ハデスの憂鬱
加賀倉 創作
前編『憂鬱と覚悟』
——ハデスは、覚悟した。
「ワシが、やるしかないな……」
薄暗闇にこだまする重低音。その切実な声は、筋骨隆々の、牡牛のような角が目立つ兜を被る巨人の背中から、聞こえてきた。彼は膝を曲げてかがみ、全身を激しく震わせながら、力を溜める。重々しい屈伸運動で、頭上の岩の天井目掛け、その図体からは考えられないほどの勢いで、高く跳躍する。真っ直ぐと突き上げられた二つの拳が岩盤を砕き、大穴を開けると、彼はその中へと消えた。
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遡ること数日前。
冥界の王ハデスは、日々冥界にやってくる死者たちに、うんざりしていた。
「そなたの死因は?」
朽ち果てた玉座で背筋を伸ばしているハデスは、いつも決まって、死者にそう尋ねる。
「戦争です。左胸を撃たれました」
軍服の胸元を赤褐色に染めた男が、そう答えた。
「死因は戦死っと……」
ハデスは、人差し指から伸びた禍々しい爪で、ガリガリと音を立てながら、石板に刻印する。
「えっと、私はどこへ向かえばいいでしょうか?」
男は、キョロキョロと、暗くて殺風景な石室を見渡す。
「『戦没者の洞穴』に向かえ。そこには、そなたと同じような格好の奴らが五万といる。ここでは永遠の生が保証されているが……今後、無茶はするでないぞ。はい、次の方」
命を奪い合う、愚かな人間。
「お前の死因は?」
先ほどよりも、やや語気が強い。
「あー、パルクールしてたら、ビルから落ちて……気づいたら、この薄暗い世界に。鈍臭いですよねぇ、あははは」
全身包帯まみれの女性が、自虐的に笑う。
「はぁ……命を粗末にしおって。転落死、としておくか」
ハデスは走り書きで、石板に記した。
「あの私、喉が乾いちゃったんですけど……」
女性は、呑気に尋ねる。
「そこの泉で『向こう見ずの迎え水』を配っているから、それを飲むがいい。はい、次の馬k……じゃなくて、次の方」
危険を顧みない、愚かな人間。
「ろくでもない返事がきそうだが一応聞く。貴様の死因は?」
少し、早口で。ハデスは、苛立ちを隠せないでいる。
「お恥ずかしながら……銀行強盗で、武装警察に待ち伏せを食らって射殺されました」
頭部を激しく損傷した、黒ずくめの男が、なぜか申し訳なさそうに、白状した。
「はぁ……現行犯につき射殺」
ハデスの筆跡は、解読不可能。
「俺はどこに——」
「警察にでも聞くんだな。はい次」
ハデスの指示が雑になってきた。
楽してカネを得ようとする、愚かな人間。そもそも、カネという所詮は信用創造によって生み出された虚構の存在を、なぜそこまで欲しがるのだろうか。
「テメェはなぜここへきた?」
玉座であぐらをかくハデス。
「私、宇宙開発プロジェクトに参加したんですけど、船外活動中に命綱が切れて、宇宙空間に放たれてしまったんです。なので死因は……酸欠、かしら?」
ズタズタに引き裂かれた宇宙服を纏う女性。なぜかヘルメットを被っており、そのガラス部分が呼気で曇っている。
「おい、人と話す時は顔くらい見せたらどうだ? 無礼者! 論外! はいはい次のボケナスは!?」
ハデスの怒りが、剥き出しになる。
地上では、彼女は『勇敢だった』と讃えられるのかもしれないが、これもまた、欲深い人間の悲惨な末路だ。愚かにも自然を支配しようとするあまり、自らの住む地上を荒廃させる。結果、地球外に安息の地を求めて、今度は事故だ。
「ヘェイ! ユーは何しに冥界へぇ? はぁ! もう嘘でも何でもいいから、老衰だとか、マシな死因を頼む!!」
ハデスは、頭がおかしくなりそうになるが、かろうじて正気を保つ。
「高層ビルから落ちて死にました」
髪と髭が伸びきった、気弱そうな男性。
「ヒョエ〜! なんだ、お前もあれか、パルクールとかいうクレイジーな競技の虜なのか? まったく、さっきもそういう奴がいてだな——」
「……自殺です。生きるのが辛かったんです」
男性は、覇気こそないが、確かな声でそう答えた。
「そ、そうか。それは非常にデリケートな問題だ。決めてかかってしまい、申し訳ない。反省反省。だがあれだな、結局は、その辛い原因を生み出しているのはきっと……いじめか? それとも貧困か?」
ハデスは、今までにない、優しく柔らかな声で尋ねる。
「俺、なんのために生きているのか、わからなくなったんです。毎朝六時起床八時出社。二十三時退勤二十四時帰宅。休みは、ほとんどありませんでした……」
男は俯く。
「なんと……それは辛かっただろう。そなたの死は、元を辿れば……わしのオーラよりもドス黒いブラック企業のせい。いや、ひいてはブラック企業を生み出してしまう経済の歪み、腐敗政治、渦巻く陰謀。結局、人間は愚かに振る舞い、愚かに死ぬわけだ」
ハデスは、少しセンチメンタルになっている。
「冥界では、随分と長い間暮らすことになると聞いていますが、私は何をすれば? 私の仕事は、何でしょうか?」
男は、労働に囚われている。
「冥界では労働など、必要ない。そなたは、休め。永遠の平穏に浸るのだ」
男を
〈後編『奮闘と失墜』に続く〉
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