第24話:「命の輝き」
初秋の柔らかな日差しが、美月の部屋の障子を通して優しく差し込んでいた。美月は早朝から目覚め、今日から始まる介護ボランティアに向けて、静かに準備を始めていた。
美月は、清潔感と機能性を重視した装いを選んだ。上質な綿のワンピースは、淡いベージュ色で、肌触りが柔らかく、動きやすさも考慮されている。その上に、薄手のカーディガンを羽織った。カーディガンは、祖母が編んでくれたもので、優しい温もりを感じさせる。
髪は、清潔感を重視して丁寧にまとめ上げた。耳元には、小さな真珠のイヤリングをそっと添えた。化粧は最小限に留め、自家製のローズウォーターで肌を整えた後、ほんのりとした色のチークを頬に乗せるだけにした。唇は、保湿効果のある無色のリップクリームで潤いを与えた。
鏡に映る自分の姿を確認した美月は、深呼吸をした。今日の装いは、介護される方々に安心感を与えるよう、清楚で温かみのある雰囲気を醸し出していた。
「今日は、人生の大先輩方との出会いの日」
美月は小さく呟き、古い木造アパートを後にした。
高齢者施設に向かう道すがら、美月は心の中で、祖父母との思い出を振り返っていた。幼い頃、祖父母に教わった日本の伝統文化や自然との共生の大切さ。その教えが、今の美月の生き方の基礎となっている。
道端に咲くコスモスに目を留めた美月は、ふと立ち止まった。秋風に揺れる可憐な花びらに、人生の儚さと美しさを重ね合わせる。美月は、その花を一輪摘み取り、胸元に挿した。自然の美しさを身にまとうことで、心が落ち着くのを感じた。
高齢者施設に到着すると、美月は深呼吸をして心を落ち着かせ、受付に向かった。
「おはようございます。御厨美月と申します。今日からボランティアとして参加させていただきます」
美月の声には、緊張と期待が入り混じっていた。
「美月さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
施設の職員が、優しく微笑みかけた。
「今日は、まず入所者の方々との散歩の付き添いから始めていただけますか?」
美月は、その役割の重要性に身が引き締まる思いだった。
「はい、承知いたしました。精一杯努めさせていただきます」
美月は、車椅子を押す練習を簡単に行った後、最初の入所者の方の部屋へと向かった。ノックをして部屋に入ると、そこには穏やかな笑顔の老婦人が待っていた。
「おはようございます。私は御厨美月と申します。今日は一緒に散歩に行きませんか?」
美月の優しい声かけに、老婦人は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうね。楽しみにしていたのよ」
美月は丁寧に老婦人を車椅子に乗せ、施設の庭へと向かった。朝の空気が爽やかで、木々の葉が風にそよいでいる。
庭を周りながら、美月は老婦人と穏やかな会話を交わした。老婦人は、若い頃の思い出を生き生きと語り始めた。美月は、その話に熱心に耳を傾けた。一つ一つの言葉に、長い人生の重みを感じる。
秋の柔らかな日差しが、施設の庭園を優しく包み込んでいた。美月は、車椅子に座った老婦人を丁寧に押しながら、ゆっくりと花壇の前に立ち止まった。色とりどりの花々が、秋風に揺れて静かな歓迎の意を表しているようだった。
老婦人の目が、花々の上をゆっくりと巡る。その瞳に、かつての輝きが戻ってきたように見えた。美月は、老婦人の表情の変化に、密かな喜びを感じていた。
「美月さん」
老婦人が、少し震える声で呼びかけた。
「この花の名前を教えてくれないかしら?」
老婦人が指さしたのは、淡い紫色の花を咲かせた小さな草花だった。美月は、祖母から教わった植物の知識を瞬時に思い出し、優しく微笑んだ。
「はい、喜んで」
美月は、老婦人の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「こちらはリンドウという花です。和名では『竜胆』と書きます。秋の七草の一つで、古くから日本人に愛されてきた花なんですよ」
美月は、リンドウの花びらをそっと指でなぞった。
「花言葉は『誠実』『正義』『悲しみに打ち勝つ』。その凛とした姿から、そんな意味が込められているんです」
老婦人は、美月の説明に聞き入っていた。その目には、懐かしさと新しい発見の喜びが混ざり合っていた。
「あら、素敵ね。私の若い頃は、この花をよく見かけたわ。でも、こんな意味があったなんて……」
老婦人の声に、感慨深さが滲んでいた。
