「面白い女」で「オタクに優しいギャル」だった友人Eについての備忘録

翠雪

「面白い女」で「オタクに優しいギャル」だった友人Eについての備忘録

「乱歩なんて死んじゃえ!」


 そう嘆いた貴女は私と同い年で、私と同じに、国文学科の学生だった。会うたびに変わる付け爪が、根暗な私の目に眩しく映った、短い日々。二度とは繰り返せない些事を覚えていられるうちに、その中のいくつかをここへ書き留めることを許してほしいと言ったら、貴女はきっと、「全然いいよ」なんて笑って、型破りの文法を披露してくれたのだろう。


 私と彼女は、主に近現代の日本文学を取り扱うゼミに所属していた。頭へ「主に」と付けたのは、「日本語で編まれた作品であり、かつ分析が妥当であるならば、どんな物語でも卒業論文で取り扱って構わない」という方針の教授に師事していたからである。実際に、私たちの所属するゼミから巣立った先輩各位が論じたテーマはといえば、世間で「文豪」ともてはやされる小説家の作品から、子どもに見せたくないアニメランキングの常連である「クレヨンしんちゃん」の映画版に至るまで、嘘偽りなく多岐に渡る。私の代も、西尾維新の『化物語』や有川浩の『図書館戦争』、米澤穂信の『追想五断章』、遠藤周作の『悲しみの歌』——『海と毒薬』の続編と言えば、頷ける方も多かろう——など、先達に比べればまだまだ可愛い方とはいえ、賑やかしい顔ぶれが卒業論文のテーマとして並んでいた。私は、集英社文庫『伊豆の踊子』に収録された、川端康成の短編「死体紹介人」を研究対象に選んだ。装画は荒木飛呂彦。彫りの深い薫が舞う一冊は、兄に頼んだ誕生日プレゼントの一つだった。


 そして、あらかじめ死んでいる作家の死を願うことになる彼女は、江戸川乱歩をターゲットに、作中における同性愛の要素と位置付けについて研究することを決めた。作家といい方向性といい、先行研究がうず高く積み上がった、うかつに触れれば大火傷をするお題目である。ここでは、彼女が紐解いた作家のペンネームをもじって、彼女を「E」と呼ぶことにする。私に関しては、同じ法則に基づいて「K」とでもしておこう。


 Eは、挙げるべき特徴がとにかく多い女性だった。明るい色の波打つ髪に、毎週欠かさず柄が変わる付け爪、太ももの半ばで終わる短いスカート、どこかあどけない唇にひかれた鮮やかな口紅などという、表層だけにとどまる話ではない。昼間のアルバイトは学習塾の人気講師、夜はクラブで酌に勤しみ、家族とは毎日連絡を取り、芸能人ではない推しがいて、二回り以上年上の彼氏もいた。時々は、別の男性とも寝ていた。何事にも素直な彼女は、自らのことを誰に隠そうともしなかった。そのため、すんでのところで友人枠に滑りこむ私にすら、あらゆる身の上を明かしていた。Eの辞書には、秘密の二文字がなかったように思われる。


 特徴の多い彼女には、名言も多い。その中から激選して、私の人生に刻まれ続けるだろうEの金言トップ三を、以下に列挙しようと思う。


 その一。


「今月は処女だから」


 これは、彼女が推しについて話していた時の発言である。曰く、推しにふさわしい女でいるために、その月は誰とも寝ていなかったのだとか。私は、「今月は三分の二くらい残っているな」と無粋な計算をすると共に、「処女って月単位でリセットされていいんだ」と感心すらしていたが、同期の男子は「『今月は』とかないから」とすげなく却下した。くだらないツッコミを入れる暇があるなら禁煙しろと、胸中で彼に毒づいたことも覚えている。彼はゼミ内に嫌煙家の彼女がいて、半分は慰安旅行である静岡のゼミ合宿でさえ泣かせていた。消灯後に涙ぐむ彼女へ、「もっといい男いるよぉ、絶対」と気楽に言ってのけたのはEだった。


 その二。


「Kちゃんてさぁ、頭いい男が好きでしょ」


 私たちのゼミでは、週ごとに発表者を変えながら、討論の形で作品の読解を進める。そのため、講義が開講する前までに、発表者の学生が指定した研究対象を、一通り読んでくることが義務であった。質疑が停滞すれば初読の感想を求められ、それぞれがどの登場人物にフォーカスしながら読んだのかも、真面目に聞いてさえいればある程度は分かる。しかし、こうまであけすけに見抜かれてしまっては、私は耳を熱くしながら頷くしかなかった。笑いながら彼女が言い当てた通り、私は頭のいい男が好きだ。賢くて、ちょっぴり寂しげな男が出てくると、ついつい肩入れしてしまう。そういった男は大抵、三幕構成でいうところのプロットポイントで、惜しまれつつ退場するのだが。つい先日、遅ればせながら鑑賞したハリウッド映画「トップガン」では、グースとアイスマンに黄色い声を上げていた。


