第二話 いわれなき 呪いの絵画
その日ビルギット主任は珍しく休暇をとって、帝国アカデミー主催のサロン会場を訪れていた。
「アカデミー」とは古くからG国の画壇をとり仕切っている学術機関の名だ。学芸員への免許の発行・更新もこのアカデミーの認可が必要だし、優れた芸術家を輩出すべく講義や指導も行っている……いわば美術界の最高権威、厄介なご意見番、守るべき美の規律規範……簡潔に述べればお偉いさんの巣窟であった。
アカデミーとは芸術を測る物差しそのもの。どんなに実績のある芸術家や学芸員であろうと、アカデミーに一度さからえばその時点で将来の道は閉ざされ、路頭に迷うしかないと言われていた。
そんな恐ろしい連中が主催する「サロン」とは? いわば「国家のお墨付き」超一流展覧会の俗称であった。ここに出展を許された絵画は全てアカデミーにその価値を認められた比類なき芸術作品のみ。後の時代を担うであろう超エリートだけが立つ事を許された夢のヒノキ舞台というわけだ。まさに展覧会の中の展覧会。そんなサロン会場では作品の売買も行われ、国内でもっとも高値の取引が成立するのは此処だと言われていた。なんでも王侯貴族や、芸能人が絵を購入する事さえもあるのだとか。
さてさて!
では、そんなスーパーエリート展覧会を目にしたビルギット主任の感想やいかに?
―― 古臭い。古色蒼然としている。いつもの事だけど挑戦する気概というものをまるで感じない。生きた化石もいい所。これならウチの企画展の方がマシね。
残念ながらアカデミーは新古典主義の流れを依怙地に守り続ける団体でもあった。
これは単純に言えばギリシアローマ時代の芸術作品をひたすらに神聖視して、大昔のやり方や美学を頑固に守り続けるというもの。
考え方としてはルネサンスに近い。
ギリシアの彫刻=ジョジョ立ちスゲー!な人達であった。
宗教画が絶対視される時代に一石を投じるという意味では、新古典主義の復古運動もそれなりに有意義だったのだが、こうも変わり映えしないとヨーロッパは古代ギリシアスゲーをいつまで続ける気ですかと訊きたくなってしまう。
そんな愚痴を聞かれでもしたら学芸員の免許を失効されかねないので、実際は少し眉をひそめただけであったが。
恩師への挨拶と義理を果たす為だけに会場を訪れたものの、変化の乏しいサロンの息苦しさには辟易させられるのだった。今日はプライベート、鹿鳴館へダンスを踊りに行く貴婦人のような暑苦しい恰好をしているのだ。こんなドレス姿ではいくら主任でもお世辞を述べて場の空気を誤魔化すのがせいぜいだ。
―― ヴァァ――、ヤダヤダ。何か気分転換を図れる物はないのかしら?
そんな主任の願いが天に通じでもしたのか重々しく樫の扉が開き、広間の奥から警備員に拘束された男が現れたではないか。
―― おっ、何かトラブルね!?
