後編『奮闘と失墜』

 巌窟がんくつに、空席の玉座。天井には、ぽっかりと大穴が空いている。穴からはなぜか、ポタポタとしずくが滴っている。すぐに冥界の住人が駆けつけたが、誰一人として、大穴には届きそうもない。住人たちは、雨漏りのする暗い穴を、ただ見つめるしかなかった。


 その頃、地上では、世界各地で、極めて激しい暴風を伴う熱帯低気圧が発生していた。インド洋では巨大サイクロンが発生し、バングラデシュとインドの沿岸地域を襲撃。砂浜には、打ち上げられた魚のように、人々が倒れ込んでいる。また南シナ海では、巨大台風が発生。台風が引き起こした停電により、街という街は闇に包まれている。数十億の人口を誇る東・東南アジア地域は、風の音を除いて、沈黙している。そして、カリブ海で発生したハリケーンは、北米全土を覆い尽くし、人間は皆気絶した。他にも、数え切れない国と地域で、嵐が巻き起こった。なぜ、そんなことが起こったのか。そう、ハデスの仕業だった。

「嫉妬、高慢、怠惰、憤怒、強欲、肉欲、暴食。七つの死に至る罪を重ねる愚かな動物、人間よ! そなたたちの悪しき魂の全てを、我が元に!!」

 果てしない太平洋の真っ只中。鈍色にびいろの雲で覆い尽くされた絶海の上空に、両腕を大きく広げ、天を仰ぐハデスの姿があった。限りなく黒に近い紫紺色の邪気のようなものがいくつも、周囲の空気ごと彼の体に吸い寄せられている。とてつもないエネルギーのせいか、ハデスの真下の海面は、半球状に大きくえぐれている。彼は歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべている。

「フッ……これで人間どもは、善の塊よ。」

 無理矢理に口角をあげ、食いしばっている奥歯が覗く。歯は、深くひび割れている。頭に被った兜の角の片方は中ほどで折れて無くなっており、全身の皮膚の、刃物で裂かれたような深い切り傷が痛々しい。もし鎌鼬かまいたちが実在するならば、そのような傷を浴びせるに違いない。

「ウオォォォォォ!!!!」

 ハデスの咆哮。そうして息をいっぱいいっぱいに吐き出したあとで、今度は、顎が外れそうなほどに口を大きく広げ、禍々しい色の大気を吸い込む。ハデスの背景の、真っ黒なキャンバスは、空色に塗り替えられていく。人間の悪のは全て、彼の口へと、吸い込まれていった。

「これで……良いのだ」

 ハデスは力尽き項垂うなだれると、海の穴ぼこへと静かに消えていった。



|||| |||| |||| ||||



——ハデスは、激変した。


「おい、冥界の愚民ども! 酒と、肉と、上玉の女と、金品を持ってこい! わしは今後一切、冥界の王としての責務を放棄する!」

 彼は地上から帰還後、冥界に圧政を敷いた。かつては平和だった冥界は荒廃し、住人は互いに貶め合うようになった。あまりの環境の悪さに、冥界の住人たちが『第二の死』を迎えるという、これまでにない怪現象が起こり始めた。第二の死を迎えた者は、冥界よりもさらに地中奥深くの『地底』で復活し、地底の住人となった。


 地底の王もまた、一つ上位の世界、冥界を正そうと奮闘した。だが地底の王もまた、ハデスのように心を病み、暗黒面に落ちてしまった。やがて地底では住人の『第三の死』が起こり、一つ下の世界、上部マントルで復活した。この負の連鎖は、上部マントル、下部マントル、外核、内核の世界へと次々と伝播し、結局、地球の中心部である内核は、地球の全ての『けがれ』の、掃き溜めになった。


 悲しきかな、誰かが嫌な思いをするしかないのが、世の常である。


〈完〉

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ハデスの憂鬱 加賀倉 創作 @sousakukagakura

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