第25話:「人生という編み物」

 介護ボランティアを始めて一週間が過ぎた頃、美月は施設の日常にも少しずつ慣れ始めていた。この日も早朝から準備を整え、心を落ち着かせながら施設へと向かった。


 今日の美月の装いは、優しさと清潔感を体現するものだった。淡い水色のリネンのブラウスに、ゆったりとしたベージュのパンツを合わせる。首元には、祖母から受け継いだ小さな翡翠のペンダントを下げた。髪は、後ろでまとめ、清潔感のある白いリボンで結んだ。


 施設に到着すると、美月はまず山田さんの部屋を訪れた。認知症の症状は日によって変化があり、今日の山田さんの状態がどうであるかは、美月の大きな関心事だった。


「おはようございます、山田さん」


 美月が部屋に入ると、山田さんは窓際に座って外を眺めていた。その姿は、どこか寂しげで、美月の心に切なさが広がった。


「ああ、君か。今日は良い天気だね」


 山田さんの声には、普段の鋭さは感じられなかったが、穏やかさがあった。美月は、その日の山田さんの状態を察しながら、ゆっくりと近づいていった。


「山田さん、今日は編み物を一緒にしませんか?」


 美月は、事前に用意していた毛糸と編み棒を取り出した。山田さんの目が、少し輝いたように見えた。


「編み物か……そういえば、私の妻はよく編み物をしていたなあ」


 山田さんの言葉に、美月は静かに頷いた。記憶の中の大切な人を思い出すきっかけになればと、美月は願いを込めて編み棒を手渡した。


 二人で編み物を始めると、山田さんの手の動きは驚くほど正確だった。長年の記憶が、体に染み付いているかのようだ。美月は、その様子を見守りながら、時折やさしく声をかけた。


「山田さん、とても上手ですね。奥様に教わったのですか?」


 秋の午後の柔らかな日差しが、山田さんの部屋の窓から差し込んでいた。美月は、山田さんの隣に腰掛け、共に編み物に取り組んでいた。山田さんの手元には、深い緑色の毛糸が優しく絡まり、少しずつ形を成していく。その動きに合わせるように、山田さんの記憶の糸もほどけていくようだった。


「君はね」


 山田さんは、編み棒を動かしながらゆっくりと口を開いた。


「私が若かった頃の東京を知らないだろう」


 美月は、静かに頷きながら耳を傾けた。山田さんの声には、懐かしさと少しの寂しさが混ざっていた。


「戦後間もない頃だった。街はまだ焼け野原のようだったけど、人々の目には希望が輝いていたんだ」


 山田さんの手が一瞬止まり、遠い目をした。美月は、その間も自分の編み物を続けながら、山田さんの言葉を待った。


「そんな時に、私は彼女と出会ったんだ」


 山田さんの目が、急に輝きを増した。


「図書館でね。彼女は日本文学を専攻していて、私は西洋哲学。全く違う世界の人間だったんだが……」


 山田さんは、少し躊躇うように言葉を探した。美月は、さりげなく声をかけた。


「素敵な出会いだったんですね」

「ああ、そうだった」


 山田さんは、懐かしそうに微笑んだ。


「彼女は、夏目漱石の『こころ』を読んでいてね。私は、カントの『純粋理性批判』を抱えていた。互いの本を見て、笑ってしまったんだ」


 美月は、その情景を想像して微笑んだ。若き日の山田さんと、その妻となる人物が、図書館で目と目を合わせる瞬間。そこには、きっと運命的な何かがあったのだろう。


「それからというもの、私たちは互いの世界を学び合った」


 山田さんは、編み物の手を止めることなく続けた。


「彼女は私に日本の心を教えてくれた。私は彼女に西洋の思想を語った。そうして、私たちは互いを深く理解していったんだ」


 山田さんの語る言葉は、時に途切れ途切れになった。しかし、美月はその一つ一つを大切に拾い上げた。それは、まるで編み目を拾うように、丁寧に、そして愛情を込めて。


「結婚してからも、私たちは共に学び続けた」


 山田さんは、懐かしそうに続けた。


「彼女は私の研究を支え、私は彼女の創作活動を応援した。そうして50年以上が過ぎていったんだ」


 美月は、山田さんの言葉に深く感動した。半世紀以上にわたる夫婦の絆。それは、まるで今編んでいる編み物のように、一目一目、大切に紡がれてきたものなのだろう。


「でも」


 山田さんの声が、少し震えた。


「彼女は、もう……」


 言葉が途切れた。美月は、そっと山田さんの手を握った。


「きっと、今も山田さんを見守っていらっしゃるのではないでしょうか」


 山田さんは、美月の言葉に深く頷いた。

 その目には、小さな涙が光っていた。


「そうだね。彼女なら、きっと私にこう言うだろう。『あなた、その編み物、目を落としているわよ』って」


 山田さんは、そう言って小さく笑った。

 その笑顔に、美月は心が温かくなるのを感じた。


 編み物を進めながら、山田さんの表情が徐々に和らいでいくのが分かった。最初は緊張気味だった表情が、思い出を語るにつれて柔らかくなっていく。手を動かすことで、記憶が呼び覚まされていくかのようだった。


