春霞満ちる頃、永遠と明日の夢を見る【第3回 MF文庫J evo参加作品】

林 星悟/MF文庫J編集部

春霞満ちる頃、永遠と明日の夢を見る

 天までそびえる桜の、他には何もない世界。


「迷うたか、人の子よ」


 老女のように古風な口調で、永久に生きる幼女が問う。

 向かい合うは、幼女のようにあどけない笑みを浮かべた老女。


「またね、―――ちゃんっ」


 老女が口にしたその名前も、永遠とわを生きる幼女の記憶には、きっと――。


 ◇


 春、桜の季節。

 花見に訪れ、甘く香る花風に誘われた者は、神隠しに遭う……この永咲ながさき神社には古くからそうした言い伝えがあった。


「あすなー、あんまり遠くまで行かないのよー」


「はーい、ママ!」


 少女がスケッチブックを手に、春先の神社を元気よく駆ける。

 ぶきあすな、小学二年生。

 今日は両親と三人で、近所で一番の花見スポットである永咲神社へやってきた。


「きれー……!」


 右を見上げても、左を見上げても、目に映るは満開の桜。

 あすなの今日の目標は、この神社で一番キレイな桜を見つけて描くことだ。

 耳の奥、ざわざわ。次第に遠のく花見客のにぎわい、桜木立を縫って走る風の声、まだ名前を知らない鳥の歌。春のオーケストラに誘われるまま、軽やかな足取りで進んでいくと、やがてひときわ静かな場所に辿たどり着いた。

 自分の他には誰もいなくて、なんだか秘密基地みたいでワクワクする。背の高い桜に囲まれた建物の名前をあすなは知らなかったが、きっと隠れスポットに違いない。

 空いていたベンチに腰掛けてスケッチブックを広げる。座ってみてもまだまだ躍りたがる心が、小さな両足を落ち着きなくパタつかせた。


「わっ……」


 ひときわ強く吹き抜けた風に、思わず目を閉じる。



「え?」


 再び目を開けると、あすなは知らない世界にいた。


 かすみに満ちた、果てしなく広い空間。座っていたベンチはいつの間にか冷たくこけむした岩になっていた。慌てて立ち上がると、くるぶしのあたりまで濡れる感覚と水の跳ねる音。足元を満たす水は、どこまでも続く空を映す湖面となって限りなく広がっている。


「こ、ここどこぉ……? ママぁ、パパぁ……」


 あすなは広漠とした景色にひとりぼっち、半泣きでさまよい歩く。右も左も前も後ろもわからない。人も、風も、鳥も、何の声も聞こえない物寂しい世界。



「迷うたか、人の子よ」



 しゃらり、霞の向こう。鈴の転がるような声がした。


「だ、だれ? どこ?」


「上じゃよ」


 言葉の通りに見上げると、空を覆うほどに大きな桜の樹が聳えていた。


「さ、さくらが……しゃべってる? さくらのかみさま?」


「違う違う、こっちじゃ」


 霞が次第に晴れていき、広がった視界に淡く光る花の雲。そこだけ晴れて見える枝の上に、自分と同じ年頃の着物姿の女の子が腰掛けていた。


「…………!」


 途端、あすなは言葉を失った。

 満開の桜を……れいなものを見て「きれい」と口からこぼれた経験ならば、幼いあすなにもあった。でも、これはきっと違う。何かが違う。


「ふふっ、れておるのう? これほど見事な桜を仰ぐのは初めてとみえる」


 ふわり、花びらのように軽やかに宙を舞い、女の子はあすなの目の前へ降り立つ。白い素足の先は水に触れずに浮いていて……その姿は、水面みなもに映っていなかった。


「ここは境域、人世と神世のはざ。わらわは、このとこしえの桜の精じゃ」


 間近で見る少女の姿は、今日あすなが神社で目にしたどの桜よりもキレイで……知らない世界にひとりぼっちの恐怖も不安も、いつの間にか吹き飛ばされたように消えていた。


「なに、安心せい。此処ここは確かにおぬしの元居た場所とは異なるが、ほんの一時迷い込んだだけ。今再び、春霞満ちる……その頃に、おのずと戻れることじゃろう」


 小難しくて意味はわからなかったが、辛うじて聞き取れた言葉をあすなは繰り返す。


「ハルガスミ、ミチル……ちゃん。それが、あなたのお名前……?」


「……ふむ? まあ、自由に呼ぶがよい」


「みちるちゃん……」


 みちるの背丈は自分とほぼ同じ。声も幼く、可愛かわいらしい。けれど、まとう雰囲気が、語る言葉が、三センチ上の目線の少女をずっと大人のように感じさせた。


「……時に、おぬしの持っておるそれは……」


 その言葉ではたと思い出す。今日の目標、「一番キレイな桜の絵」を描くこと。


「みちるちゃんっ! ちょっとそこに立ってて!」


 ばしゃばしゃと水を蹴り、みちるから数歩距離を取る。首をかしげるみちるに向き直り、お尻がれるのも構わずに水面に腰を下ろすと、あすなは手にしていたスケッチブックを広げ、ポケットから色鉛筆を取り出して猛然と絵を描き始めた。


「ほう! 紙と、絵筆じゃったか……ふふん、そうじゃろうそうじゃろう。とこしえの桜はさぞ美しかろう。時間の許す限り、存分に描くがよい」


 この神隠しはほんの刹那、一期一会の奇跡。境域には昼も夜もないが、いずれ霞は満ちあすなは元の世界へと帰る。そして生涯二度ととこしえの桜を目にすることはかなわないかもしれない。ならば今この時は何も語りかけるまいと、みちるは黙って立ち尽くした。


「……む」


 しかし、絵の完成を待たずして「その時」は訪れる。

 甘く優しい桜の香りが周囲に満ち、霞に隠されるように景色がぼやけていく。

 まるで夢からめる前兆。明確な境界などはなく、やがて前も後ろも、右も左も、上も下もわからなくなって……霞の中、みちるの姿だけが鮮明に映る。


「ま、まって! まだ……」


 焦るあすなの手を取り、みちるは優しく語りかける。


「人の子よ。おぬし、桜は好きか?」


「えっ……う、うん」


「なれば、また紙と絵筆を持って花見に来るがよい。わらわもおぬしに少し興味が出た。互いに望むなら、また春霞満ちる頃に、おのずと導かれるやもしれぬ」


「わ、……わかった。またね、みちるちゃんっ!」


 お別れではなく、再会の言葉を口にして。



 次の瞬間には、もう何を言ったかも忘れていた。


「あれ……?」


 立ち尽くす、永咲神社の境内。夢から醒めたばかりのようなふわふわとした感覚。

 確か、桜を探して、神社を探検して……それからずっと不思議な夢を見ていたような。でも肝心の夢の内容は何も思い出せない。


「あすな、こんなとこにいたの? そろそろ帰るよー」


 母の呼ぶ声に、ハッとして振り返る。


「ママ……」


「桜の絵は描けたの?」


 言われて、スケッチブックを開きパラパラとめくる。でもページは全部白紙だった。

 手首には、ほんのりとした熱が残っている。たくさん絵を描いた後のような熱。


「ふふ、今日あったかいからベンチで寝ちゃってた? 桜、まだ一週間くらいは見頃らしいから。通学路も近いし、また絵を描きに来たらいいわよ」


「……うん」


 また来よう。桜が散る前に。何か、とても描きたくて仕方のないものが、ここに……ひょっとしたら、ここではないどこかに、あった気がする。

 風に揺れる桜を振り返っても、そこには誰もいなくて。何もおぼえていないけれど、何だかとても忘れ難く大切な時間を過ごしたような気が、ずっとしていた。



 そんなお花見の日から、何日かがって。

 通学路の分かれ道でお友達に手を振り、一人になったあすなは、帰り道からほんの少し外れた永咲神社に寄り道をした。描き忘れた桜に、もう一度会いに行くために。

 今日も暖かくて、春の風は心地良い。人は少なく静かな時間。あすなの小さな両足は、自分でも驚くほど迷いなく進んでいく。まるで何かに誘われるように。


「あった!」


 桜に囲まれた誰もいない建物と、向き合うようにぽつりとひとつ置かれたベンチ。

 腰掛けて、ランドセルをおなか側に。スケッチブックと色鉛筆を取り出そうとして、ふともう一度桜を見上げてみる……も、何故なぜだか心は疑問符を浮かべる。


(かきたかったのって、ほんとにこれだったっけ……?)


