第三沫
「おばあちゃん、あの…」
私がおどおどといった様子で売り場に足を入れると、祖母はすぐにこちらを振り向く。
「あの、新しい制服…」
「あー!セーラー服!」
すると一足先に、背が低いワンピース姿の女の子が、すぐさま私に駆け寄ってきた。美波だった。身に着けている白のセーラー服と紺色のスカーフ、紺色のスカートを、やたらと興味津々に嗅ぎ回る。
「凪ちゃんがスカート履いてるの初めてみたー!可愛いー」
「いや、あの、試着で…」
ボソボソと言い訳をする。なんだか恥ずかしい。美波と違って、私にはスカートなんて似合ってないだろうし、止めて欲しい…
「湊斗と同じ高校に入るんだもんね!」
私は『まぁ…』と頷く。とはいっても、祖母の家から徒歩圏内で通える高校が、たった一校しかなかったためである。
「お前、何日から学校来んの?」
床をフローリングで掃除していた湊斗が話しかけてくる。
「……普通に二学期初日から、多分?」
「じゃあ26日からか」
「もう夏休みも終わるねぇ」
祖母は少し淋しげに微笑むと、店の古時計の横に飾られてあるカレンダーを見る。
一昔前は、夏休みといえば8月31日まであるのが普通だったそうだが、なぜか今では25日〜28日辺りまでなのがデフォになっている。休みの長い昔の時代に生まれたかったと、小学生の頃の友達が話していたのを思い出す。でも昔は土曜日も学校があったらしいから、それなら今のほうが良くない?と、他の友達が返していたような気がする。卒業以来会ってないけれど、今でも元気でやってるのかな、みんな…
昔の懐かしい思い出に浸っていると、いつものように楽しそうに祖母と話している美波が目に入る。
そこで、私はふと違和感を覚えた。美波は毎日のようにここに来ているけれど、友達と遊んだりしないのだろうか。バイト三昧だと言っていた湊斗でさえ、友達らしき男子たちと遊んでいる姿を度々見かける。しかし、美波のそういう姿を見かけたことはないし、そういう話も聞いたことがない。あんな明るい性格で、友達がいない方が不自然だと思うが…
「なぁ」
突然背後から話しかけられ、私は思わず肩を上げる。
「……お前の部屋ってどこ」
「え?」
私は思わず首を傾げた。
「急に何…」
「いいから」
私は湊斗の当然の言動に不信感を覚え、思わず顔をしかめる。しかし、当の湊斗はいままでに見たことがないほど、真剣そうな面持ちだった。
「お前に渡したいものがあるから、後で案内しろ」
それだけ言って、湊斗は再び掃除用の箒を握り直す。
「……夏休みなんて、一生終わらなきゃいいのに」
始業式が一週間後に迫っているカレンダーを、美波はぼんやりと眺めていた。すぐにでも波音に消されてしまいそうな彼女の呟きを、私は聞き逃さなかった。
「なんか、物少なくね?」
私の部屋に入るやいなや、開口一番に湊斗はそう零した。木製の勉強机と本棚くらいしかないシンプルな部屋を、湊斗はキョロキョロと見渡す。
「なんつーか…モノクロ?美波の部屋はもっとごちゃごちゃしてるから」
「……まぁ、他の女の子の部屋よりかは質素なんじゃない?ってそんなのどうでもいいでしょ。何の用?」
私がそれとなく本題に移ると、湊斗は『あぁ』とハッとして、ポケットに手を突っ込んだ。
「これ、俺の家にあったんだけど」
そう言って、湊斗はポケットから取り出した一枚の…写真、を、私に差し出した。
その瞬間、私は目を瞠った。
「それ…」
祖母の骨董屋の店場を背景にして、左側に幼稚園生くらいの幼女と、小学校低学年くらいの男児が手を繋いではにかんでいた。おそらく、湊斗と美波の幼い頃の姿だ。
「俺の父さんが昔、撮った写真。お前と、
そして右側には、一人だけ異様に背の高い少年が、膝を曲げて微笑んでいる。そしてその少年に元気よく飛びついて、屈託のない笑顔を浮かべている、小学校低学年くらいの女児。
かつての私だ。かつての私と、十歳年上の私の兄の姿だ。
「……湊斗は、お兄ちゃんのこと覚えてたの?」
「覚えてるに決まってんだろ」
湊斗はきっぱりとそう告げた。
「俺ん家には母さんがいないから、ガキの頃はしょっちゅう美波連れてお前ん家に行ってたのも、海人君が遊んでくれてたのも覚えてるよ」
江夏家は父子家庭だ。湊斗と美波の母親は、湊斗が小学校に上がる前に病気で亡くなってしまった。父親も仕事で不在がちだった二人の面倒を見ていたのは、私の祖母だった。今でもこの兄妹がうちの骨董屋に通う理由もそれだ。
「海人君、優しかったよな」