美月は、さらに説明を続けた。
「リンドウには薬効もあるんです。漢方では胃腸の薬として使われてきました。苦味が特徴的で、その苦さが胃腸を元気にしてくれるんですよ」
老婦人は、驚きの表情を浮かべた。
「まあ、薬にもなるの? 昔、祖母が胃薬を飲んでいたけど、あれもしかしたら……」
「そうかもしれませんね」
美月は優しく微笑んだ。
「昔の人の知恵は、現代にも受け継がれているんです」
美月は、花壇の中の他の花々にも目を向けた。
「こちらの赤い花は、シュウメイギクといいます。『秋明菊』と書きますが、キク科ではなくキンポウゲ科なんです。花言葉は『誠実な愛』『思慮深さ』。秋の庭を彩る代表的な花の一つですね」
老婦人は、美月の言葉に頷きながら、シュウメイギクの花を見つめた。
「ああ、この花も懐かしいわ。庭に植えていたのを思い出したわ」
美月は、老婦人の思い出に寄り添うように、さらに説明を続けた。
「そして、こちらの白い花はシロヨメナです。『白嫁菜』という風情のある名前ですが、実は外来種なんです。それでも、日本の秋の風景にすっかり溶け込んでいます。花言葉は『清らかな心』『慎み深さ』。その清楚な佇まいから、そんな意味がつけられたのでしょうね」
老婦人は、美月の説明に聞き入りながら、目を輝かせていた。
「あら、あなた、よく知っているのね。まるで、私の若い頃の記憶を呼び起こしてくれているみたい」
その言葉に、美月は心を打たれた。自分の知識が、単なる情報としてではなく、誰かの大切な記憶を蘇らせる力を持っていることに、深い感動を覚えたのだ。
「ありがとうございます」
美月は、心からの感謝を込めて答えた。
「祖母から教わった知識なんです。花や植物の話をしながら、いつも素敵な時間を過ごしていました」
老婦人は、美月の手をそっと取った。その温もりに、美月は世代を超えた繋がりを感じた。まるで、自分の祖母と話をしているような不思議な感覚だった。
「素晴らしいわ。知識を受け継ぎ、そして誰かに伝えていく。それこそが、本当の意味での文化の継承ね」
老婦人の声には、深い感慨が込められていた。
美月と老婦人は、そのまましばらく花壇の前で過ごした。秋風が二人の間を優しく吹き抜け、花々の香りを運んでくる。時間が止まったかのような、静謐な瞬間だった。
やがて、散歩の時間が終わりに近づき、美月は老婦人を部屋へと案内した。部屋の前で、老婦人は再び美月の手をそっと握った。
「今日はありがとう。久しぶりに楽しい時間を過ごせたわ」
老婦人の目には、小さな涙が光っていた。
「あなたの話を聞いていると、自分の人生が花のように美しく咲いていたことを思い出すの」
美月は、言葉を失った。ただ、老婦人の手を優しく握り返すことしかできなかった。その瞬間、美月は自分の仕事の意味を深く理解した。それは単なる介護ではなく、人生という花を最後まで美しく咲かせる手伝いなのだと。
老婦人が部屋に入っていくのを見送りながら、美月は心の中で誓った。これからも、花や植物の知識を大切に育て、そしてそれを誰かの心に咲かせる種として、丁寧に蒔いていこうと。
廊下に立つ美月の周りに、見えない花々が咲き誇っているようだった。それは、知識と思いやりが織りなす、美しい心の花園だった。
午後からは、食事の介助を担当することになった。美月は、一人一人の入所者の方に丁寧に接し、ゆっくりとしたペースで食事を手伝った。
特に印象に残ったのは、元大学教授だった山田さんとの出会いだった。認知症を患っているが、時折鋭い洞察を見せる山田さんに、美月は魅了された。
薄暮の光が窓から差し込む静かな部屋で、美月は山田さんと向き合っていた。白髪の山田さんは、背筋を伸ばし、窓際の椅子に腰かけている。その姿には、かつての大学教授としての威厳が、今なお漂っていた。
美月は、山田さんの前に置かれた古びた本棚に目を向けた。背表紙が擦り切れた哲学書や文学作品が、整然と並んでいる。それらの本は、山田さんの長い知的生活の証人のようだった。
「山田さん、今日はいかがお過ごしでしたか?」
美月は、優しく語りかけた。
山田さんは、しばらく沈黙した後、ゆっくりと目を上げた。その瞳には、一瞬、深い霧がかかったように見えた。しかし次の瞬間、その霧が晴れ、鋭い光が宿った。
「ああ、よろしく」
山田さんの声には、かすかな温もりが感じられた。
「今日はね、プラトンの『国家』を読み返していたんだ」
美月は、驚きと敬意を込めて聞き入った。認知症を患っているにもかかわらず、山田さんの知的好奇心は衰えていなかった。
