終沫

「凪砂」

 下ろしたばかりの新品のローファーを履いていると、背後から声をかけられた。

「今日、晩ごはん何がいい?」

「うーん……ハンバーグ、とか?」

 少し考えてから答える。『分かったよ』と、祖母はいつものように優しく笑った。

「行ってらっしゃい」

 行ってきます!と笑い返して、ガラリと玄関の引き戸を開ける。朝の柔らかな陽だまりが、優しい色をして私を出迎えてくれた。

 九月半ばの中途半端な季節の空気が、ポカポカしていて心地いい。まだ少し蒸し暑さは感じるが、真夏の極暑に比べたら全然マシに思えた。

「よっ」

 家を出てすぐのところで、制服姿の湊斗が塀にもたれかかっていた。私の存在に気がつくと、気軽そうな装いで手を振る。

「ごめん、待った?」

「いや、俺も今来たとこ」

『行こうぜ』と、湊斗は私の前を歩く。私も追いかける。二人並んで、アスファルトの上を歩いた。

「学校どうなの?転校してそろそろ二週間くらい経つけど」

 ありふれた世間話でも、湊斗が言うとすごく違和感がある。あまりに似合わなさすぎて、私は思わず吹き出しそうになった。

「なんかねー、私のこと覚えててくれてた子が何人かいたの。『小1のとき転校した子だよね?』って」

「流石、ド田舎なだけあるな」

「でも私はあんまり覚えてなくてさー、なんか申し訳なかった」

 ふふふ。と私は笑う。良かったな、湊斗が珍しくそう言ってくれた。

「そういえば、美波は?」

 それとなく、遠慮がちに伺う。湊斗の表情が一瞬だけ引き攣ったのを見逃さなかった。少しの間考え込んだ後、少し口角を上げ、

「……ん、まぁまぁだな。学校には行けてないけど、最近はテレビ見て笑ったりしてるし。父さんが学校と結構話してて、今度クラスでも話し合うんだってさ」

「……そっか。なら、よかった」

 良かった、と簡単に言っていいのかどうかは分からない。けれど、少しずつでも状況が改善しているのなら、喜ばしいことだ。

「別に、無理して学校に復学しなきゃいけないわけじゃないしね。美波がちゃんと笑えるのがいちば……」

「あのさ」

 すると、突然が湊斗が立ち止まる。驚いて湊斗の顔を見ると、湊斗は私の瞳を真正面から見つめ、

「ありがとな」

 え?と私が首を傾げると、

「美波のこと、助けてくれて」

 そう言って、湊斗は笑った。普段のぶっきらぼうっぷりからは想像できないほどの、朗らかな笑顔で。

「あー……あの……そのことなんだけど……」

 私は表情筋を微妙に引き攣らせて、誤魔化すように笑う。

「その、美波のこと助けたのは、私じゃなくて……」

「え?でも、飛び降る瞬間に凪砂に手を掴まれたって、美波が」

 それは、確かに間違ってないけれど。なんて説明したらいいのか分からなくて、言葉に詰まる。私でもよく分からない体験で、あれは夢だったのではないかと、今でも疑ってしまう。

「いやあの、確かに助けようとはしたんだけど、でも…」

 そのとき。

 視界の端っこが、キラリと光った。

 ハッとして、私は振り返る。

 目線の先には、真っ白な砂浜。その向こうに広がるのは、果てしなく続く大海原。

 波打ち際に、綺麗な少年が立っていた。硝子玉のような瞳。さらさらで、触れば柔らかそうな髪の毛――――

 気がつけば、私は走り出していた。凪砂?と、背後から湊斗の素っ頓狂な声がした。

 砂浜に、足を踏み入れる。細かい砂の粒はローファーの間をいとも簡単にすり抜け、黒い靴下に白い汚れがつく。

「ウミ……?」

 彼の名を呼ぶ。一歩、踏み出す。ざく、と乾いた音がした。

 誰もいない砂浜で、私はひとり立ち尽くす。

 分かってた。

 もう、君はいない。

 この世界に、君はいない。

 君が生きていた未来を、私は何度だって夢に見た。

 君が大人になって、海洋生物学者になる夢を叶えて、私と一緒に、海の謎について語り合ったりして。

 でも、そんな未来はこない。

 真っ暗な深海の底から、―――私を救ってくれた君は、もういないんだって。

 最初っから、分かりきっていた。 

 そっと、自分の胸の下辺りに手を添える。服の上から微かに、確かに感じる鼓動。心臓が動いている証拠。

 私の命は、ちゃんと続いている。

 私の人生は、これからも続いていく。

 ゆっくりと目を閉じて、小さく息を吸う。

「ありがとう」

 私の中の幻影へ。

 ここにしかいないあなたへ。

 私に会いに来てくれて。

 私を助けてくれて。

「おーい!」

 背後で、湊斗が追いかけてくる気配がした。目をゆっくりと開けると、私は振り返る。

「どこ行ってんのお前、遅刻するぞ……」

「……ねぇ、見て!」

 軽く息切れをしている湊斗に向かって、私は満面の笑みを見せた。そして波打ち際にしゃがみ込み、浅瀬に手を入れ、両手で海水を掬う。両手に張った水が、生まれてたての陽の光に照らされていた。零さないように、恐る恐るゆっくりと立ち上がる。

「見ててね、湊斗!」

 ―――見ててね、お兄ちゃんウミ

 めいいっぱい腕を大きく広げて、手の中の水を、私は思いっきり空に放った。

 うわっ?!と、大量の水の粒が降りかかった湊斗が咄嗟に頭を覆う。

「やったな、凪沙!」

「キャッ!」

 仕返しとばかりに、湊斗も手にいっぱい海水を掬って私に向かって放った。やったなぁ〜?と、私も負けずに再び浅瀬に手を突っ込む。

 買って貰ったばかりのセーラー服はいつの間にか、小雨に出くわしたときのようにポツポツと水滴がついていた。湊斗のポロシャツも同じだった。このままじゃ遅刻してしまう。先生にも怒られるだろうな。

 けど、今だけは――今のこの瞬間だけは、まだここに居させてほしい。小さい頃からずっと大好きだったこの場所に、お兄ちゃんが私を見守ってくれるこの場所に、まだ居させて。

 明日から、ちゃんと頑張るからさ。

 頑張って、生きてみせるから。

 子供みたいにはしゃぎながら、無邪気に笑い合う少年少女。二人の頭上に無限に浮かぶ、星のような水の粒。朝日に照らされ、ようやく光の粒になれた、海の水。

 息を吸うように、キラキラ輝いていた。

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海の幻影 秋葵猫丸 @nekomaru1115

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