうちに、笹井はもう一人の刑事とともに、ラウンジ『やまおか』の従業員であるチーママの永川咲と面会した。

 咲は山岡美夏が白骨化死体で発見された事は、清美から伝えられて知ってはいたが、その死体が遺棄された可能性が高いと聞かされると「えっ」と声を上げた。

 二年前、ママの美夏の身辺に変わったことが無かったかという笹井の問いに、咲は首を横に振った。

 笹井は、『やまおか』がオープンしてから以後、店が入手した客の名刺が入ったホルダーから、町村の名刺を確認した。その名刺は東菱製薬札幌支店支店長の名刺だった。笹井は咲に町村の現住所を知っているか聞くと、咲は何故私にそんな事を聞くのかという顔をしながら、また首を横に振った。

 笹井は改めて、清美がどこで町村の住所を知ったのか不思議に思えたが、咲にはそれは言わず、名刺の入ったホルダーを持ち帰ることにした。

 名刺は二百枚を超える枚数だったが、この名刺の数だけが客ではなく、総数はこの倍以上になることは、咲から聞かされていたが、名刺を店に渡す客は、少なくとも『やまおか』に通う意志を持っていたと考えられる筈であり、失踪した美夏の周辺の話を聞く価値はあると考え、一人ずつ当たる事にした。

 名刺は、自営業と思われるものから、医師など医療機関に勤める人の名刺と多岐だったが、大部分は肩書を持った会社員の名刺だった。そのため、結果として名刺の客の聞き取りは、会社が始まる休みが明けた来週から本格的に始めることになった。


 オリンピックの開会式の翌日、休日となった金曜日の午後、捜査本部に詰めていた笹井に、外線から一本の電話が入った。その電話は、東京から戻った深堀和哉からだった。

 笹井は、深堀の名前を聞いても直ぐには誰なのか思い出せなかった。

 「山岡清美さんの友人で、先週土曜日の部屋の捜索の時にお会いした深堀です」という和哉の説明を聞いて思い出した。

 「昨日、東京で町村康之という人に会って来ました」

「町村‥‥‥」

「笹井さんが、山岡清美さんから聞いたイニシャルYMの町村康之という人です」

 和哉は、笹井の「ああ、はい」という反応を確認してから、白骨化死体で発見された山岡美夏の失踪を、町村が早い時期から知っていた疑いがあるものの否定していた事、ラウンジ『やまおか』を利用して会社の金を横領していた可能性がある事を話し、美夏の失踪について何らかの情報を持っているのではないか、という疑念を笹井に伝えた。

 「深堀さん、我々もイニシャルYMの町村という人物に興味を持っていますが、今のあなたの話は電話では良くわかりません。一度、こちらに来て直接話を聞かせていただけませんか」