 首を傾げながら目をつむり、風と一緒にすべての音が一瞬んで。



「また迷うたか、人の子よ」



 しゃらり、寂を分かち。鈴の転がるような声がした。

 目を開けると、そこは別世界のような場所だった。


「わ、わっ!? ここどこ!?」


 昼とも夜ともつかない、空と水の間で。声の主は静かに微笑ほほえんでいた。


「まさか本当に再び相まみえるとはのう。存外、わらわも望んでいたのやもしれぬな」


 目の前には、この世のものとは思えないほどキレイな女の子がいた。突然の事態に戸惑っていたあすなの心が、彼女を目にしただけでなぎのように和らいでいた。


「きれい……あなた、さくらのかみさま……?」


 しかし、あすなは憶えていなかった。この境域を訪れたことも、とこしえの桜を目にしたことも、桜の精と出会ったことも……彼女に、名前をあげたことも。


「む……なるほど。人の子は、変わりゆく者は……やがては忘れてしまう、か」


 少し寂しそうに微笑んでから、少女は改めて迷子のあすなに向き直った。


「わらわは……みちる。とこしえの桜の精じゃ」


「みちる……ちゃん……」


「時に、人の子よ。桜の絵は、描かんでよいのか?」


 その言葉にハッと我に返り、ランドセルからスケッチブックと色鉛筆を取り出す。

 キレイなものを見つけた時どうするかは、神社に来る前から決めていたはずだ。


「ふふっ。存分に描くとよい」


 それだけ伝えて、みちるは夢中で絵に取り掛かり始めたあすなをじっと見つめた。


「……可愛らしいものじゃ」


 ぽつりと、こぼれ出た言葉。

 何故そんな風に感じたのかはよくわからない。だが、みちるは確かに目の前の小さな命を、その真剣な様を、綺麗なものに夢中な表情を……「可愛らしい」と、そう感じた。

 慣れない感覚にくすぐったさを覚えつつ、みちるはまた大人びた微笑みを浮かべ……ほんの少しだけ高い目線から、一心に絵を描き続ける少女の姿をしばしの間見下ろした。



「……時間じゃな」


 そして再び霞が満ちる。ひとひらの花弁も伴わぬ風が舞い、境域ごと二人を包み込む。


「あう、ま、まだ……!」


「何、気にすることはない。望むならまた、おのずと誘われよう」


 みちるは前回と同じようにあすなの手を取り、今度は自分から再会の約束を口にした。


「また会おう、人の子よ。春霞満ちる頃に」


「あ……うん! みちるちゃん……またね!」


 そうしてまた、おぼろな春の夢は醒める。



 それから次の日も、また次の日も。あすなは放課後の神社に寄り道をして。


「またうたな、人の子よ」


 おぼろげなおもいに誘われるようにして、境域へと迷い込んだ。


「きれい……あなた、さくらのかみさま?」


 再訪の約束など、憶えてはいないのに。

 あすなは何度も境域にやってきて、みちると何度も「初めての再会」を果たし。

 同じように見惚れ、同じように絵を描き……同じように、別れの時間を迎える。


 けれど、その繰り返しの中でわずかながら変わっていることがあった。

 色鉛筆を持つ手を動かす速さ、スケッチブックから顔を上げる回数。霞が満ちるその時までの絵の完成度。ここにいる間だけでも、彼女は少しずつ上達しているらしい。

 幼く、無垢むくで、まだ染まることのない白に見えても。風のように、霞のように、色無き色が、目に見えずとも重なっていて。たとえ思い出せずとも、刻み込まれて失われることはない……そういうものも人間にはあるのかもしれないと、みちるは物思いに耽る。


「のう、人の子よ」


「……んっ? なぁに、みちるちゃん」


 ふと声をかけてしまう。人の世のこと、絵のこと、少女の暮らす日々や、他の人間たちの話。聞いてみたいことがいくつもあった。しかし、その一言で少女が筆を動かす手を止めてしまったのを見て、みちるは苦笑してかぶりを振った。


「……いや、何でもない。気にせず描き続けるとよい」


「うん……? よくわかんないけど、わかった!」


 ずっとここにいるみちると違い、人がここで過ごせる時間は限られている。自分の一方的な興味を満たすより、彼女が望み通り絵を描き切ることをみちるは願った。

 境域やとこしえの桜は変わらずとも……変わりゆく少女の今は、今しかないのだから。



「……できたぁーっ!」


 幾度目かの「初めての再会」を果たした頃。あすなはついに一枚の絵を描き上げた。


「……ついに、か」


 ほんの少しだけ寂しそうなみちるの心中は露知らず、あすなはバシャバシャと水音を立ててはしゃぐようにみちるへと駆け寄る。そしてスケッチブックから一枚、色鉛筆で描かれた絵を切り取り、賞状を手渡すように両手でみちるに差し出した。


「はいっ、みちるちゃん!」


「……? わらわに?」


「そうだよ? そのためにかいたの! ん!」


 ずいと絵を突き出してくるあすなに、みちるは気圧けおされながらも紙を手に取る。

 中央に描かれていたのは、桜の樹ではなく……一人の少女だった。


「ずっと、わらわを描いておったのか……」


 絵のことは、みちるにはあまりわからない。とはいえ、その一枚に込められた幼い情熱は、無垢な憧れは、ありありと伝わってきた。


「……感謝する。人の子よ……」


「あすな! あたし、あすなっていうんだ」


「……あすな」


 水面にそっと浮かべるように、一音ずつ柔らかくつぶやいた瞬間。

「その時」が訪れる。


「んん……な、なんか、目がふわふわする……?」


 まどろむように、あるいは夢から醒めるように。あすなの視界がかすんでいく。

 夢とうつつ、神世と人世、永遠と明日の境にあって、決していずれにもうつろわざる世界が。変わりゆく存在を拒むかのように、刹那のおうに終わりを告げる。


 あすなは絵を描き切る目的を果たした。再び境域を訪れる理由は、もうない。

 ゆえ、望む。せめてまたいつか。いつになるかもわからぬいつかに。


「……あすな。また、桜を描きに来るとよい」


 スケッチブックを片手に桜を探す少女が、再び春風に誘われることを、みちるは願った。



 あすなが目を開けると、そこはいつもの神社だった。


「……また、ゆめ……?」


 今日も、何も憶えていない。夢中で色鉛筆を走らせたような感覚と、ほのかに手に残るようなぬくもり以外は、何一つ。

 お花見の日から、何日ここに通っただろうか。桜の絵を描こうと思っていたはずなのに、スケッチブックは結局真っ白なまま、花は散ってしまっていた。


「……よしっ」


 また来年。次の春こそ、桜の絵を描きに来よう。これだけ心かれる桜は、自分の中で特別なモチーフに違いない。次の春までにたくさん絵を練習して、来年こそリベンジだ。


「また来るからねー、さくらーっ!」


 花が舞い、春がく。

 夏が来て、秋が来て、冬が来て。

 明日を迎え続ければ、いつか次の春が来る。


「えへへっ。楽しみ!」


 少し寂しげに見える葉桜が、また満開に咲き誇る未来に心を躍らせて。

 何だって描ける真っ白なスケッチブックを手に、あすなは帰路についた。


 ◇


 四季が巡り。あすなは、五センチだけ桜の枝に近づいた。


「今年も見事に咲いたわね~」


 今日は両親と、永咲神社で一年ぶりのお花見。あすな自ら「今年も神社にお花見行きたい!」と懇願して取りつけた待望の日だ。今日のために買ってもらった新品のスケッチブックも、去年より十二色増えた色鉛筆も、忘れずちゃんと持ってきた。


「ごちそうさま! 行ってきます!」


 お昼のお弁当を平らげ、あすなは早速あの場所へ向かおうと駆け出した。

 まるで誰かとの約束でもあるみたいに。

 待ち焦がれた春に会いに、心が走り。あの場所まで数分足らずで辿り着く。

 ベンチと向かい合った古びた建物を、今年も満開の桜が取り囲む。


「ふん、ふん、ふーん……」


 鼻歌を歌いながらスケッチブックを開いて、そよそよと揺れる桜の枝を見上げる。

 あすなは、絵を描くことが何となく好きだ。目に映るキラキラの世界をつかまえてスケッチブックに詰め込んでいくのは、オリジナルの宝石箱を作るみたいで楽しい。

 楽しかったから、この一年ずっと。夏も、秋も、冬も絵を描いた。けれど本当に描きたかったものは、やっぱり春に置き忘れてきた気がしていた。


「…………んん~っ。いい天気ぃ……」


 頬をでる陽光の温もりに、ざわめく木立の奏でる音色に、身も心も委ねたくなって。

 柔らかな花風が静かに吹き抜けて、思わず目を閉じる。



「迷うたか、人の子よ」



 しゃらり、凪の彼方かなたに。鈴の転がるような声がした。


「ふぇっ」


 目を開けると、そこはあすなの知らない別世界。

 声のした方には、この世のものとは思えないほど美しい女の子がひとり。

 学校の人気者、テレビで見るアイドル、おとぎ話のプリンセス。あるいは入道雲を仰ぐ海、月の明るい夜、山を覆う雪、満開の桜。あすながこれまで色々目にしてきたキレイな人やもの、そのどれにも到底たとえられないくらいの……神々しさに、思わず尋ねる。


