呪い

小日向葵

呪い

 ルーマニアの大使館職員と名乗る女性が僕に声をかけて来たのは、僕の下からリサが姿を消して二週間ほどが過ぎた日の夜だった。



 「この辺りにお住まいだということは聞いていたのですが、細かい住所までは聞かせてもらえなくて。就労年齢の男性ということで、歩いている方に声を掛けさせていただいて、十五人目でした」


 ああ、また近所の暇な主婦の間でうわさ話になるんだろうなと僕は思った。顔も知らず、名前だけで人探しをするにはこの街は広すぎる。


 「メリケ・フロレスクです。よろしく」

 「……どうも」


 ダークブラウンの髪と瞳、北欧系の整った顔立ち。僕たち日本人とは異なる種類の人。


 「立ち話もなんですし、あちらに」


 彼女が視線を送る先には、いかにも高級そうな黒い外車が停まっていた。外交官ナンバーなんて久しぶりに見た気がする。彼女は僕を先導してすたすたと歩き、後部座席へのドアを開く。


 「さ、どうぞ」


 促されるまま車に乗る。シートの座面は低く、また過剰な柔らかさで座りづらい。彼女は挟むものがないことを確認してからドアを閉め、左ハンドルの運転席に乗り込んだ。他に、同乗者の姿はない。


 微かな音がしてエンジンがかかり、ショックもなく車は走り出す。さほど上等ではない整備状況の路面が、まるで磨き抜かれた鏡のように思えるほど静やかに走る車。


 「ここで一つ、謝らなければなりません」


 運転席からメリケは言った。


 「私はルーマニアの大統領府直轄の組織で動いていますが、正式な大使館職員ではありません。まあ、大使館の職員と言った方が判りやすいと思いましたので、そう名乗らせて頂きました」


 信号で停まっても衝撃はない。車窓の風景すら高級なものに見える気がして、僕はため息をついた。雰囲気に呑まれ始めている。


 「正式な身分は違いますが、我が国と日本との友好のために働いています。それはご理解いただきたい」


 前方の信号が青になり、車は再び音もなく走り出す。


 「さて本題ですが。先日、日本の入国管理局から通報がありまして。我が国の者を名乗る不法入国者が強制送還して欲しいと名乗り出て来た、というのです」


 道は郊外へと続く。車窓の灯りが少なくなっていく。


 「普通は大使館の仕事です。それが、私宛にかかってきた。つまり、通常業務の対象外ということ」

 「……リサですか」

 「ま、お判りになりますよね。彼女、故郷の親類を訪ねたくて色々考えたみたいなんです」


 トランシルヴァニア公国はつまり、今のルーマニアあたりになるのか。しかし五百年も前に日本へ来ているのなら、そもそも密入国と言う扱いになるのだろうか?


 「私どもとしては、人間に害を為す人外を放っておくのは、これは国益に反します。吸血鬼、狼男。ヨーロッパにはそういった人外が多くて、追跡調査も大変なんです。今回はもう数世紀前にロストしていた一族を捕捉できて、実に幸運だったと言えましょうが」


 人外。人ならざる者。そうか、彼女は国家の命を受けて、地域色溢れる人外が余所で粗相をしないように対策をしている人間なのか。


 「通常であれば強制送還の後に、本国で封印処理という流れなんですが……いくつか問題がありまして」

 「問題とは?」

 「まず、彼女の存在は我々の記録にない。いつの間にか逃亡していたのは彼女の両親でしてね。そして私の任務も、彼女の両親を追うことでした」


 リサの両親は、もう何百年も前に死んだと聞かされていた。子供を設けていたことは、誰にも知られていなかったらしい。


 「そして、彼女は吸血鬼としての能力をほぼ受け継いでいない。動物への変身も、吸血による色々も、飛行能力もない。不老不死とちょっとした身体能力以外はほとんど人間と変わらない。つまり、こちらの機関での吸血鬼認定にいくつものポイントが足りないのです」


 吸血鬼とは認定されるものなのか、と僕は少し驚いたが……政府の機関が動く以上、対象の限定に何らかのルールが発生することもあるだろう。吸血鬼を自称するものが業務の妨げになるというのなら。


 「ちなみに私も吸血鬼でね?私の一族は、時の権力者の手先となることで生きる道を選んだ、いわば吸血鬼界の裏切者です。ある意味、一族のプライドを貫く彼女は羨ましい存在ですよ」

