遥か、人生証明

冷田かるぼ

才能を仮定する



 人生なんてつまらない。呼吸にも拍動にもどうとも思わない、はずだった。


「暖かい春のうららかな日差しのもと、私達はこの高校に入学します。本日は私たちのためにこのような式を――――」


 この日、壇上に立つその凛とした声を聴く瞬間まで僕はそう思っていたのだ。背もたれに全体重を預けて気を抜いていた。ああ、つまらない挨拶だ。テンプレート通り。


 周囲から起こる小声のざわめきと体育館の小窓から見える桜があまりにもありきたりで飽き飽きする。はあ、とため息をついて足元に目をやる。濁り霞んだ色のシートに新品の上履きが転がっていた。つまらない。面白くない。また、ため息。


 そして瞬間、頭上からその声は降ってきた。


「この世に生を受けた意味を見出すため、証明するためにこれからの高校生活を歩んでいきたいと思います」


 そのフレーズだけが変に明瞭で、思わず顔を上げる。そこには一人の少女の背が見えた。暖色の照明に照らされたぶかぶかの上着が光って、マイク越しにかさり、と紙の音。視界の端でこそこそと小声で話す焦ったような表情の教師たち。


 もしかして彼女はこれを今ここで初めて言ったのではないか。そう思わせるほど強い意志を含んだ語気に心臓がぎゅっと縮むのを感じた。自らの脈拍を、感じた。


「以上をもちまして挨拶とさせていただきます。新入生代表、はるか理央りお


 式辞の用紙を閉じて校長に礼をする。そうして振り返った彼女の瞳を僕は一生忘れないだろう。――――それは生きることに縋りつく者の眼だった。






 式が終わり教室に戻る。ざわざわと騒がしい空気の中、高校一年生らしくすぐに自己紹介の流れになった。まあ僕の出席番号は後ろの方だし、としばらくぼうっとしていた。のだが、右斜め前の人が立ち上がった瞬間思わず見てしまった。そしてそのまま視線は固まった。


「遥理央です。好き嫌いはありません。よろしくお願いします」


 と言って、彼女は座った。あの人がまさか同じクラスだなんて全く思いもしなかった。


「じゃあ次」


 若い男の担任が次の人を立たせ、自己紹介を進めていく。やはり興味はなかった。そのはずなのに僕はただ彼女を見つめている。右斜め前に座る彼女の肩まであるふわりと先の跳ねた髪、それに対し頬杖をついた横顔はどこか淡白で強欲な輪郭を描いていてぞくりとした。


 時間を忘れるというのはこういうことを言うのだと思う。担任がこちらを睨んでいるのに気付いた時には少し遅かった。


「おい、次。立て。芳本よしもと


「あ」


 急いで立ち上がる。何を言うかなんてちっとも考えてなかった。


「え、っと。芳本よしもと祐希ゆうき、です。好きなことは読書。よろしく、お願いします」


 座る。周囲の視線が痛いほど突き刺さって正直しんどかった。なんだか居心地が悪くて椅子の位置を調整、座りなおす。がが、と床の擦れる音。やべ、と思うと共にふと彼女がこちらを見た。


 射抜かれた気がした。







「待って、芳本――なんだっけ、祐希? だっけ、とにかくストップ」


 帰りのHRも終わり教室を出て数歩、突然背後から声をかけられた。できれば人が増えてくる前に帰りたいと思っていたから都合が悪い。無視しようかとも思ったが渋々振り向くとそこには遥理央がいた。


「え」


「え、じゃなくて。いや、ごめんね急に。少しキミに聞きたいことがあってさ」


 そう言って彼女はなにやらバッグをがさごそと探り、クリアファイルを取り出した。こうして人と向き合っていると落ち着かなくて、一連の動作を俯きながら見ることしかできない。背負ったリュックがより重くなったように思えた。


「じゃとりあえず一旦着いてきてくれる?」


「あ、え、はい」


 わけがわからないまま返事をした。狭い廊下に人が増えてくる。入学式後だからか保護者も多い。なんで、とかどこに、とか訊くこともできないまま、ただ人混みをかき分けて歩く彼女のあとについて行った。


 遥理央はクリアファイルで首元を扇ぎ、鼻歌を歌いながら僕の前を進んでいく。冷静に考えれば考えるほど何が起きているのか分からない。しかも校舎を出て裏庭の方へ歩いていく。一体どこへ、と思っていると足は止まった。


「ここ。あたしの秘密基地」


 それは使われなくなった資料室のような場所らしかった。なんというか、廃れた小屋のようだった。校舎からは明らかに離れた場所にあるし廃れるのは当たり前か。


「ほら入って入って」


「あの、それより、なんで僕が」


「そういうのいいから。入らないと話さないよ」


 そんなことを言われても僕は連れてこられた側なのだが。いやもうどうしようもない。ええいままよ、がら、と固まった戸を引くと埃っぽい空気が思い切り吹き出てきた。思わず咳き込む。


「ありゃあ」


「ありゃあって、なんですか」


 そしてまた咳。遥理央はけらけら笑って言った。


「ごめんねえ、今朝見つけたばっかでさ。まあまた掃除しておくから、今日のところは我慢して」


 と言って僕の横をすり抜けさっさと部屋に入った。追うように僕も入る。


 資料室という予想は間違っていなかったようで、中には大量の厚い本やら何やらが積まれた棚や埃を被った木の机、椅子がいくつかだけあった。彼女はそのうち一つの机と椅子の埃を払い、座った。