「分かりました。清美さんと一緒に明日の午前中にでも行くようにします」

「妹さんも一緒に東京まで行ったのですか」

「いえそうではないんですが、警察へ行って話すのなら清美さんも一緒の方が良いと思いますので一緒に行きます」

「分かりました。では明日の午前中に来てください。お待ちしています」

 電話を切った笹井は、課長の飯住に深堀和哉からの話の内容を伝えたが、内容を理解出来ていない笹井の話は、当然ながら飯住にも理解できなかった。


 翌日の午前九時過ぎ、深堀和哉は清美とともに札幌中央署の刑事部捜査第一課の面会室に案内された。

 二人との面会には、飯住と笹井そしてもう一人の女性警官の三人が面会室に入った。

 「申し訳ないのですが、手話通訳が用意出来なかったのでこちらの警官が筆談のメモを書いて、清美さんにお伝えするようにしますからご承知ください」

笹井はそう言って女性警官を二人に紹介し、その後課長の飯住を紹介した。

「深堀さん、昨日電話で話された事をもう一度話していただけますか」

 笹井の言葉に促された和哉は、昨日電話で笹井に伝えた町村への疑惑を再び話した。

 「山岡美夏さんの失踪を、早くから知っていたのではないかと疑う根拠は何なんですか」

笹井が和哉に訊くと、女性警官は筆談のメモを清美に差し出した。

和哉が清美に顔を向けると、清美はそのメモを見てペンを取った。

 「私が調査を依頼した東京の探偵さんの調査の過程で疑いが出てきました」書いたメモを笹井と飯住の間に差し出した。

「探偵の調査ですか‥‥」

 笹井は眼鏡を直しながら上目遣うわめづかいで清美を見た。

 「東京の調査事務所の探偵で、清美さんと一緒にここにも来ている筈です。空木さんという人です」

 和哉の説明に笹井は眉間に皺を寄せた。笹井を見た清美はまたメモに「私と一緒に笹井さんとお会いしています」と書いて置いた。

 「係長はその探偵を知っているのか」飯住が聞いた。

「知っているという程ではありません。こちらの妹さんと一緒に、行方不明だったお姉さんの手掛かりを求めて来署して来た男です」

「その時、山岡美夏の白骨化死体を見つけたのか」

「そうです。身元不明死体のファイルから、妹さんが死体と一緒に見つかったネックレスに気がついたことから判明しました」

 笹井は、顔を飯住から和哉に向け直した。

 「その探偵は、何を根拠に疑っているんですか」

「清美さんから、行方不明になったお姉さんの手掛かりの調査を依頼された空木さんが、町村さんに会った時、限られた人しか知らない筈のお姉さんの失踪を、町村さんは知っていたような話をしたからだそうです」

「‥‥‥ではラウンジ『やまおか』を利用して、会社の金を横領していたというのはどういうことなんでしょう」

「それも空木さんの疑いというか、推理なんだと思います。僕もその時初めて聞いたのでびっくりしました」

「初めて聞いたということは‥‥‥町村という人物に会ったのはあなたではなく、その空木という探偵なんですか」

「いえ、僕と空木さんの二人で会いました。話をしたのは空木さんですが、僕も同席してしっかり聞いていました」

「‥‥そうですか、それでその横領の推理というのはどんな推理なんですか」

「『やまおか』のママの美夏さんに協力してもらって、実際より水増しした金額を会社に請求するか、カードで支払いをして、その差額の金額を美夏さんから受け取っていた、つまり横領していた。その金額は二百万円近くになっていた。そういう関係であった美夏さんの失踪を知っている可能性は高いという推理です」

「そうであれば二人は横領の共犯者になりますが、その横領していたことを疑う根拠はどこから出てきたんでしょうね」

 笹井の質問に和哉は清美を見た。

 「お店の帳簿を見て疑いを持たれたようです」と書いたメモを清美は笹井と飯住の前に置いた。

 清美が差し出したメモを見た飯住は、笹井に顔を向けた。

 「係長、店のチーママからの聞き取りでそんな話は出なかったか」

「ええ‥‥」と言って笹井は眼鏡をかけ直した。

「それで町村さんの反応はどうだったんですか」笹井が身を乗り出した。

「全て否定されました。でも直接、町村さんの隣で話していた空木さんは、僕が感じなかった町村さんの動揺を感じたようで、僕に札幌へ帰ったらこの話を警察に伝えるように言われました」

 和哉の話を聞き終えた笹井は、隣の飯住に顔を向け、「課長から聞きたい事はありますか」と振った。

 「‥‥深堀さん、あなたがわざわざ東京まで町村という人物に会いに行ったのは、その空木という探偵とその男の話を聞くためだったんですか」

 飯住は腕組みを解き、その両手を机の上で組んだ。そして飯住の質問は、婦人警官が筆談用のメモに書いて清美に渡された。そのメモに目をやった和哉は、清美にジェスチャー交じりの手話で「君から伝えてください」と伝えた。

