土曜日のうなぎ

志村麦穂

土曜日のうなぎ

 今夜の女はせいろ蒸しだった。身質は柔らかくふっくらとしていて、生臭さを感じない。皮目から生活の臭いがしないのだ。くたびれた労働者の女を引っ掛けたときは、拭いきれない濃いアンモニアがひどく臭った。行為が盛り上がってくると、汗に混じって掃除されていない公衆便所が上気してくるのだ。垢の積もったうなじを舌でこそぐような愛撫を繰り返して、俺のうなぎはついに寝床から顔を出さなかった。そんな味わい深い思い出に加えずに済みそうな女だった。俺のリトルな半身たちが身をのたくらせて、玉を破って泳ぎだしそうな勢いだ。真夏の支給を注ぎ込んだ情熱だ。楽しまなくては。払い損だなんて冗談じゃない。

「あなた、パイプでしょ」

 女は最中におしゃべりを求めるタイプだった。喋らずにはいられない口女というわけでもないのに、盛り上げるための愛撫の質を会話に求める。厄介なタイプだと鼻をしかめた。おまけに俺の出自をシャツ一枚脱いだだけで言い当てた。感の鋭い女とのやり取りは嫌いじゃない。呼吸が合えば、長年連れ添ったダブルスのパートナーの如く、どこまでも行為を高めていける。まさにうなぎ登りというやつ。ただし、鋭いがゆえに、一歩も二歩も先回りして萎えられる時がある。俺たちは獣になりにきたが、必要なのは野生の鋭敏さじゃない。

「そうさ、ずっと狭い穴を泳ぐのが得意なわけだ。君のアナグラで、実家に帰ってきた気分になるだろうよ」

 俺は安くない金を払ったことを思い、気を取り直した。眼前で寝そべった女が高級なのはいいことだ。相応のマナーを踏むのも行為の一環だ。そういうプレイなのだ。俺は行儀よく、女のつま先に情熱を垂らして見せた。こういうのは儀式や演劇みたいなもんさ。熱っぽい没頭が肝要で、シラフに叩き戻すような冷静さだけが興ざめだ。

「私って、わかるのよ」

「もちろんさ。ここでは女だけがなんでもわかっているんだ」

 肌が湿ってきた。スプリングが物憂げにないた。

 女が俺の右肩をなでた。なくしてしまった童心を惜しむような手つきで、だ。俺はまったく感心して、しかし、そのせいで最中にも関わらず勘ぐりを思い出してしまった。この女は俺の失くしてしまった保護者の住処を性格に把握していた。傷跡なんか残っちゃいない。この女は憐れな完全養殖パイプ・ライズド児を知っているのだ。

「あなたたちがスキンを被せるのって、昔を思い出して安心するからって噂。ほんとうなの?」

「育ちがいいのさ。とても礼儀正しい、うなぎなわけだ」

 俺はだんだんと冷静さを取り戻しつつあった。良くない兆候だ。下半身から湧き上がってくるはずの波に集中できてない。雑念を振り切るために、多少段階を飛ばすことにした。舌先でお伺いすることをやめ、胸に指を沈ませた。失敗に気が付いたときにはすでに遅く、早めにかぶせていたスキンが俺のリトルパイプの首から抜け落ちてしまった。

 俺は唸った。女の乳は柔らかすぎた。乳だけじゃない。尻の肉も、背中に回した手が掴む贅肉もだ。若い肉は勢力に溢れ、蓄えられた脂肪にさえ弾力がある。皮だ。ひとえに皮の保持する力がなくなっているせいだ。もちろん、それが好みだという奴も少なくない。敷きっぱなしで綿がヘタった万年床のように、あるいは伸び切ったセーターのように。くたびれてはいるが、新しいものにはない慣れがあり、安心という包容力がある。萎みかけの水風船だけが持っている母性だ。女は見てくれよりも年増だった。

 家族、母親、遺伝子。考えたくもないことだ。しかし、俺の頭は、行為を続けるには冴えすぎていた。

 年増なのに、くたびれた臭いがしないこと。外見の若さは取り繕っているわけじゃなく、精神が年老いていないことの証だ。年齢に対して、精神が熟していない。ともすれば幼ささえ感じさせる。部屋に入った時、俺はツキがあるとさえ思った。俺は高い金を払ったのだと満足げに鼻を鳴らしさえもした。