「キミも座りな」


 そう促され、リュックを下ろした後同じく埃を払って座った。少しぎいぎいと鳴る古びた椅子。彼女は脚を組みながら、クリアファイルの中から何か十数枚ほどの紙を取り出してこちらに向けた。


「ねえ、これ読んでくれない?」


「これは……?」


 受け取った。しかし一番上の紙が真っ白で何なのかというのは到底見当が付かない。一枚捲る。そこでようやく分かった、これは漫画だ。漫画の下描きだ、たぶん。その方面にはあまり明るくないから分からない。


「あたしが描いたの。漫画。読んで」


「あの、なんで僕に」


「いいから読んで、そしたら分かるから」


「はあ……」


 基本僕はアニメ派だから漫画は詳しくないのだけれど、と困惑しながらも言われた通りページを捲る。彼女はそれをただ眺めていた。そんなに見られると集中できない。


 手元の紙にはざっくりとした構図とストーリーが綴られていた。ぱらぱら捲る。まあ悪くない、というか、漫画をあまり読まない僕からしても結構面白いと思う。……ただ、良いとは言えないのだが。


「いいと、思います」


「どこが? 具体的に」


「えっと、まず……その」


「ああ、やっぱいいや」


 遥理央は僕が言い淀んでいるのを見てすぐそう差し込んできた。まずい、上手く褒められない。そもそも人と話すのが苦手なんだ、どうしよう。逸らした目線の先で微かな埃が床に落ちてゆく。


「大丈夫。気を遣う必要はないよ。じゃあどこがダメだと思った?」


「え」


「いいよ、本音言って」


 じっと僕を見据える。頬杖をついた彼女の腕にさら、と髪が乗っている。


「お世辞なんかいらない。キショいだけだから」


「きっ……」


 思わず復唱しそうになるのを抑えた。いきなり強い言葉を使われると言葉に詰まってしまう。彼女は表情一つ変えず続ける。


「だってそうでしょ、傷舐められたってキショいだけ。そのくらい自分で治すから治し方教えろって話」


 きつい言葉ではあったが確かに、と思った。彼女はやはり頭が良いからそういう思考が上手いのだろうか。なんだか僕は場違いな気がして視線が足元へ落ちた。


「だからさ、本音を訊かせてよ。その方があたしの役に立つ」


「えっ……と」


「芳本」


 顔を上げる。否応なしに目が合う。


「言って」


 その言葉に思いっきり背中をどん、と叩かれたかのように、全部吐け、と脳内に直接命令されたかのようにそのまま思考を出力させられる。待ってくれ、僕は、そんな。こんなこと言いたく――――


「まず、ストーリーラインが少し雑なところがあると思います。主人公の動機が不明瞭、で。あとあまりこういうことを素人が言うべきではないと思うんですけど――――構図が見にくいところとか、なんというか、絵の問題があるところもあるのではないか、と。普段漫画とか読む方ではないから参考にはならないと思うんですけど、……あ、……ごめ、あの」


 まずい、言い過ぎたと思って止まったときにはもう手遅れだった。


 彼女は泣いていた。真顔で。平然とした顔でつう、と涙を流して、そして軽く拭った。泣いているのになんともなさそうに言い放つ。


「あーごめん。別に傷付いたわけじゃないよ。むしろ感動。初めて見た、キミみたいに何でもかんでも正直に言っちゃう人」


「……それ、褒めてます?」


「褒めてる。少なくともあたしはキミのそういう部分を見抜いたから選んだんだ」


 ――――あ。バレていた。鳥肌が立った。僕の醜い無関心を彼女は見ている。冷淡に見ている。なんで気づかれたんだ、と思うついでに羞恥心が満ちていった。顔を見ることができなかった。


「と、にかく。いい作品だと思います」


「……うん、ありがと。色々考え直してみるよ」


 僕の震えた声に対して平坦な返事。お世辞だと思われたかもしれない。彼女は僕の手からすっと紙束を奪い取ってファイルに戻した。そうして立ち上がる様子もなくこちらを見ている。もう帰っていいよ、とでも言いたそうに。


 だけれどなぜかこのまま帰ろうという気持ちにはなれなかった。なんというか、気まずい。何か言わなければ、と思って咄嗟に言葉を出す。


「――――あの、遥さん、って呼んでいいですか」


 きょとん、とした顔。数秒後、軽く笑われた。


「あは、変だねキミ。どう呼んだっていいよ」


 名字も名前みたいな響きだしねえ、と彼女は零す。その表情はまんざらでもなさそうで、自分の名前が好きなのだろうかとも思った。


「じゃまた今度呼ぶから、その時はここに来て」


 彼女が脚を組み直して、かたり、とがたつく椅子の揺れる音が小さな部屋に響く。


「本日は帰ってよろしい」


 自分はいい上司だと思いこんでいる人みたいな面で遥理央はそう言った。そこでようやく親を待たせているのだと思い至り、僕は埃っぽい資料室から逃げ出すように帰った。







 約数週間後。また呼び出しがあった。朝、靴箱から上履きを取り出そうとしてメモが落ちてきた時はびっくりしたものだ。


 がら、と資料室の戸を開くと前来たときよりも格段に綺麗になっているのが見える。乱雑に積まれていた本などは本棚にきっちり仕舞われているし、ほこりまみれだった机椅子、棚の上もぼんやりと欠けた木目を光らせていた。


