末路

「戸塚くんっ、麻美は」

 茜色の空の下、あらぬ方向に顔を向け、固まっている青年の両肩をすがるように掴む。

「麻美を、麻美をどこかで見なかったか? いないんだ、どこにも。消えてしまったんだ」

 煙のように。言いかける間もなく、戸塚くんが口を開いた。

「そこにいるじゃないですか、ずうっと」

 戸塚くんは、人差し指をぴんと伸ばした右腕で庭を指さす。

 見慣れたはずの庭。

 何メートルあるのだろうか。どこまでも伸びきった西瓜の蔓が何本も、庭の上空をたゆたっていた。

「何だ、あれは」

 腰が抜け、尻餅をつく。

「麻美さんはあそこです。ずうっと、あそこにいる」

 ふはははっ。

 頭上で、戸塚が陰鬱な声で笑った。

「康夫さん、あなた麻美さんを殺したんでしょう。それから庭に埋めたんだ。ねぇ、そうなんでしょう? 正直に言ってくださいよ」

 殺した。

 戸塚くんは恨みがましい目で、確かにそう言った。

「待ってくれ。どうして私がそんなことをしなくちゃいけないんだ」

「まさか忘れてしまったんですか、何があったか。……ああ、そうですよね。僕を殴ったことも覚えてないようですし」

 殴った? 私がこの善良な青年を? どうして。

 尻餅をついたまま動けないままでいる私に覆いかぶさる戸塚くんの目は、白目ばかりがぎょろぎょろしていた。

「殴ったじゃあないですか、二発も。麻美さんが止めてくれたから、三発目は食らいませんでしたがね」

 戸塚青年は卑屈そうに笑う。

「西瓜を食べに来ないか、と誘われたんです。僕はそれだけだと信じた」

 抑揚のない戸塚青年の言葉の羅列。

「縁側で、僕たちは大きな西瓜の半分を二人で食べた。食べ終わって帰ろうとしたら、麻美さんは僕に抱きついた」

 青年は頭上を仰いで狂ったような高笑いを響かせた。

 笑いは永遠に続くかと思われたが、すぐに彼は地面へとへたりこんだ。

「……許して、ください。康夫さん。麻美さんは、あなたの麻美さんは、赤子が欲しい、欲しいと。僕の前であんなにも泣いたものだから」

 魔が、差してしまったんです。

 青年はとうとう狂ったように泣きわめき始めた。

「そうか、そうだったな」

 蘇りつつある悪夢を払いのけたい私の口から漏れ出るあがき。

「麻美さんは僕が殺したものかもしれない。僕が判断を誤ったから」

「いや、違う」

 私のせいだ。

 戸塚くんはもう腹ばいになって嗚咽をあげるしかできなかったが、この言葉だけは届いてほしい。

 ――康夫さん、私、本当に赤ちゃんが欲しいんです。

 いけない、思い出してはいけない。

 ――お願いです、康夫さん。

 母性本能から来るのか、孫の顔を見たがった両親からの圧からなのか、麻美は子を欲しがった。

 私は、ただ彼女と二人で過ごせれば幸せだったのだけれど。


「貴方」


 麻美の声が耳元に響いた。青臭い匂いも。

 シャツの袖に巻き付き、後ろに引っ張るものも。


「ここよ」


 黒く細い髪が絡みついた緑の蔦だと気づくと同時に、死に物狂いで引きちぎった。悲鳴のようなものが聞こえた気もしたが、気にしている暇などない。こんなものを麻美とは認めない。

