第四沫

 新品のリュックサックに、新品の教科書を入れていく。新品の製品独特のインク臭さが鼻につく。

 始業式も翌日に迫っている。明日の朝には新しい学校で、新しい毎日が始まる。にもかかわらず、私は心はここにあらずといった状態で、ぼんやりとした毎日を送っていた。

 あの日以降、夕暮れ時に海へ行っても、ウミは現れなくなった。私の毎日は、色を失ってしまった水彩画のように、空虚なものになってしまった。

 彼は、何者なのだろうか。幽霊?いや、それにしては、ウミは私にとってあまりにも都合が良かった。

 私が私のために創り出した、幻?私は、私にとって都合の良い存在を無意識のうちに創って、それを全くの一人の人間とみなして接していたのだろうか。

 窓から顔を出し、私はため息をつく。満点の星空が、目も眩むほどに綺麗な夜だった。街灯や車のライトが少ない場所では、こんなに星が見えるのかと、毎晩見惚れてしまう。

 ビュゥ、と強い風が吹く。私は咄嗟に目を閉じる。胸下まである髪の毛が、舞うように靡いた。

 窓を閉めようとして瞼を上げた、そのとき。

 ここから少し離れた堤防付近、一人の少女が立っていた。

 思わず、私は目を見張る。よくよく目を凝らして見てみる。白色のセーラー服を身に着け、私に見られていることも知らないだろう少女は、堤防に片足を乗せる。そして両手をつき、勢いをつけて飛び乗る。そのままもう片方の足も乗せ、立ち上がった。

 嫌な予感がした。

 気がついたら、部屋を飛びだしていた。裸足のままサンダルに突っ込み、玄関の扉を乱暴に開ける。

 真っ暗な夜道を、私はただ一人、走り続けた。こんなに必死になって走ったのはいつぶりだろう。

 八月のカレンダーを見つめ、『終わらなきゃいいのに』と呟いた後ろ姿。あの、生気のない瞳。そして今日は、夏休み最終日。

 胸の奥深くのザワザワが、私の足を、体を激しく掻き立てる。急げ、急げと。

 住宅が狭く立ち並ぶ地を抜け、立ち止まる。膝に手をつき、ハァハァと息を切らす。呼吸を整えようと顔を上げたそのとき、私は言葉を失った。

 堤防の上に佇む、少女の影。首にかかった貝殻のネックレスが、月明かりに照られてキラキラ光っていた。肩でちょうど切り揃えられたボブカットが夜風に靡いて、フワフワ楽しげに舞っている。 

「何してんの…?」

 呼びかけても、目の前の少女が振り返ることはない。私の声が聞こえているのか、聞こえていないのかは分からない。私に背を向けたまま、目の前の大海原だけ見つめている。

「ねぇ、そこ危な―――」

 そのとき、少女の足が動いた。影が一歩、前に進む。

 サッと、一瞬にして体中の血の気が引く。何か考えるよりも先に、体が動いていた。走って、堤防に飛び乗って、力いっぱい叫ぶ。

「美波、待って!だめぇっ!」

 飛び込もうとする美波の背中に、私は手を伸ばした。


 目の前が、ぐにゃりと歪んでいる。

 体が、何故かとても軽い。『浮遊感』って言うんだっけ、こういうの。

 何か言おうと、口を開く。でも口から出できたのは言葉ではなく、シャボン玉みたいな気泡だった。

 ついでに、息もできない。

 あー。私、溺れてるんだ。

 そう、ぼんやりした頭で理解できた。右手に何かの感触があって、視線を動かすと、気を失っている美波がいた。引き戻そうとして、急いで手を伸ばしたけれど、間に合わなかったようだ。助けられなかったんだな。そう悟って、私は自然と『諦め』という気持ちに落ち着いた。

 だって、多分、私も死ぬ。

 目の前が霞む。全身の力が抜けていくのを感じる。深海に射し込んだ月の光が、どんどん暗くなる。

 暗闇へと身を任せ、そっと目を閉じた。


 ————凪砂!

 

 うっすらと、閉じた目を開く。

 霞んで歪んだ視界の中で、誰かがこちらに手を差し伸べている。

 そしてどこからか、私の名前を呼ぶ声がする。

 ああ、この光景、前にも見たことがあるような―――

 右手で握った美波の手を、強く握りしめる。頬がかっと熱くなり、目尻に涙が滲む。

 決死の思いで、彼に手を伸ばした。泣きそうな声で、私は叫ぶ。

 ――――お兄ちゃんっ……!