 遥理央はその綺麗な方の椅子に腰掛け、カフェオレ片手にこちらを見ている。


「やあ」


「片付きましたね」


「頑張ったんだよこれ」


 失礼ながら彼女は掃除が得意そうなタイプには見えないが、そういうところは優等生らしい。小窓の部分までしっかり拭いてあるのかうっすらと放課後の日光が差してくる室内、彼女はこちらをにやりと見て何かを取り出す。


「で、そんなことよりこれ。直してきた」


 手渡されたのはやはり紙束だった。しかし前よりも厚みが増しているように思える。加筆修正してきたのか。


「ほら早く読んで」


 そう言って急かすので仕方なくページを捲る。一コマ目を見た瞬間、僕の悠長な思考は終わった。おしまいだった。


 あ、これはまずい。前と明らかに違う。絵も整えられているしストーリーの修正も入っている、これ、下手したら呑まれる。物語の中にぶち込まれる。身体が熱を持ち始めた。

 そして欲求に逆らうことができないままもう一枚、読む。捲る。展開が盛り上がっていくとともに体温が上がっていく。そしてまた捲る。何度もそうしているうちに気がつけばもう紙は尽きて物語は終わっていた。ふ、っとようやく現実に引き戻されて一気に身体が冷えていく。


「うっ……わ」


 声を漏らさずにはいられなかった。


 たった数週間だ。それなのに全て修正してきた。登場人物にしっかり芯が生まれ、格段に上手くなっている。上達速度が常人のそれではない。絵自体にはそこまで変化がないとも言えるが違和感のあった部分は確かに最低限修正されている。


 これが、才能か?


 言葉も出しようがなかった。指先が震える。


「はは、いい顔」


 そんな僕を見て彼女は笑った。


「キミ、人生超つまんないみたいな顔してたからさ。変えてやろうと思って」


 またか。また暴かれていたのか。頭を抱えたくなった。今までそんなこと一度も言われたことがない。いや、そんなことをわざわざ言ってくれる人がいなかったのか。


「あたしの漫画読みたくて仕方ない身体にしてやろうって思ったんだよね。大成功」


 いぇーい、なんてピースをしている。思わずため息が出た。してやられた、と言えばいいのか、こういう時は。今までにない感覚でどう表していいのか分からない。まだ身体の芯がじりじりと疼いている。


 彼女は僕が力なく握っていた原稿を回収して座り直した。


「ま、今日の用事は以上かな。他何かある?」


 今度は批評さえ求められなかった。だけれどもやはりなにか名残惜しくて会話を続ける言葉を考えてしまう。そうして、あ、そうだ、と訊いてみたいことが咄嗟に頭に浮かんだ。


「……なんで遥さんは漫画を描くんですか?」


「才能あるから」


「……訊いた僕が馬鹿でしたね」


 と、ため息をつく。即答。そうだこの人はそういう人だった、しかも僕はそんなところにどうしようもなく魅入られてしまっているのだった。


「はは、だって才能のある人間がそれを使わないのは勿体ないでしょ」


 ペットボトルに入ったカフェオレをゆらゆらと揺らしながら言う。彼女は片手にペンを持ったまま、ただその揺らぐ境界を眺めていた。


「……羨ましいな」


 思わず零した。もはや無意識下の発言だった。それが耳に入っていたかは分からないが彼女はそのまま会話を続ける。


「キミは? そういうのないの?」


「さあ、あったのかもしれませんね」


 そう言われて、そういや僕も中学までは小説を書いていたのだったなと思い返す。ある日急に折れてしまったのだが。担任に遠回しに才能がない、下手だと言われて。そこで折れてしまったのだからある意味才能がなかったということなのだろうと受け入れていた。


 まあ今となってはどうだっていいことだった。


 僕は彼女とは違うし。


「そっか。あたし勉強も運動もできるし、顔も人並みには良いし、結局天才なんだよねえ」


「首席取るくらいですしね」


「まあねー」


 遥理央は冗談っぽく笑いながらペットボトルの蓋をくるくると開く。薄い唇が飲み口に触れた。こくり、こくりとその喉が動く。細い首だった。カフェオレの香りが部屋中に広がって、古びた紙の香りと混じってなんだか懐かしい気持ちになった。


「……でも、これで結果残せなきゃ、だめだから」


 呟いて蓋を戻す。から、とプラスチックの擦れる音がした。




 次の日、彼女は学校を休んだ。







 至極どうでもいい教室の中、彼女の席だけが空だった。


 落ち着かない、と思った。僕らしくもなく。授業中も彼女の余裕そうな表情が視界に映らないのがどうも不安で。彼女はどうしているのか、体調が悪いのかサボりなのか、何にせよ。


