アラーム

各務あやめ

第一話

 リリリリ、リリリリ……。

 リリリ。

 目覚めを告げる時計の音。重たい瞼。数時間ぶりに、目を開いた。

 ―起きて。

 ハッとした。慌てて飛び起きて辺りを見渡すが、そこには誰もいない。

 確かに今、声が聞こえたような気がしたのに。冷酷で、淡々としていて。けれど優しくて、穏やかに道を指し示してくれる、そんな声が。けれどやはり、ここにいるのは私ひとりだけだった。

 まだ頭が少し、ぼんやりとしている。でもそれが心地いい。その気持ちいい感覚にしばらく浸って、柔らかい毛布から身を離す。顔を洗いに、部屋を出た。



 この日、この家には自分以外の家族は不在だった。いるべき人間がいない我が家は、どこか知らない場所に見える。しんと静まった空間で、自分の足音だけが鳴っていた。

 胸の内は騒ぎ続けている。家族のいないこの場が今、非日常だからだろうか。そう思ってから否定する。朝、自分が家にひとりなのは今日に限ったことじゃない。だからそれは理由じゃないのだ。こんな感情なのは、『あれ』をしたから。思い出すと、胸を張り裂くような何かに襲われた。嫌な予感がしている。

 突然、家のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 ピンポーン。

 

 眠気で頭が回っていないせいか音が鳴った一瞬後でようやく、あ、チャイムか、と私は気づく。インターフォンの前まで行き、そこに映し出された玄関口の映像を覗き込む。けれど、そこには誰もいない。コト、と何かを置くような音が、微かに外からした。玄関に向かい、扉を開ける。

 そこには、足元にひとつ、小さな段ボールの箱が置いてあるだけだった。宅配便の置き配のようで、家族が頼んだ荷物なのかもしれない。箱はそれほど重くなかった。

 普通の四角い段ボールだ。雨に濡れて滲んだようで、受け取り人の欄の『佐藤』という自分の名字が何とか読めるだけだった。家の誰宛てなのかは分からない。

 張り付けてあるビニールテープを、爪でぺりぺりと剥がしていく。蓋を開けると、白いタオルにくるまれた何かが目に入った。

 段ボールを地面に置き、その『何か』からタオルを取る。何重にもそれは巻き付けられていて、くるくるとそれを回転させながら解いていく。

 息を呑んだ。

 私が持っていたのは、ナイフの柄の部分だった。刃先が反射して白く光っている。私は危険じゃないですよ、ただの贈り物ですよ、と物語るように、それは私の手の中に当然の如く存在している。やけにキラキラと輝く刃は、十分鋭かった。

 

 ピンポーン。


 静寂な空間に、チャイムの音だけが鳴り響く。

 私は玄関の扉を振り返る。先程自分で開けて閉めて、けれど鍵は掛かっていないその扉を。ナイフを持ったまま、思わず一歩、後ずさる。


 ピンポーンピンポーン。

 ピンポーン。


 何度も何度もチャイムが鳴る。本当に聞こえているのか、それとも自分の脳内で反芻されているだけなのかは分かたなかった。がた、と向こうの誰かが誰かが扉の取っ手を掴んで、引き寄せる。扉の隙間から、すーっと外の明かりが漏れてくる。ゆっくりと、スローモーションのように、ひとつの人影が覗いてくる。