 

「……おい、おい!」

 微睡みの中で、誰かの呼びかける声がする。

「おい、凪砂!」

 ハッと、私は目を覚ます。最初に目に入ったのは、真っ青な顔色をした湊斗だった。

「お前、大丈夫か!?」

「……あ…」

 口を開きかけたその瞬間、喉の奥から急激に何かが込み上がってきて、咄嗟に私は口を下にして吐き出した。手に、妙に生暖かい水が大量に零れた。

「だ、だいじょ…」

 胸を押さえながら激しく咳き込む私に、湊斗が慌てて駆けつける。心配そうな目つきで、背中を擦ってくれた。

「……っ…あっ、ありがとごめん、もう大丈夫」

 すぅ、と大きく息を吸うと、ようやく胸の動機が収まる。落ち着いた。湊斗が安心したように、へなへなとその場に座り込む。

 やけに座り込んでいる場所がふわふわ柔らかいのが気になって、下を見てみると、視界いっぱいに白い砂が広がっていた。ここは、家の近くの砂浜だ。

 どうして私、ここに…?

「私、海に落ちて…」

「ああ、そうだよ。美波が家からいなくなったから、必死で探し回ってたんだよ。そしたらここで、二人してぶっ倒れてて…」

 マジで、心臓止まったかと思った。湊斗はほっとしたように息をつく。疲労困憊といった彼の様子に、私は急に申し訳ない気持ちになり、項垂れる。

「ごめん、心配かけて…」

「いや、別にいい。お前が無事でよかった」

 湊斗は汗だくな顔を上げると、軽く微笑んだ。

 そこで、私はとあることに気が付く。

「……あっ、そういえば、美波は…」

 そう言いかけてふと横を見ると、すぐ隣に、私と同じように全身びしょ濡れで、呆然と座り込んでいる少女の姿があった。さっき、私が助けようとした少女。

「美波もついさっき目覚めたんだよ。美波、良かったな!凪砂が起きたぞ!」

 湊斗は歓喜に満ちた声で、びくとも動かさない妹に呼びかける。

 私が目を覚ましたと認識した途端に、美波の無感情だった瞳が、みるみるうちに吊り上がった。

「なんで…」

 その声は、普段の明るい声からは考えられないほどに、ひどく震えていた。

「なんで助けたの?!」

 突如、響き渡った怒号。誰もが黙り込んだ。美波は座り込んだまま、私に詰め寄った。

「勝手なことしないでよ!」

 私は唖然とする。隣にいた湊斗も、まるで狐につままれたような顔をしていた。

「せっかく死ねると思ってたのに、凪砂ちゃんのせいで全部無駄になった!」

 彼女の高い声が、耳にキンキンと劈く。『お前、何言って…』と、湊斗が困惑した表情で美波を制止しようとする。しかし美波はその手を振り払い、

「余計なことしないでよ!私は自分の意志で海に飛び込もうとしたの!」

「……お前、自分が何言ってるのか分かって…」

「だって、今日死ねなかったら…」

 途端に、美波の声が弱まる。

「明日から、学校行かなきゃ…」

 その瞬間、美波の瞳からポロポロと雫が落ちた。ううう、と、その場にうずくまって嗚咽をあげ始めた。 

 そのときふと、美波の着ているセーラー服に目が行く。制服のあちこちに、不自然に縫った跡があるのが、暗闇の中でもはっきりと認識できた。明らかに不均等な目、これは手縫いで間違いない。しかも背中のど真ん中など、普通に日常生活を送っていたら、絶対に破れることはないであろう場所に。故意に、誰かにやられない限り…