ビルギットが目を輝かせながら見ていると、拘束された男は悪態をつきながらサロン会場の外までつまみ出されようとしている。これ幸い、物陰でこっそり彼から事情を聴収するぐらいなら免許失効の心配をせずともすむだろう。表に放り出されて尚も納得のいかない様子の男の袖をさりげなく引っ張って、ビルギットは裏路地に男を連れ込んだ。ここならアカデミーの人目を気にせずともすむ、一安心。
「貴方、サロンのお偉いさんともめていたようだけど、何があったの?」
「ああ、私ファン・ホゥと申します。画家です。一応」
ファンはドワーフのような口ひげとアゴヒゲをたたえたアジア系の男だった。
着ているのはツギハギだらけのコートと乾いた絵の具がこびりついたズボン。一目で職業の判る服装であった。ビルギットは慎重に言葉を選んだ。
「画家がアカデミーのサロンに抗議なんて、それが何を意味するか判ってるの」
「モチロン、ですがこれは仕方ない事なのです。批判は覚悟の上。なんせサロンに一時は出展が認められたはずのワタクシの絵が、実際に足を運んでみたらどこにも飾られていないのですから」
「サロンの出展が取り消された? 画家に断りもなく?」
「ええ、それで抗議していたのですが、取り付くシマもなくて」
「理由は何?」
「それが良く分からないのです。それを話したらコチラの正気を疑われてしまうとか、何とか……?」
「正気を? ああ、成程。ピーンときたわ。オカルト絡みね、それは」
ファンは寝耳に水といった様子で、立ち尽くしていた。
無理もない、自分の描いた絵が突然呪いのアイテム扱いされたのだから。
「お、オカルト? 私の絵が呪われているとでも」
「サロンの言い分だとそんな感じね。出展を強硬したら悪い事が起きかねない。なので……」
「なので取り消しですか? 信じられない。まったく心当たりがない。ただの風景画ですよ、あれは。サロンに出展が認められたといっても所詮Dクラス。目立たぬ場所にちょいと飾られるだけです。なのに、それすらも許せないなんて」
「私に言われてもねぇ。ただ、何とか出来そうな心当たりならあるのだけど」
ビルギット主任は微笑んで名刺を差し出した。
「あんなサロンよりもウチの美術館に来なさいな、悪いようにはしないから」
サロンに作品を出せるほどの画家なら、助けておいて損はない。
将来よいコネになる。主任の脳内コンピューターが素早く計算を完了させた。
解決のアテ? それならば何も問題はない。
難題を丸投げする為に有能な部下というものは居るのだから。
「それで問題の絵を預かってきちゃったんですか? ウチはお祓い屋じゃありませんよ。何でもかんでも安請け合いしないで下さい」
「その眼鏡があれば霊的な存在も見えるのでしょう? 貴方ならやれるわ」
「まったくもう、何でもかんでも『将来コネになる』で引き受けちゃうんですから」
テルク・シノエ美術館、夕刻。いつもの主任学芸員室にて。
いつもの二人は顔を合わせれば今日も口論を始めてしまうのだった。
そして両者の前にはイーゼルにセットされた一枚の油絵があった。
アンドレアスはメガネを指で押し上げながら、その絵を一瞥した。
「それで、これがそのお土産ですか。出展取り消しで絵が行方不明かと思いきや、なんとか見つかったんだ」
「アカデミーの倉庫で埃被っていたわ、案の定というべきか」
「どれ、どんな絵か……ってコレ、まんまゴッホの絵じゃないですか」
「筆のタッチがゴッホその物なのよね~。なんと! それを屋外写生しながら描いたというんだから画壇からゴッホの再来と言われるわけだわ」
問題の絵はゴッホの『アルルの跳ね橋』を意識したとしか思えない跳ね橋の絵。構図といい、筆のタッチといい、先達そのままであった。燃え盛る炎のような、渦巻く流水のような激しく曲線的なタッチ。そして青ではなく黄色く塗りたくられた空。見ているとこちらの情緒までもが不安定になってしまいそうな凄みがある。
良く出来た模倣。
しかし、これをゴッホの完成作品を見ながらではなく、実物の跳ね橋を見ながら描いたとなれば話は大分違ってくる。
それは作者にもゴッホと同じ世界が「見えていた」という事を意味するからだ。天才独自の一般人には立ち入れぬ世界を絵筆のみで再現したのだから……やろうと思えば幾らでも同様の新作が描け、新境地を切り開く余地が残っていた。
その点でまったく既存の贋作や模写とは異なっていた。