「……うん」
「凪砂は、やっぱり思ってんの?」
「……何を?」
「自分のせいで、海人君が死ん…」
そこまで言って、湊斗は口を紡ぐ。ばつが悪そうに私からさっと目を逸らし、『やっぱいい』と首を振った。
「さぁね」
私は乾いた笑みを零すと、写真に目を落とす。顔を寄せ合い楽しげに笑い合う、幸せそうな兄妹の姿。私はどこか他人事のように、遠い遠い世界の出来事のように、彼らを眺めた。
七歳の頃に一度、私は海に落ちたことがある。
雨上がりの日、堤防付近で遊んでいて、ぬかるんでいた地面に足を滑らせて、気がついたら…
溺れた私を助けたのは兄だった。服のまま海へ飛び込み、私を岸まで運んでくれたのだ。
しかしそこで力尽きてしまったのか、兄だけ流されてしまい、そのまま二度と戻ってくることはなかった。十七歳という若さで。
母は、娘の私から見ても明確な程、兄を溺愛していた。母が私を妊娠していたとき、父の不倫が発覚し、両親は離婚した。離婚後、意気消沈していた母を支えたのは、当時まだ小学校に通っていた兄だった。私を出産して実家に戻った後も、母と兄の関係性は変わることはなかった。
兄が息を引き取ってまもなく、母は私を連れて実家を、この町を出た。私の精神面を考えてくれてなのか、それとも母自身が愛する息子を奪った
けど二人で暮らすようになって、優しかった母は豹変した。息子を殺したも同然の私を恨み、虐待するようになったのだ。仕事から帰ってくると、毎日のように私を殴った。母は、いつも私にこう言った。
『海人じゃなくて、あんたが死ねばよかった』と。
夕陽が、水平線に沈んでいた。
真っ赤な太陽の光が青空を照らして、オレンジっぽい色に染めている。綺麗、と私は思わず呟く。
夕方の空が橙色なのは知っていた。けど、どうして橙色なのかは知らなかった。太陽が赤い光を放つからだ。
「……あ」
波打ち際付近に、色白の少年がしゃがみ込んでいた。ウミだ。遠くからでもすぐに分かった。
私は拳を握り、胸に当てる。昨日のこと、謝らなければ。ウミは私の話を聞いてくれた。非人道的な、醜悪な本音に、一つも嫌な顔しないで。
それなのに、私は怒って逃げ帰ってしまった。
覚悟を持って、私は一歩踏み出す。砂浜は柔らかいため、足が深くはまってしまい、思うように前に進めなかった。
「ウミ…」
やっとのことで、声を掛ける。ウミは私から背を向け、足元の潮ばかりを見つめていた。夕焼けの光が、ウミの髪の毛や肌を赤く染めていた。
ああ、やっぱり怒っているのだ。観念して、私はうつむく。
チャポ、と音がした。優しい水の音。
顔を上げると、ウミは浅瀬の中に手を入れて、引き上げるところだった。立ち上がると、彼は私の方を振り返り、優しく笑う。
両手いっぱいに、海の水を溜めて。
―――お兄ちゃん、キラキラやって!
私は息を呑む。何か言おうと思って口を開いたが、声はみっともなく掠れる。
―――ついこの前、見せたばかりだろ?
―――また見たいの!ねぇお願い、キラキラやってよー!
―――全く、凪砂はしょうがない子だなぁ。
「やって…くれ…るの?」
私の問いに、ウミは何も答えなかった。代わりに水を張った手を、まるで助走をつけるように下げた。
目を瞠る。自分の意思とは関係なく、見つめてしまう。惹きつけられるように、吸い込まれるように、綺麗な光の粒になろうとしている水面を―――
「……凪砂?」
すぐ後ろから呼ばれ、私はハッとする。
慌てて振り返ると、そこには湊斗が立っていた。いつもの如く気だるそうに、髪をゴシゴシと掻きむしりながら。
「湊斗、なんでここに?」
「いや、俺バイトから帰ってたんだけど、なんかお前が一人で突っ立ってたから気にな…って、別になんでもいいだろ!」
急に湊斗はむすっとして、不服そうにそっぽを向いた。なぜか、頬がほんのりと赤く染まっている。
いつもだったらそんな湊斗に呆れただろうが、今はそれどころではなかった。
「ウミが…」
「ウミ?」
「あ、あの、私の後ろにいる男の子が…」
私は興奮しながら、後ろを指差す。
その瞬間、湊斗は『は?』と眉をひそめた。
「お前しかいないじゃん」
え、と私は拍子抜ける。たちの悪い冗談かと、一瞬だけ思った。
しかし咄嗟に振り返ると、そこには誰もいなかった。
私と湊斗の足元で、光の粒になるはずだった水が、音もなく流れていた。
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