「……いじめられてるの?」

 私の問いに、美波はしばらく黙り込んでいたが、

「中二になったばかりのとき…」

 観念したように、美波はぽつりと零す。

「友達の好きな人に、告白されたことがあって…そしたら、その子が『美波が私の好きな人奪った』って言い初めて、それから、クラスのみんなに無視されるようになって…」

『は?』と、湊斗が不意を突かれたように目を見張ふ。

「夏休みが終わったら、またみんなからいじめられる…だから、夏休み最後の日に死んじゃおうって決めてた。そしたら、学校行かずに済むから…なのに…!」

 美波は再び眉を吊り上げると、私の腕に掴みかかった。あまりの力に、思わず顔を歪める。

「なんであたしのことなんて助けたの?!助けてなんて頼んでない!それで私がいじめられても責任とってくれないくせに!あたしは死にたかった。お母さんのところに行きたかった。こんな地獄みたいな世界で生きるくらいなら、初めから死んでたほうが良かったのに…!」

『お前…!』と、湊斗が顔を真っ赤にさせて立ち上がる。妹の発言を戒めようとしたのか、泣き叫び続ける美波に近づいた。

「凪砂は命かげでお前を助けようとしたのに、お前そんな口きいて…!」

「やめて!」

 声を張り上げて、湊斗を制止する。湊斗は驚いたように、ピタリと固まる。私の腕を揺さぶり続ける美波に、私は手を伸ばす。泣きじゃくる少女を、両手いっぱいに抱きしめた。

「……凪砂ちゃ…」

「……そう…だよね…」

 え?と、私の腕の中で美波が言う。

「生きたくなんかなかったよね…助けられたくなんか、なかったよね…」

「……凪砂ちゃん?」

「こんな世界で、生きたいなんて思えないよね…」

 声が震える。目の奥から、何か温かいものがこみ上げてくる。堪らえようと奥歯を噛み締めたけれど、間に合わなかった。

「ごめんね、勝手なことして、ごめ…」

 頬を伝った滴が、美波の肩に落ちて、滲んですぐに消えた。

 私が美波を助けたところで、クラスでのいじめが無くなるわけじゃない。彼女が負った心の傷も消えるわけじゃない。私がやったことは、決して称賛されることではない。限りなく無責任で、自分勝手なことだ。

 けれど、それは、私自身だってよくよく分かっていたことだった。

 だって、私もそう思ってたから。

 私は、私を助けたお兄ちゃんのことをずっと憎んで、恨んでいた。

 お兄ちゃんが生きていれば、おばあちゃんはこの家でひとりぼっちにならなかったし、お母さんは今頃も笑っていられだろうし、私が殴られることだってなかった。痛みに苦しんだ夜も、孤独に泣いた夜も、経験せずに済んだ。

 私よりもお兄ちゃんが生きてた方が、みんな幸せだったんだ。

 ずっと、そう思って生きてきた。

 お兄ちゃんが、どんな気持ちで私を深海の底から救ったのかなんて、考えたこともなかった。

「でも…」

 溢れ出して止まらない涙を、手で乱暴に拭う。私のぐしゃぐしゃな顔を、美波は呆然と見つめている。嗚咽で肩を震わせながら、なんとか、無理矢理笑ってみせた。

「私は、美波に生きてほしいって思ったの。何よりも、そう思っちゃったの」 

 自ら散ろうとしている命を目の前にして、私の体は止まらなかった。

 あんなに兄のことを恨んでおきながら、いざ自分がその立場になったら、全く同じことをして。私は都合の良い人間だと思う。エゴなのは、私の方だった。

 けど、それでも本当に止められなかった。止めることはできなかった。

 生きてほしい。ただ、それだけ思った。

 そして今も、心の底からそう思っている。

「今後、美波が幸せになれるかどうかも分からない。私には、なにも責任はとれない。身勝手な願いなのは自覚してる。だけど…」

 腫れぼったい少女の瞳を、私は真正面から見つめる。

「どんな生き方でもいい。死にたくなるほど辛いなら、学校だって行かなくてもいいし、周りに助けを求めたっていい。どんなに格好悪くてもいいから…」

 あぁ。もしかして、お兄ちゃんも同じ気持ちで―――

「生きて、ほしいんだ」

 そう言った瞬間、美波は私の腕の中に飛びついてきた。ごめんなさい。ごめんなさい。何度も何度も口にしながら、せき止めていたダムが決壊したように泣き続けた。そんな美波に、湊斗は手を伸ばす。気づいてやれなくて、ごめんな。悔しさや不甲斐なさといった感情に震えた声で、妹の頭を優しく撫でた。

 静寂な夜の中、私達の泣きじゃくる声だけが響いていた。

 

 

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