第26話:「一瞬も、一生も」
介護ボランティアを始めて一ヶ月が経った頃、美月の中で何かが変化し始めていた。日々の経験が、彼女の内面に静かな革命を起こしていたのだ。
この日、美月は特別な決意を胸に秘めて施設に向かった。今日の装いは、いつも以上に心を込めて選んだ。柔らかな桜色の絹のブラウスに、優しいグレーのロングスカート。首元には、祖母の形見の淡水パールのネックレスを。髪は、丁寧にまとめ上げ、自作の押し花のヘアピンで留めた。
施設に到着すると、美月はまず佐藤さんの部屋を訪れた。先日、桜の絵を贈ってから、佐藤さんの容態が急速に悪化していたのだ。
部屋に入ると、佐藤さんは窓際のベッドで静かに横たわっていた。その姿は、まるで眠っているかのように穏やかだった。
「佐藤さん、おはようございます」
美月の声に、佐藤さんはゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはやこの世のものとは思えないほどの輝きがあった。
「あら美月さん、来てくれたのね」
かすかな声だったが、確かな温もりがあった。美月は、佐藤さんの手をそっと握った。
初冬の柔らかな日差しが、病室の窓から静かに差し込んでいた。美月は、佐藤さんのベッドサイドに腰掛け、小さな木箱を膝の上に置いた。佐藤さんは、弱々しくも期待に満ちた眼差しで、美月を見つめていた。
「佐藤さん、今日は特別なものをご用意しました」
美月の声は、優しく部屋に響いた。その言葉に、佐藤さんの目が少し輝きを増した。美月は、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。中から、淡い桜色の和菓子が姿を現した。
羽二重餅の滑らかな表面には、白餡で作られた小さな桜の花びらが散りばめられていた。それは、まるで春の風が吹き抜けたような、繊細で美しい光景だった。
「これは……また、桜?」
佐藤さんの声が、かすかに震えた。その目に、小さな涙が宿るのを美月は見逃さなかった。
「はい。佐藤さんに、また桜を味わっていただきたくて」
美月は、和菓子を丁寧に取り出した。その動作には、まるで茶道の所作のような美しさがあった。和菓子を小さな楓の葉の形をした皿に載せ、佐藤さんの目の前に差し出す。
「美月さん……」
佐藤さんの声は、感動で途切れがちだった。美月は、優しく微笑んだ。
「召し上がってみてください」
美月は、和菓子を小さく切り分け、佐藤さんの唇にそっと運んだ。その瞬間、部屋中に微かな桜の香りが広がった。
佐藤さんは、目を閉じて和菓子を口に含んだ。その表情が、ゆっくりと変化していく。驚き、懐かしさ、そして深い喜びが、次々と浮かんでは消えていった。
「美味しい……本当に桜の香りがするわ」
佐藤さんの言葉に、美月は静かに頷いた。和菓子を作る際、美月は桜の葉を蒸して香りを移し、生地に練り込んでいたのだ。それは、単なる味覚だけでなく、春の記憶そのものを呼び覚ます仕掛けだった。
「まるで、春の風が吹いてくるようね」
佐藤さんは、目を閉じたまま呟いた。その表情には、深い安らぎが広がっていた。美月は、佐藤さんの手をそっと握った。
「佐藤さん、どんな春の思い出が蘇ってきましたか?」
美月の問いかけに、佐藤さんはゆっくりと目を開けた。その瞳には、遠い日の記憶が映っているようだった。
「ねえ、美月さん。私が子供の頃、家の庭に大きな桜の木があったの」
佐藤さんは、懐かしそうに語り始めた。その声には、久しく忘れていた活力が戻っていた。
「毎年春になると、その木の下で家族みんなでお花見をしたわ。母が作ってくれた桜餅の味、父が淹れてくれた熱いお茶の香り、兄弟たちと花びらを集めて遊んだこと……全てが鮮明に蘇ってくるわ」
