彼方を照らす

八軒

彼方を照らす

 岬は半島の端にあった。自転車を止め、ゲートを越え、丸太を並べた階段を登って尾根に上がれば、眼下に広がるのは一面の海。水底を撫でる光は翡翠色の波に揺れて、青の濃さを増してゆく。


 夏服を着崩した少女が、跳ねるように尾根道を駆けた。

 折り重なる崖と斜面に挟まれて、岬の背を縫う小道は曲がりくねる。飛び飛びに並ぶ杭は、自然の領域との境目を控えめに主張しているだけで、その気になれば何処からでも数十メートル下の海面まで転がっていけそうだった。

 その後ろを、もう一人が追いかける。先を行く友の名を呼ぶ声は瑞々しい。二人は行き止まりで足を止め、吹き抜ける潮風の中で白亜の灯台を見上げた。

 それは百年の昔からこの海を見守り、今も訪れる者を待ち続けている。


 岬の終端から続く岩礁の連なりは、飛沫しぶきをあげて白波を割っていた。

 風は潮騒と入り混ざり、ごうごうと鳴く。

 見渡せば海と空の青、地には夏の訪れを謳歌する緑が波をうち、断崖にしがみつくハマナスは薄紅を揺らして、エゾカンゾウの群落が端々を彩る。息を切らした級友の肌は小麦色に焼けて、夏は何もかもを鮮やかにしていたが、白亜の灯台は何者にも染まることがない。白く、無機質で、事実唯一の人工物であった。超然として、けれどこれほど調和した存在もないように思えた。


 二人は声を揃えて灯台の扉を開けた。鍵はいつだって解放されていた。閉めても何故か開いてしまうからだ。灯台を荒らす者はいなかったし、故障が自然に直っていることさえあった。

 北海道と外との行き来が閉ざされて島と呼ばれるようになってから二十年あまり経つ。断絶のあの日から、島の理は少しずつ変化していたから、人々はいつからか多少の不思議はそういうものなのだと受け入れるようになっていた。


 二人が螺旋階段を駆け上がる足音が、のいる灯室まで響いてきた。

 灯室と外を隔てる硝子ガラスの一枚を通して容赦のない日差しが降り注ぐ。いかな彼女の光量でも、この太陽の圧倒的な力の前では、海に落とす雫に等しい。

 何重にもプリズムを束ね合わせて一つとなした、自分の丈よりも大きなフレネルレンズに肌を寄せて、白く透き通った指で撫でる。ひとたび、ふたたび。それから、ヒトの声が聞こえてきた方へふわりと浮かび上がった。

 硝子を通り抜けて展望台へ。さえずり合う二人の隣に降り立ち、同じように手すりに寄りかかり海を眺める。


 生まれて間もない彼女には、ヒトのさえずりの意味はわからない。それでも、そうしてヒトの側にいれば、自分が強くなるのがわかった。強さは、生きることを自らの存在意義を、より確かなものにしてくれる。だから、その行為は彼女の情動に原始的な分化と自覚をもたらした。すなわち、心地よいという感覚だった。


 ヒトはたびたび現れる。大きいもの、小さいもの。一人のもの、群れるもの。

 訪れる者がいなくなった頃、フレネルレンズはゆっくりと回り始め、程なくして灯がともった。

 陽は今まさに沈みかけて、天頂から濃紺に染まりつつある。これだけ暗くなってもまだ、レンズは空の色を透かすばかりで、抱いた灯は暮れの光に溶けてゆく。

 最後の残光が水平線の下に消えようとする時、入れ替わるように変化が訪れた。巨大な硝子の塊は昼の浅瀬と同じ色を帯びて薄明の空に煌々と浮かび上がった。一息のうちにその輝きを増し、白く強く彼方を照らした。