 そして、その三。


「乱歩なんて死んじゃえ!」


 これである。卒業論文も大詰めで、提出期限までには片手で数えられる月しか残っていなかったある日の大暴投だ。ゼミの飲み会までの数時間を持て余し、大学の近くで一人暮らしをしていたEのアパートへ、同期と共に招かれた。前後の話は忘れてしまったが、推察するに、Eの卒業論文が難航して出てきた言葉だったのだろう。このやけっぱち感が、たまらなく良い。これぞEの真骨頂。そんな帯を巻きたくもなるほど、とびきり勢いのある一言だ。もう死んでるって、と流石に指摘された彼女は、提出期限を見事に死守し、私と同じ日に学び舎を巣立った。


 現在のEについて、私は何も知らない。ゼミのグループチャットは抜けてしまったし、連絡網に載っていた番号に電話をかけるつもりもない。単なる同窓にEの人生へ介入する権利はなく、よしんばあったとしても、Kは、記憶の中にのみEを生かすことを選ぶ。私の世界は閉じていて、だからこそ、うら悲しく綺麗だ。


 最後に、私が勝手に大事にしてきた、とある思い出も記しておきたい。あれは、先にも登場したゼミ合宿の、夜も更けた頃合いだった。オブラートに包めば趣のある、天井がところどころ剥がれた旅館に面する伊東の浜辺へ、ほろ酔い気分の数人で遊びに行ったのだ。その中には、私とEも混ざっていた。皆、L字の防波堤の果てを目指して、理由も探さずすいすい進む。Lの折れ目を過ぎた先駆者は、千鳥足を水平線と平行にならしながら、知らない歌を口ずさんでいた。けれども私は、そこで、黒い波が打ちつける足元を見下ろしてしまった。まだまだ半ばの道ならぬ道で座りこんでしまった私を、先ゆく彼らは振り返らない。うんと先まで進んだ同期のはしゃぐ声が、潮風と共に鼓膜を震わせる。星の見えない、重たく曇って黙した空。非日常ですらあの輪には完全に溶けこめないのかと、アルコールが回った頭でぼんやり思う私の隣へ、列の最後尾を司っていたEが、おもむろに腰を下ろした。二人の間で二、三の言葉を交わした気もするが、記憶にあるのは、彼女が遠くを見ていたことばかりだ。賑やかに声を上げるメンバーとこそ仲が良かったはずのEは、しんと凪いだ眼差しで、真夏の黒い海を眺めている。足元には、私を追い越せるだけの横幅があった。化粧をしていなくても、彼女は美しかった。


 あれほどまでに心臓を引き絞られる景色を、私は、没するまでにあと何回見られるだろうか。


 大学四年間のうち、単なる顔見知りに過ぎなかった一、二年目。同じゼミに所属して、話す機会がぐんと増えた三、四年目。卒業の直前、彼女が企業から内定を勝ち取ったことは本人の口から聞いたが、どこに、とまでは深掘りしなかった。どんな場所で働くにしろ、彼女はそこをお立ち台にできるだろうと思ったからだ。様々な面をもつ彼女は、そのいずれの面をも輝かせる、ミラーボールにも似ていた。Eは、いわゆる「面白い女」かつ「オタクに優しいギャル」で、鋭い閃きのみならず、溢れんばかりの活力と、静かな強さまで兼ね備えた女性であった。左右の顔色を窺わずにはいられなかった当時の私にとって、彼女はまさしく光源だったと、本心から綴ることができる。


 さて、乱歩を詳らかにしたEがここまで読めば、Kの正体を簡単に見抜いてしまうことだろう。万が一、この乱文を貴女が読んでしまった場合は、どうか一笑に付していただきたい。もちろん、ゼミのメンバー、並びに教授についても同様だ。頭のいい男が好きなKが息災であることだけを記憶の片隅に留め置き、何事もなくページを閉じて、昨日までと地続きの今日に戻ってくださるよう、私は切に願っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「面白い女」で「オタクに優しいギャル」だった友人Eについての備忘録 翠雪 @suisetu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