 気になって仕方がなかったのだ、悔しいことに。


 放課後、連絡でも取ってみるかとスマートフォンを開くと、昨日念の為に連絡先を交換しておいたメッセージアプリに通知が来ていた。


『家来て』


 びっくりした。一旦閉じてみた。そしてもう一度開いた。見間違いではなかった。


『家、知りませんけど』


 困惑しつつもフリック入力で返信をした。指の滑りが悪くて何度打ち直しただろう。


『教えるから来て。独りなの。寂しい』


 すぐに帰ってきたその文面――――寂しい。普段の彼女のキャラクターからは想像もできない言葉だった。これはだいぶ弱っているのではないか。


『じゃあ行きます』


 一瞬で既読がついて数秒後、マップのスクリーンショットらしきものが送られてきた。


『ここ。近いでしょ』


 確かに近かった。とりあえず自転車を取ってから行かなければならない、ということを考えても十分もかからない距離だろうというほど。


『鍵は開けておくから勝手に入って』


 防犯的な観点でどうなのかとは思ったがわざわざそんなことを言うのも変なのでやめておいた。


 とりあえず教室から出て靴箱へ向かう。なにもないと分かっているのに自分の靴の入っていたところの奥を覗いてしまった自分に驚いた。勿論メモなんかはなかった。


 駐輪場で自転車を回収して、スマホを見ながら彼女の家に向かう。なんだか落ち着かない気持ちだ。友人の家に行くなんて小学生ぶりかもしれない。


 マップに示されたそこにあったのは一軒家だった。車などはなく、独り、というのは親が仕事に出ているということかとなんとなく思った。自転車は敷地内に置かせてもらうことにし、玄関のチャイムを押してみた。返事はなく、その数秒後スマホの通知が鳴った。


『勝手に入っていいって言ったのに。どうぞ』


 ……じゃあ、入るか。背徳感と共に扉を押してみる。開いた。本当に鍵はかかっていなかったようだ。玄関は整然としており靴は全て靴箱に仕舞われている。その割には各所に埃が溜まっていて、靴箱の上に倒れた古い写真立てが目についた。


『あたしの名前が書かれた板が部屋の前にあるから、そこに入って』


 言われた通り廊下を進むとネームボードがある部屋があった。りお、と書かれた周りに花やらリボンやら、小学生がやりそうなデコレーションがなされている板だった。なんだか見てはいけないものを見た気がして思わず目を背ける。


 さすがにノックはしなきゃな、という良心は一応存在したのですぐ扉に手をかけるようなことはしなかった。こんこん、とその赤茶色の扉を叩く。はあい、と気の抜けた声が響いた。少し躊躇しつつもドアノブを回し、押した。


 部屋の中は乱雑ながらも自分なりには整理しているのだろう、と言える微妙な散らかりようだった。女子の部屋をまじまじと見るのもあれなのであまり見ないようにはしたが。


 遥理央はその中心にある低い机に向き合い、ラグの敷かれた床に座っていた。


「お見舞いに来るんならなんか持ってきなよ」


「あ」


「まあ、キミのそんな性質くらい分かってるけど」


 すっかり失念していた。ナチュラルに罵倒されたような気がする。不服ながらも何も言えない。近くにコンビニがあったのだから行っておけばよかった。


 改めて見ると彼女は前髪をヘアバンドでまとめ、肩まである髪をくくっていた。見慣れない姿だった。額には熱冷ましの冷却シート。火照った顔は明らかに疲れ切っていて不健康そのものだった。


「そもそもなんで休んだんです」


 僕の純粋な疑問にへ? なんて声を出してペンを置き、伸びをして答える。


「ああ、熱出してぶっ倒れちゃった。最近雑な生活してるからかな」


「馬鹿なんですか」


「はは、そうかも」


 そう言って彼女は床に身体を預けた。ごろごろしている。人前でやる姿勢ではない。ゴミ箱にはぱんぱんにバランス栄養食の空箱が詰まっていた。もしかしてこの人、まともにご飯も食べてないんじゃないか。


「無理しないでくださいよ」


「やだね」


 即答。珍しく僕が心配なんて感情を抱いたというのに。彼女は起き上がり、ローテーブルに向かう。目の下の隈をぐりぐりと押さえペンを取る。もはや病的とさえ言える動作だった。


「あたし、描かなきゃダメなんだよ」


 たぶん、それは強迫観念だった。


「価値が示せない」


 あまりにも冷えた言葉に思わず言葉を失う。価値、なんて。才能のある彼女には既に兼ね備えられたものだと思っていた。


「……あたし、入学式であんなこと言ったのに、誰も何も言ってくれなかった。お母さんも、何も」


「だって、んだもん」


 無言。なんと言っていいか分からないまま僕は立ちすくんでいた。そうなんだとか大変だねとか、簡単な相槌で同情してしまえば済むような場面ではなかった。


「昔親にさ、言われたんだ。あたし、別に欲しかったわけじゃないんだって」


「そっから解んなくなっちゃった。生きる意味とか、なんにも」


「才能があるって仮定しないと前に進めないんだ。証明と同じだよ、ほら、わかる? 数学的帰納法とか。いや、あれは習うのまだ先か。……とにかく、、って仮定しておかないとそもそも動けないんだよ」


 遥理央は畳み掛けた。それは彼女が自身を刺すための言葉だった。でもそれは同時に僕も刺した。仮定。僕が過去に失敗したもの。へし折られたもの。


「だからあたし、ほんとは才能なんて何にも信じてない」


 淡々とした口調とは裏腹に雪崩のように溢れ出る感情。目の前の僕も呑まれそうになってしまう。彼女の本音が僕に襲いかかる。いつも自分のことを天才と称していたのは全て建前だったのか、と分かった瞬間、今まで感じた些細な違和感が解けていった。