美月は、佐藤さんの言葉に聞き入りながら、もう一切れの和菓子を差し出した。佐藤さんは、感謝の眼差しでそれを受け取った。
「美月さん、あなたはね、この和菓子で私に時間旅行をさせてくれたのよ」
佐藤さんの言葉に、美月は深い感動を覚えた。一つの小さな和菓子が、人生の大切な記憶を呼び覚まし、最後の日々に光をもたらす。その事実に、美月は人生の真髄を見た気がした。
「佐藤さん、そう言っていただけて本当に嬉しいです」
美月の声は、感情で少し震えていた。佐藤さんは、優しく微笑んだ。
「美月さん、私ね、もう一度あの桜の木の下に立ってみたいと思っていたの。でも、あなたのおかげで、心の中でそれが叶ったわ」
佐藤さんの言葉に、美月は言葉を失った。
ただ、静かに頷くことしかできなかった。
美月は、この瞬間を心に深く刻み込んだ。人生の最後の時を迎える人に、小さな幸せをもたらすことができる。その事実が、美月の心を温かく包み込んだ。
佐藤さんは、最後の一切れの和菓子を口に運んだ。その表情には、深い満足感と安らぎが広がっていた。美月は、その姿を見守りながら、人生における「味わう」ことの意味を考えていた。それは単に舌で感じるものではなく、心で感じ、魂で味わうものなのだと。
部屋に静寂が戻ってきた。しかし、それは寂しい静寂ではなく、幸福感に満ちた静けさだった。美月は、佐藤さんの手をそっと握り、共に目を閉じた。そこには、永遠に続く桜の季節が広がっていた。
穏やかな秋の午後、美月は山田さんの部屋を訪れた。窓から差し込む柔らかな陽光が、部屋全体を優しく包み込んでいた。山田さんは、いつもの椅子に腰かけ、編み物の準備をしていた。その姿には、今日はいつもより活力が感じられた。
「こんにちは、山田さん」
美月は静かに声をかけた。
山田さんは顔を上げ、澄んだ目で美月を見つめた。
「やあ、美月さん。今日は良い天気だね」
その声には、普段にも増して明瞭さがあった。美月は、今日の山田さんの状態が良好であることを感じ取り、密かに安堵した。
美月は、山田さんの隣に腰掛け、自分の編み物道具を取り出した。二人は黙ったまま、それぞれの編み物を始めた。針が織り成す静かなリズムが、部屋に心地よい調べを奏でる。
しばらくして、山田さんが口を開いた。
「美月さん、人生というのは編み物のようなものだと思うんだ」
その言葉に、美月は動きを止め、山田さんに注目した。山田さんは、編み棒を動かしながら、ゆっくりと語り始めた。
「一目一目を丁寧に編んでいく。時には間違えて、ほどいて、また編み直す。でも、最後には美しい作品になる」
美月は、その言葉に深く頷いた。山田さんの瞳には、長い人生を経た者特有の深い洞察が宿っていた。
「それぞれの一目が、人生の一瞬一瞬に相当するんだ」
山田さんは続けた。
「些細な出来事、大きな決断、喜びや悲しみ。それらが全て、この大きな編み物の一部となる」
美月は、自分の編み物を見つめた。そこには、まだ形になっていない、可能性に満ちた糸の集まりがあった。それは、まさに自分の人生の比喩のようだった。
「でもね、美月さん」
山田さんの声が、さらに深みを増した。
「編み物と人生の決定的な違いがある。それは何だと思う?」
美月は、しばし考え込んだ。
「それは……完成形が見えないことでしょうか」
山田さんは、優しく微笑んだ。
「そう、その通りだ。編み物は、最終的にどんな形になるか、ある程度予想がつく。でも人生は違う。我々は、自分の人生がどんな形で終わるのか、最後まで分からない」
その言葉に、美月は深い共感を覚えた。確かに、人生は予測不可能で、それゆえに尊いのかもしれない。
「だからこそ」
山田さんは、編み棒を静かに動かしながら続けた。