 夜は、彼女の時間だった。


「わたしは、彼方を照らし、訪れるヒトを導き、愛し、見守る、光」


 一人残された夜の海で、組み込まれた定義を再生するがごとく、初めての声を発する。

 言葉の意味は知らなかったが、そうすればヒトがいなくとも、また少し自分が強くなるのがわかった。

 やがて朝は戻ってきて、彼女の灯は海霧の中にかき消された。





 生まれてから数日が過ぎた。様々なヒトを見て、さえずりを聞いた。彼女に気づくヒトはいなかったが、辺りを見ているだけで時は飛ぶように過ぎた。

 夜になれば灯をともし、彼方を照らす。

 ヒトは減り、光たちは息づく。漁火に、波の音に揺れる夜光虫、満天の星々。彼女もそのうちのひとつだった。


 灯台はその光で自分自身を照らすことはない。真夜中に訪れたヒトが灯す色とりどりの花火の、あまりに小さく儚い光を、彼女がかき消してしまうことはなかった。

 数人のヒトの群れが、甲高い音を鳴らしながら空に向かって飛び出す光を打ち上げて、わあわあと騒ぐ。彼女はその輪に入って、一緒に飛び跳ねた。楽しいという情動が全身から沸き起こる。ハナビは楽しい。それで、花火は全くなくなったようで、彼らはバケツに張った水に全てを詰め込んで、あっという間に帰ってしまった。


 騒がしさが去って、虫の声が戻ってくる。

 灯室に戻ろうとして、漏れ出た光の中で動く影に彼女は気づいた。確かめるべく、彼女は螺旋を描いて舞い上がった。

 展望台に降り立つ。ヒトだ。少し潮の香がした。肌の見えない格好をして、被った布の裂け目から黒くて尖ったツノが突き出ている。

 前に回ってみようとすると、ツノのヒトは振り向いて止まった。何かあるのかと彼女も同じく振り返ったが、そこには月明かりを映す夜の海がひたすらに広がっているだけだった。


「あんた、始祖か?」


 視線が交錯する。布の奥に覗いた瞳は、フレネルレンズと同じ浅瀬の色を帯びて光を反射していた。


「何もわからないって顔だな。始祖ってのは、断絶の日、霧に飲まれて生き残った奴のことさ。覚えはあるか?」


 宙に浮かんだまま、首を傾げる。


「まぁ、いいか。久しぶりに同朋と話せると思ったんだが」


 ツノのヒトは展望台の手すりに身体を預ける。彼女はヒトにいつもそうするように、肩を並べて海を眺めた。

 会話はない。東の空が薄らと色を帯び始めている。


「また来る」


 一言残して、ツノのヒトは手すりを越え、尾根からも飛び降りた。瞬く間に夜光虫が打ち寄せるみぎわを歩いていた。





 朝を迎えるたび暑さは増す。岬に吹く海風を求めるように、ヒトはここへ訪れる。

 ここに来るヒトは皆、海を眺める。彼女が照らすのも同じ。けれど、反対側にまわって、山々の麓で弧を描く海岸線や寄り添って集まるヒトのすみか、陸とこの灯台を繋ぐ岬のうねり。それらを眺めるのも楽しいと知った。


 陽が高くなりはじめれば海霧は晴れる。天気のいい日なら、このくらいの時間にイヌを連れたヒトが来ることを彼女は覚えている。期待という感情が時間の知覚を引き伸ばせば、たった今、ふわふわのイヌが尾根道を歩いて来るのを見つけるのだ。展望台から身を乗り出して今かと待つ。

 すぐそこまで来たイヌが、海に向かって吠えた。イヌのヒトは急に駆け出したイヌにひっぱられながら灯台横を通り過ぎてゆく。


「やんや、どした、アズキ」


 彼女も灯台を降りて追いかける。岬の端から一緒になって崖下を覗き込むと、凪いだ海の澄んだターコイズブルーにたゆたう長く大きな影が見えた。飛ぶようにゆうゆうと水中を舞い、ときおり背びれが水を切っては波をたてる。

