たびんちゅぬふぃかり

白里りこ

旅人ぬ光


 ガマの中には明かりが一切存在しない。

 沖縄の昼日中の目もあやな日差しも、夜中に米軍が打ち上げる照明弾も、この空間を照らすことはない。

 見えるのは真っ黒い闇だけだ。


 地上戦を逃れて森の中を彷徨っていた時、わたしはこのガマを見つけた。狭い入り口を這うようにして進んだ先にある、ぽっかりとできた鍾乳洞の空間。自然が作り出した防空壕。

 何とか降り立ったは良いものの、暗すぎて何も見えなかった。目を開けても閉じても変わらないくらい。

 でもここには既にたくさんの人が隠れ住んでいるのが分かった。多くの人の気配がしたし、嫌な匂いが充満している。そのくせ不気味なほどに静まり返っていた。誰も一言も発さない。今にも米兵に見つかるのではないかと怯えて、みんな息を潜めているのだ。

 水音がする。ガマを流れる水と、手持ちのさつま芋だけで、何日もちこたえられるか。

 わたしは手探りで壁を伝って移動した。もう何日も歩き通しだったから、いいかげん休みたかった。

 ガマの奥の方と思しき場所まで来ると、付近に座っていた大人の人が、少しずれて場所を空けてくれた。わたしはありがたく壁に背中を預けて座り込み、そっと息を吐き出した。


 やがて、ふえぇ、とどこからか赤ちゃんの泣き声がした。ふえぇ、ふえぇ、ふえぇ。

「こら」

 と、小さな低い声。口調からして、兵隊さん。兵隊さんたちもここに隠れているのか。

「うるさいぞ。今すぐ赤ん坊を黙らせろ。敵に見つかる」

 無茶なことを言う。赤ちゃんは赤ちゃんなのだから、泣き止むはずもない。

 ふえぇ、ふえぇ、ふえぇ。

「黙らせろと言っているだろう」

 兵隊さんが泣き声を頼りに、壁伝いに移動している音が聞こえた。

「ほら、そいつを寄越せ」

「すみません、今すぐ泣き止ませますんで、ご勘弁を。どうか」

「口答えするな」

 バキッと嫌な音がして、赤ちゃんの声はぴたりと途絶えた。母親らしき人が息を呑み、声を立てずに泣き出した。

 わたしは何も思わなかった。わたしにとって死とは、もはや当たり前の日常に過ぎなかった。


 ここへ来る前、家族で逃げ惑っている間に、両親と幼い弟は爆死した。

 死ぬ直前、お父さんは大きな荷物を持って、お母さんは弟を抱っこして、走って逃げていた。わたしも懸命に走っていたけれど、なかなか前を行く三人に追いつけずに、だんだんと距離が開いていた。そのせいで、わたしだけ五体満足で生き残った。

 わたしは、お父さんの荷物の中から、無事だった芋をいくつか掻っ攫って、一人で森の中に逃げた。森の中なら、爆撃で穴だらけになった平らな地形より、いくらかましだと思った。


 お父さんもお母さんも昭夫も、さっき兵隊さんに殺された赤ちゃんも、ひと足先にニライカナイへ旅立ったんだ。

 東の海の果てにあるという楽土。そこには恐怖も飢餓も爆弾も無い。このガマとは違って、柔らかい陽光に包まれている。青く澄んだ海と、花咲く緑の島の中で、楽しく遊んでいられる。きっとそうだ。

 わたしはニライカナイの夢を見ながら、少し眠った。


 とさり、と何かが膝の上に倒れてきたので、わたしは目を覚ました。

 それは冷たく固まった人間の死体だった。わたしの左隣にいた大人の人。わたしよりうんと大きいのに、体重が異様に軽い。何日もの間なにも食べていなかったのだろう。それなのに、わたしのために場所を空けてくれた。

 この人もニライカナイへ旅立った。

 わたしは右隣の人と協力して、でこぼこしたガマの地面にけつまずきながら、その人を死体置き場まで引きずっていった。たぶんそういう区画が存在するであろうことは、匂いで察していた。わたしたちが手を離した時に遺体の手足が力無く地に落ちる音は、弱々しく儚いものだった。

 わたしもいずれ芋が無くなったら、ああいう風に打ち捨てられるのだろうか、と考えたが、そのことについて何の感慨も湧かなかった。わたしはまた座れる場所まで手探りで戻って行った。


 ガマの中の数十人の人々は、こんな黒闇の中にあっても、ひたすらに死を恐れているように感じた。

 でもわたしにとってガマの闇は虚無であり、どうしようもない無力感を突きつけてくるものだった。わたしが死ぬことを考えるようになるまで、そう時はかからなかった。

 わたしだってできることなら生きていたかったけれど、今となっては別にもうどうでもいいような気がし始めていた。

 わたしが好きだった沖縄はもうここには無い。焼けこげた不毛の大地が広がっているだけ。わたしが愛した人ももういない。親戚は全滅したし、知り合いは行方も生死も分からない。

 どうしてわたしだけ生き残る必要がある?

