第一沫

 微睡みの中で目を覚ますと、窓の外はどこかオレンジっぽい光で染まっていた。

 髪の毛を掻き上げながら起きると、頭が鈍く痛んで、思わず顔を顰める。硬い畳の上で寝たからなのか、どことなく身体が怠い。

 部屋の壁に掛けられている時計を見ると、ちょうど午後五時。やばい、寝過ぎたかも。あまり昼寝しすぎると、夜に差し支える。

 けどまぁ、別にそれでもいいか。明日もどうせ、何をするでもないんだし。

「これ、キラキラしてて可愛いね!」

 二階にある自室から一階に降りると、妙にキャピキャピとした、明るい声が聞こえてくる。

「おい美波みなみ、それ売り物だから勝手に触んなよ」 

 小さな店ではあるが、私の祖母は骨董屋を営んでいる。売り場の方を覗くと、そこにはいつもの顔ぶれが揃っていた。

 謎の波模様のバンダナをつけ、モップで売り物の壺を磨いているのは、祖母の店でアルバイトとして働いている男子・江夏湊斗えなつみなと。私と同じ高校二年生。その隣にいるボブカットの少女は、妹の江夏えなつ美波。確か中学…二年生。

 貝殻の形をした、まるで宝石のようなネックレス。それが気に入ったのか、美波はパッチリとした大きな目を存分に輝かせている。レジ場に腰掛けて、朝顔模様の扇子で顔を仰いでいる祖母は、そんな美波を微笑みつつ眺めている。

 家も近所で、かつ私の祖母にも非常に懐いており、今は夏休みの時期だからか、店でこの兄妹の顔を毎日のように見かける。

「あー!凪ちゃん!」

 真後ろから、美波が駆け寄ってくる気配がする。しまった、気づかれた。なるべく音を立てずに歩いていたつもりなのに。

「ねぇねぇ凪ちゃん聞いてよ!湊斗がさぁ、こんな大人っぽいネックレス、あたしにはまだ早いって言うの!」

 頬を膨らませながらすり寄ってくる美波に対して、私は内心げんなりとした気分になる。

 いくら人懐っこい性格だと言っても、こんな無愛想で無表情な年上女に、よくもここまで馴れ馴れしく接せられるものだ。確かに、私がこの町を出ていく前までは、一緒に遊ぶ機会も多かったかもしれないけど、そのとき美波は幼稚園に入ったか入ってないかくらいの年で、記憶も曖昧なはずなのに。

「凪砂」

 美波を適当にかわしていると、祖母が私の名を呼んだ。

「今日、晩ごはん何がいい?」

 祖母は優しく笑う。その、陽だまりのような暖かい笑顔を向けられるたび、私は祖母と、化け物みたいな母親との血の繋がりを疑ってしまう。

「……なんでもいい」

 無愛想にそれだけ答えると、私は祖母の笑みから背を向ける。別に、私の好物を知ったとて、祖母にとってそれは、あくまで『手段』でしかないのだろうから。

「お前さ」

 今度は妙に低い声に呼び止められた。どこか呆れを含んだような声音。誰かは分かっているから、私は振り向かない。背を向けたままの私に、湊斗は『はぁ』とため息をつき、

「そんな顔して生きてて、楽しいの?」

 別に、楽しさ求めて生きてない、と言い返そうと思ったけれど、そんな気力も無かった。彼の棘のある言葉に苛立ったのもほんの一瞬で、その後はまた、いつものようにどうでも良くなった。まだ何か言いたげな様子の湊斗を無視して、私は素足のままサンダルに足を突っ込む。

 楽しいわけない。

 別に楽しくなくていい。

 こんな人生に、楽しさなんか一つも求めてない。


 外に出ると、私は思わぬ暑さに顔を顰めた。

 時間帯が時間帯だから、流石に日光がガンガンに照っているわけではないが、なんだか肌にじわりと残る暑さ。七月だから、仕方ないのだけれど。

 アスファルトの道を歩いていると、端の方に、そこそこ年をとってそうなおばさんが二人立っていた。買い物帰りに井戸端会議でもしているんだろう、と特に気にも留めなかったが、おばさんたちの方は私の姿を見るなり、途端に顔を近づけ合って、

「あの子よ、水沢みずさわさんとこのお孫さん!」

「聞いたわよぉ。なんでも凄かったらしいわね。ここに越してきたとき、あの子、顔中腫らして痣だらけで…」

「え、じゃあやっぱり…虐待…?」

「まぁあそこお家、色々あったから…」

 私は思わず振り返る。ちょっと待って?つい二週間ほど前、祖母の運転する車に乗って私がこの町に越してきたとき、周りには誰もいなかったはずだ。変に噂が立つのを恐れた祖母が、人が出てきにくい時間を敢えて狙ってくれていたはず。

 というか、そもそもあの人達が実際に見たわけでもないらしいのに、何故に知れ渡っているのだ。そんな、一人か二人が目撃したくらいで、町中に噂話が広がってしまったというのか。前に住んでいた都会の町では絶対にありえない状況に、私は恐ろしさすらも覚える。

 ……まぁ確かに、あのときの私の惨状は、見るに堪えないものだっただろう。

 母親と二人で暮らしていたボロアパートに、なんの前触れもなく児童相談所の職員が数人やってきて、高校から連絡があったんです、娘さんを連れてきてもらえますか、と母親を問い詰めていた。