「キレイ……あなた、さくらの神様?」


「ふふっ。神ならば、もっと畏れてほしいものじゃのう」


 袖で口元を隠しながら微笑むその仕草を、何故か前にも見たことがある気がした。


「わらわは、このとこしえの桜の精じゃ。……時に、その手の道具」


 袖の先、細く白い指が、ゆらり。あすなの手のスケッチブックを指す。


「紙に絵筆。桜の絵を描きに来ておったのではないか?」


「わ、わかるのっ……!?」


 大人みたいに落ち着いた雰囲気でこくりとうなずいてから、仲良しの親友だけに宝物を見せてくれるような少し自慢げな表情で、女の子は巨大な桜を指し示した。


「存分に描くがよい。悠久不変に咲き誇るとこしえの桜ぞ」


「あっ……う、うん! ……っじゃなくて、あの……」


「うむ?」


「さくらじゃなくて……あなたを、かいてもいい?」


 あすなの言葉に、女の子はきょとんとしてから……あどけなくにこりと笑って答えた。


「構わぬよ。ここでは好きに振る舞うがよい。春霞満ちる、その頃までは」


「はるがすみ、みちる……ちゃん。……が、あなたのお名前?」


「ふむ……自由に呼ぶがよい」


「うんっ、みちるちゃん! あたし、あすな! よろしくね」


 あすなはパッと笑みを咲かせ、すぐさまスケッチブックを広げた。

 後ろ向きに数歩、距離を取る。みちるの全部が、あすなの宝箱に収まる距離。

「よしっ」と小さく声を上げ、心の赴くまま、筆の進むまま、みちるの姿を描いていく。

 描き始めて、すぐにわかった。やっぱり、指先が憶えている。自分は、いつかどこかで……きっと夢の中で、彼女の絵を描いたことがある。

 だってそうじゃなきゃ、こんなにも憶えてないし、こんなにも忘れてない。


 今のこの時間も、もしかしたら夢なのだろうか。

 なんて、考えてもわかるはずのないことを考えそうにもなったが……絵に没頭し始めるとそんなことはすぐに忘れて、あすなの頭の中はみちるだけになっていった。


「のう、あすな」


「なぁに、みちるちゃん?」


 ずっと黙って立ち尽くしているのが退屈だったのか、ふと言葉をかけてきたみちるに、あすなは手を休めずに答える。


「おぬし、絵を描くのは好きか?」


「うんっ、好きだよ。今日はね、神社にさくらをかきに来てたの!」


「ほう。では、わらわではなくとこしえの桜の絵を描いてはどうじゃ?」


「んんー、でっかすぎてムリかも!」


「ふむ。もっと離れてみてはどうかのう」


「そしたら、みちるちゃんがちっちゃくなっちゃう!」


「ふふっ。どうあってもわらわを描くか。じゃが、本当に桜を描かんでよいのか?」


「それは、……」


 あすなは思わず言葉に詰まる。この一年、親や友人、学校の先生に「あすなちゃんは絵が好きだね」「何を描くのが一番好き?」と何気なしに聞かれることが何度もあった。

 決まって、桜と答えていた。次の春にまた満開に咲き誇る桜に、再チャレンジを果たすのがあすなのモチベーションだったから。


 夏も秋も冬も。色んな景色を、時間を、あれもこれもと詰め込むように描いてきた。

 夏の雨も秋には止む。秋の紅葉も冬には散る。冬の雪も春にはける。

 だから絵にして、宝石箱にしまってきた。そしたら変わらないものになって残るから。

 桜も同じはずだった。待ちに待った今日、そうするつもりだった。

 けれど出会ってしまった。どの桜よりもキレイなもの。

 残さないといけないもの。残したくても消えてしまうもの。ずっとは残らないもの。


 夢。

 みちるは、きっとあすなの……夢に見た、夢。


「まだ……まだ、わかんない」


「ふむ……」


「あのね。ことしえ……ことしえ?」


「とこしえ」


「それ! ……の、さくらも。見たことないくらいおっきくて、キレイで、すっごいって思ったよ! 思ったけど、けどね。あのね」


 幼い語彙からたどたどしく言葉を選び探す様を、みちるは静かに見守った。


「それでもあたし、みちるちゃんの絵をかきたい」


 幼いからこそ、飾り立てない真っ白な言葉は。

 ひとつの感情いろもこぼすことなく、みちるのもとへ白いまま届いた。


「……それは、うれしい限りじゃな」


「うん。……うんっ!」


 言葉に変えて初めて、あすなの中にも確かな実感が生まれた。

 きっと心の底から描きたかったものは、桜じゃなくて、みちるだ。


(コトシエのさくらだってキレイだけど、みちるちゃんはもっともっと、もっと……!)


 心が、指先が、今までと違う熱を帯びる。モヤモヤが晴れたみたいに、鏡の曇りが取れたみたいに、見たかったものがハッキリ見えてくる。


(描くんだ。あたしが)


 描きたい。描きたい。描きたい! 描くんだ!


「……ゆめ」


 きっと、これが夢。

 忘れてしまう明日いつかのために、今日いまの自分とする約束。

 明日を今日にするために、眠りの前に閉じる本。


 今日と明日を、結ぶのが夢。



「……あすな」


 夢中で筆を動かし続け、今にも絵が描き上がる頃。みちるが、静かに口を開いた。


「そろそろじゃ」


「えっ……!?」


 はるか遠くから、水平線が近づいてくる。空と水との境界が、ぼやけてにじみ曖昧になる。


「も、もうちょっと……! ほんとにちょっと!」


 き立てられるように慌てて色鉛筆を走らせ、最後の仕上げにかかる。


「できたっ!」


 絵の隅に走り書きで「みちるへ あすなより」と記し、破けないよう丁寧にスケッチブックから切り取って。


「はいっ、みちるちゃん! 受け取って!」


 転びそうになりながらも、駆け寄り手渡す。みちるに見せるために描いた絵を。


「……ほう……! わらわは、人間からはこのように見えておるのじゃな」


 ほんの少しの驚きが乗ったみちるの言葉に、あすなの胸の奥がドキリとうずく。


「うっ……ま、まだまだだよ。みちるちゃんのミリョクはこんなもんじゃないよ……!」


 絵を見せた途端、気恥ずかしさや申し訳なさ……あすなにとって初めての感情ばかりがこみ上げてくる。もっと絵がかったら、もっと描くのが早かったらと。

 そんなあすなの胸中を見透かしたように、みちるはくすりと微笑んだ。


「そう悔しそうな顔をするでない。おぬしはまだ幼い、ゆえに未熟で当然。人の世界ではそういうものなのじゃろう?」


「けどっ……あたしと同い年でもっと絵が上手い子だって……」


「あすな。誰を羨んだとて、おぬしの絵はおぬしにしか描けぬ」


「みちるちゃん……」


「それに、幼いということは、あまたの未来が待っているということじゃ。おぬしが心から望み、歩みを進め続けるのならば、いずれ何事をもせよう。……それは、ただ悠久の時を生き続けるだけでは決して手に入らぬもののはずじゃ」