 「そのナイフを、下ろしなさい」

 現れた人物は、開口一番にそう告げた。抑揚のない、冷めた声。

 「下ろしなさい、そのナイフを」

 一歩、また一歩と近づいてくる。私も一歩ずつ、後退する。私の背中側は、行き止まりだ。

 玄関口を越え、土足のまま、その人物は家に上がってくる。家族以外の人間が、自分の家にいる異物感。とてつもない違和感と恐怖で息が詰まる。

 ぱた、ぱた、と靴を廊下に叩いて、近づいてくる。こちらをじっと見つめて、一直線に、向かってくる。

 来ないで来ないで来ないでこないで……。

 カチャーン、と金属音が廊下に響き渡った。

 心臓が掴まれたかのように、私は震えあがる。手汗で滑り、ナイフを取り落としたのだ。

 そのナイフを、別の手が取る。

 「ねえ」

 しかと肩を掴まれる。息がかかる距離まで詰め寄られる。

 鋭いナイフの輝きが、視界の真ん中に映った。

 「嫌だっ……」

 さっ、と目の前で手が振り下ろされる。喉から悲鳴が絞り出され、何も抵抗できずに目を瞑る。

 「私の質問に、答えて」

 けれどいくら待っても、その瞬間は来なかった。代わりに彼女の声が、頭上から降ってきた。力強く腕を掴まれ、そのまま家の奥に連れて行かれる。振り解こうとしても、力の差に抗えない。

 カチャーン、と背後で音が鳴った。振り返ると、彼女の手から放られたナイフが廊下を勢いよく滑っていた。床の上でくるくると刃を回転させながら遠ざかっていく。そのまま玄関の扉に行き着いて、当たって、止まった。



 リビングで、私たちは向かい合わせになってテーブルに座っていた。緊張で体は凝り固まっているはずなのに、まるで力が抜けたように思い通りに動かなかった。相手の表情を確認したくても、目は合わせられない。合った途端、そらしてしまいそうな気もした。

 「両親は、いつまでいないの?」

 どこか腑抜けするような声だった。ドラマのシーンとは違って、彼女は脅迫も逆上もしない。どこにでもいるような普通の女性で、どこでも聞くような普通の話し方。そのことが、今この場面が現実に起こっている事なのだと私に認識させた。

 両親は明日には帰ってきますよ、と返す。自然と敬語になっていた。途切れ途切れで、枯れた声しか出ない。

 「どうして、今はいないの?」

 すぐに答えなければいけないように思えて、乾いた口を懸命に動かした。

 「仕事ですよ」

 両親は多忙で、たまに出張が重なることがあるので別段珍しいことではない。母は明日帰って来る予定だった。

 「じゃあまだしばらく、ひとりなのね」

 彼女はそう言って、立ち上がる。椅子の足が床と擦れるギッ、という音にさえ背筋が凍えた。彼女は私の背後を通って、キッチンの方向に向かう。

 カチ、と電気をつける音がした。その音だけで震え上がった。カチャカチャとガラスが当たっている。こっちかしら、と呟き何度も戸棚を開けたり閉めたりする音。やがて、シュー、と蒸気が抜けていくのが聞こえた。ほとんど毎日耳にしているからすぐに分かる。お湯を沸かしているのだ。

 何十秒、何分待っていたか分からなかった。時間の感覚がおかしくなるくらい、頭が真っ白だったのだ。ただじっと目の前のテーブルの木目を見ていると、視界にマグカップが映った。

 並々と注がれた液体の揺れが、ありえないくらい遅く見える。「飲まないの?」と再び私の正面に座って、彼女が聞いた。

 「あなた中学生よね?」

 「は、い」

 「学校行くわよね? 何時から?」

 家を出るのは七時過ぎだ。本当なら今だって、こんなにゆっくりしている場合じゃない。

 けれど、言わなかった。

 「ふうん」

 何も答えてないのに、彼女はひとりで納得したように、二回頷いた―気配がした。顔はまだ上げられていない。

 「平日だし、学校はあるわよね」

 だから早く準備したら、と続ける彼女の声は、いつもの朝の母と重なった。まるで私が家を出ることを望んでいるような、誘導するような声。

 私がこの家を離れたら、彼女は何をする気なのだろうか。そもそも私が家を出るのを彼女は許すのだろうか。

 この人は、一体、何がしたいんだろう。

 突然この家にやってきて、無理矢理自分を引き連れて椅子に座らせて、お茶を出して。まるで普通の知り合いのように私と話をして。

 あのナイフの鋭さが脳裏をよぎった。鮮明に思い出して、息が止まりそうになる。

 「学校には、行かない」

 強く、私は言った。

 「あらそうなの? 今日はあなた以外に誰もいないって聞いてたから来たのに。もうきっと間に合わないわよ」

 それでもいいの、間に合わないわよ、と何度も言う。

 私は、ほんの少しだけ視線を上げる。さっきこの人がいたこのキッチンは、母か家政婦しか立っているのを見たことがなかったのに。天井からぶる下がったシャンデリアが彼女の手元を照らし、テーブルの上に影を落としている。