「一目一目を大切に、丁寧に編んでいかなければならない。どの一目も、最終的な作品の美しさに貢献するのだから」
美月は、自分の編み物に新たな一目を加えながら、その言葉の重みを噛みしめた。自分の人生も、今まさに編まれつつあることを実感した。
「山田さん」
美月は、静かに尋ねた。
「人生の編み直しは、可能だと思いますか?」
山田さんは、しばし編み物の手を止め、遠くを見つめた。
「ああ、もちろんだ。人生には、何度でもやり直せる部分がある。ただし、完全に元通りにすることはできない。編み直した跡は、必ず残る」
その言葉に、美月は深い慰めと同時に、責任の重さを感じた。
「でもね」
山田さんは、優しく付け加えた。
「その跡こそが、人生に味わいを与えるんだ。完璧な編み物より、ほつれを直した跡のある編み物の方が、ずっと魅力的だと思わないかい?」
美月は、思わず微笑んだ。確かに、傷跡のない人生など存在しない。そして、その傷跡こそが、その人の人生を特別なものにしているのだ。
二人は、しばらくの間黙ったまま編み物を続けた。部屋に流れる静寂は、深い思索に満ちていた。
やがて、夕暮れの光が部屋を赤く染め始めた。美月は、自分の編み物を見つめた。まだ形にはなっていないが、確かに何かが生まれつつあった。それは、美月の人生そのもののようだった。
「山田さん」
美月は、静かに言った。
「今日は、とても大切なことを学びました。ありがとうございます」
山田さんは、穏やかに頷いた。
「いや、私こそ感謝しているよ。君と話をすることで、私にも学びがある。おかげで私も自分の人生を振り返ることができた」
美月は、山田さんの言葉に深く感動した。世代を超えて、人生の知恵が受け継がれていく。それもまた、大きな編み物の一部なのかもしれない。
部屋を後にする際、美月は振り返った。山田さんは、窓際で静かに編み物を続けていた。その姿は、長い人生を紡いできた賢者のようだった。
美月は、その日の体験を心に深く刻み込んだ。人生という名の大きな編み物。それを紡ぐのは、他でもない自分自身なのだと。美月は、これからの一目一目を、より丁寧に、より美しく編んでいこうと心に誓った。
廊下を歩きながら、美月は自分の手元を見つめた。そこには、まだ完成していない編み物があった。それは、まさに美月の人生の象徴のようだった。未完成で、可能性に満ちた、美しい作品。
美月の心に、新たな決意が芽生えていた。
◆
夕方近く、施設全体が騒がしくなった。佐藤さんが息を引き取ったのだ。美月は、その知らせを聞いて、静かに祈りを捧げた。最後の瞬間まで、佐藤さんが幸せだったことを、美月は確信していた。
その日の活動を終え、帰宅した美月は、長い間座り込んで考え込んでいた。生と死、喜びと悲しみ、そして人生の意味。これらのテーマが、美月の心の中で渦巻いていた。
やがて、美月は立ち上がり、和綴じのノートを開いた。ペンを走らせながら、今日の体験と、そこから得た気づきを丁寧に綴っていく。
「生きるということは、一瞬一瞬を大切にすること。そして、その瞬間の中に永遠を見出すこと。介護という経験を通して、私は人生の美しさと尊さを、身をもって学んでいる」
美月は、そう書き記した。窓の外では、満月が静かに輝いていた。その光は、美月の心に新たな決意をもたらした。
これからも、介護ボランティアを続けていこう。そして、そこで学んだことを、自分の生き方に活かしていこう。さらには、いつかその経験を若い世代に伝えていけたら。
美月は、静かに目を閉じた。心の中に、新たな希望の光が灯っていた。明日への期待と、今この瞬間への感謝の念を胸に、美月は穏やかな眠りについた。
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