深海の花は月を抱く

悠井すみれ

● ●

 深海が闇の世界だ、などというのは愚かな陸の者ニンゲンたちの思い違いだ。太陽の輝きは遠くとも、深海には自ら光を放つ者たちで溢れている。

 捕食のため、求愛のため、身を守るため。奇怪な姿をした深海の住人たちは、様々な理由で光を操る。青、緑、赤と色とりどりに、あるいは眩く、あるいはほの白く。深海に閃く光の多彩さは、地上の星や人の街の輝きにも劣らないだろう。


 深い海の底で咲く光のひとつが、彼女だった。

 闇に紛れる半透明の髪の先に備わるのは、微生物をまわせた発光器エスカ。微生物は自ら光を放ち、ふわふわと髪が揺蕩たゆたうのに従って発光器が揺れる様は、地上の花が風にそよぐのにも少し似ている。水底の花畑とも呼ぶべき幻想の風景を作り出す、彼女は──提灯鮟鱇チョウチンアンコウの、人魚。


 人魚と言えば波間に戯れ美しい声で歌うもの、というのもまた、ニンゲンの浅はかな考えでしかないということだった。深海には深海の人魚がいるし、浅瀬の同種とは違った種類の美と洗練された生態を持っている。


 形状の尾ひれは、ニンゲンなら醜悪だの鈍重だの言うかもしれないが、発光器を使ったの狩りをするからこそ。漆黒の肌は、太陽のない世界で姿を隠すにも、逆に発光器を目立たせるにも都合が良い。

 そして、腹部や下肢や豊かな乳房に取りついたオスたちは、彼女が誇る装飾品、成熟した強く美しいメスである証明。彼女の光を頼りに辿り着き、小さな口で噛みついた後は同化して彼女の一部となった雄たちは、彼女から供給される栄養なしでは生きて行けない、か弱く可愛くいじらしい存在だった。




 彼女の日々は、おおむねいつも変わらない。太陽の巡りによって時を測ることができない深海のこと、を問わずに水中を漂い、発光器を光らせ、誘われた獲物を手づかみして喰らう──その繰り返し。手遊てすさびに、身体にぶら下げた雄たちをしごいて吐精させたりもする。彼女たちの種は、そうやってえる。


 あとは──どこまでも続く重い闇の彼方から、来客が訪れることも、ある。

 細かな塵や生物の死体、その欠片、排泄物が、地上で言うところの雪のように静かに降り注ぐ。彼女の光が照らし出す、白い──そう、やはり深海は闇だけの世界ではない──紗を潜るように現れる、青白いふたつの円い輝き。

 深海に馴染んだ弱い視力が捉えるその輝きを、彼女はこう認識している。


 ああ、月がやって来る。


 彼女にとって、地上の知識は、浅瀬と深海を行き来する者から伝え聞くだけの、ごくふんわりとしたものだった。だから本物の月は満ち欠けするものだということも、夜空に輝くのはただひとつだということも知らない。ただ、ひと際美しく輝くその円を月、と呼ぶのだった。


 それは、輝板タペタムを備えた一対の眼。彼女の知らない猫という種と同じ理屈で、わずかな光でもよく輝く。眼窩がんかいっぱいに収めた大きな光る眼を笑ませ、黒い肢体をくねらせて彼女に近づいてくるのは──夢鮫ユメザメの人魚だった。


 彼女と夢鮫とは、同じ海域に棲む顔見知りのようなものだった。互いを互いの獲物にすることもなく、けれど種の違いゆえに群れることもなく。ただ、並みの魚よりは知性があって、相手の光に見蕩れる感性は持っているから、互いに認識している、というていどの。少なくとも、彼女のほうではそう考えていた。


 夢鮫のほうでも同じなのかどうかは、分からなかったけれど。


 夢鮫の人魚は、彼女の感性からすると少々距離感が近かった。

 ふたつの青白い月は、限りなく彼女に近づいて来る。彼女の発光器と、それを反射する夢鮫の眼。ふたつの輝きに照らし出されて、夢鮫の人魚は彼女の眼前でにこり、と笑う。

 漆黒の指が伸ばされて、花を愛でるように彼女の髪を梳き、発光器をいらう。掌が彼女の頬を包み、弧を描く唇が鎖骨に口づけて、乳房に軽く噛みついたりもする。鮫特有の、口中にずらりと並んだ牙が肌に触れる感覚は、深海の寒さよりもなお彼女の芯をざわつかせる。


