第27話:「約束」

 初冬の柔らかな日差しが、サナトリウムの白い壁を優しく照らしていた。美月は、沙奈絵の部屋に向かう廊下を静かに歩いていた。足音を立てないよう、慎重に歩を進める。その姿は、まるで時の流れを乱さないようにしているかのようだった。


 美月の装いは、この日のために特別に選ばれたものだった。柔らかな肌触りの生成りのリネンワンピースに、薄いグレーのカシミアのカーディガンを羽織っている。首元には、沙奈絵からもらった小さな水晶のペンダントが控えめに輝いていた。髪は、自然な風合いを生かしたゆるやかなまとめ髪。耳元には、祖母から譲り受けた淡水パールのイヤリングを付けていた。


 化粧は最小限に抑え、自家製のローズウォーターで肌を整えた後、ほんのりとしたピンク色のチークを頬に乗せるだけにした。唇は、蜜蝋を使った自作のリップクリームで潤いを与えた。全体的に、清楚で温かみのある雰囲気を醸し出していた。


 沙奈絵の部屋の前に立った美月は、深呼吸をして心を落ち着かせた。そっとノックをする。


「どうぞ」


 か細いながらも、確かな沙奈絵の声が聞こえた。美月は静かにドアを開け、部屋に入った。


 沙奈絵は、窓際のベッドで横たわっていた。以前よりも痩せ、顔色も悪くなっていたが、その目には変わらぬ輝きがあった。窓から差し込む光が、沙奈絵の姿を優しく包み込んでいる。


「沙奈絵、こんにちは」


 美月は、優しく微笑みかけた。


「美月……来てくれたのね」


 沙奈絵の声には、喜びと安堵が混ざっていた。美月は、沙奈絵のベッドサイドに腰掛け、そっと手を握った。


「ごめんね、最近あまり来られなくて」

「いいのよ。あなたが来てくれるのを、ずっと楽しみにしていたの」


 沙奈絵の言葉に、美月は胸が締め付けられるような思いがした。沙奈絵の病状が進行していることは明らかだった。しかし、その瞳の奥には、変わらぬ沙奈絵の魂が宿っているように見えた。


「今日は、何をして過ごそうか」


 美月は、明るく尋ねた。


 沙奈絵は、少し考えてから答えた。


「美月、私に本を読んでくれないかしら。最近、自分で読むのが少し辛くて……」

「もちろん」


 美月は頷いた。


「どんな本がいい?」

「そうねぇ……」


 沙奈絵は、少し遠くを見つめた。


「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでくれないかしら」


 美月は、その選択に少し驚いた。『銀河鉄道の夜』は、生と死、そして永遠についての深い洞察に満ちた作品だ。沙奈絵の心境を察して、美月は静かに頷いた。


 美月は、沙奈絵の本棚から『銀河鉄道の夜』を取り出した。ページを開き、ゆっくりと読み始める。美月の穏やかな声が、部屋に静かに響いた。


「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ。どこまでもどこまでも僕たちは一緒に行く……」


 美月が読み進めるにつれ、沙奈絵の表情が少しずつ和らいでいくのが分かった。時折、沙奈絵は目を閉じ、物語の世界に深く沈潜しているようだった。


 読書の合間に、美月は沙奈絵と静かに会話を交わした。二人は、学生時代の思い出や、共通の友人のことを語り合った。そして、避けられない話題にも触れた。


「美月」


 沙奈絵が、静かに呟いた。


「私、もう長くないの」


 美月は、言葉を失った。しかし、沙奈絵の手をしっかりと握り返した。


「怖くない?」


 美月は、小さな声で尋ねた。その脳裏には介護ボランティアで見た佐藤さんの笑顔が微かに過った。


 沙奈絵は、穏やかに微笑んだ。


「少しは怖いわ。でも、不思議と受け入れられるの。むしろ、今この瞬間をあなたと過ごせることに感謝しているわ」


 その言葉に、美月は深い感動を覚えた。

 生と死の境界線に立つ友人の言葉には、重みがあった。


「沙奈絵、私……」

「大丈夫よ、美月」


 沙奈絵は、美月の言葉を遮った。


「あなたがここにいてくれるだけで、私は幸せなの」


 美月は、沙奈絵の言葉に深く頷いた。二人は、しばらくの間黙ったまま、互いの手を握り合っていた。窓の外では、小鳥がさえずり、風が木々を揺らしていた。その瞬間、時間が止まったかのように感じられた。


 静寂が二人を包み込む中、美月はふと思い立った。


「沙奈絵、少し外の景色を見てみない?」


 沙奈絵の目が、かすかに輝いた。


「でも、私……」

「大丈夫よ」


 美月は優しく微笑んだ。


「私が支えるから」


 美月は静かに立ち上がり、沙奈絵を抱きかかえるようにしてベッドから起こした。沙奈絵の体は、以前よりもずっと軽くなっていた。その事実に、美月は胸が痛んだが、表情には出さなかった。


