タッパーブロッコリー

真花

タッパーブロッコリー

 どっちに逸れても坂を転がる土手の上の道を、私達は当たり前のように歩いていた。西陽が鋭く沁みる。蝉の声が遠く聞こえる。

「それでね、アッ君が熱でもう仕事休んで三日目なんだって。お見舞いに行きたいんだけど、サチ、付いて来て貰える?」

 ナツコは私がそうすることが当然と言った風に訊いた。

「いいよ。でも、奥さん来ない?」

 ナツコは口許を苦くして、それが次第に不敵なものに羽化する。

「それね。だからこそサチに来て欲しいんだよ。二対一なら勝てるから」

「喧嘩するの?」

「いや、威圧の問題だよ。圧力かけて、タイミング見て逃げるんだ。もちろん、奥さんが来なければそれに越したことはない」

「まあ、ボディガード気分で行くよ」

 ナツコは、ふふふ、と笑う。

「頼むね。でも、単身赴任ってのはこう言うときに大変だよね。ま、一人暮らしも同じだけど」

「そのお陰でナツコとアッ君は出会ったんじゃない。感謝しなきゃ」

「奥さんがいなければいいのにと、毎日祈ってるよ」

「物騒な祈りだね」

 私達は目を合わせて笑う。背の高いナツコとちびっ子の私なので、視線がケーブルカーを渡すみたいに架かる。加えてナツコはグラマーで、化粧映えのする迫力のある美人だ。私だってかわいいと言われることはあるが、横に並ぶとステーキと白米のようになる。だがそれも夕陽が半分影にしてくれるから今は気にならない。

 住宅街に入ってすぐにアッ君のアパートはあった。一階の部屋で、私は来るのは初めてだ。ナツコは何度も通っているのだろう、慣れた動きでチャイムを鳴らす。

『はい』

「私。ナツコ。サチもいるよ」

『今開ける』

 開いたドアから覗いたのはTシャツ・ステテコ姿のアッ君で、顔色があまりよくない。ナツコは何も言わずに部屋に入って行き、私もそれに続く。アッ君はベッドに座って、ふぅ、と息をつく。ナツコが天使を装った笑顔になる。

「どう? 調子は」

「今日になって熱は下がったよ。明日からは働けるんじゃないかな」

「そっか。よかった。栄養が必要だと思って作って来たよ」

 ナツコはカバンから料理を出そうとして固まる。私の目にもそれは映った。ちゃぶ台に既にタッパーがあり、中が空になっていた。青い蓋のタッパーだ。ナツコの視線がタッパーに固定されたのにやっと気付いたアッ君は、同じように固まった。ナツコが素早く膠着を破る。

「だから食べてね」

 ナツコは空のタッパーに触れずに横に自分の料理が入ったタッパーを置く。アッ君は玄関のときよりも顔色が悪い。

「うん。ちゃんと食べる」

 それから二人とも黙って、まるで二人の間に黒い渦が巻いているみたいで、これは私がいるから喧嘩にならないのだろうか。だとしても、これ以上私にはどうすることも出来ない。誰も何も言わずに、蝉の声だけが時間を進ませる。クーラーは効いているのに、汗が、つ、と流れる。ナツコが私に振り向いた。

「サチ、ちょっと、そうね、三十分くらい、外で待っていてもらえる?」

「え」

「仲直りするから。分かるでしょ?」

 連れて来て、外に行け、か。

「いいよ。玄関の外にいるよ」

「ありがとう」

 アッ君は何も言わなかった。

 私は靴を履いて玄関のドアを潜って、チャイムの向こうに立つ。中からの音は聞きたくなかった。ナツコの動きは合理的とは言えるけど、私の胸の中にモヤがかかった。親友の彼氏のピンチに駆け付けたい気持ちを大事にしたい自分なのに、濁っている。そんな風に思ってはいけない。ナツコのために出来ることをしたい。今、こうやって外で待たされることだって、ナツコのために出来ることだ。だが、あんなことをドア一枚隔ててしているのが、嫌だと思ってしまう。違う、していることが嫌なんじゃない。かと言って参加するなんてあり得ない。仲間外れが嫌なのではない。きっと少し、蔑ろにされている感じがするんだ。

 私は思い切りため息をつく。

 下を向いていたら頭の上から声をかけられた。

「あなた、この部屋に何の用なの?」

 四十代くらいの女性で、スリムさを強調するような服装をしている。私は直感した。殊更大声で言う。

「どーちーらーさま、ですかー?」

「あなたには関係がないでしょう。あなたこそ誰よ」

「わーたーしーは、関係ないでーす」

 部屋の中から慌てる気配が聞こえる。

「何なの? そこを通して」

「わーたーしーは、こーこーに、いなくちゃいけないんでーす」

 言いながら自分が道化のような空虚のような感覚が降り積もる。

「意味が分からない」

 女性は目の端を引き攣らせる。

「わーたーしーも、意味が分かりませーん」

「もう、どいて」

「だーめーでーす」

「どいて!」

 女性は私を退けて、チャイムを押す。私はそれを見ている。女性はドアを見ている。息が詰まるような間が続いて、やっとアッ君が応じる。

『はい』

「アキタカ? 部屋の前に変な女がいるのよ。あなたと関係があるの?」

『そんな女は知らない。ドア、開けるよ』

 私はそっと逃げ出す。心臓が爆発しそうだった。女性がこっちを見たのかどうかは分からない。ドアの死角になっていたからきっとバレていない。私のことよりも中に関心があるだろうから。三歩目からは走った。住宅街を抜けたところまで一気に駆けて、荒れる息を整える。ナツコからメールが来ていた。駅前の喫茶店に集合することになった。