 激励の言葉が、わずかに物憂げな羨望を帯びる。あすなにはみちるの言葉を完全には理解してあげられなかったが、彼女がどこか寂しそうにしているのは伝わった。


「また来るね、みちるちゃん」


 だからただ一言、誓いを口にし、笑いかける。


「……うむ。また……また会おう、あすな。春霞の満ちる頃に」


「こうするんだよ。小指出して」


 言われるがまま差し出されたみちるの白く細い小指を、あすなが元気よく捕まえた。


「指切りげんまん、うそついたらハリセンボンの~ますっ♪」


「……???」


 人間の作法で、二人は指切りの約束を交わす。


「やくそくっ。またみちるちゃんの絵、かきに来るから。わすれないで待っててね」


「……うむ。忘れぬ」


「またね、みちるちゃん!」



 また風が舞い、あすなは花満ちる境内に立ち尽くしていた。


「…………っ、ゆめ……?」


 胸の高鳴りが、何かを告げている。霞んで思い出せない何かを。

 理由もわからず虚空に差し出したままの小指が、ほのかな熱を帯びていた。

 スケッチブックをめくってみても、どのページも白いままで。

 まるで風に散った花びらのように、どこかへ消えた記憶。ほんのひとひらだけでも、大切な時間がどこかに残っているはずなのに……やっぱりひとつも、思い出せなくて。


「あすな。またここにいたのね。今日はどうだった? 桜、描けた?」


 夢心地でぼうっと立ち尽くすあすなを、探しに来ていた母が呼ぶ。


「ううん……まだ」


「そっか。あすな、ちっちゃい時からこだわり強いからねぇ。お気に入りのおもちゃ絶対離さなかったり……いいのよ、納得するまでどれだけ悩んでも」


 違う。きっと違う。桜の絵を描けていないのは、納得がいかなかったからじゃない。


「……ねえ、ママ」


「ん? どしたの、あすな」


 高鳴る鼓動に任せるように、紡ぐ。どうしてか、かすかにしびれたままの指先の叫びを。


「あたし、もっと絵、上手くなりたい」


 あすなの言葉に母は一瞬目を丸くし。さあと春風が通り抜けてから、優しく笑った。


「いいんじゃない? お絵描き教室とか、通ってみる?」


「……っ! うん!」


 この春、あすなは短い夢を見て……遠い、夢を見つけた。


 ◇


 春、焦がれの季節。


「毎年、春になると不思議な夢を見るんだよね」


 十三歳、中学二年生になったあすなは、美術部の仲間からの問いかけにそう答えた。


 とある春先の放課後、誰かが持ってきた可愛いんだか可愛くないんだか絶妙にわからないぬいぐるみを取り囲んでデッサンしていた時。部内でも一番画力が高いあすなを尊敬半分からかい半分で「センセイ」と呼ぶ同級生の部員の雑談から、好きなモチーフや上達のコツなどの話題になって。「センセイの画力のけつって何?」というふんわりとした質問に、あすなは子供の頃から見てきたおぼろげで不思議な夢のことを語った。


「夢ってどんなん、あすなセンセイ?」


「んー……いつも同じ夢。毎回変わんない景色……だった気がする」


 なにせ夢の話だ。どこからが想像による補完や脚色かどうかもわからない。春以外の期間は見ることがないのだから余計に記憶は薄れていく。


「桜……そう、でっかい桜がズドンッて生えてた気がする。雲まで届くっていうか、花自体がでっかい雲みたいな……とにかくすっごい桜」


「雲まで届く桜かぁ……夢で見たその風景が、センセイの絵の原点ってこと?」


「……んんー……、いや」


 頭の中で思い描いて、あすなは違和感を覚える。あるはずのものが、無くてはならないものが、そこだけすっぽりと抜け落ちているような。重要なのは、風景じゃなくて……。


「誰かが、ずっといたような……」


「……お~?」


「な、何……?」


「いや、風景画一筋のセンセイから『誰かさん』の話が聞けるなんてねぇ……春になると見る夢の中だけで会えるとかロマンチック。織姫と彦星みたいじゃん」


「いや、それ夏だし……」


「どんな人? 男の子、女の子? 年上、年下?」


「知らないし……顔も名前も、憶えてないし」


「それでも、いつも夢の中に出てくるんでしょ?」


「…………多分」


「ズバリ、恋だよそれは!」


「違います」


 ズバリと一刀両断。


「えー、なんでぇ」


 不満そうな部員に、しかしあすなもどう返したらいいか迷う。

 あすな自身にも、この執着の正体はわかっていない。

 ただ、今は名前をつけてしまいたくないだけ。


「……誰かっていうのは、その。多分、人じゃなくて……そう、桜の神様みたいなものだから。だから恋とか、そういうのじゃない気がするっていうか……」


「なにそれ。神様だと恋しちゃいけないわけ?」


「それは……し、知らないけど……」


 ぐいぐいと押し寄せる質問攻めに、見かねたしっかり者の部長が割って入った。


「はい、そこまで。ちょっとやり過ぎだよ。あすなちゃん、困ってるでしょ」


「ちぇー、わかったよ。……ごめんね」


 安易に触れられたくないと感づいたのか、彼女もそれ以上追及はしてこなかった。



 夕暮れ、電車の中。ちょっぴり気まずい帰り道で、部長があすなに頭を下げる。


「あの子がごめんね。普段しない話が出てきて、つい舞い上がっちゃったんだと思う」


「……ううん、わかってる。意地悪で聞いてきたんじゃないことくらい……」


 らしくもない意地を張った自覚もあった。


「ただ私が……恋だとかそういうこと、よくわかんないだけ」


 だって恋と名づけたら、きっと恋になってしまう。

 それくらいにずっとずっと、焦がれ続けているから。


「私もまだわかんないよー。普通の女子中学生だもんね、私もあすなちゃんも」


「……そうだよ。別にそんな変わんないよ、みんなと」


 きっと恋なんて呼ぶほど特別なことじゃない。

 ただ描きたい、その気持ちがあるだけ。

 もっと上手くなりたいから。こんなに上手になったよって、見せてあげたいから。


(……誰に?)


 それは朝起きて忘れた夢の内容のように、はっきりとは思い出せなくて。


「ね、あすなちゃん。いつか描けるといいね、あすなちゃんの夢の絵」


「うん、ありがと。……いつか、ね」


 明日を迎え続ければ、いつかその春は来るのだろうか。


「あっ、見て見て。あそこの桜、すごいよ!」


 夕暮れを走る電車の窓から、いつも見える景色。


「……あ。永咲神社……」


 春になるたび通い続けた特別な場所。家族でのお花見は、あすなが高学年に上がった頃からやらなくなってしまったが……通学路の途中にあった神社の散策は毎年の習慣のままだったし、あのベンチにも欠かさず座っていた。


『――永咲神社前、永咲神社前。お出口は左側です』


「あれ。あすなちゃん? 降りる駅、次じゃ……?」


 何かに誘われるように、気づけば立ち上がっていた。


「……ちょっと、プチお花見……してから帰る。じゃあね」


 あすなのセンチメンタルな心情をざとく見抜き、部長は微笑んで手を振った。


「いってらっしゃい。また明日ね、あすなちゃん」


「ん。また明日」


 気遣いに感謝しつつ、短く別れの挨拶。火照る耳の色も、夕焼けのせいにして……あすなは通い慣れた神社へと足を速めた。



「……本当に来ちゃったよ」


 いつの間にか小走りになって上がった呼吸を整える。

 こんな勢いで訪れるつもりはあすなにも無かった。それでも、去年までと同じようにどうせいつかは来ていたのなら今日でいい。明日まで待つくらいなら、今がいい。

 かばんには、お守りのように持ち歩いている新品のスケッチブックが入っている。

 いつものように、ベンチに座ろうとして。


「……………………」


 セーラー服の襟を整え、傾いたリボンをまっすぐに。前髪も指先で調整。


「……よし」


 いや何がよしだ。誰もいないベンチの前で、何をやってるんだ、私は。


 ――ズバリ、恋だよそれは!


「……わかんないってば」


 だって、恋ってことにしてしまったら、相手の顔も名前も思い出せない恋になる。

 そんなの、悲しいだけだ。本当に好きなら、忘れたくない。

 去年よりまた三センチ桜に近づいた背も。やっと丈が合ってきた黒いセーラー服も。賞をもらうくらい上手くなった絵も。……見せたい誰かが、いたはずなのに。


「……何で、思い出せないんだろ……」


 落とした視線が、長く差した影を見つける。


 ねえ夕日、勝手に照らさないで。本当の私、こんなに大きくない。勝手に染めないで。私の頬、こんなに赤いわけない。


 こんがらがった糸と糸、言えない心がくしゃくしゃになって。


「……ああ、もうっ! 座ればいいんでしょ、座れば!」


 開き直ってベンチにどかっと腰を下ろして、目を閉じる。聞きたい声があるから。

 ずっとずっとずっと、会いたかったはずの誰かの声。……それは、一体誰?