 今思えば彼女が自分を天才だから、と言うとき、いつも若干の躊躇があった。必ず冗談っぽく言っていた。本気じゃなかったからだ。


 遥理央は自分を天才だと仮定して生きていた。彼女はぐ、っとペンを握りしめる。


「でも、絶対に止まらないから、諦めないから。夢だって捨ててやらない。死んでやらない」


 熱のせいかその決意のせいか、涙こそ溢れてはいないが彼女の瞳が潤む。


「これがあたしの証明なんだよ」


 痛いほど明瞭に。そして苦しいほど鮮明に言葉を吐く。彼女の声はいつも無関心の障壁を超えて僕の心に突き刺さる。


「あたしが居ない世界なんかより、あたしの居る世界の方が何十倍、何千倍だって良いって言わせてやるんだ」


 それが彼女の宣言だった。入学したあの日よりずっと強く、そしてずっと切実な――――


「人生かけて、そう言わせてやる!!!」


 ――――叫び。どきりとした。遥理央は眩しく輝く。熱を帯びたその頬でさえ、冷感シートを貼ったその情けない額でさえ、彼女は明確に存在を示していた。意味ある存在。もうそんなの、証明できているんじゃないかとすら思えてしまう。だってあなたは、あんなものを描くじゃないか。


 だから遥理央という人間は既に存在意義が証明されているんじゃないか、なんて。そんなこと言ったって彼女はきっと納得しないだろうけど。


「……はぁ」


 疲れたのか、深いため息。僕はそれを眺めたまま何も言えずに居た。彼女は倒れ込むように机に突っ伏した。くしゃり、と下描きのままの漫画が音を立てる。


「嫌いにならないでね」


 弱々しい声がくぐもって聞こえた。


「なりませんよ」


「はは、従順」


 そう言われて、確かにそうだなと思った。僕は今までいつもそうだった。下手だと言われて、じゃあ辞めようと筆を折った。そんな素直に僕は僕の才能を諦めて良かったのか? 彼女の言葉を聞いていると急激に抑えていた何かが暴れ出してくるような気がする。まるでその熱が伝染ったかのように僕の頭の中で欲求が疼く。


 ――――ああ、僕が従順なのは彼女に対してだけでいい。瞬間、思った。小説を書こう。






 そこから得たしばらくの衝撃と一分ほどの沈黙の後、彼女はようやく顔を上げた。そうして目を赤くしたまま、すこし歪んだ笑みを浮かべた。


「なんかずるいね、キミの方が救われた顔してる」


「え」


「そんなにあたしの言葉が刺さった?」


 図星でしかなかった。答えられないままでいると彼女はへらへら笑って立ち上がる。


「もう帰っていいよ。ごめんね付き合わせて」


 彼女の口からごめんなんて言葉が出るのか、と失礼ながらも思ってしまったけれども。そんな今日のらしくない彼女が僕を軽率に救ったのだと考えるとなんだか感慨深いとさえ思える。はは、と彼女の口から乾いた笑いが漏れた。


「じゃあまた明日、学校で」


 そうじりじりと迫って僕を部屋の入口に追いやるので、もうほとんど追い出されているのと同じだった。本当に勝手な人だ。だけれど都合が良かった。僕は今、走り出したくてしょうがない。




 足をローファーに滑り込ませ遥理央の家を出た。急いで自転車に跨りまっすぐに自分の家へと向かう。このままおおよそ三十分。いつもはどうとも思わないこの通学時間を初めて長い、と思った。漕いで、漕いで、信号は珍しく僕を邪魔せず素直に青を出す。僕のこの証明を阻むものなんてなんにもありはしないのだ。




 帰宅してすぐタブレットを開き、数年前のアカウントにログインした。まだいくつか昔のファイルが残っていたけれど無視だ。今の僕は今の僕にしか書けないものを書く。


 虚しいことに数年も経てば人は書き方を忘れるものだ。だがしかしその楽しさだけは忘れられない。書いていて楽しい、と思える。それだけが僕の命綱だった。文章に感情を込めるときだけ僕はまともに人間でいられる。薄情でもなんでもないただの人間。


 昔はこれほどまでに僕を駆り立てるものが何なのか分からなかった。今ならわかる。彼女が教えてくれた。これは――――生への渇望だ。


 一文字、二文字と入力する度に僕の内で何かが疼く。彼女もそうなのだろうか。線を引くたび、黒を塗る度に自らを突き動かす何かに取り憑かれるのだろうか。


 もしそうなのだとすれば、僕はまた救われるだろうな。


 僕は遥理央を追う。追いたい。そうして共に証明をする。生まれたのだ、僕の意味が。キーボードの上を滑る指の感触。より強く感じるため目を瞑り、折られたあの日のことを回想してみる。




『芳本くん、小説書いてるの? 読んでみたいなあ』


 ――――え、先生、ほんとですか。いいですよ。はい、これ。


 嘘、つかないでくださいよ。生徒に対する社交辞令的なやつだったんでしょ、どうせ。


『いいの? ……あー……なるほど、うん、中学生らしくていいね』


 ――――へへ、ありがとうございます。実は賞とか出してみたくて。小説家とかもいいかもなーって思ってます。


 先生、それ褒めてなかったんでしょうね。僕、本当に自惚れてました。だって僕の小説は僕からしたら最高に面白かったから。


『え、これを? ……うーん、そっか』


 ―――――……?