ビルギット主任の話によれば、ファン氏はゴッホの複製画を売買することで生計を立てているという話だった。偽物と知りつつ、それでもゴッホを身近に感じたいという方々を相手に商売をしているのだとか。
糊口をしのぐ生活を続け、ようやくつかみ取ったサロン出展のチャンス。その好機をオカルト絡みのワケのわからない言いがかりで潰されたとなれば、それは怒りたくなるのも当然だろう。
アンドレアスは絵の観察を終え、率直な感想を述べた。
「確かに。ゴッホそっくりである事を除けば、ただの風景画のように思えますが。それで? 問題の怪奇現象は何か起きたんですか?」
「それがね、確かに起きるのよ、マジで。部屋の明かりを消し暗くして御覧なさい」
言われるがままに、ランプを消し主任室を闇の帳で覆い尽くす。
するとその途端、奇怪にも低いうめき声が絵から聞こえてきたではないか。
『うう、苦しい』
『ここから出してくれ、早く』
『元の場所に帰りたい。絵に閉じ込められた』
慌てて、ランプを灯すと低い囁き声はピタリと止んだ。
そこにはゴッホっぽい風景画が一枚あるばかりであった。
「な、なんだぁ!?」
「ねっ、本物でしょう。そりゃサロンも二の足踏むよなって感じ」
「穏やかならぬ印象ですね。どれどれ霊視機能オォ――ン!」
必殺のチート眼鏡で通してみると、確かに油絵は微量ながら霊気をまとっていた。
しかし、判るのはそれくらいで、絵の具に人の血肉が混じっているとか。
キャンバスが切り倒されたどこぞの御神木で作られているとか。
そういった様子は皆無なのであった。
それなら特定部位にもっと強いオーラ反応が出るはずだ。
調べ始めたばかりだが、アンドレアスはいきなり頭を抱えてしまった。
「となると、判らん! どうして作者すら心当たりがないのに怪奇現象が起こる? 誰のうめき声なんだ、これは? 絵の中に閉じ込められているだって。まるでメトロポリタン美術館だよ」
「まぁ、そう焦らないで。透視機能で何か見えてこない?」
「ごく普通のキャンバスの裏地が見えるだけですね。年代測定も試してみましたが、ごく最近作られたばかりの絵だという、トップシークレットが判るのみ」
「それじゃ、いきなり八方塞がりじゃないの」
「残りは……絵に閉じ込められたという霊の発言を信じて、そちらをあたるくらいか。この絵に描かれたモデルは? 実は既に亡くなっていたりは」
「跳ね橋の前景に立っているのは作者の友人夫婦で、無論ご存命らしいわ。旦那さんの方は殺しても死なないタフガイという話だけれど?」
「意味が判らない! じゃあ誰も絵に閉じ込められてなんかいないじゃないですか」
「困ったわね。幽霊が何か勘違いしているみたい」
「ウチじゃどうにもなりませんって断って下さいよ」
「そうはいかないわ。サロンで否定されて、ウチでも見放されてじゃ気の毒すぎるでしょ?」
「その考え方は立派だと思いますけれど」
実際問題、打つ手がないのだった。
古い絵ならば当時の状況を調べたり、あるいは作者の生き様を探ったりも出来よう。されど、この絵は先月描き立てのホヤホヤ。新品なのだ。
平和その物な農村で描かれ、作者もモデルも元気そのもの。怪奇現象なんぞ起きようはずもない健全な絵なのだ。しかし、室内を暗くすると……。
『助けてくれ。絵に閉じ込められて……』
「誰なんだ! アンタは! いったいよぉ!」
アンドレアスの大声が外まで聞こえてしまったのだろうか。主任室の扉が開いてボサボサ頭の女性が申し訳なさそうに部屋をのぞき込んでいる。
「あの、花瓶にいける花を持ってきたんですけれど。後にしましょうか?」
「別にいいわ、ヤスミン。気分転換にはなるでしょう」
ビルギット主任に促され、両手に花を抱えた女性が入室してきた。
主任の親友であり、今は美術館の事務職を務めるヤスミン嬢であった。
昔はビルギットと同じ名家のお嬢様だったのだが没落してしまい、今ではすっかり庶民の仲間入りを果たした経歴の持ち主だ。
本人も周囲も「大切なのは過去より未来」と割り切っているので、元令嬢も今では問題なく職場の空気に馴染みきっていた。
いつもビルギットとアンドレアスの激しい口論が繰り返される主任室。せめて環境だけでも心穏やかでいられるよう整えておこうと、花は彼女なりの気遣いであった。ただ、ほんの少しタイミングが不味かっただけだ。さらに言えば、その花に虫ケラがほんの一匹潜んでいようと、果たしてそれが彼女の落ち度と言えたであろうか?
ぶ――ん!