 夢中になっている二人と一匹の後ろから、また一人ヒトが来た。若い女だ。


「おはよ、アズキちゃんもおはよー」

「あやねぇか、あれ見れ、あれ」

「あっ、始祖サマだ」

「始祖? すったら、あやつけで。ヌシだヌシ。おめがちっこい時さ、沖からピューッとヌシ乗って帰ってきたっけさ。覚えてねが?」

「んだけど、みんな始祖サマと遊んでたっしょ」

「はぁー。手ぇあわせとけや」


 イヌの人は何かを唱え、若いヒトも笑いながら手を合わせた。彼女も真似してみる。目を閉じて、風の香りを波の唸りを鳥たちの目覚めを聞く。彼女が灯台から離れられなくても、世界はいつも少しだけ広くなれた。

 影は岩礁の周りに八の字を描いて、深い青の底へ消えていった。





 穏やかに日々は巡る。エゾカンゾウの時期はとうに過ぎ、鳥たちの歌も移り変わる。夏の盛りを迎えた頃には、彼女もヒトの言葉が少しわかるようになった。


 ヒトはここから去るとすみかに帰るという。ツノのヒトにはすみかがないから、ここによく来る。ツノのヒトの話は、いつも難しい。

 チトセのらぴだすではさぷらいが途絶えてハンドータイがなんとかとか、最初の島生まれが大学生になってなんとかとか。

 相変わらず彼女の声はツノのヒトにも届かないから、一方的に話すのだ。


「去年、真新しい標識をつけたトドが発見された。トド、知ってるか? なんまらでけぇ生き物だ」


 全身を使ってトドの大きさを示すツノのヒトに、彼女は驚きを表した。


「人間だって来れる可能性はゼロじゃない。外から来れる。外に出れる。そりゃ、多くの奴が願ってきたことだ」


 ツノのヒトは展望台から視線を投げた。寄り添って共に水平線を見る。

 見渡す限り、空は鈍色で覆われていた。雲と海を区切るほんの僅かな隙間に、黄金色の光のはしごが幾重にも降りている。

 この島から外に出ることはできない。海からでも空からでも。それが島の理だった。


「けど、何ともなしにようこそ、とはいかない。俺たちは外に出れねぇが、外で何が起きてるかを知ることはできる。大間崎のプラカードは見えるし、衛星放送も受信できる。データはハンドシェイクができねぇから宇宙通信を応用した一方向通――」


