券をお持ち下さい

sui

券をお持ち下さい


 歩いていた。

 足元に感触はなく、疲労を覚えたりもしないのだが景色は動いている。

 やはり、歩いていた。


 漠然と進んでいたのに、いつの間にか建物へ向かうという目的が生まれていたようだ。

 そこに何処からともなく現れた人々が加わって疎らに列を成し始めた。

 視線の先にあるのは高いビルだ。

 全面に貼られたガラスが周囲の景色を映している。

 それだけ捉えれば美しい建築物。

 けれども辺りは砂粒だらけで、青い空も白い雲も見当たらない。

 黄色い砂が地面を覆い、灰色い砂が酸素の代わりに漂い、赤い砂があちこちを流れる。そんな姿を歪めて描くだけの不快な有様。

 この環境から逃れる為に人々は建物を目指しているのかも知れない。

 しかし誰も口を開かず考えを発さず、そもそも考えるという事を行っているのかも疑わしい状況であるので、本当の所は何も分からない。

 地面付近にぽっかり開いた一つの穴に淡々と皆が並ぶ。


「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」


 そこでは人の声らしいのに機械から流れていると分かる音が、チケット所持を要求していた。耳に入る度、頭の中に文字が浮かんでは消えを繰り返す。

 制服と思しきものを纏った男が立っていた気がするが、音に気を取られた途端に存在が認識出来なくなった。


 チケットとは何だろう。

 僅かに覚えた違和感。次の瞬間にはそれを掌で包んでいる。

 そっと開いてみれば何処かで見た事があるようなチケット。

 それをいつ、どうやって手に入れたのか知らない。けれども全員が持っていて、しかし誰に見せる訳でもなく、また不携帯で制止されるといった様子もない。行列は建物の中へ入って行く。

 仮にチケットがなかったらどうなるのだろう。


 チケットには『このチケットは、折り曲げたり傷つけたり、破損させないで下さい』という一文だけが書いてあった。


 入り込んだ建物の中はどこかしら見慣れたようで落ち着かない印象がする場所だった。

 広いか狭いか把握しにくい空間に必要性の分からない奇妙な三角のオブジェ。

 それを三百六十度眺められる造りにしたかったのか階段が螺旋状に絡みついている。

 他には何もない。


 人々は吸い寄せられるように階段へ向かい、そこを上る。

 速度はそれぞれ異なっている。驚く程の素早さで階段に足をかけた者もいれば、同じ位の速度で進む者もいる。少し遅れ気味に歩み出した者もいる。

 後ろを見れば、今から建物に入る者も居る。


 人々は只管階段に足をかける。

 本当に何もない階段だ。別の通路や何処かの階へ繋がりもしないどころか踊り場さえ存在しない。

 外の景色とオブジェだけが視界に変化を与えてくれる。しかしそれも緩慢過ぎてぼやけた物のように感じられた。

 勢い良く駆けて行った人間達はいつになっても見えてこない。一切草臥れる事なく先へと向かっているのだろうか。


 同じ位の速度で進んでいた一人が遅れ出したかと思えばふっと姿を消した。体力が不足していたのだろう。

 登る事に飽きたのだろうか、また誰かが足を止めてそのうちに姿を消した。

 振り返ってもそこに階段はある。けれども一定より向こうになると途端に見えなくなってしまう。人々も、見えない場所へ行ってしまったのだろうか。

 果たしてそこへ行ったらどうなるのか。想像する事も出来ない。


 気付けば周囲にはごく少数の人物だけが残っている。

 それでも皆階段を上っている。

 不意に一人の女性が持っていたチケットを落とした。

 ヒラリ、と空で踊りその後地面に着いただけで大した事ではないように思われたが、チケットはどうやら汚れてしまったようだ。

 女性はそれを拾い、仕方なさそうな顔でまた歩き出す。

 しかし動いたように見えて、女性の踵は動く前の場所に取り残されている。爪先と体だけが進んでいた。


 足が熱を持った飴細工のように溶けている。


 何も言わないので痛み等はないのだろう。ただ動きにくそうだ。

 それで手すりを掴んだのだろうが、今度は手がびろんとなり、手首から下がその場に置いていかれている。腕は体と共に先へ向かっている。

 そんな状態になっても女性は止まらない。

 お陰で肉色のチューブじみた物が広がり始めていた。

 質量は一体どうなっているのだろう。女性はどこまでも伸びていく。

 残像のようではある。実体がなければ勘違いだと思っただろう。


 気付くと、似たような肉のチューブがいくつもいくつも地面に横たわっていた。

 先に進んで行った誰かの名残だろうか。

 上がる程にその量は増え、床が見えなくなりそうである。

 色が違えば植物に侵食される廃墟かダクトの多い工場、或いはSF映画のように感じたかも知れない。


 踏んだら痛いだろうか。そんな事を思いながら肉のチューブを避けて歩く。



「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 どういう訳か、入口で聞いた筈の声がまた聞こえる。

 新たに人が入ってきたのだろうか。

 それにしても、かなり進んだつもりだったがまだまだ聞こえる位置だと言うのか。

 それともあの声が大きいのだろうか。チューブが邪魔で視認出来ない。

「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 階段なのかもう良く分からない所を更に上がる。声の調子は変わらない。


 周りに人がいない。先程の女性も消えてしまった。

 肉で足の置き場がない。

「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 人の欠片を踏みにじる事になった。

 悲鳴や苦情がないのは有難いけれども、そもそもこのチューブを生み出した本体はどこへ行ってしまったのか。

「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 いよいよ歩くのが難しくなってきた。両手足を使って這うように前へ進んでいる。

「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 ある瞬間、何かに引っかかった。

 恐らくはチューブだろう。それ以外には何も見当たらないのだから。

 少しよろけて傾いた位のつもりだった。

 けれどもチケットは落ちてしまった。


 落としたそれを拾おうとして、手がもう伸びた。体勢が悪過ぎた。

 痛みはない。けれども少し、重い。

「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 何とかチケットを取り戻した。

 こうしていても仕方がないので進もうとする。更に手足が伸びる。

 縺れて肘の辺りをぶつけた。

 指先に掌に、いよいよ訳の分からない状態になってきた。

 粘り気のあるものに取り憑かれたように、体が動かしにくい。

「チケットをお持ち下さい、チケットをお持ち下さい」

 変わらず声は聞こえる。聞こえてくる。


 こんなにも人として崩れているのにまだダメだと言うのか。先には進めないのか。


 ダメ?

 先?


 ダメとはどういう事だろう。

 どうしてダメだと考えたのか。

 ダメではない、正解とは一体なんだ?

 先とは何処を指しているのだろう。

 大体、何に向かって進んでいるんだ?


 気付けばこんな状態になっているというのにゴールはまだ見えない。

 そもそもゴール等、本当にあるのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

券をお持ち下さい sui @n-y-s-su

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説