「プラトンの『国家』ですか。素晴らしいですね」
美月は、心からの感銘を込めて応えた。
山田さんは、少し遠くを見つめるように目を細めた。
「君はね、哲学を学んだことがあるかい?」
「はい、大学で少し」
美月は、謙虚に答えた。
「そうか」
山田さんは、静かに頷いた。
「では、こう聞こう。君にとって、『生きる』とはどういうことかね?」
その問いに、美月は一瞬言葉を失った。しかし、山田さんの澄んだ瞳に導かれるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「私にとって『生きる』とは……今この瞬間を、全身全霊で体験することだと思います」
山田さんの目が、わずかに輝いた。
「そうだ、その通りだ」
山田さんは、ゆっくりと身を乗り出した。その仕草には、かつて教壇に立っていた頃の熱意が垣間見えた。
「若い人は、今を大切に生きなさい。過去にとらわれず、未来を恐れず、今この瞬間を全力で生きることが大切だよ」
その言葉に、美月は深く頷いた。それは、まさに美月自身が大切にしている生き方だった。山田さんの言葉が、美月の心に深く響いた。
「でもね」
山田さんは、さらに続けた。
「それは決して易しいことではない。私たちは常に、過去の後悔や未来への不安に囚われがちだ。しかし、真に『生きる』とは、そういった束縛から解放されること。そして、今この瞬間に全てを注ぐことなんだ」
美月は、山田さんの言葉一つ一つを、心に刻み付けるように聞いていた。その瞬間、彼女は山田さんの中に、時を超えた智慧を見た気がした。
「その言葉、心に深く響きます」
美月は、心からの感謝を込めて言った。
山田さんは、優しく微笑んだ。しかし、その直後、彼の目に再び霧がかかったように見えた。
「そう、君は……君は誰だったかな?」
美月は、一瞬胸が締め付けられるような思いがした。
しかし、すぐに穏やかな笑顔を取り戻した。
「美月です、御厨美月です」
「ああ、そうか。そうだった」
山田さんは、少し困惑したように頷いた。
「すまない、僕は時々記憶が……」
「大丈夫です」
美月は、優しく山田さんの手を取った。
「山田さんの言葉、しっかり覚えていますから」
その瞬間、山田さんの目に再び光が戻った。
「そうか、ありがとう。君のような若い人が、こうして老人の話に耳を傾けてくれるのは嬉しいよ」
美月は、山田さんの手をそっと握り返した。その温もりの中に、世代を超えた深い繋がりを感じた。認知症という霧の中にあっても、時折鋭い洞察を放つ山田さんの姿に、美月は人間の精神の強さと美しさを見た。
窓の外では、夕焼けが空を染め始めていた。その柔らかな光が、山田さんの白髪を優しく照らしている。美月は、この瞬間をしっかりと心に刻んだ。山田さんとの出会い、そして彼から学んだ「今を生きる」という教えは、きっと美月の人生の大切な道標となるだろう。
美月は静かに立ち上がった。
「山田さん、今日はありがとうございました。また明日お邪魔させていただきますね」
山田さんは、穏やかに頷いた。
「ああ、待っているよ」
部屋を出る際、美月は再び振り返った。山田さんは、再び窓の外を見つめていた。その横顔には、長い人生を生き抜いてきた者だけが持つ、静かな威厳が漂っていた。
廊下に出た美月は、深く息を吐いた。心の中で、山田さんの言葉を反芻する。
「今この瞬間を全力で生きる」
その言葉が、美月の心に新たな決意と勇気をもたらした。これからの日々を、より一層大切に、そして全力で生きていこう。そう心に誓いながら、美月はゆっくりと歩き始めた。廊下の向こうでは、新たな出会いと学びが、彼女を待っていた。
夕方、美月は一日の活動を終え、施設を後にした。帰り道、美月の心は様々な感情で満ちていた。高齢者たちの人生の重み、彼らの智慧、そして生きることの尊さ。それらが、美月の心に深く刻まれていった。
家に戻った美月は、和綴じのノートを開いた。今日の体験を、丁寧に書き記していく。
「人生の終わりに近づいた方々と接することで、逆に生きることの意味を深く考えさせられた。一瞬一瞬を大切に生きること、それが人生の本質なのかもしれない」
美月は、そう書き記した。窓の外では、夕焼けが美しく空を染めていた。その光景に、美月は人生の美しさと儚さを重ね合わせた。
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