 二人はゆっくりと窓際まで歩いた。美月は沙奈絵を支えながら、窓を開けた。冷たい風が部屋に流れ込み、沙奈絵の頬を優しく撫でた。


「ああ、久しぶりね……外の空気」


 沙奈絵の声には、懐かしさと喜びが混ざっていた。美月は、沙奈絵の肩に自分のカーディガンを掛けた。


 窓の外には、サナトリウムの庭園が広がっていた。紅葉した木々、色とりどりの花々、そして遠くに見える山々。全てが、初冬の柔らかな光に包まれていた。


「美月、見て」


 沙奈絵が小さく声を上げた。


「あそこに、小鳥が」


 確かに、近くの木の枝に小鳥が止まっていた。それは、美しい青い羽を持つルリビタキだった。


「ルリビタキね」


 美月は静かに説明した。


「冬鳥なの。遠い国から、ここに冬を過ごしに来るのよ」

「そう……」


 沙奈絵は、その小鳥をじっと見つめた。


「私たちも、長い旅の途中なのかもしれないわね」


 その言葉に、美月は返す言葉を失った。しかし、沙奈絵の体をそっと抱きしめた。

 二人は、しばらくの間、ただ景色を眺めていた。


 二人はゆっくりと庭園をまわってから病室へと戻っていった。

 やがて、沙奈絵が静かに口を開いた。


「美月、私ね、あなたに伝えたいことがあるの」

「なに?」

「私の人生は、決して長くはなかったけれど、とても幸せだったわ」


 沙奈絵は、美月の目をまっすぐ見つめた。


「特に、あなたと紗良との友情は、かけがえのないものだった」


 美月は、涙をこらえるのに必死だった。


「私たち三人で過ごした日々、一緒に笑い、泣いて、夢を語り合った時間。それが私の宝物よ」


 沙奈絵は続けた。


「だから、美月。私が逝ってしまっても、悲しまないで。私の分まで、精一杯生きて」

「沙奈絵……」

「約束して」


 沙奈絵の声には、珍しく強い調子があった。

 美月は、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。


「約束するわ、沙奈絵。あなたと紗良の分まで、精一杯生きる」


 沙奈絵は、安心したように微笑んだ。


「ありがとう、美月」


 その時、窓の外で小鳥がさえずった。二人は、その音に耳を傾けた。


「美月」


 沙奈絵が、再び口を開いた。


「最後にもう一つ、お願いがあるの」

「なんでも言って」

「私の詩集を、完成させて欲しいの」


 沙奈絵は、ベッドサイドの引き出しを指さした。


「あそこに、書きかけの詩がたくさんあるわ。私の代わりに、最後まで書き上げてくれないかしら」


 美月は、驚きと感動で言葉を失った。沙奈絵の詩集を完成させるという重責。しかし、それは同時に、沙奈絵の思いを受け継ぐ、大切な使命でもあった。


「分かったわ、沙奈絵」


 美月は、強く頷いた。


「必ず、あなたの詩集を完成させる」


 沙奈絵は、安堵の表情を浮かべた。


「ありがとう、美月。私の言葉の続きを、あなたの感性で紡いでくれるのを楽しみにしているわ」


 そして、沙奈絵は美月の耳元で、最後の言葉を囁いた。


 沙奈絵の最後の言葉を聞いた美月の目に、大粒の涙が浮かんだ。しかし、それは悲しみの涙ではなく、深い感動と決意の涙だった。


「わかったわ、沙奈絵。必ず、その言葉を胸に刻んで生きていくわ」


 美月は、沙奈絵をそっとベッドに戻した。沙奈絵の体は疲れを見せていたが、その表情は穏やかで、どこか晴れやかだった。


「美月、今日はありがとう」


 沙奈絵は、微笑んだ。


「あなたが来てくれて、本当に幸せだったわ」

「私こそ、ありがとう、沙奈絵」


 美月は、沙奈絵の手を優しく握った。


「また必ず来るわ」


 美月が部屋を出る直前、沙奈絵が静かに呼びかけた。


「美月、最後にもう一つだけ」

「なに?」

「私の部屋の植物たち、お願いね」


 美月は、部屋を見回した。窓際には、沙奈絵が大切に育てていた観葉植物やハーブがいくつも置かれていた。それらは、沙奈絵の命の象徴のようだった。


「もちろん」


 美月は、深く頷いた。


「大切に育てるわ」


 沙奈絵は、安心したように目を閉じた。美月は、静かに部屋を後にした。


 廊下に出た美月は、深く息を吐いた。胸の中に、様々な感情が渦巻いていた。悲しみ、感謝、そして強い決意。美月は、窓の外を見つめた。夕暮れの空が、美しく染まり始めていた。



 その夜、美月は自宅に戻ると、すぐに和綴じのノートを開いた。ペンを走らせながら、今日の体験と沙奈絵の言葉を丁寧に書き記していく。


「沙奈絵との再会は、私に人生の大切さを改めて教えてくれた。生きること、死ぬこと。そのどちらもが、かけがえのない贈り物なのだと」


 美月は、そう書き記した。そして、沙奈絵から託された使命を果たすべく、決意を新たにした。沙奈絵の詩集を完成させること、そして沙奈絵の植物たちを育てること。それらは、美月にとって新たな人生の目標となった。


 窓の外では、満月が静かに輝いていた。その光は、美月の心に新たな希望をもたらした。美月は、深呼吸をし、明日への期待を胸に、静かに目を閉じた。


 生と死、喜びと悲しみ、そして友情。これらすべてが織りなす人生の美しさを、美月は心の底から感じていた。そして、沙奈絵と紗良の分まで、精一杯生きていく決意を胸に刻んだ。


 美月の新たな旅が、ここから始まろうとしていた。


(了)

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御厨美月(みくりやみつき)の静かな生活 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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