 本当に、どうしてわたしは、わざわざ森に逃れて、ガマにもぐりこんでまで、こんなふうに呼吸を続けているんだろう?

 目の前の真っ暗闇に向かって問いかけた。答えは返ってこない。だからわたしは一人でぐるぐる考える。

 この先わたしが生きていて、何か一つでも良いことがあるだろうか。もうこんな苦しくて寂しいことはやめにして、さっさとニライカナイへの旅に出た方が、よっぽど楽だと思う。そうしたら家族にもまた会える。


 とはいえ、せっかく授かった命なのだから、有意義に使うべきだと思う。「ぬちどぅ宝」って言うし。

 ここには誰か、子どもはいるだろうか。昭夫くらいの年齢の、お腹を空かせた子どもが。そうしたら持っている芋を全部あげてしまいたかった。

 でも相変わらずガマの闇は何も教えてはくれなかったから、わたしは右隣の人の袖を引っ張って、芋の入った袋を手渡した。その人は無言で中身を調べると、そっくりそのまま袋をわたしに返した。それでも私が袋を押し付けると、その人は袋の中から一つだけ芋を取り出して、残り全部をやっぱり私に返した。

 どうせわたしは死ぬのに。ほんの少しだけ寿命を引き延ばすことに、一体何の意味がある? その前に戦争が終わるとでも?

 それでも、外に出て米兵に会うのはちょっとこわかったから、わたしはガマに居座り続けた。

 芋を食べることはなく、水だけを飲んで残りの日々を過ごした。わたしが死んだら、さすがに芋は誰かの手に渡るだろうから。

 空腹は感じなかった。ただただ無為に時が過ぎるのを、座り込んで待っていた。


 十日ほどが経過したころ、新しく兵隊さんがガマの中に入ってきた。ここでは時間が分からないから、多分それくらいだろうというだけだけれど。

 兵隊さんたちはごにょごにょと早口で何か話し合った。

 しばらくして、一人の兵隊さんがこちらに向かって話しかけた。いや、正確には、声の通る方向が少しずれていた。ガマが暗すぎて、わたしたちがどこにいるのか分からなかったのだろう。


「沖縄での戦闘において、日本軍は敗北した」

 兵隊さんは言った。

「じきに米兵がここに来る。皇国民たるもの、捕虜となる辱めを受けることも、むざむざと敵に殺されることも許されん。貴様らには誉れある自決を命ずる。誰ぞ、ここまで手榴弾を取りに来い。皆でひとかたまりになり、米兵が来たら信管を抜け。良いな」


 何だ、もう終わったのか。そしてあっさり死ねるのか。

 ガマの中の誰も助からないことや、結局このぬちが無駄になってしまうことは、少し残念だったけれど。でもまあ、もういいや。

 ガマに潜んでいた数十人の島人しまんちゅたちは、啜り泣いたり、嘆いたり、色んな反応を示した。

 誰も兵隊さんのところに手榴弾を取りに行かなかったので、私は声と壁を頼りに歩いて行って、兵隊さんの腕を引っ張り、手榴弾を受け取った。丸くてごつごつしたその爆弾を、わたしはぺたぺたと触って、信管とやらがどこにあるのか確認した。


 それからまた一日くらいが経ったように思う。兵隊さんたちはいつの間にか、一人を残してガマから出てどこかに行っていた。そしてガマの入口の方から、英語らしき声が聞こえてきた。

「来たぞ! 行け! 臆するな! 逃げた者はおれが殺す!」

 残っていた兵隊さんがわたしたちを鼓舞した。

 わたしたちガマの中の島人しまんちゅは、わたしを中心に寄り集まって、がっちりと塊になった。震えている人もいたし、泣いている人もいた。

 わたしは躊躇なく、爆弾についた小さな信管を引っ張り抜いて投げ捨てた。

 ぎゅっ、と祈るように手榴弾を握って、やや高めに掲げる。

 その時どうやらわたしは目を開けていたらしい。数秒後、手の中がカッと一瞬輝いて、ガマの中がすっかり照らされたように見えた。


 これでわたしは、わたしたちは、ニライカナイに行ける。周囲の人々をまとめて消し飛ばすこの爆発は、わたしたち旅人たびんちゅを楽園へといざなう鮮烈なふぃかりなのだ。



 おわり

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たびんちゅぬふぃかり 白里りこ @Tomaten

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