 喫茶店にはもうナツコがいて、ブラックコーヒーを飲んでいた。私に気付いたナツコは右手でチラリと合図する。ナツコの向かいに座る。

「サチ、ありがとう。知らせてくれたから逃げられた」

「どこから逃げたの?」

「窓。熱が入り始めたところだったから、本当慌てた。靴取って、タッパー取って、窓からピューって出た」

「そこでタッパーを忘れないところがえらい」

「まあね。本当にありがとう。人生最大のピンチだったよ」

「私は私で同じくらいのピンチだったけどね」

 私達は同時に笑う。最初はさざ波だった笑いが、突き抜けた大波になる。店中の視線を感じたが気にならない。私達は生き残ったのだ。

 笑いが落ち着いたところで私は店員を呼び、カフェオレを注文した。そのとき、何の気なしに見た店外を歩く人と、ばっちり目が合った。さっきの女性だった。女性はギラギラした表情になって店に入って来た。店員の声掛けを無視して私達の横に立つ。

「あなた達、アキタカの何なの!?」

 私達は首を縮めてから、スッポンのように伸ばす。私がまず答えた。

「関係ありません」

 女性は眉をピク付かせる。ナツコが答える。

「全く関係ないです」

 女性は今にも私達に殴りかかりそうな剣幕で声を荒げる。

「状況からして、あなたが見張りで、あなたが中でアキタカと何かをしていたのは明白なのよ! ……見張りってのもかわいそうね。とにかく、首謀者はあなたよ! 部屋の雰囲気が午前中と明らかに違っていたわ。いい? 人の夫に手を出さないで貰えない?」

 ナツコはグッと睨む。

「私はそんなことしてません」

「本当に?」

「はい。言いがかりです」

「そっちの見張りの子は?」

「私はたまたまあそこにいただけで、中の人とは関係ないです」

 女性は顔を苦々しく潰して、吐き捨てるように言う。

「そう」

 ナツコが眼力をさらに強める。

「そう、じゃないですよ。人違いですよ? 謝ったらどうですか?」

 女性はたじろいでから、ナツコの視線を切るように瞬きをゆっくり一回する。

「ごめんなさい」

 私も真似をしてみるが迫力が出ている気がしない。

「私には?」

「あなたはあそこにいたから、人違いじゃないわ」

 ナツコの口許がわずかに緩んだ。それを隠すようにナツコがはっきりとした声を出す。

「もう、行って下さい。不愉快です」

 女性は何か言いたそうな顔をしながら、小さく一礼して店を出て行った。その後ろ姿を私達は最後まで見送る。確実にいなくなってから、小声で話を再開する。

「私、見張りの子扱いだった」

「ごめん」

「別にいいよ。事実だし。でも、ここで会うなんて、怖かったね」

「状況完全に把握されてた。奥さんって怖い」

「生き残ったね、また」

「スリリングだけど、あんまり欲しくないな、こう言うの」

 ナツコはさも楽しそうに笑う。その顔を見て、自分の中に少しずつ溜まっていたモヤが結晶化した。

「ねえ、ナツコ。私、アッ君関連のことは、もう一緒にするの、やめたいな」

「え、どうして? これまでも何回も会って来たじゃない」

「上手く、言葉に出来ないんだけど、モヤモヤするんだ。ナツコのことが嫌いになったとかじゃないんだ。アッ君にも嫌悪感があるとかじゃない。二人が恋をするのはいいんだけど、もう、巻き込まれたくない、と言うか、脇役でその場にいるのが辛いと言うか」

 ナツコは吸い込まれそうなくらいの無表情で聞いていた。

「分かった。今日のことでそう思ったんだよね。……うん、うん。理解出来る。確かに、アッ君とのことに巻き込み過ぎていたと思う。今日がピークだけど。そう思ったなら、そうしよう。私はそれがいいと思う」

 それ切り二人とも黙った。店内はがやがやと一つの生き物みたいで、私達は二人とも視線を下に落として、コーヒーは冷めて行った。私の中に入って来たナツコの言葉が十分に消化された。

「ごめん」

「え、いいよ。サチの気持ちが大事」

「そう言うことじゃなくて」

「じゃあ、何?」

「そこが変わっても、私達、私達のままだよね?」

 ナツコは花が綻ぶように笑う。

「当たり前じゃない。恋は大事だけど、私達のことも大事だよ。これまでの恋だってそうだったじゃない。お互いに。恋は終わることもあるけど、二人は終わらない。そうでしょ?」

「そうだよね」

「むしろ二人の間にあるものを甘く見てもらっちゃ困るよ。確かに、アッ君ともう会わないと言うのは大きな決断だ。でも、それだけだよ」

 私の体から力が抜ける。

「なんか、ホッとした」

「うん。よかった」

 私達は店を出て、駅で別れた。

 私は自分の部屋に帰ると、無性にブロッコリーを茹でたくなって、茹で上がったものをタッパーに詰めた。三つになった。青い蓋のタッパーで、アッ君の奥さんのものと同じだった。私もいずれ奥さんと同じ立場になって怒るのかも知れない。ナツコと同じ立場になって死守しようとするのかも知れない。だが、そう言うのじゃない普通の恋がしたい。アッ君と関わりたくなくなったモヤモヤの根源はそう言うところにあるのかも知れない。タッパーに入ったブロッコリーは私の未来だ。今のところはどれも均等にある。どの未来を減らすかは私が決めていい。ナツコからメールが来た。

『私達は、大丈夫』

 ナツコの言う通り、どの未来を選んだって。


(了)


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