「教えてよ」

 

 誰でもいいから。よくないよ。


 ねえ、あなたに聞きたいんだよ。



「……なんてね。あはは……」


 何も起こるはずのない願いを自嘲しながら目を開くと。

 そこは春霞満ちる、昼でも夜でもない世界だった。


「……は? ちょ、え……っ、は? ほ、ほんとに?」


 落とした声は、足元の水音は。耳鳴りのようにあすなの中にだけ響く。

 苔むした岩から立ち上がり、心が告げる方へと走り出す。


「ね、ねえ! 誰か! 誰かいないの!」


 誰かじゃなくて。


「私……あ、あたし! あたしっ、あすな! あすなだよっ!」


 誰もいなくて。


「……っ。あすな、だよ……」


 霞の向こうで、聳え立つ桜の輪郭が少しずつあらわになる。

 荒らぐ呼吸、暴れる鼓動。足元の波紋と水音の残響が霞ごと消え去るまで待っても、全然落ち着いてなんてくれなかった。



「迷うたか、人の子よ」



 しゃらり、水面震わし。鈴の転がるような声がした。

 視線の先。見逃すはずない。桜を背負う、小さな影。


「あな、たは……」


 見つけた途端、顔じゅう火がついたみたいに熱くなる。

 もう夕日のせいにもできやしない。瞬く間すらなく理解してしまった。

 

 ああくそ。


 これが恋じゃなかったら――、


「随分な取り乱しようじゃのう。……なに、安心せい。おぬしはほんの一時迷い込んだだけじゃ。また」


『春霞満ちる頃に』


 その言葉の先を知っていたように、あすなの口が勝手に重ねて唱えた。


「はるがすみ……みちる。……あなたのこと、そう呼んでもいい?」


 そう呼んだことが、ある気がする。


「……ふむ。自由に呼ぶがよい」


 このやり取りも、何度もしたような。


「みちる。みちる。みちる……」


 二度と忘れないように、刻みつけるように呟く。何度も、何度も、幾春ぶんも。


「……みちる」


「何じゃ、『あすな』」


 さっき何度も虚空に向かって放り投げた名前を、みちるがひとつだけ返す。


「……っ……! ね、ねえ。あたしのこと、憶えてる……?」


 背も伸びて、服装も変わって、顔立ちだって小学校の卒アルとさえも違うけれど。

 鞄からスケッチブックを取り出して、三つ編みにしていた髪もほどいて。


「あたし、前にもここに来て、あなたに会ったことある、よね……?」


 あすな。そう呼ぶ鈴の音のような声を、この耳も憶えている気がしてしまう。

 みちるは静かに目を細め、よどみなく告げた。


「おぬしは、わらわのことを憶えておるのか?」


「……っ」


 その一言で、あすなは何も言えなくなってしまった。

 なんて身勝手な話だろう。自分はみちるのこと、ちゃんと憶えていなかったくせに。

 うつむいた顔を、みちるが下からのぞき込む。


「これ、俯くでない。顔を上げよ。せっかくの桜が見えぬじゃろう?」


 言われた通り、顔を上げる。……けれど、桜なんてあすなにはもう見えなかった。


「……みちる。あたし、あなたの絵を描きにここへ来たの。……描いても、いいかな」


 あすなはきっと、みちると出会うこの時のために絵を描き続けてきた。スケッチブックとお出かけして、絵画教室に通って、美術部に入って、毎日毎日、ずっとずっとずっと。


「構わぬよ。桜のほかには、おぬしとわらわだけの世界じゃ。好きに振る舞え」


「……ありがと!」


 礼を言うが早いか、あすなはスケッチブックを広げ、数歩後ずさって水面に腰を下ろした。制服が濡れても関係ない、一分一秒だって惜しかった。


 描かなきゃ。描かなきゃ。描かなきゃ!


「随分と、険しい顔で描くものじゃなぁ……」


 焦りに手を引かれながら筆を動かすあすなの、いかにも余裕のない様子を見て、みちるは少しだけあきれたように微笑んだ。


「……いのう」


 背丈は、みちるよりあすなの方がずっと高いのに。一センチでもかかとを上げて、一センチでも手を伸ばして。桜の花に触れようと半泣きで背伸びする、童女のように見えて。

 真剣で、精一杯で、ありのままのあすなの様を、可愛らしいとみちるは思った。


「~~~~っ……」


 絵が進むにつれ、あすなの表情は重く暗く曇っていった。

 まばたきを忘れているのではないかと思うほど赤く血走った両目。かと思えば、思い悩むようにギュッと目をつぶり、すぐに見開いて首をぶんぶんと勢いよく振る。


「何か思いつめておるようじゃのう。言葉にできることは、話したほうが良いぞ」


 どう見ても幼女のくせに妙に含蓄があるみちるの言葉に、あすなも素直に応じる。


「……あのね。あたしが描きたいのは、あたしの頭の中の空想のみちるじゃなくて、今ここで目の前にいるみちるなの。……でも瞬きするたび、勝手に塗り替えられてく気がするの。まぶたの裏にいた、思い出せない方のみちるに」


「それで目を凝らしておるわけか。存外難儀なものじゃな、絵を描くというのは……しかし、あすな。おぬしの瞼の裏におったというわらわも、同じわらわではないのか?」


「その時のみちるはもう描いたし! 今のあたしは、今のみちるを描かなきゃなの!」


 駄々のように勢いよくあふれ出した言葉に、みちるは首を傾げる。


「……? わらわは永久にわらわじゃ。いつ何時まみえようとも、変わらぬ」


「それでも、それでもなのっ!」


 まるで幼子のように、道理も無く要領を得ない言葉。どうにも一人称が「あたし」に戻ってからのあすなは、背伸びがバレたみたいに等身大だった。


「……ふむ。思い悩むも拘泥するも、あすなの自由じゃが……絵筆を止めるいとまは無いやもしれぬぞ。おぬしがここに居られる時間ばかりは、無際限ではないゆえの」


「……っ、あ、やばっ……!」


 慌てて手を動かす。一分一秒でも早く上手に描けるようになるために、毎日毎日練習してきたのに、大事な本番で手を止めるなんて間抜けな話だ。


「……余計なこと、考えるのなし! とにかく、描かなきゃ……っ」


 夢でいい。残らなくていい。明日忘れてもいい、今目の前に見えてるから。

 この一分一秒を。目の前のみちるの姿を、絵筆に、指先に、刻み込みながら。

 この目で学んできた彩の限りを尽くして、変わらない真っ白を、描く。


(ねえ、みちる。あたし、絵、上手くなったよ)


 みちるに会えない間、夢を見ない間。夏も秋も冬も、ずっと色んな絵を描いた。

 地区の絵画コンクールで、賞だって取った。絵画教室でも美術部でも、みんな上手だって褒めてくれた。けど誰に何を言われたって、本当はどうでもいい。


(みちるに見せたいんだよ。みちるに見てもらいたいんだよ)


(みちるはこんなに綺麗なんだよって、みちるに知ってほしいだけ)


 だから描くんだ。描かなくちゃ。あたしが。

 それが夢だったんだ。ずっとずっと、前から。



「……できたよ、みちる」


 ようやく描き上がった一枚は……到底、納得のいく出来ではなかった。

 どうして。ずっと絵を描いてきたのに。毎日、変わらず頑張ってきたのに。去年よりも、一昨年おととしよりも、上手くなったはずなのに。何で、こんなに遠くて届かない。

 みちるは、本当はもっともっと、もっと。


「あすな」


 スケッチブックに落ちるしずくを指差して、みちるが尋ねる。


「その水は何じゃ?」


「……っ、え……?」


 みちるは、涙を知らなかった。

 彼女はひょっとしたら、涙を流すことがないのかもしれない。そんな子いるんだろうかと驚きながらも、あすなはずびっと鼻を鳴らしてから質問に答えた。


「……これは、涙……悔しい時に、出てくるの」


「ふむ……ではおぬしは今、悔しいのか」


「…………悔しいよ」


 自分の腕では「みちる」を描き切れなかったのが、たまらなく悔しい。

 ちょっと人より多く絵を描いたくらいで、「子供にしては上手い」くらいで、小手先の技術を覚えたくらいで、狭い井戸の中で一番高く跳べたくらいで。思い上がった自分が、恥ずかしくて、悔しくて。

 遮るものなんてないはずなのに、遠く届かない指先と絵筆が、弱虫な心と一緒に折れてしまいそうで。


 ――いつか描けるといいね、あすなちゃんの夢の絵。


 ねえ、そんな「いつか」、本当に来てくれるの?


