第三夜

 麻美のいない家はどうも静かで落ち着かぬ。一人で食うせいか、食事も美味くない。東からもらった梅干しをお供に飯を食べたが、さほど塩辛さを感じなかった。

 成長途中だった西瓜の実は、地に落ちてつぶれていた。そこからまた新たに西瓜独特の匂いが漂っている。

 可哀そうに、と声に出していた。花だけでも咲けばいいなどと麻美は言っていたが、このことを知ればきっと悲しむだろう。

 匂いでまた羽虫が寄ってくるといけない。

 それも足で土深くに埋め込んでいると、ぼごん、と足の裏に何かがぶつかった。

 何事か、と足を引っ込めてまじまじと見たが、動くものはもう現れない。土竜でもいたのかもしれない。

 役場に出て仕事を終わらせたはいいものの、退勤後は嫌に頭がぼうっとしてして仕方がなかった。

 帰宅途中は、人通りの絶えない中を通らなければならない。

 東京を襲った先の震災から、街は少しずつ復興を始めている。町にずらりと並んだトタン屋根のバラック施設では、八百屋や魚屋を営んでいる店も多い。夏のためか、かき氷なども売っている店もあった。

 行き交う人を上手く避けながら歩いているつもりではあったのだが、必ずしもそうではなかったようだ。もう少しで混雑から抜け出せそうなところで身体への衝撃を感じ立ち止まると、私の腰までしか背丈のない少年が私を見上げていた。

「ああ、すまない」

 比較的裕福そうな身なりをした少年の身長は私の腰あたりにまでしかなく、彼の手に握られた器のかき氷は上半分が地面に零れ落ちており、足元と己の手の中を見比べた少年の目がうるみ始める。

 ここで泣かれるのはまずい。

「本当にすまん、坊や。新しいのを買ってやるから」

 頷いた少年の手を引きながら、一番近くのかき氷売りの元まで連れて行く。数分後には、私の財布の小銭数枚と引き換えに、少年は新たなかき氷を手にしていた。すまなかったね、ともう一度謝って離れようとしたところ、手を引かれた。

「おじさんがおぶってるの、何」

 匙を持った手で、自分の視線より遥か上を示した少年の視線が刺さる。

「おぶってるだって? ……ああ、これか。スーツの上着だよ。暑かったから脱いだんだ」

 さっき少年とぶつかったとき、私のスーツは赤く染まった氷で汚れた。暑かったせいもあり、少々だらしないが脱いで右肩にかけていたのだ。少年にとってはそれが珍しかったのだろう。「おぶってる」という表現は過剰な気もするが、そう見えても仕方ないかもしれない。それにこのぐらいの子供の語彙などそんなものだ。

 しかし、少年は首を横に振った。

「ちがうよ。そっちじゃない。反対だ」

「反対?」

「うん、左の方」

 左肩を見るが特段何もない。汗を吸って白から灰色になったシャツが私の肩に貼りついているだけだ。後ろも見てみるが、ツーピースを着た妻らしき女性を連れたソフト帽の紳士が歩き去っていくのが見えた。

「別に何もないよ。何が気にな……」

 少年の方を振り返って、ぎょっとした。子どもらしいふっくらとした顔面は蒼白と化し、薄桃色の唇はぴくぴくと引きつっていた。

 おや、顔色が悪いじゃないか、と近づこうとすると、少年は何故か怯えたように後ずさった。私に近づかれるのが嫌らしい。

「見えてないの」

「何だって?」

 答えは返ってくることはなかった。私の右肩を一瞥すると、少年はかき氷と匙を抱えたまま踵を返し、逃げるように去っていった。今度はかき氷をこぼしたり、ぶつかったりすることなく器用に人混みの中を駆けていく少年の姿を見ながら、私はしばらく狐につままれたように突っ立っていた。通行人の何人かが投げかける「邪魔だ」という視線を感じながら。

 帰宅して寝室に入ると、嗅ぎなれていない匂いが部屋全体に漂っていた。甘いような青臭いような。夏の熱気と合わさって少しむわっとするようでもある。換気のために窓を開けると、少しばかり匂いは薄まった。

 寝室の麻美の布団はまだ敷いたままだ。万年床でも良いだろうとそのままにしてあったが、いい加減干した方がいいかもしれない。畳が腐ったりなどしては面倒だ。

 掛け布団を重ねたまま、敷布団を勢いよくまくる。その下にあったものを見て、腰が抜けそうになった。

 黒い塊が這っていた。網のように絡まった髪の毛だ。何本あるのだか。

 また髪の毛だ。西瓜の蔓同様、麻美のものだろう。麻美の頭皮についている髪の毛は綺麗に感じるのに、抜け落ちると気味悪く感じる。不思議なものだ。

 しかし、これだけの塊で抜けるものなのだろうかといささか疑問に思った。何らかの病を疑わざるを得ない。

 そっと持ち上げ、開いていた窓から捨てる。生暖かい風に吹かれて、ふわりふわりと庭に落ちて行った。


 五日が経つも、麻美はまだ帰ってこない。いつもならば、三日で戻るというのに。

 遅い。なぜ帰ってこない。こんなにも待っているのに。

 痺れを切らした私は、玄関に置かれた黒電話のダイヤルを回した。麻美の実家の番号は覚えている。

『はあい。長谷ですが』

 年配の女ののんびりとした声。麻美の母だ。

「お久しぶりです、お義母さん」

『あいたー康夫さん、久しぶりけんね。そうだ、あーたもたまにはこっちに帰ってきよって。またマムシ酒作ったけん、相変わらず授かっとらんのだろうし』

 機関銃のようにひとしきり喋った後、義母はあっはっはっは、と豪快に笑った。

 義両親から以前もらったマムシ酒の残りはまだ台所に置いてある。麻美から時々、せっかく作ってくれたから、と飲まされるが大して美味しくもないし、世間でいうほどの滋養効果があるとも思えない代物だ。

「――はは、お気遣いありがとうございます。ところで麻美はそこでどうしていますか」

『……ああ?』

「その、麻美に代わっていただきたいのですが」

『なんばいよっと? 代わるも何も、麻美はおらんとね』

 今度は私が、えっと狼狽する番だった。

「そんなはずは、里帰りで数日前に戻ったはずですが」

『うんにゃ、帰っとらんよ』

 嘘をついているようには聞こえなかった。

 馬鹿な。

 受話器を持つ手が震え始める。

「本当に帰っていないんですか」

『おらんよ。……麻美、あーたのとこにはおらんと?』

 電話の相手の声からは焦りを感じた。

 わかりました、と生返事をして電話を切った。

 これは、どういう。

「どういう、ことなんだ」

 部屋の中をふらふらと歩き回る。行く当てなどない。

 麻美は、最初から外になど出ていなかった。

「麻美」

 廊下に出て、呼びかける。返事はない。

 出かけていないのなら、彼女にはこの家ぐらいしか居場所がないじゃないか。

「麻美、出てきなさい。隠れてないで」

 かくれんぼうをしているなら、もう終わりだ。俺がこんなに寂しがっているのがわからないのか。

「麻美、麻美」

 二階にも、台所にもいない。まさか、この家には私一人だけだというのか。

「どこに行ったんだ、返事をしてくれ」

 こけつまろびつ、家の外に飛び出した。

 玄関の石畳を数歩行った辺りに立つ、人影。

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