 彼女は首を傾げてふらふらしていた。


「っと、すまん。外の連中は、島のことは何もわかってねぇってことさ。向こうからすれば忽然と消えたわけだし、とっくに存在しないと考えてる奴だっている」


 湿った風が吹き上げて、ツノのヒトの外套がはためく。それを押さえる指は、長く歪でツノと同じく黒い。


「断絶から二十年、俺たちは変わってきた。うまくやれてねぇが、うまくやってる。それなりになんとか、生き延びてる」


 雲の底は低く夜を長引かせて、灯室から放たれた灯は岬を覆う霧雨に光の筋を映していた。

 彼女はおもむろに腕を上げて、頭上の光を指し示した。それからそのまま下ろすと、空を映して一面の灰色を落とした海に向けた。


「わたしが、見ている?」


 ツノのヒトの問いかけに大きく頷く。

 途端、雨になった。轟音が辺りを揺らし、彼女は始めての雷鳴を聞いた。

 灯を落とす時間が過ぎても、その日は彼方を照らし続けた。雲が暗く雨が激しくなるほど、光は眩く輝いた。


 ツノのヒトは雨に濡れて、笑った。





 真夏の雨は気まぐれだ。昼を過ぎると青空が見えて、生まれた日に出会った二人がやってきた。

 名前も覚えた。ナッチとアキだ。他に覚えているのは、イヌのアズキに朝ジョギングしにくるあやねぇと、それから――ツノのヒトには名前がないのかもと彼女は思う。


「ナッチは異能申告したっけか?」

「まだ。うち、親が反ノウ反異能主義気味だっさ」

「あー」

「デジタルネイティブと島生まれは、もー別の生き物だべ。あいつら、最後のスマホが壊れたら発狂しそ」

「ぶっちゃけさ」

「うん」

「デジタルネイティブつか、リテラシーの問題」

「それな。アキんとこは?」


 アキは、だらしなく開けたシャツの胸元を掴んでばたばたと風を通すと、お茶を一飲みしてから答えた。


「うちのオヤジはまぁ適応力あんべ。ナッチ、ヤスフミのおじさん覚えてね?」

「小中んときアキと遊び行ったっけ」

「そっそ。オヤジと一緒なって色々やっててさ」

「はぇー」

「パソコンが動くうちにつって、写真やらオヤジの黒歴史小説やら紙に出して」

「草」

「草ってのも、おじさんのがうつったっけ」

「そうだっけか」

「んだよ」


 ナッチとアキは、彼女の存在に気づかなくとも、二人で来ては何かしら話してくれる。

 彼女が覗き込んでいる横で、ナッチは鞄から白い紙を取り出した。紙飛行機を折って展望台から飛ばす。強風をものともせず、滑らかに大きな輪を描いて戻ってくる。


「ナッチ、すごくね?」

「うんー。異能つかってるの見つかるとうるさいし。ここで、がっつり練習」

「ナッチ――」


 紙飛行機は再び放たれた。彼女も共に舞い上がり、軌道に沿って縦に大きくループを描く。アキの歓声があがる。ナッチが空に向かって呟く。


「いつかアキを飛ばしてみせるべ」

「落ちたらやべぇな」

「やんや、流石にちょっと浮かすとっから」


 トビが甲高く鳴く。紙飛行機はトビを追いかけて気流に乗った。何かを勘違いしたトビが急降下し、紙飛行機をキャッチして飛び去る。あまりに一瞬のことに、アキとナッチが大声で笑い合う。


 ヒトが異能と呼ぶものを彼女は見ていた。ナッチが紙飛行機を飛ばす時、あやねぇが海の始祖に祈るとき、仄かな光が立ち昇るのだ。それはツノのヒトの瞳と同じ、晴れた日の浅瀬の色をしている。

 またすぐに、新たな紙飛行機が飛び立つ。今度は岬を越えて滑るように下ってゆく。途中、風にまかれて落ちた。やんややんやとナッチが悔しがり、紙飛行機は波に遊ばれてくるくると回る。


 彼女は思う。あの淡い翡翠色の浅瀬に足を浸して水底を覗けたら。彼女が岬の下まで降りていけるのは、力の及ぶ夜の間だけだ。ヒトは少しずつ変わる。自分ももう少し強くなれたら、あの揺れ動く光に触れられるのかもしれないと。