 彼女が何をするつもりでここに来たのかは、分からないけれど。私にここを立ち去ってほしいと思っていることは、分かる。

 「学校は行かない。私はここにいる」

 そう、と彼女は呟いた。仕方ないわね、ともう一度立ち上がる。

 テーブルのこちら側にやってきて、ふわっ、と甘い香りが微かに鼻をかすめた。すごく嫌な香りだった。

 その香りから逃げたくて、私は咄嗟に目の前のコップを手に取る。勢いよく喉に流し込む。

 乾いていた口が、一気に潤った。同時に目が眩らみ、脳内がぼんやりとする。

 「ここに閉じこもってたって、何も変わらないのよ。どれだけあなたが葛藤していても、世間はそんなの評価しないの」

 彼女が言うのが、少し遠くから聞こえた。

 「人と関わりたいなら、相応の努力をしなさい。助けが欲しいなら、自分の言葉でそれを伝えなさい」

 私は息を深く吸い、朦朧とする意識を立て直そうとする。

 振り返ると、立っている彼女と目が合った。

 彼女―叔母は、一度視線が交わると、眉を寄せて尋ねた。私は、何も出来なくなるくらい胸が痛くなる。後ろめたさで、ずっと顔を見られなかった。叔母はひどく歪んだ表情で、どうして、と私に尋ねる。

 「どうして、ナイフなんて私の家に送ったの? 絵梨ちゃん」

 ごめんなさい、と言うことしか、私にはできない。

 


 「昨夜、包丁が入った段ボールが私の家に届いた時、すごく戸惑ったわ。送り主は私の姉、つまりあなたの母親だったけれど、姉さんは茶菓子を送ると電話で言っていたの。でも、箱にはタオルにくるまれた包丁一本しかなかった」

 艶のある髪を耳にかけながら、私の叔母は話す。この声を聞くのは久しぶりだった。前に会ったのが何年前だったかはもう覚えていない。

 「何かの間違いなんじゃないかって思ったのよ。だから本人に聞く前に、この家に来たの。段ボールを手に取ったあなたの表情を見た瞬間、すぐに分かったわ」

 叔母は全て見抜いている様だった。

 私は学校が嫌いだ。なぜ嫌いなのかは、もう自分でもよく分からない。

 ただ、誰もいない空っぽの家学校に行きたくなくて、でも中学生という身分の自分に、それ以外の選択肢はないのだ。清水の舞台を飛び降りる決意で登校を拒絶しても、母は顔をしかめるだけだから。母の語気が強くなる度、私は自分を押し殺す。毎日、身をすり減らしている気分で、気づいた時には、もうどこにも居場所も、気を許せる相手も失っていた。

 ある日机の上に置かれていた、段ボールと、もう古いからと母が捨てようとしていたタオルに包まれた包丁。入れるとぴったり、収まった。

 両親はよく家から離れた。この広い家にひとりでいると、まるで取り残されたような気分になる。

  『絵梨、学校は楽しい?』

 たいてい、母が家を出るのは私より早く、帰るのは私より遅い。そんな母が、疲れた顔で、貴重な顔を合わせられる短い時間にそう聞いてくる。楽しいよ、と答えると母は安心した表情でまた仕事に向かった。足を引っ張ってはいけない、と私は一度登校を渋ったきり、本当のことを言うのをやめた。それを口に出しても聞いてくれる相手もいなければ、しかし口に出さずに我慢しても自分を殺すことになった。結局右に行っても左に行っても苦しいままだ。