 清美は渡されたメモ用紙に、「姉は失踪した時、妊娠していました」と書いて飯住の前に置いた。

 和哉はそのメモを前にして、美夏の残したノートの一文から空木のアドバイスを受けて、中央産婦人科医院で美夏の妊娠が判明するまでを説明した。そして、その妊娠の相手が町村ではないかと推測し、直接会って確認しようとして東京へ行ったことを話した。

 「そこにも探偵が絡んでいるんですね。それで相手は町村という人物だったんですか」

「いえ、全面的に否定されました」

「探偵は、何と言いました?」

「多分、町村さんではないだろうと言っていましたが、相手を知っているかも知れないと言っていました」

「なるほど。それでその探偵さんは、何故我々にその町村という人物に関しての疑惑らしきものを伝えるように言ったんですかね」

「空木さんは、これ以上は僕たちではどうすることも出来ないが、死体遺棄事件の重要参考人の扱いになれば、警察が聴取する筈で、そうなれば美夏さんの失踪について何か分かるのではないかと‥‥」

「‥‥聴取するかどうかは我々の判断ですが、深堀さんと妹さんの話は分かりました。とにかく我々は、お姉さんの死体遺棄について全力で捜査しますので、お二人にはご協力をお願いします」

 飯住の言葉を筆談で伝えられた清美と和哉は頭を下げた。


 捜査本部に戻った飯住は、笹井に美夏の残したノートのコピーを持ってこさせた。

 「このノートから町村という男を疑って妊娠していたことまで調べたということか。妊娠が事実だとすれば、その相手は重要参考人だな。それにしても、あの妹は耳が不自由なのに良く頑張って調べたもんだ」飯住はそう言いながらノートを捲った。

 「妹の想いもあるでしょうが、町村という男の住所も空木という探偵が調べたんでしょう。町村を聴取して見ますか」

「そうだな、休みが明けたら東京へ飛んでくれ。警視庁には連絡を入れて置く。ところでその空木という探偵は死体遺棄事件のことを知っていたようだが、どこで知ったんだろう」

「‥‥深堀から聞いていたのではないですか」

 笹井はそう答えたものの、深堀が捜査本部の設置を知ったのは、今日ここに来てからではないか、と思うと首を捻った。


 翌二十五日の午前中に開かれた捜査会議で、飯住から捜査員たちに改めて当面の捜査方針が示された。

 白骨化死体で発見された山岡美夏が、失踪直前妊娠していた可能性があり、その確認を取る事。さらに妊娠が確認されれば、その相手の男性を特定することに全力を挙げる。ついては、ラウンジ『やまおか』の従業員、及び客への聞き込みを丹念に続け、妊娠相手の男の特定に繋げる。それが、山岡美夏の失踪及び死亡に至る原因の手掛かりに繋がるということが伝えられた。


 深堀和哉が札幌へ帰った翌日の土曜日、空木は水曜日の鷹ノ巣山に続いて、同じ奥多摩の七ツ石山に登ることにした。

 気温は今日も三十度を超える予想で、標高1757メートルとはいえ、真夏の七ツ石山への登山には辛い暑さだが、来週からの天気予報が台風の影響なのか天候不順が続くとされることから登ることにした。

 奥多摩駅から早朝のバスで、留浦とずらで下車した空木は、鴨沢かもさわから登山道へ入った。二十分程できれいなトイレが備わった村営の小袖乗越こそでのっこしの駐車場に着いた。バス停からここまでの登山者は空木一人だったが、駐車場には車が二十台近く駐車していて何組かの登山者が準備をしているところだった。

 空木はトイレに足を向けたところで「あっ」と小さく声を出し、足が止まった。見覚えのある顔がトイレから出てきて車の方向に歩いて行った。その登山者は二日前、小金井公園で話した、あの町村だった。