 一日が過ぎるたび夜は長くなる。日の高さも変わる。同じように見える星も変わるのだと、いつからか彼女は気づいていた。


「あれが、デネブ、アルタイル、ベガ」


 ツノのヒトが黒い甲殻で覆われた長い指で西の空を指し示す。アルタイルは一足先に水平線に触れそうだった。


「断絶前、それよりもっと前か。流行った歌、だった気がする」


 少しの間にも星々は動いて、空は青みを帯びる。西の星から水平線に沈み、暗い星から薄明の空に消えてゆく。


「で、反対側。向こうから登ってくるのがオリオン」


 縦に三つ並んだ輝きは夜明けの空にも目立っていた。その並びを結んで超えて、天頂へ。追われた闇が滲む夜と朝のあわいで、残された星が瞬く。

 彼女は腕を伸ばした。星々を巡るように。


「もう少し経てば、オリオンを追いかけてシリウスが太陽と共に登ってくる」


 東の空が赤みを帯びて水面を浅く照らせば、波がざわめいて煌めきが弾けては跳ねた。夜を塗り替えて朝焼けは白く滲み、薄群青の空へと眩さを広げる。

 シリウスを待つ。すでに辺りは朝の色に染まり、先に登ったオリオンは微かに見えるだけだ。刻一刻と空の明るさは増してゆく。


 ツノのヒトが再び空を差し、彼女は見た。

 陸は南からぐるりと巡り、続く彼方の岬が水平線と落ちる。その岬の影の端から白い星は現れた。

 なんと眩い星なのだろう。

 それは小さな白い点で、間もないうちに太陽にかき消されようとしている。輝きが青に溶けるまで、彼女は南東の空を見つめ続けた。





 島の秋ははやい。昨日まで海を名残惜しんでいたと思えば、一ヶ月かそこらのうちに山の上には雪が降るのだという。

 雪を見たことはあっただろうか。彼女は思い出す。生まれたのは初夏の頃で、山の上にももうなかったかもしれない。ただ、あの頃は山に興味はなかったから確かではない。いずれにせよ、人々の話が本当なら、ヒトの暦であと二ヶ月もしないうちに雪が降るのだろう。


 誰かが言っているのを聞いた。島には長い冬と短い夏だけがあって、秋と春は繋ぎでしかないと。なら、なぜヒトはこれほどに秋の話をするのだろう。秋の食べ物に、秋の見どころ、それにアキはたぶん秋からとられた名前だ。当のアキは夏が惜しいのか、まだ時々半袖を着ているけれど。

 きっと、過ぎ去るのがはやいからだ。薄明の空の変化のように。あのとき消えたシリウスのように。しかと見ていなければ、秋は過ぎ去ってしまうからだ。

 事実、ほんの数日の間にススキの穂はそこかしこに目立って、岬の色彩を塗り替えつつある。


 かつてそうしていたように、彼女はフレネルレンズに肌を寄せて、白く透き通った指で撫でた。ひとたび、ふたたび。巨大なガラスの塊は、ヒトの異能の輝きと同じ、晴れた日の浅瀬の色をしている。

 灯をともし、光を抱く。

 レンズが回り始め、端々に七色の光彩を散らす。あの初夏の頃よりも日没はずっと早く訪れていた。





 シリウスが夜明け前に輝くようになった頃、岬は黄金に包まれた。


 岬に乾いた色が混ざり、見慣れた光景が刻々と変わりゆくのは、これから訪れるという冬の侵食かと思えた。山もくすみ夜は冷えて、彼女はアキが夏を惜しむ意味を知った気さえした。

 それが、今や山は際立つ橙や茜に彩られ、岬は黄金色の海となってさざめいている。朝夕のマヅメの頃にはススキの穂は斜光に透けて輝き、海の青にも劣らない眩さを見せる。

 その向こうでは、ムクドリの群れが海上を翻っていた。結合し分離し、瞬時の速度で相互作用を及ぼしあう多体系が織りなす模様は、さながら巨大な生き物だ。


「本当なら、南へ渡る時期だ」


 珍しく、明るいうちに訪れたツノのヒトが言った。断絶から二十年、群れが生きているということは、かつて北海道と呼ばれていたこの島にも彼らが冬を越せる場所があるのだ。どこへ向かうともなく群れはうごめいていたが、何かの合図があったのか一塊となって飛び去ってゆく。山か、あるいはヒトの街か。

 ふとした疑問が浮かび上がる。ツノのヒトも冬の間どこかへ行くのだろうか。どういうわけか、その疑問は伝わったらしい。


「ん、俺はずっとここだな。海に住んでるようなもんだ。まぁ、気分次第で他所の海岸に行くこともある」


 そうなのか、と彼女は納得する。二人でムクドリの群れを追うように、展望台をぐるりと回った。

 岬に初雪が降ったのは、この日の夜のことだった。





 初めて見た雪は、地に着くとすぐに消えた。次に見た雪は少しは積もったが、昼になれば溶けた。冬になるまでに何度かそれを繰り返すのだと彼女は思った。そうこうしているうちに、遠くの山々はとっくに白くなっていた。

