絡みつく果実

鍋谷葵

絡みつく果実

 橙色の陽が蒼穹に滲んでもなお続く酷暑の中、軽い風邪を患ったKは体を引きずって大学から孤独なアパートに帰宅した。

 建付けの悪い扉を開けるや否や、土間にスニーカーを放り、リュックを和室に投げ、シャツを脱ぎ捨てると、年代物の冷房をつけ、開け放たれていたカーテンの全てを閉め切った。そして薄暮の中、Kは倦怠に包まれた体を敷きっぱなしの薄い布団に横たえた。

 けたたましい椋鳥の声と蝉時雨は、重い疲労のために微睡の中にある彼を否応なく倦怠の現実に引き戻した。全身を包む蒸した暑さの中で横たわる彼は、内外の厭わしさから少しかでも逃れるために自分の臭いが染み付いた枕に顔をうずめた。しかし、そうすることで彼が夢幻に浸れることは無かった。

 休息を享受できなかった彼は熱にうなされる重い頭を起こし、顎を枕につけて枕元に置いたスマホを手に取り、何とはなしにSNSを開いた。自分と同年代で、同じような都内の美術大学に通う学生たちの公募展合格の投稿は、彼の中で渦巻く黒々とした後悔の記憶に羨望を施した。

 頭から体に下り、胸元でとぐろを巻き始めた蛇に彼はスマホを投げ出した。古ぼけた畳の上でバウンドしたそれは誰かしらの通知を彼に知らせた。ただ彼はそれに興味を持たず、枕に再び顔をうずめて心象がもたらす憎悪と向き合った。だが、心身に疲労を抱えていた彼は自身の蛇を殺す前に、望んでいた夢幻の世界に浸った。


 *


 月も星も鉛色の厚い雲に覆い隠され、暗闇が延々と広がる波打ち際でKは林檎と白桃を拾った。鮮やかな赤色と白桃色を誇る二つの果実は、ハンカチで拭いても潮水のせいでべたべたとしていた。もっとも、純度の高い石英の如き潮のために、そのべたつきに彼は不快感を覚えなかった。むしろ海によって冷やされた果実は熱に苛まれる彼にとって快いものであった。

 手から体の熱を奪ってくれた果実も彼がゆらゆらと砂浜を歩んでいくうちに、心地よさを失った。もはや自分にとっての価値を失ってしまったそれらを彼は波のまにまに投げ込もうとした。白桃を足元においた彼は、林檎を持った右腕を大きく振りかぶった。しかし手が頭上を通り過ぎようとしたところで、彼はぽとりと砂の上に林檎を落としてしまった。熱で消耗した体は数百グラムの物体さえ自由に扱えなかった。

 砂上に落ちた林檎と白桃を拾い上げると、彼は砂浜に腰を下ろした。さらさらとした砂は痩せて骨張った彼の尻を苛むことなく優しく包み込んだ。

 暗闇の水平線から吹き抜けてくる生温い潮風は、浜の砂を巻き上げた。自然の投擲によって浴びせられる珪素群に彼を不快にさせた。しかし彼をそこから立ち去らせようとはさせなかった。

 彼は倦怠の中でぼうっと打ち寄せる波を見つめていた。掌をゆらゆらと揺蕩わせる透明な海水も、暗がりの中では暗黒の塊、それも意思を持った生物のように思えた。砂浜全てを、いや、自転による風の力を借りて地上の全てを飲み込もうとする怪物のように彼の目には映った。そしていま自分が両手に持つ二つの果実は、そんな怪物が彼を憐れんだために吐き出した龍涎香のように思えた。

 表象を脳裏に宿した彼は、その表象を辿るように両手の果実を鼻に近づけた。林檎と白桃は果実の淡い匂いをかぐわせた。しかし、その匂いも果実に染み付いた潮の強烈な臭いに上書きされた。

