第一節 夏
3
ぱらり、ぱら
小雨の中、次の見開きへと視線を進めた。
頭上からは、ぽつぽつと四阿の屋根をつつく音が聞こえる。
当たり前と言えば当たり前なのだけれど、壁もなければクーラーもないこの駅には、夏になると地獄の暑さが襲ってくる。
かれこれ通い続けて5年。
毎年、この季節だけは此処に来るのが本当に憂鬱になる。
「住まいは夏を旨とすべし」とはよく言ったもので、この駅の設計者は夏を知らなかったのだと心の底から思う。冷房はもちろん扇風機もないのは、いくら田舎路線でもこの駅だけだ。ましてや屋根が改札とこの四阿にしかないから、日差しすら防げたものではない。
それでも、たった一言の口約束を守るために足を運び続けているのだ。我ながら馬鹿らしい。
今日は雨だからまだ涼しい方で、水分補給さえしていれば本くらいは読める。
持ってきたクーラーボックスには、ペットボトルのスポーツドリンクをたっぷり入れておいた。総重量3キロはあると思う。お陰で駅に着く頃には腕が棒のようになっていた。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、飲み物も持たず夏の此処に居座るなんて自殺行為だ。
重いだけならまだしも、此処に来るまでの怪奇の目も痛い。年寄りばかり乗る電車に、若い女が大きな白い箱を抱えて突っ立っているのだ。怪しまれるのは当然だろう。
高校時代はというと、夏は手持ちの扇風機を片手にずっと項垂れていた。
耐えきれないほど暑い日には、嫌がる先輩を引っ張って、2駅先にあるコンビニで涼むのが常だった。先輩は不満そうな顔をしていたが、あの人はほっとくと死んでも本を読み続けると思ったから、引き摺ってでも連れて行っていた。
田舎の夏というのは都会のそれーー逃げ場のないような、乾いた暑さーーとは違う暑さがある。私はもともと都会の人間だった。慣れなかったのもあって、引っ越した最初の1年は特に辛かったのを覚えている。
引越しの理由は、中学を卒業してすぐに両親が離婚したから。
半分出ていく形での離婚だった。出て行った母の方に付いて行った私は、彼女の実家があるこの土地に引っ越すことになったのだ。
離婚の原因はよくあるもので、きれいに言って仕舞えば『価値観の違い』。
このたった6文字に、ちょっとした諍いから思い出したくもない罵り合いまで含んでしまうのだから、言葉とは不思議なものだ。
今となっては懐かしいことを思い出しながら、駅の正面に見える山を眺めて、目を休ませる。ついでにクーラーボックスから飲み物を取り出して、水分補給も済ませておく。
暫くそのまま山を見ていたのだけれど、瞼は重いままだった。思っていたより目が疲れていたらしい。ひとまず本を膝の上に置いて、ゆっくりと目を閉じた。
***
暗くなった視界に、懐かしい風景たちが浮かぶ。
一つづつ蝋燭に火を灯すように、深い暗海を潜っていくように、緩やかな記憶の波が私の体を攫っていく。響いていた雨音はどんどん遠ざかって、やがて消えていった。
沈黙の中、記憶だけがゆっくりと流れていく。
網膜に映らない景色、鼓膜を打たない声。泡沫のように浮かんでは消える景色に身を委ねる。底の無い海に沈むような、微睡に落ちる。
ーーーリビングから聞こえる罵倒の声、私の腕を強く引っ張る手の感触、その時覗いてしまった母の顔、そしてーーー
『もう来んなよ』
言葉とはまったく真逆の、低くて優しい声。
記憶を辿る中で、やっぱり最後には先輩のことを思い出してしまう。
跳ねた無造作な髪に眠たげな瞳、駄々をこねると尖らせる唇と、大きくて細い手。本を読んでいる時の子供っぽい横顔も、時折見せる砕けた笑顔も、必死に隠そうとしていた照れ顔も。全部、鮮明に思い出せる。
出会ってから勝手にいなくなるまで、あの人はずっと頑固で変わり者だった。
言わずもがな読書家で、どうにも偏屈で、変なところで優しくて。
本当に、妙な人だった。
***
追憶の余韻が残ったまま、目を開ける。鮮やかな記憶とは裏腹に、視界はぼやけていた。段々と現実に引き戻されていく。気付かない内に、雨足は激しくなっていた。
「あの声」がまだ、耳の奥底に残っているのを感じる。
古いレコードを回した後のような、セピア色の残響。それは私の中で、あまりに深い跡を残している。
幾分か色褪せたあの春が、確かにこの場所にはあった。きっと、私はその散らばった欠片を集めているのだ。
本に視線を戻そうとしたちょうどその時、山から一筋の雷が鳴った。静かで、沈み込むような遠雷。今読んでいるのが初めて読み切った小説だと気付いたのは、その時だった。
徐々に激しくなっていく雨音の中で、次の頁へと指をかける。
ぱらり、ぱら
ぱらり、ぱら 枕川 冬手 @fuyute-shinkawa
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