「悔しいよっ。こんなんじゃ、一生懸けたって届かないかもしんないじゃん……!」


 足りない、足りない、全然足りない。五年間、毎日絵を描いてきた。思ってた百倍足りなかったら、五百年懸けなきゃいけない。


「あすな。……それは、懸けてみねばわからぬ」


「……っ、みちるはいいよね! ずっと変わんないもん! あたしのっ、人間の一生なんて、これっぽっちじゃ全然……!」


 感情のままに吐き出した言葉を、言い切る前に後悔する。


「…………ごめん……」


「謝ることはない」


「こんなこと平気で言えちゃうあたしも、大っ嫌いだ……」


「ほう、嫌いか。わらわには可愛らしく思えるがのう」


「っ、子供扱いっ……みちるの方が、ちっちゃいくせに……」


「ふふっ、何を言う。座り込んで絵を描いておる間は、わらわの目線の方が高い」


 くだらないくつを言い合って。


「……っ、ふ……、あはは」


 ふたり、微笑む。


「涙は止まったかの?」


「……わかんない」


 多分またすぐ泣く。だってずっと悔しい。この悔しさを、忘れるのも悔しい。


「……その絵はどうするのじゃ?」


 今の自分の、精一杯の絵。十三歳のあすなの全てを込めた一枚の絵。

 強く握ったら砕けてしまう心の破片みたいにそっと、スケッチブックから切り離す。

「みちるへ あすなより」……と、書き慣れた気がするサインを記して。


「受け取って、みちる。そのために描いたんだから」


「……ふむ。わかった、貰い受ける。ありがとう、あすな」


 差し出した一枚の紙が、するりとあすなの手を離れていく。

 本当は、持って帰りたい。この悔しさを二度と忘れないために。

 でも、みちるを宝箱に閉じ込めてはダメだ。

 もしこの絵が手元にずっと残ったら、あすなはそこから先に進めなくなってしまう。

 忘れたくないけど、それ以上に。思い出になんてしたくない。


「それは、みちるがずっと持っていて。何度だって、また新しく描くから」


 今日届かなかったくらいで、明日を諦められるわけがない。


「まだ全然、完成なんかじゃないから。来年も、再来年も、もっともっと上手くなってまた来るから。……約束しよ。絶対忘れないから、みちるもあたしのこと憶えてて」


 あまりに確証のない、空虚な約束。交わしたことさえ憶えていられるかわからない不安に震えながら差し出した小指ごと、みちるの白く細い両手が包み込んだ。


「わかった。待っておるよ」


 静かで優しい微笑みに、また容易たやすく目を奪われて。



 西日が差して、花が舞って。少し肌寒い春風が、容赦なく吹き抜けた。


「…………何で」


 何で、何も。ひとつも思い出せないのに、思い出せないことが、こんなにも。


「ふざけんな……っ」


 止まらない涙の理由すらわからない。今は、止める気にもなれない。

 今日見た夢なんて、明日になったら忘れてしまう。それは誰しも、当たり前のことで。

 思い出になんてしたくなくても、変わりゆく限り朝は来て。

 明日を迎え続ければ、今日もいつかの春になる。


「ふざけんなっ。忘れてなんか、やるもんか……!」


 少女はえる。一生描いてやる。中学を出ても、高校を出ても、大人になっても、おばあちゃんになっても足りないくらい全力で追いかけてやる。夢とか現実とか、憶えてるとか忘れるとか、そういう話じゃなくなるくらい、一生懸けて描き続けてやる。

 たとえ目や耳が忘れたって、指先の熱までは消えない。全部諦めて思い出にしない限り、この歩みは止まらない。

 勝手に来んな、明日。こっちから行って首根っこつかんでやる。


 まだ白いままのスケッチブックに誓う。昨日よりも絵の上手くなった自分に、変わってやる。変わり続けてやる。来年も、再来年も、ずっと先まで。

 悔し涙は、きっとまだれないだろう。


 ◇


 春、望郷の季節。


「お~、咲いてる咲いてる。見事な夜桜だ」


 月明かりだけが照らす夜の神社に、ふらり立ち寄る女性が一人。

 芽蕗あすな、二十三歳、画家。絵を描く以外の生き方が見つからなかった幸せ者。


「この場所も桜も、変わらないな……」


 遠く離れた都心で生活している今でも、毎年桜の季節には必ずここへ帰ってきていた。

 いつものベンチに座って、この神社の桜を見ると、自分が絵を描き始めるきっかけになった夢のことを思い出して元気が出る。初心、あるいは童心に帰るとでもいうべきか。


(花見酒……は、しばらく自主規制だった……)


 実は先週、開花して間もない日にもあすなはここを覗きに来ていた。その日はなんだか浮かれて飲み過ぎた結果ベンチで朝方まで寝てしまい、見つけてくれた神社の人にこっぴどく怒られた。いい大人なのにあんなに叱られるのはもうごめんだ。


(そもそも毎年ここへ帰ってくるのは、お花見のためじゃないし)


 取り出したのは、色鉛筆とスケッチブック。中学、高校、大学と、絵を学び続ける過程で様々な画材や技法を試してはみたが、結局最後にはここに戻ってきた。

 この季節、この場所、この紙と色鉛筆が、あすなの原点だ。

 決して変化や成長を拒んだわけではなく、春が巡り来るように帰ってきただけ。


「……ただいま」


 なんとなく呟いてみたくなった言葉に、応える夜風と月明かり。



「また迷うたか、人の子よ」



 しゃらり、月無き空に。鈴の転がるような声がした。


「……おお……!?」


 瞬きの間に、世界は姿を変えていた。霞に満ちた、昼も夜もない別世界。

 目の前には、悪戯いたずらっぽく微笑む幼女がひとり。


「きみは……桜の、神様……?」


「わらわは、このとこしえの桜の精じゃ」


 子供の頃から、ずっと変わらない春の夢。果てのない世界と、桜と、幼女。

 どうやら、待ち望んだ夢に今年も会えたらしい。


「……ふむ。たびはさほど酔っておらぬようじゃのう」


「え……ね、ねえ、あたし、前にもここに来てた……? その……酔ってる時」


「ふふっ。さて、どうじゃったかのう。おぬしの方こそ、わらわを憶えておるのか?」


「い、いや憶えてないんだけど……きみがあたしを知ってるってことは、やっぱりそうなんじゃないの……?」


「そのように都合の良い夢をおぬしが見ておるだけかもしれぬぞ? ここは境域、全てが境にして境無き世界。うそと真を隔てる境も、ここには存在せぬ」


「訳がわからん……あたし国語の成績よくないんだって……」


「わらわが正しいと言ったことが、本当に正しいとは限らぬということじゃ。夢の中での真実など、おぬしが決めたいように決めるがよい」


 見た目ばかり幼くとも、目の前の幼女は自分よりずっと聡く、賢く見える。


「……じゃ、一旦来てたとしてさ。その時あたし、このスケッチブックに……、あっ」


 パラパラとめくって、あすなはぎょっと目を見開く。途中の一ページに、乱雑に破り取られたような切れ端だけが残っていた。

 スケッチブックはあすなにとって宝物で、心の一部のように大事にしてきたもの。雑に破り取るなど普段なら絶対にしない。勤勉な読書家がうたた寝で愛読書に折り目をつけてしまったような後ろめたさに、あすなはがっくりとうなだれた。


「……? どうしたのじゃ?」


「あ、いや……あのさ。前に来た時、あたし絵を描いてなかった? ここで絵を描いたなら、絶対にきみに渡してると思うんだ。ほら、ここの切れ端。持ってない?」


「いいや、持っておらぬよ。ここは永久に変わらぬ世界ゆえ、何かが残ることはない」


 神妙な顔は、どうやら本当に心当たりが無さそうな様子だった。


「……そっか。でもまあ、いいか。多分、やることは同じだ」


 この世界に何も残らないというのは、あすなには少しだけ寂しく思えたが……最初から、何かを残すことが目的じゃない。


 描き残すんじゃなくて、描き続けること。

 今日を昨日にするんじゃなくて、明日を迎え続けること。


 ずっと前から、それがあすなの「夢」だ。


「ねえ神様」


「……何じゃ?」


「きみの絵を描かせて」


「ふむ。構わぬぞ」


 スケッチブックをめくり、色鉛筆を手に取る。

 いつ、何歳のあすなだとしても。彼女を前にしたら同じ行動に出るだろう。

 芽蕗あすなという人間にとって、彼女の絵を描くことはもはや呼吸に等しい。頭で意識するまでもない、当たり前の行為。そして指先は、ここでしてきた呼吸を憶えている。


「ねえ、きみは憶えているかどうかわからないし、あたしも思い出せないけど……あたし、きっとずっとこうやってきみの絵を描いてきたんだよ」


「…………」


 スケッチブックの中の少女は、そして目の前に立つ少女は……何も答えない。


「あはは、悔しいなぁ。あたし結構たくさん絵を描いて、上手くなったと思ってたんだけど。まだまだきみがこんなに綺麗なんだってこと、絵に込めるには力不足みたい」


「悔しいというには、あまりに笑顔じゃな」


「そう? 心ん中はメラメラよ。あたしより絵が上手い人なんて大勢いて、あいつらになれたらって気持ちもずっとある。……でも、誰に嫉妬したところで、あたしに描けるのはあたしの絵だけなんだ」