 先生は沈黙した。僕も沈黙した。なんか変だなって分かってはいたんだ。でも僕は純粋に信じていた。自分の小説は上手いと思っていた。だからその後の言葉に、全部壊された。簡単に折られた。


『なんていうか、うん。芳本くん、小説家とか向いてないんじゃないかな』


 ――――え。


 それは、才能がないということでしょうか、先生。そういうことですよね。僕の中で何かが崩れていく。必死に取り繕った顔面がぴくぴくと引き攣るのが自分でも分かった。


『ほら、会社員とか公務員とか、向いてそうだよね。真面目だし』


 ――――そう、ですかね。はは。


 必死に上げた口角は限界を迎えそうだった。仮にも優等生だった中学生の僕はそこで怒れなくて、否定もできなくて、だから――――才能がって、認めたのか?


 ……ああ、ああ、煩い、うるさい、うるさいうるさい!!! 記憶が今に口出すな!!! 僕の将来を無理やり矯正しようとしてくるんじゃねえよ!!


 僕は好きなものを書いて認められたいんだ、僕だって、才能があったらなって何度だって夢見た、このまま好きなことを仕事にすることができたらって、ずっと、本心では諦めきれないままでいた!!


 ――――だから僕は、これから証明するんだろ。僕の才能を、した上で。僕の存在証明を、人生証明をするんだろ。そうして僕はようやく生きられるんだろ!


 そのまま激情に任せキーボードをブン殴るみたいに強く鳴らし続けた。画面上に次々と生まれてくるそれらが上手い文なのかどうかなんてちっとも分からない。


 いや、分かってたまるか。僕は僕が書きたいように書いてやる、そうして快楽を得てやるんだ。その果てに人生の証明となるものが生まれれば――――




 すう、っと抜けていく痛みを帯びた激情。気付けば僕は短編をひとつ、完成させていた。







 そしてまた数週間後、彼女から呼び出し。今度はきちんと前日にメッセージが来ていた。特に用事があるわけでもないけど来い、とのことだ。……突っ込みどころは多いが計画性があるというのは喜ばしいなと思う。今までが雑すぎたのだが。


 相変わらず若干固い戸を開けるとやはり遥理央は居た。いつものことだが来るのが早い。教室をいつ出たのかすらわからないくらいだ。うっすらと小窓から差し込む日光と暖色の蛍光灯に照らされ、彼女の跳ねた髪先がつやつやと光っている。


「遥さん、僕、小説書き始めました」


 こんにちは、とかそういうありきたりな挨拶を言う前にそんな言葉が口をついて出た。まずい、やってしまったか、と思ったけれどそんなことはなかったらしい。


「へえ、面白そう。見してよ」


 顔を上げ、彼女は意外にも興味ありげに返事をした。ほっとしつつ軋む木の床に荷物を置き、目の前にある椅子に腰掛ける。タブレットの電源をつけ、執筆途中だった長編のファイルを開いた。


「完成したら見せます」


「ケチ。あたしは未完成のまま見せたのに」


「そっちは勝手に見せてきたんでしょ」


 あはは、確かに。そんなことを言ってはお互いそれぞれの証明に向き合った。


「まー、よかったね。キミも。また書けて」


 彼女は紙の上に線を走らせながら言う、……って、あれ。


「言いましたっけ。昔書いてたって」


「そのくらい簡単に予想つくよ。漫画か小説、まあ何らかの創作をしてきた人間だろうなってのは分かってたし」


 うわあ、と思わず声が漏れた。何がうわあなの、なんて笑いながら彼女の突っ込みが入る。今までもそうだったけれどやはり彼女は人を見ている。観察している。今までの僕とは違って。彼女はペンを置き、頬杖をついて僕を見た。


「ま、キミもさ、才能あるんじゃない? あたしには及ばずとも」


「どこ目線なんですか」


「あたし目線」


 そりゃそうだろうが。そう言われてまんざらでもないなと思ってしまうのは僕の悪い癖だ。才能ある、なんて今まで一度も言われたことがないけれど。


「っていうかあたし今度コンテスト出すよ。これ」


 原稿をひらひらとさせながら言う。インクを乾かしているのか、と分かるのには時間がかかった。なにせ素人だから仕方ない。


「そうなんですか」


「あとペンネームは本名ね」


「え」


「だってわざわざペンネームにしなくてもいいじゃん、あたしの名前。響きいいでしょ」


 そういう問題なのかとも思うが、確かに言わんとすることは分かる。彼女の名前はどこにいたってはっきり聞こえるのだ。はるか、りお。どっちも名前みたいだけれどとても凛とした響き。


「あたしはあたしの名前で、絶対に賞獲るって決めたんだよ」


 仮定された自信に満ちた光ある眼。彼女の言葉はいつだって鮮烈に僕の脳を侵食する。羨ましいという単語では足りないほど羨望が溢れた。


 でもそれは違う。僕は彼女に並び立ち証明するのだ。羨んで慕っている場合ではない、だから僕は書かなきゃいけない。僕も同じように、賞を獲って。


「あの、今日一緒に帰りませんか」


 ――――気がつけば、そんな言葉が口から出ていた。






「物好きだねえ、キミ」


「まあ」


 そんなことを言っているが彼女はまんざらでもなさそうな顔をしている。リュックの紐を弄びながら僕の後ろを歩く彼女は正直新鮮だった。


 どうやら自転車通学ではないらしい彼女を駐輪場まで付き合わせてしまったのは少し申し訳なかったが、普段入らない場所に戸惑う彼女の雰囲気は子犬か何かみたいで面白かった。