 服で隠れるところばかりを狙うくらいには、世間体をそれなりに気にしている母親だったはずだけど、流石に諦めたのだろうか。開き直った母親は、途端、気が狂ったように叫び散らかし、勢いのまま一人の女性職員に殴りかかった。そして、慌てて止めようとした私に、母親は逆上して、たまたま近くにあった折りたたみの椅子を…

 額の、薄っすらと茶色くなっている傷跡を摩る。流石にもう痛みはないけれど、代わりに胸の辺りが一瞬、軋む。

 だけど、それにしたって、その話を私本人が近くにいる場でするなんて、一体どういう神経をしているのだろうか。ヒソヒソ声で話しているから聞こえていないと思っているのだろうが、普通に丸聞こえだ。

 あのおばさんたちといい、さっきの湊斗といい。どうしてこの町の人達は、みんなしてこうなのだろう。

 人の少ない田舎町が、こんなに閉鎖的で干渉的な場所だったなんて、小さい頃は全く気付かなかった。人と人の距離が近くて、大人たちからたくさん可愛がってもらえるこの町を、自慢に思っていたほどだったのに。

 でも今はそのどれもが、鬱陶しくて仕方ない。

 正直、もう放っておいてほしい。変に構わないでほしい。密かにそう願いながら、私は早足でその場を去った。


「わ…」

 住宅が狭く立ち並ぶ地を抜けると、私は大きく目を見開く。

 見渡す限りに広がる大海原。夕陽に照らされた海の水面が、まるで息をしているみたいに、キラキラと光っている。

 塩っ辛い匂いを肺いっぱい吸い込み、カモメの独特な鳴き声を聴く。どこか親しみ深いような、懐かしいような――—ここに来ると私は、そんな気持ちになる。

 履いてきたサンダルを木の陰に置いて、素足で砂浜に一歩、踏み出す。細かい砂の粒が、指と指の間をさらさらと通り抜けて、心地良い。

 私の歩いた足の跡を、遠くからやってきた波が跡形もなく消してしまう。こんなに緩やかなのに、不思議。

「……魔法でもかかってんのかな…」

 ふと口から出ていた言葉に、私は自分でおかしくなって思わず噴き出す。何、子供みたいなこと言っているのだろう。この世界にそんなもの、存在するわけないのに。

 ――――海にはね、まだ解明されていない謎がたくさんあるんだ。

 ふいに、誰かの声がした。


『あの広い広い海中の奥深くには、僕らが知らないような秘密が、いっぱい隠されているんだ。僕さ、将来は海の生き物について研究する学者になろうと思ってるんだ。それで海のことたくさん研究したら、凪砂にも教えるさ』


 小さい頃、祖母が手入れしている庭の花に水をあげたら、如雨露じょうろから出てくる水の粒が陽に当たって、キラキラ星みたいに光っていて、綺麗で―――ずっと見ていられた。

 兄と海に遊びに行くと、それを再現しようとして、海水を両手いっぱいに掬って、空に放った。けど、なんだか物足りなかった。手が小さいから、掬える水の量が少なくて。だから、いつも兄の大きな手にやってもらっていた。私があまりにも『もう一回して!』とねだっていたものだから、『もういいだろ?』と兄は苦笑いして、それでも私が飽きるまでずっと、光の粒を見せてくれた。

 浅瀬の水を両手で掬って、持ち上げる。だけど、空に放とうとはしなかった。兄まではいかなくても、今の私の手の大きさならきっと、あの頃の私を満足させられるくらいの光の粒は作れるはず。だけど、それ以上に、どうしようもない虚無感が襲ってきて、私の中の何かが酷く傷ついてしまうような気がしたから。

 手に力が抜けて、海水が隙間から零れ落ちる。とうとうあの水は、夕陽に照らされて、綺麗な光の粒になることはなく、そのまま乾いた砂浜の上に滲んで、波にのまれて跡形もなく消えてしまった。

 はぁ、とため息を吐く。帰っていく波を、そのまま見送った。

「ねぇ」

 そのときだ。

 真後ろから、聞き覚えのない声に呼ばれた。うわん、と、その声はイヤホンみたいに耳に響く。

 私はハッとして、反射的に振り返ると―――途端、眩しいほどの発光で、目の前が見えなくなる。ん゛っ、と言葉にならない声が漏れた。咄嗟に腕で目を覆う。

 そっーと腕を退ける。そこで、私はようやくその声の主の姿を目視できた。

 驚くくらい、綺麗な少年が立っていた。

 まるで硝子玉のような瞳。さらさらで、触れば柔らかそうな髪の毛。彼を形どるパーツのすべてが『美しい』に限られているように思った。

 この世界のすべて人間は、神様が作っている。そう、誰かから聞いたことがある。もしそれが本当なのだとすれば、きっと彼は、神様が丹精込めて丁寧に作り上げた逸品に違いないだろう。

 日焼け一つ無い、雪のように真っ白な肌からは、なんだか少し、浮世離れした雰囲気が漂っている。

「あ、えっ…と…」

 私は、思考も言葉も忘れて、ただただ見惚れるばかりだった。

 私に話しかけたはずの彼は、何も言わなかった。ただ、呆然とする私を、硝子玉のような瞳で見つめていた。

 思考できる頭も戻ってきて、私は一旦冷静さを取り戻す。

「あの、なんの用…」

 私がそう聞きかけた瞬間、少年の色味のない唇が動いた。 

「ねぇ、海は好き?」

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