第二沫
「……え?海?」
一体どんなことをされるのだろうと身構えていた私は、思わず拍子抜けする。
「そう、海」
そう言って、少年は私から視線をそらす。硝子玉の瞳には、ここから遥か彼方に光る、一本の水平線が映っていた。
「好き…」
無意識に言いかけた言葉を、途中で終わらせる。
「……じゃない」
ふいっとそっぽを向く。
「海なんて、嫌い」
無愛想な、失礼な女だと思われたかもしれない。けど、それもやっぱり私にはどうでもいいことだった。ニコリともせず、何も喋ろうともしない私を、少年は飽きもせずに見つめていた。が、
「そう…」
少年はぽつりと零すと、少し残念そうに俯く。が、直ぐにまた私の顔を真っ直ぐと見つめて、
「僕、『ウミ』っていうんだ」
ウミ?思わず聞き返した私に、少年は目を細めて、
「僕は、海が好き」
そう、笑った。
ウミの優しい笑顔に、なぜだか私は言いようのない懐かしさを覚えた。
「お前、いつもどこ行ってんの?」
玄関を出ようとすると、背後からぶっきらぼうな声が飛んできた。
わざと気だるげに振り返ってみると、腰に手を当てて、妙に偉そうげな湊斗が立っていた。だからそのバンダナの模様は何なの。
「別にどこでもいいでしょ」
これが都会なら、『イオン行って買い物する』とでも適当に言えばいいのだけど、ここだとその言い逃れは通用しないので不便だ。ただのスーパーですら、車で二十分以上もかかるそうだから。
湊斗は『あっそ』とだけ返し、そのまま店の方に戻っていった。しかし、玄関の扉を閉める直前にもう一度振り返ると、リビングへと繋がるドアの影から、体が半分隠れた湊斗が、こちらを見つめていた。
「昔、
砂浜の上に腰を下ろして、大して面白くはないが砂を指でつまんで持ち上げる。そんな私の隣に、ウミは今日もいる。
無愛想で、話しかけてもろくに反応しない。こんな女に毎日毎日話しかけて、楽しいのだろうか。私は自虐も込めた疑惑の眼差しをウミに向けたが、当の本人は変わらず、柔和そうな笑みを浮かべている。
かく言う私も、毎日飽きもせずここに来ているわけだけど。まぁ、家にいても暇だし、湊斗いるし。ウミはよく喋るけど、私のことは一切何も聞いてこない。私はただ、ウミの話を聞いているだけ。端から見ればかなり異質な光景だろうが、その妙な距離感が、私には心地よかった。
「海の深いところで、二人仲良く幸せに暮らしていたんだ」
「絵本じゃん」
思わずツッコミの声が漏れた。ウミがニコニコと嬉しそうに笑うので、私は急に恥ずかしくなってしまい、手で口を覆う。
「けどね、ある日、
「……へぇ」
突然の急展開。思わず私は興味を持ってしまう。
「それで?食べられて死んだの?」
「いや、食べられなかったし、子鯨は死ななかった」
「サメに襲われたのに死ななかったんだ。運いいね」
「いや、死んだのは
私は目を張る。ウミはその柔らかな笑みを崩すことなく、続けた。
「自ら身を投げ出して、子鯨の身代わりになった。母鯨の肉でお腹を満たしたサメは満足して帰って、そのおかげで子鯨は助かったんだ」
ふーん。私は淡泊なリアクションだけ寄越すと、ふいっとそっぽを向く。しばらく私は黙り込んだ。
「かわいそう」
ふいに、ぽつりと呟いてみる。え?と、なんだか少し間抜けな声が後ろから聞こえた。ウミのこんな声、初めて聴いたかもしれない。
「母鯨が?」
「違う。かわいそうなのは、子鯨の方」
今度は何も聞こえなかった。どこか空気の薄い静寂が、私と彼の間に流れる。
「どうして、そう思ったの?」
その声に、動揺は一つも感じられなかった。いつも通りの、落ち着いた優しい声。その硝子玉の瞳にふさわしい、美しい声音。
「……だって、子鯨が責められたら?」
私はウミの方を見ないまま、体操座りした腕を強く握りしめる。
「『お前のせいで母親が死んだ』って、誰かに責められたら?『人殺し』って罵られたら?『お前が死ねばよかった』って言われたら?」
こんなに言葉を喋ったのはいつぶりだろう。こんなに興奮したのはいつぶりだろう。熱くなった口元から、次々と溢れ出す。
「せっかく生き残ったのに、それじゃ意味ないでしょ。なら、はじめから助からなかった方が、子鯨は幸せだったと思うよ」
エゴなんだよ。嘲笑こめて、吐き捨てる。
「子供に生きて欲しいとか、そんなのは結局、親のエゴでしかないんだよ」
それだけ言って、私は黙り込む。慣れないことをしたからなのか、それとも単純に暑いからなのかは分からないが、顔中が汗で濡れていた。『お兄ちゃんそっくりなお前のその顔が、私は嫌い』母から言われ続けてきた言葉を、ふと思いだす。
「……僕が、母鯨なら」
咄嗟に、私は振り返る。ウミは優しい微笑みを浮かべて、言った。
「子どもに生きて欲しいと願うのは、当然のことだと思うな」
っ――!と、私は思わず立ち上がる。眉をきつく吊り上げて、ウミを睨みつけた。しかし、それでも彼はいつものように、優しい笑顔を私に向ける。
拳を固く握りしめる。この気持ちをそのまま言葉にしてぶつけてやりたいのに、私の口からは何も出てこない。
私は彼の笑顔から背を向け、そのまま走り出した。
額の傷跡が、ずっと痛みを放っていた。
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