 また溶けるのだろう、そう思った雪が溶けずに残り、積み重なり、少し溶けてはみたもののすぐに凍ってまた積み重なりすると、あとはもう一気に白くなった。

 あれほど秋ははやいと聞いていたのに。

 彼女は知った。これが冬だった。


 彼女という存在は、風雪にひるむことはなかった。いかにも彼女は灯台であり、それはヒトが百年あるいはもっと、この地の自然に耐えるよう築き上げた建造物に過ぎない。

 白く透き通った指が灯室の硝子ガラスに触れる。薄い透明な板一枚を隔てて、雪の群れは叩きつけられ荒れ狂っている。色を失った岬の突端で、フレネルレンズは今も浅瀬の色を留めて灯を抱く。灯は、一条の矢となり群れを貫いて彼方までも照らす。

 この機構を守る為にヒトが用意した矮小な領域が、百年の風雪を耐える彼女自身にどれだけの意味があるだろう。


 長い夜が過ぎると、灰色の朝が訪れる。

 鈍色の海はうねり、やにわに牙を剥く波濤となって岩礁に砕ける。岩の隙間から高く噴き上がった飛沫しぶきの塊は宙で崩れ落ち、叩きつけられ、幾千もの粒子に分たれて再び弾け散る。霧の一雫となるまで繰り返すと、紡がれて泡となり海へと戻ってゆく。

 波は白く雪はみぎわまでを覆い隠し、全てが氷を溶かした明暗の中にあった。葉擦れの騒めきを失った音さえも無色に見えた。

 彼女は行けるところまで、汀へと降りて行った。波が山を作る一瞬、分厚い水の膜は淡い翡翠色を浴びて、横合いから射しこむ陽を透かしていた。それは確かに晴れた夏の日の浅瀬と同じ色で、彼女は鉄のような海の中に水のありかを見た。今は、その翡翠色も、凍るような水の冷たさそのものだ。


 そうして、冬は長い時を灰色の明暗に閉じ込める。あくる日も、あくる日も。

 時にその合間に、空を覆う雲が過ぎ去れば、夜明け前には海にも青色が戻ってくる。けれど、冬のそれは心なしか単調だ。あの翡翠色を探そうとする彼女の前に、もうもうと立ち昇るけあらしが朝日を取り込んで、あたり一面をぼかしてしまう。

 やがて、雪に覆われた全ては白と群青に染まり始めるのだ。


 彼女は凍てつく空を見上げた。

 乾いた空気がもたらす天頂の深い紺は、この断絶の地が今でも薄っぺらな大気圏に覆われた一つの星にあるのだと思わせる。大気に散乱した光は影を空の色にして、彼方の稜線を透かし、陽に照らされた面だけを描いていた。

 晴れた日でも、この雪の中を来るヒトは少ない。暫く通る者のいない尾根道は真っ白に埋もれている。磯を見下ろすと、朝マヅメをとうに過ぎて減ったものの釣り人が見える。冬は魚が良く釣れるらしい。


 再び夜が訪れれば、遮るもののない大気は僅かな熱をも逃がして、透明無垢な荒廃で空を満たした。夏にあれほど雄弁だった天の川は、オリオンとシリウスを結んだ横をかすめる淡いもやだ。青白く凛然としたそのシリウスも、数ある星の一つでしかなかった。


 針のような雪が降りる。

 白く強く。灯は長い夜の彼方を照らしていた。





 長い夜をいくたび繰り返しただろう。

 陸の終わりに吹く風は強い。さらさらとした雪は風であおられてしまうから、そこまで尾根道の雪は深くならない。崖端がけばたの吹き溜まりも巨大な雪庇に育つことなく、崩れ落ちては銀の尾を引いて音もなく海へと消えてゆく。


 その尾根道を膝でかきながら進む人影があった。まだ夜明けにも早い。気づいた彼女が灯室から降りると、ヒトが手にした灯がいくつもこちらを照らしていた。いちど道が踏み固められると、ヒトは次々とやって来た。イヌの声もする。


 人々は灯台前で雪を掘り始めた。切れ目を入れてすくいあげれば、雪はみるみるうちに形を変えた。陣地を円筒状に広げ、切り出した雪で囲む。十分な広さになると、内側を押し固めて段差が作られた。ちょうどヒトが座れる高さだ。