「お疲れみたいね」

 女は自らの膝をなでた。まるで自分の子供を誘うように、優しく慈愛に満ちた誘惑だった。

 俺の小さな俺はますますやる気を失っていった。

 母親について考えたことはある。誰の卵から孵ったのか、気になる年頃があって、どんな奴も考える。とくにパイプ生まれのやつなんかは、出自に折り合いをつけれるまでは延々と思い悩んだりする。遺伝子の話だ。鼻の穴の形に、つむじの巻き方、耳垢の湿り気具合まで、気になる年頃だったんだ。しかし、それは今じゃない。俺はその憂鬱をティーンだった頃に、過去のものにしてしまったはずだった。ベッドの上で再会を果たすことほど残酷なことはない。

 俺は情けない悲鳴をあげて、部屋を飛び出た。もちろん、金は取り戻した。店のカウンターで盛大に文句を吐きかけ、詐欺にあったとか損害の賠償だとか心的障害を植え付けられたと罵り、ほかの客に悪評を流し込み、店長が金を握らせて俺を追い出すまで叫び続けた。騒ぎに気が付いて降りてきた女たちが、俺をどんな目で見ていたか想像したくもない。とにかく俺は、その晩、使うはずだった金を取り戻し、パンツ一丁で夜道を歩く羽目になった。

 まったく冗談じゃない。俺は、この世でもっとも残酷な慈善事業に引っかかったのだ。

 生き別れになった親と子どもの再会。感動的な瞬間を、子どものリトルパイプを親の愛情の通り道で包みこんでやる、涙なしには語れない喜劇だ。どこかに感動の瞬間を撮影している隠しカメラがあったのかもしれない。まさか子供が親と抱き合って、パイプのさきっちょから涙をこぼすとでも思ったのだろうか。恥知らずな連中だ。俺たちのことを人間だとは思っていない。事実人権がないことを熟知している。法令遵守の非人道的な慈善団体だ。すばらしき矛盾する正しい世界に幸あれ。

 なぜ俺が気づけたのか。女には臭いがしなかった。苦労の臭い、労働者特有のくたびれた生活臭。毎日風呂に入り、きれいなお湯で体を洗っている女。苦労を知らない体。キャリア特有の妙なギラツキもない。働いているわけでもない女が金には困っていない。ウリだ。あの女はウリで稼いだのだ。売り物は体よりもっといいものだ。個人情報の集合体。女は自分の卵だか、DNA情報だかを売って、その使用料で喰っているのだ。昨今、遺伝子は不動産にも数えられる。優良な遺伝情報を持っているやつは、生まれながらにして働かずとも食っていける。免疫が強いだとか、生命力が強いだとか、繁殖力もそうだ。女には何千と俺のような子供がいるはずだ。優良な遺伝子を受け継いだ、パイプ生まれの孤児が。

 最近になって、使用される遺伝子の流行りが変わったのだろう。あるいはより優良な遺伝子の提供者が現れたか。どっちでもいい。使用料で食っていけなくなった女が、この慈善団体の企画を受けたというわけだ。なんて泣かせる話だろう。俺で失敗しても、何千という兄弟たちが待っている。誰か一匹でも釣れたら充分なのだ。

 まったく腹が減っていた。俺は今晩のために夕食を抜いていたのだ。

 店からむしり取った金を数えようとして、俺は自分の手にスキンの箱を握りしめていた事に気がついた。

 なんて間抜けな男だ。右手に金、左手にはスキン。いますぐどこかの店には駆け込みそうな格好だ。支給日の生活保障受給者の姿として模範的すぎた。

 俺たちがなぜ、スキンをつけたがるのか。女は母性のぬくもりを求めているのだとか、馬鹿なことを抜かしていたが、実の理由は現金絡みで世知辛い。俺たちは万が一を恐れているのだ。もし俺のリトルパイプから放たれたシラスウナギが精鋭揃いだったらどうする。最悪の生活保障金を打ち切られることになりかねない。子供を作るということは、人間としての人権を得ると同時に、社会に参加する責任を負うことを意味している。働いて、稼いで、子供を育てる必要がある。俺たちパイプの兄弟が、勝手な事情で作り出された被害者であり社会にとっての庇護者から、積極的に生きていく人間へと地位が上がる。もし同じ人間だと言うならば、罪悪感を覚える必要も、守ってやる必要もなくなる。そういう理屈で金は途絶える。