 いつかの青い春にべた悔しさと無力感も、形を変えながら今も燃え続けている。


「それにさ、悔しいってことはまだ変われるってことで。それは嬉しいことだから、素直に笑うようにしたんだよ」


「……変われる……か」


「きみは、ずっと変わらないね。あのおっきな桜と同じで、変わらず綺麗なまま……だからあたしも、ずっと目指し続けていられる」


 変わらなくてよかった。同じ速さで遠ざかっていたら、きっと追いつけないから。


「……わらわは……変われるおぬしが、少し羨ましい」


 ふいにかげった声音に、あすなは思わず顔を上げた。


「この場所も、わらわも、とこしえの桜も、永久に変わらぬ。人は老いるものと知ってはおるが、わらわは老いも朽ちもせぬ。そして境域は変わらぬ世界ゆえ、わらわだけが境域から出ることもできぬ。……おぬしの知る広い人の世。霞無き空。太陽と月。様々なる者との出会い、嫉妬。変わりゆくこと。いずれも、わらわには縁無きものじゃ」


「……だから、羨ましい?」


「わらわも驚いておる。まさか、変わりゆく者を羨むことがあろうとはの。……なに、届かぬと知っておれば、手を伸ばすこともない。わらわはそれを悔しいとは思わぬ。それに……とこしえの桜はこれほどまでに美しい。それだけでわらわは十分なのじゃ」


 振り返って雄大な巨木を見上げる、その背中はほんのちょっと小さく見えた。


「……とこしえの……桜。そっか。散ることもないのか」


「……散る? 桜がか?」


「あ……うん、そうだよ。あたしたちの世界ではね、春の終わりに桜は散って、緑が芽吹いて、紅く染まって、枝を離れて……また春に咲く。そうやって、あたしたちもひとつ年を取る。……少し寂しいけど、本当に綺麗なんだよ。桜が散るのは」


 神様は理解できないという顔で。ぽかんと口を開けたまま桜とあすなとを交互に見る。それがまるで見た目通りの幼子のようで、あすなは少しだけしく思った。


「……そうか。そんな様を一度、見てみたかったものじゃな……」


 永遠を生きる存在には決して触れられない、はかなく変わりゆくからこその美しさ。

 その尊さを想い、焦がれ……永遠の幼子はわずかに顔を曇らせた。


「あーっと、悲しい顔なし! 笑顔でそこにいて。あたしがちゃんと描いたげるから」


「……そうじゃな。すまぬ」


「謝るのもなし! ……そうだなぁ。こうしよっか?」


 あすなは大人ぶって柔らかい笑みを向け、再び絵筆を動かしていく。


「きみは、変わらずずっと綺麗なままで。ひょっとしたら、変われることが羨ましいのかもしれない。……だったらそれは、あたしが叶えるよ」


「……どうやってじゃ?」


「絵だよ。あたしの、この絵。あたしの画力、まだまだ成長し続けてるからさ。今のあたしは去年よりずっと絵が上手くなったし、来年も今よりずっと上手くなってるんだよ」


 他の誰に認められても、あすなの熱は満足しない。

 出会うたび、新しく彼女の夢を見て、新しい自分を夢に見る。


「毎年、新しいあたしが新しくきみを描いてあげる。二度と同じきみにはならない。そうすればほら。その絵の中でなら、きみも『変わりゆく者』になれるじゃん!」


「……っ、本当に……?」


「本当だよ。だってこの世界の本当は、あたしが決めたいように決めていいんでしょ?」


「……しかし、絵は……ここには、残らぬ」


「あたしの中にずっっっっっっと残る! だって今も指先が憶えてるよ。昨日描いたきみを。今描けるきみを。明日描くきみを。いつか届くきみを!」


 桜のように散って、夢のように忘れてしまっても、色無き色は重なって。絵は一枚も残らなくても、真っ白に塗られたスケッチブックがその手に残る。


「それじゃダメ?」


「……ダメではない」


 その言葉で、ようやく小さな笑顔が花開く。


「よかった。……その顔が見たかったんだ、みちる」


 仕上がった絵に「みちるへ あすなより」と書き添えたところでふと気づく。


「……『みちる』? 何でそう呼んでるんだっけ。今、サイン書く時に自然とそう書いてたから……これがきみの名前、なんだよね?」


「……自由に呼んでおくれ。おぬしがそう呼びたいのなら」


「おぬしじゃなくて、あすなだよ」


 互いの名を記した絵を、丁寧に切り取って手渡す。みちるもそれを笑顔で受け取った。


「何度忘れても、何度だってここに来るよ。今までもきっと、そうしてこれたから」


 晴れやかな顔に反するように、境域に霞が満ち、別れの時を告げる。


「また会おうね、みちる」


「……うむ。また会おう、あすな」


 互いに、憶えていられなくても構わない再会の約束を交わして。



 春の夜風が吹き抜けて、あすなは目を開く。そこは夜桜映える、月下の境内。


「……帰ろう」


 何も憶えていないけれど、帰るのは寂しくない。だってまた戻って来られる。

 同じ春は二度と来ない。過ぎ去った時も戻らない。だからこそ、色せることもない。


「また来るからね、桜」


 今年もまた、花が舞い、春が往く。

 また次の春を迎えるために、変わりゆく者は明日へと進む。


 ◇


 それから、一体いくつの春が巡っただろうか。

 お花見日和の暖かな昼下がり。桜舞う永咲神社の境内に、スケッチブックを手にした老女がひとり。その足取りはゆったりと、まとう雰囲気はほんわかと、しゆんぷうたいとうたる様相。