 空木は駐車してある車の陰から町村の背中を目で追った。どうやら町村は、同行者はおらず単独行のようだった。

 町村が登山を趣味にしていることは知ってはいたが、こんな所で会うとは、空木には驚き以外の何物でもなかった。

 町村は、自分と同じ七ツ石山を目指すのか、さらに雲取山まで足を延ばすつもりなのか分からないが、ここから七ツ石の小屋までは、自分と同じコースを登ることになるのは間違いないと思いながら、空木は登り始めた。

 このコースは、平将門たいらのまさかどが逃げ落ちる時に登った道と言われ、随所にその伝説を伝える看板が立てられていて、楽しみながら登れるコースなのだが、町村に追いつかれないようにというか、急かされるような気分で登ったせいなのか、空木は暑さだけではない異常な汗を掻いて登った。

 灌木の中、そしてブナ、ミズナラの深緑の中の登山道を二時間半ほど登って、七ツ石の小屋に到着。そこから山の名前になった大きな七つの石が並ぶ間に建つ七ツ石神社を過ぎ、三十分程で頂上に着いた。

山頂からは富士山は、ぼんやりとしか望めなかったが、間近に日本百名山の雲取山が望めた。雲取山へはここから二時間弱で行けるのだが、空木の今日のコース予定は、ここから南へ下り千本ツツジを経由して赤指あかざす尾根を峰谷へ下る予定にしていた。

 山頂には五、六人のハイカーが、食事を摂ったり休憩したりしていた。空木も山頂でカップ焼きそばの昼食を摂り、至福の一服を吸った。

 町村は空木から十五分程遅れて山頂に登って来たが、空木には気がついていないようだった。

 下山には町村の前を通ることになるが、空木は気付かぬ風に通り過ぎようとザックを背負った。そして町村の前を通り過ぎようとした時、思わぬ声が掛かった。

「もしかしたら、空木さんですか。こんな所でお会いするとは‥‥」

 気付いたのか、と思った空木は、立ち止まって驚く風もなく軽く頭を下げ、言葉は発しなかった。それは、「私はあなたに気付いていました」と無言で表現しているつもりだった。

「こんな所でなんですが、お話ししようと思っていることがあります。休みが明けたら改めて連絡します」

 町村の思わぬ言葉に、さっきの声掛け以上に空木は驚いた。小金井公園では二度と会わないと言って別れた人間の言葉とは思えなかったが、空木は町村の目を見て、黙って頷いた。

 町村が話したいとは、一体どういう事なのか、どういう心境の変化があったのか、それもたった二日の間に何があったのか。そして何を話すと言うのか。恐らく山岡美夏の失踪、死亡に繋がる話ではないか。いや、美夏の妊娠に関係する話かも知れない。下山の間、想像が頭を巡ったが、片隅には一抹の不安もよぎっていた。しかしその不安は漠然とした不安で、空木自身も言葉で言い表せるものではなかった。


 翌日の日曜日、空木は深堀和哉に、昨日の町村との偶然の出会いと、明日以降に町村から連絡が来ることになったことをメールで知らせた。空木の頭の片隅の一抹の不安が、深堀和哉にメールをさせたのかも知れなかった。

 その日の午後、深堀和哉から空木のスマホに電話が入った。

 「町村さんから連絡が来るというのは本当ですか」

「本人が言っていることが本当なら連絡が来る筈です。信じるしかないのですが、来るかどうかは分かりません。連絡が来たら深堀さんにお伝えします」

「どんなことを話してくれるんでしょう」

「私も気になりますが、私たちの知りたい事を話してくれることを期待しましょう」

「そうですね。ところで昨日、清美さんと一緒に警察へ行って、空木さんが言っていた通り、町村さんのことを話してきました」

「そうですか。それで警察は聴取をするようですか」

「いえ、それは僕たちには言いませんでした。聴取するかどうかは警察が判断するとしか言いませんでした」

「‥‥後は警察に任せるしかないですね」

 空木は、また連絡すると言って電話を切った。

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