 俺たちに人権はない。だからこそ、守られているし、養われている。社会のペットなのだ。金を配り、家を与え、世話をする。

 もちろん、人権を得る機会はいくらでもある。積極的に、しかもタダで配っている。奴らはとても親切で、悪質だ。粘膜のぬめりを巧みに利用して、スキンをはずさせようとする。リトルパイプから飛び出すシラスウナギを待ち構えている。俺は過去に慈善団体の罠にかかり、人権を得てしまった兄弟を何人も知っている。その末路は憐れだ。子供を育てるために昼夜労働を強いられ、絞り粕のようにやせ細っていく。恐ろしいことに、社会の義務と責任から逃れると、犯罪者として再び人権が剥奪される。今度は社会の加害者として。加害者の扱いの残酷さについては、語るまでもないだろう。

 路地に焦げた砂糖の甘さが流れてくる。濃厚なタレの香りに、俺の腹は我慢の限界を迎えた。

 香りを辿った先には、小粋な暖簾が『土用の丑』を掲げていた。炭火に落ちる肉汁、うちわで扇がれる煙。その店には食欲を掻き立てるすべてが揃っていた。

 俺は無意識の内に、握っていた金を差し出していた。夏場の土用に合わせた生活費のボーナス。意図は稚魚の体より透いている。

「女将さん、天然ものはあるかい」

「悪いね、ここしばらく切らしてるの。代わりに、特盛で出したげる」

 女将さんは俺の風体に、眉ひとつ動かさず、座敷に案内してくれた。パンツの隙間から、俺のリトルパイプが除いても、冗談めかして笑い飛ばした。数十年前に天然のうなぎは絶滅した。今どき提供されているのは完全養殖のうなぎだけ。みな、透明な円筒形のパイプで育てられた兄弟たちだ。

「うちらはアンタらに食わしてもらってるからね、これサービス」

 湯呑みに入った熱いお茶と、皿に山と盛られた骨せんべい。白子のポン酢和え。ありがたくいただくことにした。塩気の効いた骨せんべいはよく揚がって、口の中でザクザクと小気味良い音を立てる。

 やがて運ばれてきたお重には、はみ出すほどうなぎが重ねられ、蓋が閉まりきっていない。

「ごはんのおかわり、うなぎの追加。好きなだけ頼みな」

 値段は据え置き。特上一人前。

 ああ、俺はやはりうなぎを食うために生まれてきたのだ。

 人口の減少に歯止めのかからない国では、なにがもっとも問題だったのか。安価でのサービスの提供だ。

 天然に比べても、完全養殖のうなぎは高価で、一匹あたりの生育に手間と費用がかかる。その問題を解決するシンプルな解決策が大量生産だった。大量に生産することで一匹あたりのコストを抑え、これまで通りの価格で提供する。これはうなぎに限った話ではない。あらゆるサービスが同等の問題を抱えていた。消費者の激減。人口減少で国が憂慮したのが経済の衰退だ。では、どうやって解決したのか。これもまたシンプル。減ったなら増やせばいい。

 人権のない半人間、完全養殖のパイプ生まれ。

 俺はうなぎを食うために生まれてきた。

 山椒のしびれを舌先に感じつつ、ふっくらした肉と米を同時にかっこんだ。甘辛いタレが喉に絡む。胃に活力がとりもどされる。俺のリトルパイプが顔を出すのも時間の問題だった。

 俺たちはあらゆる消費をするために生み出された。国の金で育てられ、国の金で飲み食いし、国の金を回す。作られた消費だ。

 うなぎを食う。うなぎを食う。うなぎを食う。

 俺はうなぎを食うために生まれた。

 アツアツをかきこみ、ハフハフと、ガツガツ。

 どうだ、俺は今、セイを実感している。

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土曜日のうなぎ 志村麦穂 @baku-shimura

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