「うわ! ハチだ! ハチが突然室内に?」
「はわわ~すいませ~ん! 切り花に隠れていたみたいです。すぐ追い出しますからお許し下さーい。もう、私ったら!」
「チッ、高速追尾機能オォ――ン。すぐ捕まえてやる」
とんだ大騒ぎであった。
結局ハチは紙コップに幽閉されて表の花壇送りになったのだが。
ヤスミンは平謝りに謝るばかりであった。
「本当に、本当にすいません。あわわ、こんなつもりじゃ」
「良いのよ、花が新鮮な証拠じゃない。花壇に虫がいるのなんて当然だわ」
「ふーん、待てよ。虫が居るのは当たり前か。確かに、虫ならば無視されても当たり前だよなぁ。心理的な死角に入っているから」
何かに気付いたアンドレアスは、改めて風景画に向き直った。
「もしやこれは……ズーム機能オォ――ン」
出来る限り拡大して、絵の表面を舐めるように見回すと……やはりあった。
ごくわずかな盛り上がり、通常なら少し絵の具の塗りが濃いとしか感じない程度の厚みであったが……そこには確かに「何か」が塗り込まれていた。
パレットナイフでその突起物を掘ってみれば、隆起の中から転がり出て来たのは小さな虫の死骸であった。どうやらミツバチらしい。
アンドレアスはそれを掌にのせて一息いれると、微笑んで口を開いた。
「ほーら、これが幽霊の正体ですよ」
「はぁ? なにそれタダの虫じゃん」
「一寸の虫にも五分の魂というではありませんか。幽霊になるのが必ずしも死んだ人間とは限りませんよ」
「まさか、そんな」
「この哀れな犠牲者はファン氏が戸外写生をしている際、たまたまキャンバスにとまり、悲惨にも、生きたまま絵画に塗り込まれてしまったんですよ。さぞや苦しかったことでしょう。恨んで当然の所業ですよ」
「確かに虫の多い野原で写生をしていたら、そういう事態も起こり得るとは思うけどさぁ……だからって」
「どんなに在り得ない話でも、可能性を除去していって最後に残った物が真相なんです。他には考えようがありません」
「本当かしら? じゃあ物は試しに」
ビルギット主任が疑わし気に部屋のランプを消した。
絵は沈黙を保ったままだった。霊は閉じ込められた絵画から解放されたのだ。
ビルギット主任は信じがたいといった表情で肩をすくめてみせた。
「あきれた。なんと賢い虫も居たものね」
「案外、地上の次なる支配者は彼等なのかもしれませんよ」
「そっかー、じゃあ私が花についたハチに気付かなくても無理はありませんねぇ」
すっとぼけたヤスミンの感想にて、この一件は落着となった。
後日、連絡を受けたファン氏が例の絵を引き取りに来た際、当美術館の応接室にてひと悶着あったのだが。
もう怪奇現象が発生しなくなった旨を告げられて、ファン氏はモチロン大喜び。これでまたサランに「出展が適う」かもしれないとうかれきっていた。その様子を目にしたビルギット主任の心情は実に複雑であった。
「あのね、ファンさん。喜んでいる所に申し訳ないんだけど」
「はい?」
「志が低すぎる。とてもゴッホの生まれ変わりとは思えないわ」
「えぇ?」
「だって、そうでしょう? ゴッホ、モネ、ゴーギャンといった画家たちは印象派という派閥を完成させて画壇に革命を引き起こしたのよ」
「うっ!」
「当然、保守派のアカデミーからは批判された。(G国ではなく、フランスのアカデミーの話だけどさ、どこの国も似たようなモンよ)写実的なギリシア芸術を美の規範と考える人たちだからね。斬新すぎる彼らの色彩表現や様式がサロンで受け入れられるはずもなかった」
「ところが、後の時代で評価されたのはアカデミーではなく印象派の方だった。彼等はものの見事に画壇革命を成功させた……確かに僕とはだいぶ違いますね」
「なぜ、成功したのか教えてあげる。同時代に写真が発明されたからよ」
思いがけないビルギット主任の話にファン氏は目を丸くした。
「しゃ、写真ですか?」
「そう、当時はまだ白黒のモノクロ写真だったけれどね。いくら写実的な絵を描いても所詮リアリティで写真に勝てるわけがないもの。サロンの一流画家たちは、もうお偉いさんの肖像画を描いてお金を稼ぐことが出来なくなった。多くの画家が、活躍の舞台をカメラに奪われてしまったの」
「そ、そうか! アカデミーの巨匠たちの作風は時代にそぐわない物だったんだ」