 「だけど、貴方の瞳は」

 「ああ、コンタクトで誤魔化しています。さすがに赤い瞳のまま出歩くほど不用心ではありません。日中には出歩けませんから、案外誤魔化せるものですよ」


 ルームミラーにちらりと、悪戯っぽく笑うメリケの顔が映る。


 「本国に問い合わせもしましたが、このようなケースは初めてで。自称吸血鬼を強制送還なんてしていたら予算がいくらあっても足りないし、だからと言って彼女の望みを叶えることも出来ない」

 「望みですか?」

 「吸血鬼としての力を取り戻したいので、故郷に渡って親戚を探したいのだそうです。そんな危険なことを、人間の政府が許すと思いますか?」

 「まあ許さないでしょうね」


 リサがそこまで思いつめていたとは。僕は彼女の苦悩を思うと、胸が苦しくなる。あの日彼女にかけたつもりの情けは、実は単なる呪縛ではなかったのか。


 車は再び市街地へと入る。対向車も増えていく。


 「まあ、同じ女吸血鬼としてあの子の考えていることは理解できなくもないです。私の場合、共に暮らしてもいいという男性を眷属に迎えるまで七十年も探しましたからね。能力さえあればと、思い詰めるのも当然の話でしょう」


 車は高速道路に入る。都心方面に向かうようだ。ことん、ことんと道路の継ぎ目が音を立てる。


 「無罪放免というわけにも行かないし、強制送還も出来ない。ここ最近の生活についても口が堅くて、やっと今朝になってあなたの名前と大まかな住所を話してくれたので、こうしてお迎えに上がったのです」

 「無事なんですか?」

 「入管で一悶着あったみたいで、少し怪我はしていましたがもう治っています。健康状態には問題ないと思いますよ」

 「良かった」


 ほっとした僕をルームミラーで見て、彼女は笑った。


 「ははは、それで最後に確認しておきたいのですが」

 「確認?」

 「はい、私は何も言わずにあなたをお連れしてしまったので。彼女、あの吸血鬼の身元引受人になるつもりはおありですか?」

 「それはどういった確認ですか」


 質問の意図が今一つ掴めなくて、僕は質問を返した。


 「あの吸血鬼は、過去の我が国にもこの日本にも記録の無い、いわば盲点のような存在です。ですから、身柄などは正直どうとでもなるのですよ。例えば、そう……私の部下として闇の世界で使い倒すとか、はたまた日本政府に引き渡して不老不死の研究に役立てるか」

 「彼女が承服するとは思えない選択肢ですね」

 「彼女に選ぶ権利はないんですよ。人の社会での人外というものは、そんなものです。かく言う私だって、上の方針次第ではすぐに追われる身ですからね」


 僕は目を閉じる。あの生意気な、強く抱きしめたら折れそうな、寂しく赤い瞳を濡らす吸血鬼のことを思う。考えるまでもなく、僕の答えは決まっている。


 「僕の名前を出したのでしょう?なら、迎えに行きます」

 「Minunat!」


 ヒュウ、とメリケは口笛を吹いた。車は高速道路を降りて、都心のオフィス街を進む。もう夜なので、人通りも少ない。


 「で、どうします?新たに人外としてデータ登録するか、そのまま放免するか」

 「そんなこと、僕が決めていいんですか?」

 「なにせ前例がないですから。もし登録しないのなら、全ては人間の虚言だったってことで処理できるわ。ただ、登録しておけば色々と不都合もあるけれど、手続きすれば人間としての戸籍も手に入れられる」

 「そのことは前に話をしました。何もなしでお願いします」

 「あなた吸血鬼たらしの素質あるわよ」


 感心した風にメリケは言う。けれど、そんな才覚全く欲しくない。


 「もうちょっとで着きます。帰りも送って行くから安心して」

 「判りました」


 コンビニの看板が眩しい交差点を抜けて、古い雑居ビルの前で車は停まった。


 「ここです。済まないけれど、あなた一人でここの三階に行ってくれませんか?そういう約束になってるので」

 「約束?」

 「そう、我が国と日本政府との取り決め。つまり、あなたが自発的に彼女を救出したという形にしたいんです。どちらの政府も、彼女の解放の主体になりたくない」

 「つまり、逮捕されるのは僕だけだと」

 「それはないから安心して。未知の人外が未知の方法で脱出した、そういう筋書きなんですよ。あなたは未知の手法で意思を奪われた、被害者」

 「判りました」


 僕は後部座席のドアを開けて路上に出た。まだ蒸し暑い空気が肌にべっとりと絡む。夕方に雨でも降ったのだろうか?


