第2話 爛れ始める

 女受けがいいだけのブランド物の品のない香水。うなじと手首に塗って香らせる。精密検査で異常なしと判を押されてから、翌日に出社する旨を部長に告げたら、


「もっとゆっくり休んでもいいんだぞ。」


 強面の部長が顔に合わない気遣いを見せた。面倒見はいいが幾分かのろまな男である。社長と遠縁で、ある程度の地位につけられているだけだ。社長がくたばればすぐにでも椅子を追われるだろうな。


 いや、部長は仏のような人だ。出世したのも厚い人望によるもののはずだ。花木部長は誰よりも俺に目をかけてくれた。


 美容室でツイストパーマを当てた髪を、丁寧に分け目を作ってジェルでかきあげた。


 オーダーメイドのブランドのスーツ。絞ってある肉体を際立たせて見せる。特徴的なブランドで、少し知識がある人間ならすぐにそれとわかる高級ブランドだった。要するに見せるための衣装だった。


名刺入れでさえいやらしく本革のものを買っていた。自分の名刺にチラリと目を通す。井上 聡と印字された証券会社のロゴの着いた名刺だ。誰が考えたのか、猿がでんぐり返しをしている途中のようなブサイクなロゴだ。


役職は係長、まだ係長か。上が詰まっているな。不摂生で血栓が出来てる肥満の肉体のように、老廃物がたっぷりと詰まっているのだ。たっぷりと、どこかで聞いた表現だ。


 30代前半にしては出世が早いじゃないかと部長が世辞を言うが、椅子が小さすぎるだろうが。


 久しぶりの通勤で、人混みにひどくイラついた。満員電車なんか毎日経験していたはずだが、数か月空くと耐えられないな。「すみません、すみません。」と言いながら学生やサラリーマンが入ってくると、体が浮くほどに混雑する。


 一度足を踏まれて舌打ちが出た。踏んだ学生の子がやばいやつに出くわした、と人混みをすり抜けるように遠くへ行った。俺だって人の靴を何度も踏んだことがあるのに、今日はゆるせなかった。入院してから、イラつくと下っ腹が熱くなって、背中を突き抜けて、それから上るように脳天まで電流が走るような感覚がある。


 脳ミソがいかれたのか。まあ誰だってイラつくときはあるだろ。前頭葉の一部がモンシロチョウになって飛んでいく妄想をした。


 電子の定期をかざして期限切れになってたときは拍子で改札を殴ったが、医者が検査で問題ないというのならそうなんだろう。


 四階に証券会社が入っているビルに入る時、後輩の武藤の顔が見えた。端正な顔立ちで、韓国系のアイドルのように柔和な男だ。


気配りのできるやつだ。仕事が早く、人望もある。俺だって仕事が他よりできる自負があるが、こいつはそれに加えて人望が厚いのだ。きっと俺より早く出世するだろう。そう思わせるくせに、武藤自身の手柄をすっかり俺や他の上司の手柄として計算して報告するから、すっかり気に入ってしまった。律儀というか、そんな性格をしている。


「お久しぶりです、身体は大丈夫なんですか?」


驚いた顔をして急かすように聞いてきた。


「医者の話だともういいらしい。長い間休んで迷惑かけたな。まあでもお前がいれば問題ないだろう。」


「いえ、全然、気にしないでください。係長が普段いることのありがたみを感じさせられましたよ。案件いくつかかえてたんですか。」


お世辞だろが、口もうまい。相変わらず人の懐に飛び込むのが上手いやつだ。打算ででやってるのではないのだから人たらしだ。


「俺を甘く見てるのか。」


思ってもいない言葉が飛び出てしまった。武藤が目を丸くしている。


「いえ、そんなつもりは、ってあれ、係長、手どうしたんですか。」


改札を殴った時に切ったのか、拳から血がトロトロと垂れていた。ジュースみたいに。


いや、俺の血ではなかった。亀のように重々しく歩いているやつに通りすがりに一発お見舞いしてやったんだったな。



 


 

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超個人主義 海野わたる @uminowataru

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