第二夜

 盆休み最後の日、同僚の東が遊びに来た。このころには大分腹の痛みは減ったが、まだ幾分か調子が出ない私に、東は驚いていた。

「休みだしどっか遊びにでも行ったと思ってたんだけどなあ。……腹痛だって? 大酒飲んだ次の日も平気な君が珍しいなあ。なあに、かゆに梅干し入れて食べればすぐに治る。俺も餓鬼のころ何か患ったときはそればっかり食わされてなあ、不思議なことに効くんだなあ、これが」

「なに、どうせプラシーボだろう」

「何だい、そのプラなんとかいうのは」

「……何でもない、忘れてくれ」

 プラシーボとは、単なる小麦粉でも「万能薬」と称して患者に飲ませれば、思い込みで病が治る現象のことだが、自分でも意地の悪いことを言った。麻美がいないせいで、こんなにも気が立つ。

 久々に人がいる座敷の中、湯呑の載ったちゃぶ台の前で思い出話に花を咲かせる東の声を遠くで感じながら、頭の中で違和感のようなものを感じていた。何かが足りていない。私はきっと何かを忘れている。

「そういえば、あさちゃんはどうしたんだ。いつもにこにこしながらお茶持って来てくれるってのに」

「いないよ」

「喧嘩でもしたか」

「まさか。郷里に帰ったんだ。父親の具合が悪いんだと」

 麻美の父親は何年か前に心臓を患った。今日明日にでも急激に悪化するという状態でもないそうだが、この時期になると麻美は父を心配して郷里に帰るようになった。

「へえ、そりゃ大変だなあ。実家はどこまで」

「長崎だ」

 東京からだと汽車で何時間も揺られていなければならない距離だ。結婚したての頃、一度だけ挨拶に行ったことがあるがそれ以来帰っていない。いずれまた会いに行くべきだとは思っているが、役場の業務に忙しくなかなか行く暇がないのだ。

「あれっ、君って掛け軸の趣味なんか持ってたのか。前はなかったよな」

 東は目をまん丸にして、私の背後の床の間を指さした。

「ああ、これか。人にもらったんだ」

 床の間の壁にかかった一幅の掛け軸。実際にある景色なのかは知らないが、中国辺りにありそうな山河が墨一色で描かれている。

「ああいうのを描くのが趣味のやつがいてな」

 今年の正月そいつがやってきて、半ば押し付けるように置いていったものだ。

「ほお。案外君も顔が広かったんだなあ。よく描けてるじゃないか」

 よっぽど気に入ったのか、東は近づいてまじまじと見、よく描けてるなあと二度も感心していた。

 何故かそれが気に入らなかった。東に早く帰ってもらいたい、という衝動がこみ上げる。

「君、そろそろ帰らなくていいのか」

「おっと、もうそんな時間か」

 空はまだ明るいが、時刻は四時だ。

「じゃあ、そろそろ失礼するか。お茶、ありがとな」

 うちの女房と娘が待ってるだろうからなあ、と東は帰り支度を始めた。豪胆な見かけによらず、子煩悩で愛妻家なことで有名な男なのだ。

「娘さん、今いくつになったんだっけ」

 玄関の上がり框に座って靴ベラを繰っている背中に声をかける。

「来月で二つだよ」

「早いもんだな」

「まったくだ、子どもが大きくなるってのはなあ。二年っていうのは大きいよ。この間まで泣いてるだけだったのが、もう歩き始めてるんだもんな。君んとこはまだ、できなさそうなのか」

 同情するような視線を向けられて、ああ、まだだと答えるしかない。子孫繁栄の神にでも見放されているのか、結婚して二年経つが私たちの間にはまだ子どもはできないでいる。麻美はずっと欲しいと言っているのだが。