 ただ、彼は淡い匂いよりも暗黒の怪物の臭いに愛着を抱いた。臭いに惹かれた彼は林檎を口に含んだ。海を漂っていたはずの林檎はなぜか新鮮であり、果肉はしゃくりと音を立てて彼の口内に瑞々しい甘さを広げた。ただ、しゃくしゃくと果実を咀嚼しても、彼が望んでいた潮の臭いは広がらなかった。彼の口内には倦怠に粘性を与える甘みだけが広がった。彼はそれを嚥下することを拒絶し、傍らにペッと吐き出した。砂上に落ちた咀嚼物は、あっという間に砂に塗れ、暗がりの中に消え行った。

 彼は甘みを掻き出すようにうち頬を舌でなぞると、ペッと唾を吐き出した。それもまた砂の中に消え行った。だが、彼の口から厭わしい甘みが消えることは無かった。

 倦怠にさらなる重みを加えたそれをかき消すために、彼は白桃の皮をぺろりと舐めた。しかし熟れ切っていた白桃の皮は、彼の白んだ舌のざらつきでべろりと剥げ、艶やかな白身を露わにした。果汁はだらりと垂れて、彼の手を汚し、砂へぽたぽたと滴った。彼は自身の手を汚す果汁に嫌悪を抱いた。だが、左手のそれを彼は捨てることなく優しく手で包み込んだ。

 暫時、全ては重力に、潮風に、自然現象の全てに任された。Kでさえも。しかし、色即是空を修得したチベット僧の如き集中を持たない彼のそれは倦怠の中で途切れた。彼は林檎と白桃を砂の上に置くと、脚を抱いた。そして膝に額をこすりつけた。それは粘着性の倦怠から来る頭痛への彼なりの対処療法であった。ただ痛みへの侘しい抵抗は無意味であり、不快な潮風が吹き付けるたびに彼の体調は悪化した。口内には生臭い生唾が溜まり、熱が高まる頭の痛みは鈍痛へと変わり、彼は悪寒に支配され体をぶるぶると震わせた。

 急速に体を蝕んでいく風邪に彼は腐敗した林檎と白桃を想起した。果肉は杏色にかわって柔らかくなり、そこに蠅がたかり卵を産み付ける様が、火花散る彼の脳裏へ鮮麗に描き出された。彼は脳裏の情景に嘔吐を覚え、それは実際に臓腑が全て体外に出てくるような吐き気を催させ、生唾と胃液を足元に吐かせた。固形物の含まれていない吐瀉物は、彼の点滅する視界の中で砂に飲み込まれた。不快の情緒すら与えずに消えてしまう自分の一部に彼は絶望を覚えた。そして、絶望は彼の倦怠を促進させた。倦怠は病状の悪化を促進させ、意識を失うような痛みと悪寒を彼に与えた。体を覆い尽くす不快に彼は倒れた。

 砂上に倒れた彼の眼前には、さきほど齧った林檎と口に含みすらしなかった白桃とが転がっていた。真っ暗闇の中に転がる果実の色は、一層鮮やかであり、倦怠と絶望を彼の内面に渦巻かせ、憎悪を生み出した。ただ彼は自身に憎悪を抱かせる果実を遠ざけるだけの力を失っていた。もはや彼ができることと言えば、果実をどこかへ投げることではなく、彼がそこから遠ざかることであった。

 砂に塗れた腕で生臭い口を拭うと、ぶるぶると震える体を両手で抱きしめながら彼は立ち上がった。ひどい頭痛と悪寒とが彼の運動を拒絶した。しかし彼は強い拒絶の意志、いや、憎悪をもってして果実から離れた。だが果実から離れても彼から憎悪は消えず、彼の体は熱でさらに蝕まれた。

 彼は自身の意識の中で数メートル離れたと思ったところで、地上の全てを飲み込もうとする暗黒の怪物を見つめた。怪物の鳴き声と体臭、その波音と潮の臭いは彼の心を強烈に引き寄せた。『地上を飲み込む怪物』の表象、ある種の幻影だけが彼に愛着を抱かせた。

 彼は震える体を抱きしめ、震える脚で怪物に近づいた。実態を持つ怪物の鳴き声は、彼の震える足を浸した。冷たい唾液は熱にうなされる彼をうっとりさせ、憎悪を忘れさせた。彼の憎悪はただ怪物に飲まれたいという願望であり、それ以外の理性的な意思は全て失われた。意思が総合され、一意的な意思となった彼の歩みに震えは含まれなかった。彼は真っすぐと暗黒の怪物へ、憎悪渦巻く体を浸し、胡乱としながら海水を飲んだ。