 美月は、山田さんの編み物を見つめた。そこには、一目一目に思い出が込められているようだった。若き日の希望、妻との出会い、長年連れ添った日々。それらが全て、この編み物の中に編み込まれているような気がした。


「山田さん」


 美月は、静かに声をかけた。


「この編み物、とても素敵です」


 山田さんは、自分の編み物を見つめた。そこには、複雑な模様が浮かび上がっていた。


「ああ、これはね」


 山田さんは、懐かしそうに微笑んだ。


「妻が好きだった模様なんだ。彼女はよく、この模様のセーターを編んでいた」


 美月は、その言葉に深い感動を覚えた。山田さんの手が紡ぎ出すのは、単なる編み物ではない。それは、長い人生の記憶であり、愛する人への想いだったのだ。


 窓の外では、夕暮れの空が美しく染まり始めていた。その柔らかな光が、山田さんの白髪と、手元の編み物を優しく照らしている。美月は、この瞬間を心に深く刻み込んだ。


 編み物を通して紡がれる記憶の糸。それは、時に途切れ、時に絡まることがあっても、決して消えることはない。美月は、自分もまた、山田さんの人生の一編み目になれたのではないかと、密かに思った。


 静かな部屋に、編み棒の優しい音だけが響いていた。それは、まるで時を超えた愛の調べのようだった。


「君はね、私の教え子のようだ」


 突然、山田さんがそう言った。美月は驚いたが、穏やかに応じた。


「そうですか。私は山田さんから何を学んだのでしょうか?」

「生きることの意味をね。人生は短い。でも、一瞬一瞬が永遠につながっているんだ」


 その言葉に、美月は深く心を打たれた。認知症を患いながらも、山田さんの中には深い智慧が宿っていた。美月は、その言葉を心に刻み込んだ。


 午後になると、美月は他の入所者の方々とも交流を持った。車椅子の方の散歩の付き添い、食事の介助、そして話し相手になること。それぞれの方との関わりの中で、美月は人生の多様性と、一人一人の尊厳の大切さを学んでいった。


 特に印象的だったのは、末期がんで余命わずかと宣告された佐藤さんとの会話だった。佐藤さんは、死を目前にしながらも穏やかな笑顔を絶やさなかった。


 秋の深まりゆく午後、美月は佐藤さんの病室を訪れた。窓から差し込む柔らかな光が、白い病室に温かみを与えていた。佐藤さんは、窓際のベッドで静かに横たわっていた。その姿は、まるで透き通るように儚げで、しかし同時に不思議な威厳を湛えていた。


「佐藤さん、こんにちは」


 美月は、静かに声をかけた。


 佐藤さんは、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、死を間近に控えた人特有の、この世のものとは思えないほどの輝きがあった。


「あら、美月さん。また来てくれたのね」


 佐藤さんの声は弱々しかったが、その口元には穏やかな微笑みが浮かんでいた。


 美月は、佐藤さんのベッドサイドに腰掛けた。佐藤さんの手を優しく握る。その手は、かつて生活の中で様々なものを作り出してきたのだろう。今は骨ばって、皺だらけだったが、不思議な温もりを感じた。