「苦労も多いけどな、可愛いもんだぜ。自分の子ってのは」

 幸せそうに呟いてから、東は私の家を後にしていった。今の生活が本当に幸せなのだろう。帰っていく東の足取りはとても軽かった。

 家に入ろうとしたとき、視線を感じた。

「戸塚くんか」

 前かがみになって持て余した長身を縮こませた青年が、隣家を囲む柴垣の前に立っていた。本か何かなのか、平たいものを包んだ風呂敷を手にしている。

 隣家に寝泊まりしている書生は、歌舞伎の女形ができそうな細面の美青年である。

「久しく会っていなかったね、元気だったかい。……君、大丈夫か」

 ぼうっとしているのか「おかげさまで、何とか」と返事が来るまで、時間がかかった。

「元気がないね、暑さにやられたか」

「……どうも、そのようで」

 戸塚くんは様子がおかしかった。女優のようなぱっちりとした大きな目はこちらの様子を伺っているように不安げだ。

 問いただしても「いえ」とか「その」ともごもご呟くだけではっきりとしない。

「おや、その痣は。喧嘩でもしたのかね」

 戸塚くんの見目良く整った右目の周りを赤黒い痕が痛々しく彩っていた。葡萄の実一粒ぐらいの大きさで、相当こっぴどくやられたと見える。

 青年は、痙攣のように身体をびくりと震わせ、指摘された部分を手で隠した。

「は、はい。――そのう、仲間内でひと悶着やらかしまして」

 青年は恥じるように苦笑いした。

「ははは、そうか」

 穏やかな青年かと思っていたが、存外激しいところがあるらしい。

「どうだね、うちでお茶の一杯でも」

「いえ、それには及びません。……あの」

「どうした」

 私の眼前に立った戸塚くんは、右肩に手を伸ばす。

「これは、一体」

 青年が長い指でつまんだのは、ひょろひょろとした草であった。

「西瓜の蔦だね、いつの間についていたのか。有難う」

 私の礼を聞いているのかいないのか、青年は呆然と私の顔を見ている。いや、少しばかり目線が上のように見えた。

「西瓜なんて、一体どこで」

「なあに、うちの庭だよ。ほら、あれさ」

 青年の背後を指さす。

 よっぽど珍しかったのか、戸塚くんは生垣から垂れ下がった緑の紐をじっと見つめていた。

「都会だというのに、よく育ったものだろ」

「なんであんなところに」

「埋めたんだよ、麻美が西瓜好きなものでさ」

「――なんであんなところにいるんだ!」

 何がいるって?

 私の問いには答えず、戸塚くんは真っ青な顔で私の顔を一瞥してから、走り去って行った。どうして庭に誰かいるような口ぶりで話していたのかはわからずじまいである。

 東の湯呑を片づけながら、不快感がじわじわと胸に広がっていく。なぜだ。理由はわかっている。東がその掛け軸を見ることが気に入らなかったのだ。だが、どうして、そんなことで。

 考えていても仕方ない。気晴らしでもしようと、縁側から庭に向かう。吹き付ける強風が、庭の西瓜の長く伸びた蔓をばさ、ばさと揺らしていた。

 すっかり伸びくれて、我が家の囲いからとうにはみ出してしまっている蔓。麻美が今年の春に植えたものだ。必要以上にえらくはしゃいでいた。

 ――ほら、貴方、見てください。

 ――何って、西瓜の種ですよ。お隣の才川さん、奥さんの親戚が農家をやってるんだそうです。それで、さっき分けて頂いたんですよ。

 ――今、植えて育てれば、夏には実が生るんですって。

 ――ふふ、楽しみじゃありません?

 うちの庭でも簡単に実が付くものなのかと私が口を滑らせると、麻美は「やってみないとわからないじゃありませんか」と反論した。

 ――それに、私は花を咲かせるだけでも十分だと思いますわ。

 麻美は西瓜が何よりも好きだ。愛用の着物は西瓜の皮を思わせるような深緑色であり、それを着た彼女を「西瓜婦人」と揶揄うたびに可愛らしく唇を尖らせた。

 日常の家事をこなす傍ら、麻美は自分の子のように西瓜の手入れをした。葉が大きくなってくると接ぎ木をしたり、増えすぎた葉の剪定をしたり。気持ちよさそうに世話をしていた。

 そして、六月が過ぎるころには黄色の小さい花が咲いた。初めて花がついた時の麻美のはしゃぎようは今でもまざまざと思い出せる。初夏の陽光が照らす庭先から興奮したような大声を上げ、二階で書き物をしていた私を呼んだ。

 ――見て、すごいわ。西瓜の花ってとってもかわいいんですねえ。

 西瓜の花一つだけで、少女のように喜べる麻美の純粋無垢さを愛おしく思った。

 彼女の健気な献身のおかげなのか、くねくねと曲がった蔓の先には小さな実がついていた。手入れをしてこのまま放っておけば、店で買えるぐらいの大きさになるのだろうか。西瓜は水はけが良ければ、どんな土でも育つと園芸の本には書いてあったのだが。

 縦に、横に長く伸びた蔓をいじっていると、黒く細いものが巻きついているのが目に入った。おや、と細い糸のようなものは、人間の髪の毛のように見えた。ちぎれぬようにそっと取りはずしてみると、やはりニ十センチほどの長い髪の毛であり、しっかり巻き付いていたからか、くるくると巻き癖がついていた。

 もしかしなくても麻美のものだろう。艶やかな麻美の髪は、背中まで伸びていてちょうどこれぐらいのはずだ。きっと、庭で作業をしている際についたのだろう、と深く気にも留めず捨ててしまった。

 昨日虫がたかっていた西瓜の皮はまだ残っていた。暑い中放っておいたため、皮が腐って甘い匂いを放っていることも虫を誘うようだ。

 手で払いながら、靴の先で西瓜の皮を地面に埋める。こうすれば虫がいなくなるわけなどではないが、見たくないのだ。あともう少し待てば、これも土の肥やしぐらいにはなってくれるだろう。

 それよりも、井戸から水をくんでくる必要がありそうだ。雨も降らず快晴が続く中では、西瓜は水を欲しているはずだ。

 暑い中水やりをして疲れたのか、やけに肩が凝った。今日もまた、早めに布団へ入る。

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