 彼女は世界的な画家として名をせた女性。幼少から天才性を見せたわけでも、奇抜な独創性に富んだわけでもない、ただ世界と自分に正直で居続けただけの愚直な写実画家。

 そんな彼女が、毎年桜の季節になると必ず「お花見休暇」と称して故郷の神社の近くで過ごすことは、ファンや同業者の間では常識だった。


「……ああ、いい香り。間に合ってよかったわ」


 身体からだの具合などもあって満開時期には少し遅れてしまったが、それでも散る直前にどうにか来ることができた。今年もまた、あのベンチで「お花見」ができそうだ。

 お花見といっても、彼女の目は、実はほとんど見えていない。だが、香る風の柔らかさに、注ぐ日の暖かさに、包む空気の優しさに、春を見る。

 近頃はふとした物忘れも増えてきたが、一番大切なものはまだ思い出にはしていない。


 遠くで聞こえる花見客の賑わい。桜木立に沿って渡る風の声。いつか誰かに名前を聞いた鳥の歌。何もかもが懐かしい四月の協奏曲に誘われ、老女は特等席へと招待される。

 ベンチに腰掛け、耳を澄ますと、霞がかったように音が遠のいていき。


「……そろそろ、春霞が満ちる頃なのかしら」


 誰に聞いたとも憶えていない言葉を、心のままに呟く。



「迷うたか、人の子よ」



 しゃらり、夢路のはてに。鈴の転がるような声がした。


「いいえ、迷わず来られたわ」


 見えずとも、声のした方に向き直り、幼子のような小さい影へと老女は笑いかける。


「……驚かぬのか」


「ふふっ、どうかしら。なんだかあなたとは、初めましてじゃなさそうで。何度も会ったことがある気がするの。永い永い、夢の中で」


 霞の向こうにぼやける桜へと歩み寄り、根に寄りかかるように老女は腰を下ろす。


「ねえ、桜の神様。あなたを描いてもいいかしら」


 手にしたスケッチブックを開き、何度口にしたか憶えていない言葉をまた紡いだ。


「構わぬ……が、見えておるのか?」


「見えなくても、描けるわ。指先が全部憶えているもの」


 老女は穏やかに笑い、すっかり握力の弱まった手で鉛筆を持つ。

 ひとつひとつ、ゆっくりと線を重ねる。輪郭のない世界に、境を刻むように。

 彼女の筆遣いは、実にゆったりとしたものだった。ともすれば、すぐに別れの頃を迎えてしまいそうなくらいに。そんな憂慮とは裏腹に、老女は満面の笑みで手を動かす。


「楽しい。あたし今、初めて絵を描いた日みたいに、何もかもが新鮮で楽しいわ……」


 静かな時間が過ぎていく。ずっと、何も起こらない。

 どれだけ経っても、霞が……「その時」が満ちない。

 まるで境域が……世界が、彼女の絵の「完成」を待っているかのように。


「……のう、人の子よ」


「ふふっ。人の子だなんて年かしらね。なあに、神様?」


「……いや、何でもない。それとわらわは……神ではない」


 桜の神様、そう呼ばれた彼女は、それだけ伝えて口をつぐんだ。

 それきり互いに何も話さず、ただゆっくりと紙をなぞる鉛筆の音だけが響き続けた。



 どれだけ経っただろうか。永遠にも似た静寂に、穏やかな声がぽつり落ちる。


「……ああ。ああ。できたわ」


 一枚の絵が、完成した。ほとんど目の見えない彼女の指先がずっと憶えていた数十年分の夢をなぞり……彼女の夢は、今ここに叶った。


「受け取って。みちるちゃん」


「……みちる」


「夢で何度も呼んだ名前なの。あなたのことよ」


 手渡された絵を、一本の鉛筆から描き出された輪郭の集合を、まじまじと見つめる。


「……これが、わらわか」


 紙を握る小さな手に力が篭る。


「……感謝する、人の子よ。大切にする」


 境域は、変わらぬ世界。外の世界から何かが持ち込まれても残ることはない。

 老女が去れば、絵はおそらくこの手から消えてしまう。

 それでもみちるは、受け取った絵を、宝物を。胸元に抱え、微笑んだ。


「さて。それじゃ、そろそろいこうかしら」


 老女はみちるの横を通り過ぎ、静かな足取りで……訪れたのと逆の方へ歩き始めた。

「……? お、おい。へ行くのじゃ?」


 慌てて呼び止めるも、その歩みは止まらない。彼女の生き様そのもののように。


「ありがとうね、みちるちゃん。あなたのおかげで、ずっとずっと描きたかった絵が、ついに完成した。ようやく……叶えられたの」


 老女は、これまで何度も境域に来た。けれど一度も桜の向こう側には行かなかった。

 まだみちるを描き終えていなかったから。

 終わりじゃないから、悔しいまま境域から帰らされて、また次の春に戻ってきた。

 ついに完成した一枚をみちるに託した彼女は今、境域を自ら後にしようとしている。


「ま、待つのじゃ。そっちへ行ったら……」


 引き留めようと伸ばしたみちるの手が、見えない壁に阻まれる。


「…………っ!? な、何じゃ、これは……!?」


 それは、境域の結界。

 あるはずがないと思っていた、内と外との境。

 みちるは、人世でも神世でもない、境域に縛られた桜の精。とこしえの桜を離れることは叶わず、来る者にも去る者にも干渉できず、永久に変わらぬ春を繰り返すだけの存在。

 変わらない者が、自ら境域の姿を変えることは許されない。


「ま……待ってくれ……」


 届かぬと知っても、なお手を伸ばす。


「本当にありがとう。あなたのおかげで、ずっと素敵な……夢のような人生だったわ」


 無力な桜の精に、彼女は……春が往くような笑顔で、無邪気に別れを告げた。


「またね、みちるちゃん」


 春霞にぼやけて消えていく姿は、どうしてか。

 自分と同じくらいの、幼子に見えた。



 霞の向こうに消えた彼女を見送り、みちるは力無く立ち尽くしていた。


「………………」


 最後に彼女の名前でも呼んでいれば、何か変わっただろうか。


「……名前……?」


 彼女の名前を、みちるは知らない。

 境域には、何も残らない。ただ一枚の絵も、も。


 みちるは人の世で春が過ぎ、桜が散る度にすべてを……「みちる」の名さえも忘れて眠り、また桜の咲く頃に目覚め、変わらぬ春を永遠に繰り返す存在となっていた。

 みちるの中に去年の春の記憶が残ると、境域に一年分の時が流れてしまい、とこしえの桜も一年老いる。繰り返せばやがて桜は枯れ朽ちる。

 ゆえに悠久不変を保つため。境域は変わりゆく者を追い返し、みちるを「永遠」の中に閉じ込め続けてきた。


「……何も。……思い出せぬ……」


 訪れた者の名前すらも。永遠を生きる者の記憶になど、

 みちるの心にはひとひらの春も降り積もることなく、永遠に、満ちることはない。


 そのはずだった。


「…………? 何故……」


 何故、彼女が境域を去っても……この手に、絵が残っている?


 みちるは目を凝らし、紙の隅に小さく記されていた言葉を読み上げる。


「……みちるへ」


 確かな筆致で記された、それは名前。


「……あすな、より……」


 その名前を呟いた瞬間。


「……何じゃ」


 みちるの中で永遠に満ちるはずのなかったものが、満ちて。


「この水は、何じゃ……?」


 決壊し、溢れ出した。


 そうだ。これは涙。確かに教えてもらった。憶えている。思い出した。


「あすな」


 あすなに、教えてもらった。


「あすな。あすな。あすな……!」


 何度も、何度も、口にする。


 そのたびに、一枚。また一枚と。


 決して散るはずのなかった、とこしえの桜の花びらが落ち。


「……っ、あすな……!」


 みちるの手に触れると、淡い光に包まれて、スケッチブックの紙片へと変わった。


 かつてあすなが描いてくれた、みちるの絵に。


 全部ここに残っていた。ただの一枚も無くなってなどいなかった。


 あすなはずっと、ここで絵を描いていた。


「あすな……あすな……っ!」


 ひとつ、またひとつ。見送ってきた春を遡るように、失くした記憶を辿っていく。


『あたしの中にずっっっっっっと残る!』

 みちるを変わりゆく者にすると、約束してくれた春。


『今のあたしは、今のみちるを描かなきゃなの!』

 焦燥に突き動かされ、涙と激情をぶつけてくれた春。


『それでもあたし、みちるちゃんの絵をかきたい』

 真っ白な心を、白いまま手渡してくれた春。


 ずっと同じ春を、変わらぬ今を繰り返すだけの存在だったみちるは、ひとつひとつの絵の中で、全く違うその時の自分だった。


 あすなの絵の中でだけはずっと、みちるは明日を迎え続けてきた。


「……っ、あす、な……」


 でも、あすなは、もういない。届かないところに往ってしまった。


 みちるの絵は終に完成し、もう二度と変わりゆくことはない。


 次の春になっても、もうあすなはここへは戻らない。


「……いやだ……」


 最後の一枚が、みちるのちいさな手のひらに舞い降りる。


『またね、みちるちゃんっ!』


 初めて出会った日。一番最初の、完成さえしていない幼く未熟な絵。


 けれど未来への可能性に満ち溢れた、憧れの絵。


「……あすな……」


 もう一度。またいつかじゃなくて、もう一度。


「……もう一度、あすなに会いたい……」


 それは、みちるが初めて心の底から望んだ明日みらい


 その想いに、呼応するようにして。


「…………っ!?」


 境域が、世界が揺れる。

 みちるをとこしえの桜に縛り続けてきた永遠という鎖は、あすなの絵で砕け。永遠に散るはずのなかった花が散って。ずっと止まっていた境域の時間は、今まさに動き出した。


 霞が満ち、春が終わる。永遠の春が。


 そして……夢にまで見た、明日を迎える。



 気がつくと、みちるの身体は別の世界にあった。


「……っ、ここは……?」


 境域ではなかった。見える世界に果てがある。

 空にははげしい光。木で組まれた温かな椅子。水に沈んでいない土。流れゆく空気に乗って、宙を躍る花弁。


 知らずとも、全てが懐かしい。ここがあすなの生きた、人間の世界。


「……これが、桜の散る様……」


 何と綺麗な光景だろう。かつては永遠に咲き続ける桜こそが美しさの完成形だと思っていたみちるは、初めて目にする春の終わりに感動した。


 風に乗り流れてきた花弁のひとひらを、思わず目で追いかける。


「…………!」


 その舞い降りた先、ベンチに座るみちるの隣に、一冊のスケッチブックが置かれていた。


 手に取った瞬間、言い知れぬいとおしさが溢れてきて。

 みちるは微笑みながら、また涙を流した。


 かつてあすなの語った通り、この世界では花が舞い、春が往く。

 夏が来て、秋が来て、冬が来て……明日を迎え、また次の春が来る。

 そしてきっと、みちるはひとつ年を数える。


 境域ととこしえの桜から解き放たれ、みちるは「変わりゆく者」となった。

 明日を迎え続ければ、いつかの春に。またあすなに会いに行ける、そんな気がする。


「……その時になったら、教えてやらねば」


 悔しい時でなくとも、涙は流れると。


 遠くから、幾多の人の声が聴こえる。

 柔らかな花風が通り抜け、優しく涙を吹き払う。


「また会おう、あすな」


 春色の空を見上げたみちるの顔は晴れやかで。

 年相応の童女のように、無邪気だった。

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春霞満ちる頃、永遠と明日の夢を見る【第3回 MF文庫J evo参加作品】 林 星悟/MF文庫J編集部 @mfbunkoj

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