終章 運命の船出
ロレッタは〈戦乙女号〉の甲板から、ティアと共に降りてきた父に駆け寄った。
「父さん!」
叩きつけるような雨の中を、後先を忘れて父の胸に飛び込む.
ロレッタが背中に手を回すと、いくらか痩せた父の体の感触が伝わった。
だが、自分を受け止め、抱き留めた父の腕は変わらず力強かった。
「父さん……父さん……!」
「ロレッタ……」
色々言うべき事があったはずなのに、そのどれもが言葉にならなかった。
父の胸に顔をうずめながら、辛うじて「ごめんなさい」と、嗚咽交じりに謝ると、父のたくましい手がそっと自分の頭に置かれた。
「いいんだ……」
「とっ、とうさ……」
「いいんだ、ロレッタ。俺は、お前が無事でいるのなら、それで……」
雨の降りしきる桟橋の上、親子は多くの人に見守られる中で再会を果たした。
やがて二人は寄り添い、彼らを見守る人々に促されて建物の内へと入っていく。
海賊の残党がいないか、爆薬を取り除くまでは油断できなかった。
雨中でティアたちは手分けして、港の警備に当たる。
しかし、それでも──
あの二人を無事に再会させられたことは、確かに一つの決着がついたことを意味していたのだった。
大きな決着だ。
ティアは桟橋から雨の降りしきる空をあおぎ、顔の水面に雨粒の打ち付ける音を聞いていた。
〇
ロレッタが目を覚ますと、床が全く揺れていない事に違和感を覚えた。
しばらく〈戦乙女号〉の船上で寝起きしていたからだろう。
波に揺れることのない地上の家の、自分のベッドだ。
床の上に立つと、逆に自分の体がゆらゆらと揺れていた。
身支度を整えていると、いい匂いが漂ってきた。
とんとん、と軽く部屋の扉を叩く音がしたので「んふぁい」と、あくび交じりに返事をすると、父の声が扉の外から聞こえてきた。
「朝食の支度が出来てる。今日も港の作業を手伝うんだろう?」
「うん……そのつもりだよぉ」
まぶたを擦りながら答えると、父が苦笑する気配がした。
「気が抜けるのは分かるが、そろそろしゃきっとしなきゃいけないぞ」
「はぁい……」
ロレッタは寝ぼけまなこで返事をしたが、父の言う通りだ。
もうあれから三日経つ。
港の復旧も進んで、ボートで逃れていた海賊の残党も漂流している所を捕らえられたという知らせが入ってきた。
〈戦乙女号〉は今も港に留まっているが、いつ他の船も港に来てもおかしくない。
そろそろなんらかの動きがある頃だろう。
ロレッタはぴしゃりと、一つ頬を自分で叩いて気を引き締める。
しかし──今は父の用意してくれた朝食を父と共に食べよう。
香ばしい匂いに誘われてロレッタは部屋を出ていった。
〇
ロレッタは父と共に家を出て、港の入り口で別れた。
港では今日も復旧作業が進められていた。
爆薬はロッコの指示で安全に取り除かれている。
他にも海賊が荒らして回った各所の施設の修復には〈戦乙女号〉の船員たちが積極的に手伝っていた。
港は活気に溢れている。
爆破されこそしなかったもののあちこち壊されていた港には、資材が運び込まれてその周りで大人たちが男も女も入り交じって、立ち働いている。
そして、桟橋に着けられた〈戦乙女号〉には父の姿もあった。
戦いが終わって丸一日、弱った体を休めていた父だった。
しかし、目を覚ますとすぐに港に出て〈戦乙女号〉の修理に、他の船大工を指示して取り組んでいた。
「この港の恩人の船だ!半端な仕事するんじゃないぞ!」
桟橋に通りかかると、父が威勢よく指示を出す声が聞こえた。
港ではレンシやハルルの兄妹が資材を運び、コーネルが屋根の上の壊れた瓦を注意深く地面へと下ろしている。
通りではロッコが太い丸太を肩に担いで運び、アルトーが井戸端で楽しげに船乗りたちと談笑していた。
──ティアの姿が見えない。
ロレッタは、しばらく港を歩き回ってティアの姿を探した。