 「私、あなたがまだ赤ちゃんだったころ、よくベビーシッター役だったのよ? 姉もあなたのお父さんも、何かと忙しかったから」

 叔母はテーブルの上に置かれた空になったマグカップを取り、キッチンに持っていく。帰ってくると、そこには温かいミルクティーが注がれていた。両手で受け取ると、手のひらから体の芯まで、その温かさが染み渡っていった。

 「あなたは覚えてないだろうけど、結構私に懐いてたのよ? あなたはよく泣く子だったから、いつも大変だったけどねえ」

 心底懐かしそうに、目を細めて言う。

 叔母が、最後の砦だったのだ。本音を人に話すのにはリスクが伴う。ありのままの自分を相手に受け入れてもらえるのか、と不安になる。自分の寂しさも苦しさも、言語化しようとすると、ただの子供じみた、ありふれた悩みにしか思えなかった。

 血の繋がっている叔母が。たとえずっと会っていなくても、身内の叔母が。

 「それでも私は、とんでもないことをしました」

 私は椅子から立ち上がり、頭を下げる。

 「あの包丁に、深い意味なんてないんです。分かってもらえないかもしれないけど、本当に、何でもないんです」

 本当にごめんなさい、と謝る。

 叔母は答えなかった。代わりに、私から数歩離れて、窓の外に目をやる。

 「明日、学校でしょ? こんな時間まで起きてたら駄目でしょ?」

 明かりが、窓から漏れている。綺麗な、月明かりが。

 叔母はきっと、あの包丁が家に届いてからすぐに、この家に駆け付けたのだろう。それだけ包丁の贈り物というものが持つ意味は、不気味だったのだ。

 「明日は、良い天気になりそうね」

 叔母の優しい声を聞いていると、涙が出そうになる。夜が明ければ、明日が来てしまう。明日が来れば、学校に行かなきゃならない。

 丸い月を見ていたら、視界がぼやけてきた。足元もおぼつかなくなり、思わずテーブルに片手をつき寄りかかる姿勢になる。

 「叔母さん、どうしよう」

 気がついたら、口がそう動いていた。叔母がこちらを振り返る。

 「どうしよう、学校行かなきゃ。明日の夕方には、お母さんも帰って来るんだよ」

 母は、私が毎日学校を楽しんでいると思っている。私がそう振る舞っているからだ。けれどなぜか、母の前で笑顔を作る程、学校に行く足取りがさらに重くなっている気がする。

 「どうしよう」

 私は、包丁という道具を使って、言葉で本音を伝えることから逃げたのに。卑怯な真似をして、真正面から人と向き合うことを諦めたのに。それなのに今更、何を言っているんだろう。叔母の優しさが身に沁みる程、自分の弱さを突き付けられる。

 こんな状況なのに、私はあくびをしていた。瞼が重く、目をほとんど開けていられない。あんなものを送ってしまったという罪悪感と後ろめたさで体が忘れていたが、そういえば叔母が来る前からずっと、眠たかった。もう深夜になる。

 「眠りなさい」

 気がついたら、私は叔母に手を引かれて廊下を進んでいた。寝室に連れられ、横に寝かされる。

 「おやすみなさい」

 叔母は私の体に毛布をかけると、去ろうとした。いつも使っている毛布だったが、こんなに柔らかいだなんて知らなかった。思考があやふやな頭でそう思いながら、私は叔母の後ろ姿に呼びかける。

 待って。行かないで。行かないで。行かないで……。

 小声だったので、叔母には届かなかったはずだ。けれど彼女は寝室の扉を開ける前に、きちんとこちらを振り返った。

 「安心して。アラームは、ちゃんと鳴るのよ」

 私は自分の枕元に置かれた目覚まし時計に腕を伸ばす。寝転がったまま時計の針を読むと、しっかり明日の六時にセットされていた。

 アラーム鳴ったら、起きなきゃじゃん……。学校行かなきゃじゃん……。

 それでも私は目を閉じて、ゆっくりと呼吸をする。

 そのまま深い、静かな眠りに落ちていった。数時間後、アラームが鳴るまで、眠っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アラーム 各務あやめ @ao1tsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画