「その通り。反して印象派の絵は大胆で美しい色彩感覚を存分に発揮し、モノクロ写真が相手ならば魅力で引けをとらなかった。もはや絵は肖像を記録するただの媒介ではなく、これからは作者の心を表現した新しい芸術になるべきだ…と。そう主張できた。時代が印象派のやり方を後押ししたって事なのかしらね。リアルが全て、写実主義が全てではないと」
「印象派の先輩方は先見の明があった。だからアカデミーを敵に回しても勝てた」
「そのポスト印象派を担うゴッホの生まれ変わり……なのでしょう? 貴方」
「物真似ばかりして、恥ずかしい限りです。ましてやアカデミーの顔色を窺ってばかりで。生まれ変わりが聞いてあきれる」
「判ってくれたのなら良いの。●●派と話を難しくしてみようが、何てことは無い。要は保守派と改革派の対立があるってだけ。やはり若者には改革を担って欲しいわね、どちらかといえば」
「僕に足りない物はそれだったのか」
「せっかくゴッホと同じ世界が見えるというのだから。いっそ砂漠や密林で絵を描いてみたらどう? もしくは大都会の絵とか。物真似ではない貴方独自の世界が切り拓けるかもね」
「ううう、やってみます。なにくそ、負けるもんか。自分の派閥を立ち上げてやるぞ!」
若者はもはやサロンの件などすっかり忘れて、無我夢中、我武者羅に応接室から出ていった。
ビルギット主任はそれを見送って満足げにうなずくのだった。
これでこそ、未来に繋がるコネというものだ。
後日、主任からその話を聞いたアンドレアスも嬉しそうに笑うのだった。
画家というのは、芸術家というものは、本来安定からかけ離れた危うい職業。巨匠に似た絵が描けるからといって、それだけでどうなるものではない。サロンのDクラス出展を蹴るぐらいでなければ、不安な先行きを見通せはしないだろう。
それに、アンドレアスはあの絵がサロンに出展できなくても任務を失敗したとは思わない。
「まっ、あの幽霊ハチくんはウチの花壇で手厚く葬りましたから。一つの迷える魂を救えただけでも私のした事は無駄じゃないと思いますよ」
「それが言えるなら、アンタも大物の素質があるわ」
「しかし、ゴッホの絵ってヒマワリや跳ね橋が有名だけど他にはどんなのがあるんですかね? 砂漠や密林の絵がないのは知ってしますけど」
「あとは、そう、教会の絵なんかが有名ね」
「うっ、教会」
その単語を耳にした途端、アンドレアスの表情が曇る。
かつて大恩あるシスターに報いるべく「スラム街のオンボロ教会を建て直す」ことを人生の目標としていた記憶が、鮮やかに蘇ったからだ。トラウマという奴だ。
その夢を叶えるよりも早く、当のシスターが置手紙だけを残し姿を消してしまったので、建て直し計画は自動的にお流れとなったが。その一件はアンドレアスの心に深い爪痕を残していた。母のように信頼していた相手だっただけに、一人置き去りにされただけでどこか裏切られたように感じてしまうのだった。
敏腕主任はアンドレアスの態度を見ただけで心情を察し、舌打ちを始めた。
「あっ、その顔はまたシスターの事を考えているのね? 過去に縛られるなんて保守的な生き方だわ。貴方も若いんだから改革派になりなさい。守りに入るには、まだ若すぎるわよ。チッチッチッ!」
ビルギット主任に思考を見抜かれ、ズバリ指摘されてしまった。
おっしゃる通り、過去の痛みは整理して克服する為にあるものだ。
アンドレアスは面を上げると呟いた。
「いつまでも決着をつけず、逃げ回っているから古傷が痛むんでしょうね。出来る限り情報を集めて今の私にやれる事をするべきなんだよなぁ」
その声は静かだが断固たる決意に満ちていた。
辛い過去とは対決しなければならない。
いじけた子どもではなく、画壇の改革を夢見るファン氏のような志の高さで。
それでこそ、進むべき道が切り拓けるというものだ。
アンドレスは決心して握り拳を高く掲げてみせた。
シスターが街を去り、傷ついているのは何も自分ひとりではない。真に聖人の志を継ぐ気なら、残された人の痛みを和らげてやれるよう何かをすべきだった。
異世界美術館の喧騒 ~デコボココンビと愉快な仲間たち~ 一矢射的 @taitan2345
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