「そーだ、寄り道しちゃおうよ。アイスでも買ってさ」


「えぇ」


「こないだなにも持ってきてくれなかったじゃんか」


 そう言われると言い返せない。根に持たれてしまったようだ。僕の性質を分かっているとか言いながら最大限利用しようとしているらしい。自転車を押す僕の少し斜め後ろを歩く彼女はいつもより幼く見えた。


 仕方ないので立ち寄った彼女の家の近く、狭い駐車場のコンビニ。軽快なメロディと共に自動ドアが開き、足を踏み込めば一瞬で冷たい風に包まれる。


「で、何が食べたいんですか」


 足は自然とアイス売り場に向かう。示し合わせるでもなく二人でクーラーボックスを覗き込んだ。バニラ味の棒アイスとか、チョコレートにアーモンドがかかってるアイスとか。どれもこの暑い日には救世主のように見える。


「んー、これかな」


 そんな中彼女が手に取ったのは二人で分け合ったりするタイプのやつだった。ココア味。あんまり食べたことないな、なんて思った。じゃあ僕はどれにしよう、と選ぼうとしていると横から声をかけられた。


「はんぶんこしよーよ。そういうの青春っぽくない?」


 かしゃ、と彼女の持つアイスの包装が音を立てた。青春なんて軽々しい言葉は嫌いだ。若さというものを変に神格化しているみたいで。だけど彼女の言うその言葉にはそういう意図がなくて、ただ青春を青春というそのままの意味で使っているように聞こえた。


「いいですけど」


「じゃ割り勘ね」


「いや、僕が出します。百数十円程度を割り勘する方が馬鹿らしいので」


「……そう、ならお願いするけど……」


 あえて強く出たらちょっと引かれた気がする。最初から奢らせる気だと思っていたのだが。なんだか今日の僕はやけに強気みたいだ。財布を取り出して生暖かい硬貨を握る。一緒にレジに並んで会計をしたけれど、彼女は支払い後すぐアイスをかっさらってコンビニから出ていってしまった。


 それを追って外に出ると先程の涼しさが嘘のようにじっとりと湿気を含んだ空気が身体を包む。彼女はべり、と包装を破る。買ったのは僕なのにそれを見せつけるように中からアイスを取り出した。


「ほれ、はんぶんこ」


 ぱきり、と音がして二つのアイスは分かれた。彼女が差し出したプラスチックの容器は既に水が垂れていて、夏の冷たいものはこういうところが良くないんだよなあと思った。


「うっわ、溶けるの早」


 珍しくテンションの高い彼女が言う。あつい空気に呑まれ溶けて液体になっていくそれはアイスと言うよりそのまんまココアみたいになりつつある。彼女は開け口を簡単にちぎって、喰んだ。そうして何か悶えるような声を出して、満面の笑みで言った。


「……っあー、つめた! いいよねこういうの、アオハルって感じ。小説のネタにしてくれていいよ」


 アオハル、とわざとらしく発音したのが若干癪に障るがあえて触れなかった。青春はともかくアオハルというのは本当に気に食わない。しかも僕が書いているのは青春小説ではないし。蓋部分を苦戦しつつ取り外す。


「どこ目線なんですかほんと」


「だからあたし目線だって」


 その返答、気に入っているのだろうか。そんなに面白くもないけれど。ちゅう、と氷の粒が混じる溶けたアイスを吸った。口内が一気に冷えてじんわりと身体に冷気が広がっていく。


「……別に、気を遣わなくてよかったんだよ」


 少し弱った声。……もしかして彼女は僕がコンテストに追われる彼女を気にかけて誘ったと思っているのだろうか。そんなことができるほど僕はできた人間じゃないというのに。あと気を遣っても遥理央にはちっとも刺さらなそうだし。


「気なんて遣ってませんよ、遥さん相手に」


「それ、喜んでいいやつ?」


「もちろん」


「じゃあ、やったー」


「じゃあって」


 あまりにも棒読みで思わず笑みが溢れた。そういえば彼女だってただの女子高校生で、僕だってただの男子高校生なのだ。そう考えると青春、というのもぴったりなのかもしれないななんて、不本意ではあるけれど思う。


「……ってことはキミがキミの意思であたしを誘ってくれたんだ?」


 どこか意味ありげな笑み。


「まあ、そういうことになりますね」


「ふーん。へぇー。キミも成長したねえ」


 やけににやにやしてこちらを見てくる。僕のことを何だと思っているんだ、いや、成長したというのは間違いではないかもしれないけど。


「なんですか、にやにやして。気持ち悪いですよ」


「うわ、辛辣なことまで言えるようになったの? それは要らない成長かも」


 そんな軽口を叩き合ってまた笑う。プラスチックの容器に残った僅かな残りをこんこんと叩いて口内に流し込む。少しぬるくなった甘味がじんわりと舌の上を滑った。僕はかこん、と容器をゴミ箱に捨てる。


「……賞獲ろうね、二人で」


 どこか湿っぽい口振り。思わずその顔を見た。彼女は空になったアイスを見ていた。


 僕、コンテストに応募するなんて彼女の前では一言も言ってないんだけどな。彼女にはもう何だって見透かされているのかもしれない。でもわざわざそれを言うのもなんだか嫌だった。


「はい」


 だから否定することなく単に受け入れた。彼女はぽい、と容器をゴミ箱に捨てた。そうして一瞬どこかを見つめて、僕に向き直った。


「うん、じゃあもう帰ろ。またね」


 切り替え、三秒。勝手にも彼女は手を振って帰っていった。引き留めようとも思わないままその後ろ姿を見ていた。途中から走り出したのを見て、僕も急に走りたくなった。そうだ、僕らは証明しなきゃいけない。