だが、それでも彼女の姿は見当たらなかった。
海から離れられないティアが、そう遠くにいるとは思えない。
ロレッタは少し考えた後、心当たりの場所を当たってみることにした。
〇
港から少し離れた岩場にある、漁師たちが小舟を着ける小さな桟橋の上に、ごろりと横たわったティアの姿を見つけた。
「ティア」
ロレッタが声を掛けると、ぐんにゃりと桟橋の上に横たわっていたティアがずぶずぶと水音を立てて体を起こした。
どうやら釣りをしていたようだ。
寝ていたすぐ横に釣竿を立てて、しかし釣れるかどうかは大して頓着していない様子で、ティアはいかにものんびりと、くつろいだ様子でロレッタを振り返った。
「ロレッタか。何か用?」
顔の澄んだ水面をさざめかせて、ティアが尋ねる。
〈
「港で見かけないから、どうかしたかなと思って」
「ああ……」
そんなことか、と言わんばかりにのんびりうなずいて、ティアは桟橋の上に座り直した。
「他の連中はまあ、自由に人前に姿を現しても差し支えないが、私はさすがにな」
「そんなこと……」
のんびりとした口調で釣竿を見詰めるティアを見て、ロレッタは言葉を失った。
「〈翠緑の港〉のみんなは、そんなことで恩人を恐れたりしないよ。……ティアのことも誰か他所の人に口外したりもしない」
「そうだな。この港町の人々は皆、親切で穏やかだ」
ロレッタにうなずき返して、ティアは桟橋の上から足を垂らした。
「昨日の夜は酒場にも招かれた。あれだけ大勢の人の輪の中も久しぶりだった。まるで自分が普通の人に戻ったみたいに接してくれた」
だが、ティアは桟橋の上から海面を見詰めて小さくかぶりを振った。
「でも、私はもう人じゃない」
「ティア……」
「私は人の理から外れてしまった。この身の内には、多くの人の命が巡っている」
ティアはロレッタを振り向き、そっとその胸を軽く拳で押した。
「それを分け与えることだって、自分の意思でできる。……今後も〈
ロレッタはティアに触れられた胸の中央を見下ろす。
そこに宿る、自分以外のもう一つの命。
あの、ティアの『内側』で出会った、ドレス姿の不思議な女性。
彼女の語った言葉をロレッタは思い起こす。
これから何を為すかは、ティア次第なのだ。
「やはり、人と深く係わることはできないよ」とティアは波間に垂れる釣り糸へと、静かに顔の水面を向けた。
「じゃあ、これまでと同じように、なんのアテもなく海をさまようの?」
「いや……」
ティアは革手袋に包まれた自分の手を見下ろした。
「私の中で巡る命……それをあるべき場所へと還す、その方法を探そうと思う」
「えっ?」
「何年かかるか分からない。そんな方法が本当にあるかどうかも分からない。だが、私の内にあり、私に力を貸してくれる者たち、その一人一人と対話をする」
「そこから始める」と、固い決意をもって、ティアはうなずいた。
「これからの私は……その為に旅を続けるよ」
「そうなんだ」
「……此処にも、長居はしない」
ティアはそう言って、結局一匹も釣れないまま、釣り糸を海面から引き上げた。
そのまま桟橋を軋ませて、ゆっくりと歩き去っていく。
「明日の朝、港を発つ。ひとまずは、アルトーたちと行動を共にする」
「……そっか」
ロレッタが小さくうつむくと、ティアはその横を通り過ぎる。
その間際、そっとロレッタの肩に手を置いた。
「ロレッタ、元気で。……父親を大切にな」
それだけを言い残して、ティアはその場を去っていった。
〇
一日、港の復旧作業に励んで、ロレッタは父と共に家に帰った。
「……ティアたち、明日の朝、港を発つんだってさ」
「そのようだな」
夕飯を父と手分けして支度をし、食卓を挟んで食べていると、どうしてもその話題になってしまった。
「一通り、〈戦乙女号〉の修理は済んでいる。船大工のあの〈