 *


 Kの意識は溺死という体で失われ、彼は肉体が真っ暗闇に浮遊する感覚と全身がずぶ濡れになっている不快感で目を覚ました。彼はおぼつかない意識の中、寝汗をぐっしょりと吸った肌着を脱ぎ、キッチンに置かれた型落ちの洗濯機にそれを放ると、隣接する浴室に入った。

 シャワーを浴び終え、意識が完全に覚醒したところで、彼は蝉時雨の喧しさと異様な暑さ、キッチンの小窓から差し込む白んだ暑い陽を捉えた。部屋に戻ってスマホを手に取ると時刻は十一時であった。彼は貴重な夏休みの半日を寝て過ごしたことに後悔を覚えたが、昨日の倦怠が体からすっかり取り除かれていたことがあってそれ以上の『悔い』を覚えはしなかった。彼はそのような情緒に絡みつく感情よりも、自身の空腹を優先した。

 Kは襟付きの白シャツと紺のワイドパンツを着用し、ポケットに財布とスマホを入れるとサンダルを履いて、朝食兼昼食を買いに近所のコンビニに向かった。

 肌を突き刺す鋭い夏の陽光が降り注ぐ、屋外はうだるような暑さで満ちていた。密集する家々のために空気の循環が停滞している町には、多様な排気が混じり合ったために生じた生ごみのような臭いが漂っていた。ことにその臭いは一層強烈だった。

 二重の不快の中、彼は目的のためにさらなる不快を受け入れた。昼間からどこかへ遊びに出ている夏休みに入ったばかりの小中学生、勉強道具か部活動具の入ったリュックを背負って学校へ向かう制服姿の高校生、日傘をさして優雅そうに買い物に励む婦人、ひどい暑さの中でも安全のために長袖の作業着を着てあちらこちらを忙しなく移動する土木作業員の中年、パチンコ屋に出入りする老爺や老婆、そのようなまとまりの欠けた人々の間を彼は辟易としながら歩いた。

 不快に耐え切れなかった彼は、中途で雑踏から抜けた。ただし彼は自身が大勢から抜けることも辟易としていた。そのため人がまばらに立ち止まっている緑のビニール屋根に黄色で『○×青果屋』と書かれた店前に用事があるかのように抜け出た。

 店番をしていた六十代前半程度の太り気味なおばちゃんは、血色が悪くやせ細った青年の登場に目を見張った。ただし、籠に並べた野菜と果物を見たと思ったら、背後の雑踏を見ては再び店頭の商品に目を寄越す、挙動不審で買うそぶりを見せない彼に対する注目はすぐさま失われた。彼女は首に掛けたタオルで頬を伝う汗を拭うと、商いの真っ当な相手である老婦人に注目を向けた。

 店番の注目は臆病な彼を憂鬱にさせ、その注目が老婦人に向いた事実は彼を安堵させた。一瞬昂った心臓の鼓動もすっかり落ち着き、彼は真なる休息を得た。ただ心持ちが安定した彼の視界には、何のデジャヴか、白い箱に詰められたvividな林檎と白桃が映った。それは彼の夢幻の世界からそのまま持ち出されたような果実であり、表象とばかり思っていた夢幻の果実が眼前にあることは彼をヒポコンデリーに陥らせた。荒唐無稽なはずの夢が、脈絡が無いばかりか本来は欲していない夢が、現実と接続していると彼は思いこんだ。そして夢で嗅いだ淡い果物の匂いだけが、彼の嗅覚を支配した。

 幻想から飛び出していた果物を前に絶望を覚え、ひどく狼狽えた彼はポケットに両手を突っ込むと逃げ出すように(人が店頭から自然と去るように)雑踏へ還った。息苦しくて不快なだけの雑踏もいまばかりはありがたかった。それは胸中でとぐろを巻いて羨望の毒を吐き続ける蛇と、自身の生涯を包み込む倦怠。それら全てが不均一な風景に溶け込み、意識の外に追い出せたからである。



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