 追い込まれた私が逃げたのは、掛け軸のかかっているあの座敷であった。

 東が見ていた床の間の壁、赤い粘液がはみ出し始めていた。掛け軸の両端から、じわじわと。

 一気に剥ぎとると、飛沫いたような赤が現われた。

「……ははっ」

 崩れ落ちた膝元にあった座布団の下からも深紅の粘液が流れ始め、鉄の匂いが部屋にあふれて行く。

 私の泣き笑う声だけが虚しく響く。自分で施した下手な偽装を忘れるとは。どこまでも、どこまでも情けない。

 ――許して、許して、康夫さん。

 私の膝にすがりつき、懇願する麻美の声が蘇る。涙を溢れさせながら、許しを請うていた彼女が唯一纏っていた襦袢から、日に焼けていない胸元と腹が覗いていたのを思い出す。

 なぜ、私は忘れていたのか。忘れていたかったのだ。人は生きていくための本能として、心から恐ろしいと思った記憶を頭から消してしまうという。

 あの夜、仕事を終えて帰宅した私を迎えたのは玄関まで聞こえてきた女の嬌声、そして縁側で抱き合っていた裸の麻美と戸塚だった。

 情けない悲鳴をあげながら逃げ去っていく戸塚を追いかけてまで殴ろうとする私を、麻美は「やめて」を繰り返しながら必死に引き止めた。

 このあばずれが! ふしだらな女が!

 引きずるように麻美を連れ込んだ座敷で、私は言葉を選ばずに妻を罵った。

 私の膝にしがみついた麻美は最初、ひいひいと泣くだけだったが、やがては怒りをぶつけ始めた。

 ――だけど、貴方だって。

 ――貴方だって、ひどいじゃあないですか。

 ――私が何度も子供が欲しいと言っても、何もしてくれなかった。

 麻美が恨んでいたもの。両親がくれるマムシ酒も、幾度たる彼女の愛撫も意味を成さない、役に立たない私の身体。

 しかし、麻美の真っ当な指摘は私の理性を抑えつけることはできなかった。

 私の腕は麻美の細い首をわしづかみ、壁にたたきつけた。やがて、麻美の小さな頭蓋から西瓜の汁のようにほとばしったのは、鮮やかな赤だった。

 嗚呼、麻美は私の手で死んだのだ。

 愚かな私はその事実を忘れ、縁側に半分残されていた西瓜を貪り、眠った。


「会いたいわ」


 耳元、青臭い匂いと笑い声。

 縁側を振り返れば、締め切った障子の向こう、人間の影が映し出されていた。

 否、それだけではない。影には細長いものがまとわりつき、うねうねと蠢いている。

 黒い頭部がぱっくりと割れ、血をだらだらと流れるままの麻美はもう動かなかった。だから、庭へと埋めた。麻美が楽しみにしていた西瓜が埋まった土の中へ。深く、深く、穴を掘った。あれは夢などではない。夢であってほしいだけだ。

 ぴったりと閉じている障子の間、一本の紐のようなものの先端が見えた。するりと侵入し、戸をこじ開けようと。

 死に物狂いで框を両手で抑えつけた。

「麻美、お願いだ」

 来るな、入って来るな。


「開けてよ、貴方」


 怒っている。当然だ、全ては私が招いたことなのだから。

 あの障子が開いたら。それが、麻美が入ってくる。

 足腰に力が入らないままだが、構わない。四つん這いの体で何とか廊下へとはい出した。誰かが「許してくれ」とつぶやき続けている。私だ。今度は私が麻美に許しを請う番だ。

 ばたん、と重いものが倒れる音がした。振り返る間もなく、裸足の足首に勢いよく巻き付くものがある。見るまでもなく、それが何かはわかっていた。

 貴方。

 倒れた障子の向こう、額に血と長い黒髪をべったりと張り付けた麻美がいた。深緑色の着物から、青白い手足をのぞかせて。

 青臭い草の匂いと、鉄臭い血の匂いに混ざって、いつかの夜に酔った麻美の甘い体臭が届く。

 こんなに可憐な妻を、俺は。

 

「会いたかったわ」


 西瓜の花を見つけたときのように、麻美は嬉しそうに笑った。

 赤と黒と緑が絡み合った彼女の腕は、愛しむような動きで私の喉笛に巻き付く。

 これは、麻美の抱擁だ。麻美は、未だに私を愛している。

「綺麗だよ」

 喉笛にこもった力が意識を途切れさせるまで、それだけを呟き続けていた。

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西瓜妻 暇崎ルア @kashiwagi612

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