「ロッコのことだね。海の上でも材料があれば修理しちゃう腕だし、大丈夫だよ」
「そいつはなかなかやるもんだ」
父が感心したようにうなずくのに、ロレッタも同調する。
「ところで、港の方はもう平気なの?」
「そうだな、一通りではあるが修復も終わった。〈大鮫号〉に乗っていた残りの一味も捕まったようだし、安心していいだろう。まあ、これから先、二度と同じ事が起きないように対策を考える必要があるが」
「それは俺たち大人の仕事だ」とカルドスは、静かに告げた。
そして、食事を終えるとカルドスは穏やかにロレッタを見下ろした。
「ロレッタも明日は朝早いんだろう?今日は早めに寝た方がいいぞ」
「そうだね。うん、そうするよ」
父の言葉にさして深く考えないままロレッタはうなずいていた。
自分の使った食器を手早く片付け、寝支度を整える。
しかし──そうは言ったものの、その夜はなかなか寝付くことができなかった。
〇
空が白み始めた頃、ロレッタは自然と目が覚めてしまった。
他にどうしようもなく、ベッドから起き上がって身なりを整える。
部屋を出ると、家の中に父の姿がない。
少しだけ驚いたが、畑の世話に行っているのだろう、とすぐ気付く。
「じゃあ、他の仕事はあたしがやっとくか」
今日は自分が朝食の支度をしようと、ロレッタは竈に火を入れた。
竈の火が燃え上がって扉を閉め、湯を沸かそうと井戸に水を汲み外へ出る。
すると、父が家を囲う石垣の向こうから声を掛けてきた。
「ロレッタ」
「父さん、お帰りなさい」
「すぐ朝食の支度をするから」とロレッタが家に戻ろうとすると、石垣から駆けて来たカルドスは、ロレッタの手を取り、見下ろした。
「ロレッタ、お前、いいのか?」
「いいのかって、何が……」
「ティアは、もう船を出すつもりだぞ」
その言葉にロレッタは一瞬、胸に刺すような痛みを感じたが、すぐにかぶりを振って父に向き直った。
「なに言っているの、父さん。あたし、父さんを放ってまで、ティアについていくつもりなんか……」
それを聞くと、カルドスは何度も目をしばたいて娘を見下ろした。
「お前はいつからそんな聞き分けのいい娘になったんだ?」
「なにそれ!あたしは……あたしなりに考えて……!」
ロレッタは不満げに抗弁しようとしたが、カルドスはじっと見透かすようにロレッタの顔を見た。
「風が吹いた時、迷ってしまうのは船乗りが一番やってはいけないことだ」
「っ!」
「もう二度とその風を捕まえる機会があるとは限らない。お前がその風を待っていたのだとしたら、尚更だ」
「あたし……」と、うつむくロレッタの肩を、カルドスはそっとつかんだ。
「それに、今回の事で心配をかけたかもしれんが、俺はまだお前に面倒を見てもらうほど老いぼれた覚えは一切ない」
「そっ、そんな言い方って!」
「ロレッタ、俺に付き合ってこの小さな世界に留まる必要はない」
そうきっぱりと言い放って、カルドスはぐっとロレッタの肩を握った。
「ティアと共に冒険へ向かう、この風が吹くのはこのただ一度きりかもしれない。……迷っている暇なんて、ないんじゃないのか?」
カルドスの言葉をロレッタは噛み締めた。
一呼吸、考えた。
そして、ロレッタは顔を上げた。
「……そうだね、ありがとう、父さん。行ってくる」
それを聞いて、カルドスは愉快そうに満面の笑みを浮かべた。
「ああ、行ってこい!」
ロレッタはすぐに自分の部屋へ取って返した。
改めて身なりを整え、靴を履いて手早く背嚢に荷物を詰め込んだ。
最後に、机の上に置いていた木箱──あのオルゴールを手に取り、大事に布で包んでこれも背嚢に入れた。
それを背負ってロレッタは思い切って家を飛び出した。
「いってきます!」
家の扉から父に声を掛けると、窓から顔を出した父が「これももってけ!」と弁当箱を投げて寄越す。