 自転車に乗って急いで家に帰る。そうしている間にも炎天下、僕の中でふつふつと文章の素が煮立っているから。証明の欠片が帰路に散らばって、硝子のようにきらめいている気がした。







 それから数カ月間呼び出しはなかった。その間に夏休みやら文化祭やらありきたりな学校行事が過ぎていった。そんな中でも彼女は学校を休みがちだったし、コンテストに全力を注いでいたのだろうと思う。メッセージで連絡を取ってはいたけれどそれも頻繁ではなかった。




 彼女の応募したというコンテストの結果が出る日、放課後。夏が過ぎ去ったあとの冷めた風が窓から入ってくる。一日が終わった疲労による余韻に身を浸らせていると、どこか落ち着かない様子の彼女が僕の肩に手を置いた。


「このあと、発表見るから来て」


 彼女はそれだけ言って教室からさっさと立ち去る。正直わざわざ言われるまでもなかった。僕にしては珍しくそういう大事な日付を覚えていたし。学校で普通に話しかけられると上手く返事ができないので頷くことしかできなかったが。


 急いで机上の荷物をまとめる。あ、やばい、あの課題出してなかったな。出してから行くか。……遅くなりそうだ。流石に彼女も怒りそうだし急ぐか。教材をリュックに適当にぶち込んで背負った。




 課題の提出をさっさと終え木々の影をすり抜けて小走りで向かう、裏庭の廃れた小屋。その前よりは少し滑りがマシになった戸。勢いよく開くと遥理央が思い切りこちらを睨んでいた。


「遅い」


 案の定ご立腹のようだ。


「遥さんが早いんです」


「言い訳はいいから。今日くらいは早く来てくれて良かったんじゃない?」


「すみませんでした」


 不満そうなその声に対し雑に返事をしながら荷物を置く。さて座ろう、としたがいつもの場所に椅子はなかった。あれ、と見渡してみる。彼女の座っている椅子の隣にいつも僕が座っている椅子があった。


「ほら、ここ座って」


 彼女はぽんぽん、と空の椅子を叩く。どうしようもないので言われるがまま隣に座る。彼女がこんなに近くにいるのは初めてだった。なんだか初めて遥理央を見たような気がした。改めて見る彼女は自分で言っていたように普通より綺麗な顔をしていた。でもそれは彼女の証明に何一つ関係ないのだろうな。


 彼女の伏せた目はどこをも見てはいなかった。ただ評価だけを、結果だけを求めて言う。


「キミので見せて。あたし、持ってたら一人で見ちゃいそうだから持ってないの」


 そうだろうなと思った。仕方ないですね、なんて言いながらリュックから取り出したタブレットを共有して二人で画面を見た。コンテスト名で検索するとすぐ発表ページが一番上に出てくる。


「開くよ? 良い?」


「はい」


 それが彼女自身に向けた準備の言葉であることは僕にも分かった。しかし頷いたにも関わらず彼女の指は動かない。画面に触れたままだ。どうしたのだろう、とその顔を覗き見る。


「……ね、代わりに動かしてくれない?」


 下がった眉に不安そうな目。声が震えている。ああ、彼女でもそうなることはあるのか、と少し安心した。代わりにページを開きゆっくりと画面をスクロールする。溢れ返る絵、ペンネームの中から彼女の名前を探して。遥理央を、探して。


「あ」


 そうして行き着いたページの下部、そこに記された遥理央という名前――――そして、横に並ぶ佳作という文字、彼女の描いた絵。呼吸が止まった。遥理央は本当に賞を獲ったのだ。ぶわ、っと心の奥から自分のものとは思えないほどの喜びが広がる。彼女はどんな顔をしているのだろう、と隣を見た。


 彼女は口元を隠し笑っていた。こちらの視線に気づき、とびきりの笑みとともに囁く。


「はは、ひとつめ」


 しかしそれはちっとも満足していない眼だ。彼女にはまだまだこんな賞じゃ足りない。遥理央の人生証明には材料が足りない。むしろここからなのだ、彼女の証明が始まるのは。強欲にも彼女は世界からの承認を求めているのだから。


 ようやく緊張が解けたようで、彼女は深くため息をついた。そんな姿を見るのは初めてだった。


「おめでとうございます」


「ありがと」


 しばし、沈黙。


「次はキミのターンだね」


「そうですね」


 ぐい、と伸びをする。ここ最近パソコンの画面を見すぎて肩が凝っているがそれは仕方ない。日々のストレッチでも始めてみるかなんて思ったりもした。


「そっちは獲れそう?」


 訊かれて、今執筆している作品のことを考える。たぶん悪くない。自信はないけれど、だからといって卑下するようなものでもなかった。僕が書きたいように書けている。それだけで十分だ。


「ま、頑張れば」


「その意気だ」


 微笑んで彼女は手のひらをこちらへ向けた。もしかしてこれも彼女の言う青春ってやつだろうか。むず痒くて慣れない感覚、しかしそれが今は心地良かった。


 ぎこちなくも狭い部屋に響く乾いた破裂音。人生で初めてのハイタッチとやらだった。


 そう、僕らの証明はまだ最序盤だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遥か、人生証明 冷田かるぼ @meimumei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説