「今日はいかがですか?」


 美月は、優しく尋ねた。

 佐藤さんは、小さく息を吐いた。


「ええ、とても穏やかよ。窓の外を見ていると、心が落ち着くの」


 美月は、佐藤さんの視線の先を見た。そこには、紅葉し始めた木々が風に揺れる様子が見えた。


「美月さん」


 佐藤さんは、突然真剣な眼差しで美月を見つめた。


「死ぬのは怖くないのよ。むしろ、今この瞬間を生きられることに感謝しているの」


 その言葉に、美月は言葉を失った。生と死の境界線に立つ人の言葉には、重みがあった。それは、美月がこれまで経験したことのない、深い洞察に満ちていた。


「佐藤さん……」


 美月は、言葉を探した。


「ね、不思議でしょう?」


 佐藤さんは、かすかに笑った。


「私も最初は怖かったの。でも、この状況になって初めて気づいたの。私たちは皆、いつかは死ぬ。だからこそ、今この瞬間が大切なんだって」


 美月は、佐藤さんの言葉に深く頷いた。それは、山田さんから学んだ「今を生きる」ということの、さらに深い意味を示しているようだった。


「毎日が贈り物なのよ」


 佐藤さんは続けた。


「朝目覚めて、窓の外の景色を見られること。誰かの声が聞けること。それだけで、私は幸せなの」


 美月は、佐藤さんの言葉一つ一つを、心に刻み付けるように聞いていた。そこには、人生の真理が詰まっているようだった。


 しかし、次の瞬間、佐藤さんの表情に、かすかな影が差した。


「でも、一つだけ心残りがあるの」


 佐藤さんは、少し躊躇うように言った。


「最後にもう一度、満開の桜を見たかったわ」


 その言葉に、美月の心が痛んだ。今は秋。桜の季節までは、佐藤さんはおそらく……。


 美月は、佐藤さんの手をもう一度優しく握った。


「佐藤さん、その気持ち、よく分かります」


 佐藤さんは、感謝の眼差しを美月に向けた。


「ありがとう、美月さん。あなたの優しさが、私の心に桜を咲かせてくれてるわ」


 その言葉を聞いた瞬間、美月はふと思いついた。

 頭の中で、一つのイメージが形作られていく。


 その日の活動が終わった後、美月は急いで自宅に戻った。和紙と絵の具を取り出し、筆を手に取る。美月の手は、まるで導かれるかのように動き始めた。


 夜が更けていく中、美月の部屋には桜が咲き始めた。薄紅色の花びらが、和紙の上で舞い始める。一輪、また一輪と。幹の力強さ、枝の繊細さ、花びらの儚さ。美月は、自分の全ての感覚を動員して、桜の美しさを表現しようと努めた。


 夜明け近く、ようやく絵が完成した。美月は、自分の作品を見つめた。そこには、満開の桜が、朝日に照らされて輝いていた。花びらの一枚一枚に、佐藤さんへの思いが込められていた。



 数時間の仮眠の後、美月は再び施設を訪れた。桜の絵を大切に抱えて、佐藤さんの病室へと向かう。


「佐藤さん、おはようございます」


 美月は、静かに部屋に入った。

 佐藤さんは、弱々しく目を開けた。


「あら美月さん、また来てくれたのね」

「はい、佐藤さん。あなたに見ていただきたいものがあるんです」


 美月は、ゆっくりと桜の絵を広げた。佐藤さんの目が、驚きと喜びで大きく開いた。


「これは……桜?」


 佐藤さんの声が震えた。


「はい。佐藤さんに、最後の桜を見ていただきたくて」


 佐藤さんの目に、大粒の涙が浮かんだ。


「ありがとう、美月さん。こんな素敵な贈り物をもらえるなんて」


 美月は、佐藤さんのベッドサイドに絵を立てかけた。朝日が差し込む窓際に置かれた桜の絵は、まるで本物の桜が咲いているかのような錯覚を起こさせた。


「美月さん」


 佐藤さんは、涙ながらに言った。


「あなたは私に、最後の春をプレゼントしてくれたのね」


 美月は、言葉もなく佐藤さんの手を握った。二人は、しばらくの間、ただ桜の絵を見つめていた。その瞬間、病室には春の柔らかな風が吹き込んだような錯覚があった。


 生と死の境界線に立つ人と、その人生に寄り添う若者。二人の間に、桜が満開に咲いていた。それは、生命の儚さと美しさを象徴するかのようだった。


 美月は、この瞬間を永遠に心に刻み込んだ。人生の最後の瞬間まで、美しさを求め、感謝の心を忘れない佐藤さんの姿に、美月は人間の尊厳を見た。そして、小さな行為が誰かの人生に大きな意味を持つことを、身をもって学んだのだった。


 その瞬間、美月は生きることの意味を深く感じた。人と人とのつながり、そして互いを思いやる心。それこそが、生きる上で最も大切なものなのだと。


 夕方、活動を終えて帰宅した美月は、いつものように和綴じのノートを開いた。今日の体験を、心を込めて書き記していく。


「生きるということは、他者と共に在ること。そして、互いの存在を認め合い、支え合うこと。介護という経験を通して、私は人生の本質に触れているような気がする」


 美月は、そう書き記した。窓の外では、夕暮れの空が美しく染まっていた。その景色を眺めながら、美月は明日への期待と、今この瞬間への感謝の念を胸に抱いた。


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