 バム。


 ドアを閉じる音が辺りに響く。僕はガードレールを乗り越えて、間引きされた蛍光灯が寂しい雑居ビルのエントランスを進む。一階は何かの商売をしているようで、シャッターは既に閉まっている。エントランス奥のエレベータ、上ボタンを押すとゴボゴボ籠った音がして重たそうな扉がゆっくりと開いた。


 大人が四人も乗ったら満員になりそうなエレベータに乗り込み、3と書いてある丸いボタンを押す。また耳障りな音がして、扉は閉じた。がくん、とエレベータの籠が揺れて上昇を始める。少し左右に揺れている気もするが、古いエレベータだからだろうか。


 チン、と鐘の音がして上昇が止まり、また不快な音を立てて扉が開く。目の前の通路にドアは一つしかない。中の照明は点いているようなので、僕はドアノブを回して押した。がちゃり、と施錠されていないステンレスドアは簡単に開き……部屋の中にはリサがこちらを睨むようにパイプ椅子へ座っていた。



 「遅いわ」

 「久しぶりに会ってそれか」


 僕は苦笑してリサの全身を見回す。特にどこも縛られてはおらず、体は自由なようだ。それでも立ち上がろうとしない彼女の意図。


 「でも、来てくれて嬉しい」


 僕はリサをひょいと抱き上げた。ぎゅっ、としがみつくリサからは知らない石鹸の香りがした。


 「ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったの。ちょっと行って、すぐ戻るつもりだったのよ」

 「うん」

 「あたしのこと嫌いになった?もういらなくなった?もう捨てる?」

 「僕は君を迎えに来たんだ」


 リサの腕の力が緩み、そしてまた強くなる。その腕が震えている。


 「ふたつ、訊いて良い?」

 「どうぞ」

 「例えばあたしに力が備わったとして……あんたはあたしと、永劫を生きるつもりはある?」

 「恐らくは」

 「じゃあ、あたしに力が備わらなかったとして……あんたはあたしと、これからを生きるつもりはある?」

 「多分」


 ふうっとリサは息を吐き、僕の首筋に唇を当てた。


 「ずるい男。言い切ってくれないんだ?」

 「未来は、不確定要素が多い方が面白いんだ」


 首筋を彼女の舌が這う感覚。熱い吐息と零れる涙を感じて、僕は部屋を後にした。




 帰りの車中では、誰も口を開かなかった。リサは僕にぎゅっと強くしがみついて、離れようとはしなかった。僕はそんなリサの髪を優しく撫でてやる。


 車が見たことのある街並みに差し掛かった頃、メリケがようやく口を開いた。


 「そうそう。私の一族が時の権力者に擦り寄った時に、一族の秘伝やらなにやらを全部書き留めて差し出したの。ひょっとしたら、あなたが欲しがってる何かのヒントも、あるかも知れないわ」

 「それ」

 「でもほら、私も読んだことがないから、本当にそうなのかって判らないの。でも時間をくれるなら、国に戻った時にでも調べておくわ」

 「……同情?」


 ミラーに映る瞳が赤く輝いた。


 「そうね、これは同情。私も吸血鬼の女だから、あなたの抱えてる想いは判るわ。あなたのご先祖も私のご先祖も、違う形で遠い子孫に呪いを残したようなものだからね。同病相憐れむってとこかな」

 「……ありがとう」


 リサは小さな声で礼を言った。


 「あはは、まだいいのよ。求めるものが書かれていると判ってるわけじゃないし。一応一族の長老あたりにも当たってはみるけど」

 「大丈夫なんですか?そんなことして」

 「私が趣味で一族の歴史を調べるだけなら何も問題ないわ。ただ、たぶん時間はかかるから気長に待って頂戴」

 「五十年は待てない」


 リサがぽつりと言った。




 ……我が家には吸血鬼が居候している。




 いつまでいるのかは、判らない。






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呪い 小日向葵 @tsubasa-485

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