 イヌのアズキは走り回っては転がっている。

 流木やら廃屋の残骸やらを持ち寄ってきたのは、夏に花火をしていたヒトたちだ。廃材は釘の残りがないか確かめてから蹴りで乱暴に折り、中央に嵩を稼ぐように組んでゆく。


 ようやく、何が起きるのか彼女にもわかりかけてきた。

 皆が集まってきて壁の内側に座る。ナッチとアキ、アキの家族もいる。イヌのヒトにアズキ、あやねぇに、花火のヒトたち。何度か見た釣り人や、良く散歩にくるヒト、知らないヒトも沢山いる。


 いよいよ、火種が投入された。

 が、そのまま燃え尽きてしまったかに見えた。流木から煙がもうもうと立ち込めると、エゾニュウの枯れ枝から思い出したように火が噴いて、高い方へと燃え広がった。

 円陣は一方をあけてある。そこから程よく風が引き込まれて、この極寒の炎をよくよく育てていた。風に巻かれた炎は火の粉を飛ばして音をたてる。

 初めて近くで見た焚き火は、ムクドリの群れにも似て、生き物のようだった。

 揺れる炎に照らされて、人々が談笑し始める。明日はシンネンだという。彼女には何もわからなかったが、火を見ているとどうでも良くなった。湧き出ずる楽しいという情動に、その身を震わせる。目を閉じて瞼の向こうに揺らめきを感じながら、行き交うさえずりに耳をそばたてた。


「今年は始祖は来ないんだべか」

「人嫌いって話じゃないっけ」

「んやー、ウチの店に誘ってみたけど、見た目を気にしてるっぽいかなぁ」

「すったらこといったらさ、オレが旭川で見たヌシは半分熊のカッコしてみよしの食ってたっけや」

「草」

「別にドラゴンのまま出てきてもいいべ」

「あれをドラゴンだと思ってんのアキくらいっしょ」


 あやねぇの誘ってみたというのが異能を使った何かだと彼女は気づいた。異能の光を纏って岬から海に話しているのを見たからだ。そしてこれは全部ツノのヒトのことだし、灯台は彼女そのものだったから、いま中に彼がいるのも知っている。

 引っ張りだすほかないと、彼女は螺旋を描いて舞い上がった。


 ツノのヒトは展望台にいた。彼女はその視線の先を見た。

 気の早い夏の星たちが東の空を駆け上がり、空と海の境目は微かに琥珀色を帯びて闇に仄白く溶けている。


 ――夜明けだ。

 人々の歓声が、晴れ渡る寒空に響いた。





 島の春は遅い。冷たい、けれど穏やかな風が朝凪の水面みなもを吹くたび、潮の香と波はざわめいて、明け方のまだ浅い陽射しが散り散りに跳ねては、そよいだ髪の合間から溢れてゆく。抱えるほどの丸い石がごろごろと転がる波打ち際を歩いて、彼女は寄せる波にそっと足を浸した。

 水はどこまでも澄んで、沈み瀬シモリを住処にする魚たちさえ手を伸ばしたなら触れられそうだ。

 波が引く。また寄せる。淡い翡翠色の水底に、波が影を落としては光を束ねている。水底を撫でる無数の光の束は、ふっと青みを帯びたかと思うと、薄れかけた朝焼けの色を滲ませながら、広がり編まれては揺れている。

 足首にその一つが当たって、白い肌が光で強く透かされると、通わない筈の血潮さえ感じるのだ。


「わたしは」


 声に大気が応え、彼女は驚きに息を止めた。

 さらに水を蹴って一歩。深く息を吐いて目を閉じる。白く長いまつ毛がふわりと影を落とした。ひとつうなづいて、瞼を上げれば、海の揺らめきが瞳に映る。手のひらを胸に。意思が喉を震わせて、海霧をも通る声が黎明の空を渡った。


「彼方を照らし、訪れるヒトを導き、愛し、見守る、光」


 やがて朝は戻ってきて、彼女の灯はまばゆきの中にかき消された。


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彼方を照らす 八軒 @neko-nyan-nyan

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