ロレッタはそれを受け取って「ありがとう!」と叫んで家の周りを囲む石垣を飛び越え、家の前の坂道へ飛び出した。
瞬く間に坂道を駆けていくロレッタの背中を、カルドスは家から出て満足げに──ほんの少し寂しげに、じっと見送っていた。
〇
朝のもやがかった〈翠緑の港〉の町並みをロレッタは駆け抜けた。
まだ人々は起き始めたばかりで、家から出てきた所を疾走するロレッタと行き合って、みんなが目を丸くする。
すると、港の入り口辺りで眠そうにまぶたを擦りながら、井戸水を汲んでいるローダンの姿が見えた。
「ローダン!」と呼びかけると、幼馴染の少年は仰天した様子で坂道を駆け下りていくロレッタを見た。
「ロレッタ!?っ、えっ、ええっ!?」
「あはは!船乗りになった時、もしまた海で会うことがあったらよろしく!」
目を丸くして自分を見送る少年に手を振って、ロレッタはなおも港へ駆けた。
港を駆け抜けるロレッタを、働き始めた大人たちが驚いた表情で見送る。
ロレッタ一歩も足を止めず、桟橋へと駆けた。
すると、桟橋で今しがた〈戦乙女号〉を見送っていたらしいイシュマーが、戻ってくる所だった。
端整な顔立ちの〈
「ロレッタ!?」
「イシュマー!〈戦乙女号〉は!?」
ロレッタが尋ねると、イシュマーはとっさに背後を振り返った。
その視線を辿ると、入り江の外へ向けて内海を横切っていく〈戦乙女号〉の姿が、ロレッタにも見えた。
「ロレッタ、待って!君、まさか……」
「ごめんね、イシュマー!あたし、大人しく待っているなんてできないや!」
ロレッタは一つイシュマーに笑いかけると、一息に桟橋を駆け抜けて、そのまま海へ飛び込んだ。
ロレッタは暖かな碧色をした〈翠緑の港〉の海をかき分けて泳ぐ。
朝陽が差し込み煌めく海の中を、ロレッタはするすると泳いでいく。
桟橋で見た時は、到底追いつける距離ではなかったけど──
でも、彼女は気付くはずだ。
海の中できらめく魚の背を見ながら食い下がるように水を掻き続けていると、不意に、ぐん、と水の流れが自分を後押しするのを感じた。
(やっぱり、あんたは放っておけないよね……)
善意を利用するみたいで申し訳ないが、今回ばかりは許してもらおう。
そう考えているとみるみる内にロレッタの体は海の中を巡る流れに後押しされる。
顔を上げると、もうすぐそばに白い戦乙女の彫像が船首に輝く船が見えた。
ロレッタの体は飛沫を上げて、その船の上へと運ばれる。
ロレッタは、その甲板の上にいる船員たちが自分を見上げている一人一人の姿を確かめた。
二人仲良く並んで自分を見上げているレンシとハルルの魚人種の兄妹。
ぽかんと口を開けて呆れた顔をしている〈
腕を組んで、感心した様子で口笛を吹いているコーネル。
羽で舵を器用に操りつつ、盛大に顔をしかめているアルトー。
そして──
朝陽に輝く顔の水面をこちらへ向けて、腰に手を当てているティア。
自らの呪いを解く為に新たな旅路へ漕ぎ出した彼女。
その旅路を共にする為に〈戦乙女号〉の甲板に乗り込んだロレッタの元へ、船員たちが慌てて駆け寄ってくる。
「ちょっとちょっとお嬢!なにやってんですか!?」
アルトーが慌てふためいて、乾いた布を手に駆け寄ってくる。
その後から、ゆっくりと甲板を踏み締めてきた足音の主を、ロレッタは髪から水を滴らせてあおぎ見た。
腰に手を敢えて自分を見下ろす彼女に、お小言を喰らうのは分かっていた。
でも──何を言われたって、自分はその旅路へついていく。
そう固く心に決めて、ロレッタは〈戦乙女号〉の船上で、ゆっくり立ち上がった。
海賊の娘と呪われし水精の冒険譚 りょーめん @ryoume
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