 ただ、敵意はないようだからまあ良いか、というのが彼女の判断だった。月を間近に眺めるのは楽しかったし、鮫の感情表現が鮟鱇に分からないのは致し方ない。獲物と間違えているのかどうか、雄には少々強めに歯を立てているようなのは止めて欲しいと思ったけれど、逃げたり追い払ったりするほどの迷惑や脅威ではない。


 闇の海に降る白い雪、餌と雄。様々に妖しい光。その中で、際立って輝く青い月──だから、彼女の世界はそれくらいでできていた。




 その日のは、いつもの輝きが褪せていた。近づいてくるのものろかったから、彼女は発光器が連なる髪を苛立たしく弄りながら夢鮫の訪れを待っていた。彼女の尾ひれは遊泳には向かない。


 彼女は視力もあまり良くない。だから気付くのが遅れた。種の違いゆえに、鮫の泳ぎ方を気にしたことがなかったのも理由だった。血の臭いも感じなかったのは不覚というものだっただろうけれど、それほどに彼女は月に似た輝きに心を奪われていた。


 夢鮫の人魚は、胴の半ばから食いちぎられていた。尾ひれを失って、誤って沈んだニンゲンのような姿になって、深海には不似合いな五指の手でどうにか水を掻いて彼女に辿り着いたのだ。

 何に襲われたか、は気にしても仕方のないことだった。海には人魚をも捕食する存在がいくらでもいる。月が、夢鮫が姿を見せなくなったとしても、彼女はか、と大人しく納得していただろう。でも、こんな姿を見てしまうとそうはいかない。


 彼女の動揺と驚きは、夢鮫の濁り始めた眼にも映ったようだった。円く大きい眼が満足そうに細められて、これもまた彼女が知らない三日月に似た形になる。

 口から溢れる血で海水をわずかに淀ませて、夢鮫の唇も三日月を形作った。身を守るには足りなかったらしい牙が剥かれて、彼女の首筋に突き立てられる。初めて身の危険を感じるほどの、強い意志と力でもって噛みつかれて──けれど、それまでだった。


 彼女の首をくわえた格好で、夢鮫の人魚は息絶えた。輝きの失せたふたつのを見下ろして、彼女は何となく、そしてようやく悟る。


 わたしとひとつになりたかったのか。雄どもが羨ましくて妬ましかったのか。


 夢鮫は雌だったし、そもそも彼女たちは種が違う。噛みついたところで同化することはできないだろうに。愚かで荒唐無稽な願望に、気付けなくても無理もないというものだろう。相手だって、分かっていたはず。理解されようとも思っていなかったはず。

 でも、最後の最期に、月を覗き込んでしまったから。彼女の発光器の光を受けた、今際の輝きを見てしまったから。




 鈍重な尾ひれを動かして、発光器の光を周囲にはべらせて、彼女は深海をのったりと移動している。

 片手に夢鮫の上体を抱いて。もう片方の手で、身体にいくつもぶら下げた雄どもを、ちぎっては後ろに捨てながら。意識というものがあるかどうかも分からない雄どもは、しばし水中を漂っては何かしらの捕食者に呑み込まれていく。

 同化しているものを無理やりにむしったことで、彼女の身体も流血している。夢鮫の死体といい、血の臭いは危険を惹き寄せてしまうだろう。──だから、急がなければ。


 最後の雄を放り捨てた後、彼女は夢鮫の死体に唇を寄せた。まずは胴体のちぎれたところから、みんなみんな食べてしまおう。雌同士、種族を違える者同士、生殖はできなくても。そうしてひとつになることはできる。


 これはすべて、わたしのものだ。


 夢鮫を食った栄養を、雄どもに渡してなるものか。だからみんな捨ててやった。尾ひれが失われていたのは惜しいけれど、その分、残ったところは誰にもひと口も渡さない。


 泳ぎながらも少しずつ食べ進めて──最後に残ったのはふたつの眼球だった。くり抜いてしまうと、あの輝きの面影はなく、ただの生き物の死体、その一部でしかなかった。

 少し考えてから、彼女は夢鮫の眼球を丸ごと呑み込んだ。ごくり、ごくり。そうして、唇を舐めて満たされた腹を両手で抱く。


 腹の底では、あの青白い月が輝き続けているだろう。

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